おとぎ ~花魁候補の少女がやってきて、突然はじまる江戸ライフ~

菱沼あゆ

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祈り

とってんこう

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「とってんこうと鳴くんだが」

 は? と渉たちは訊き返した。

 また学校帰りにメガネや菜々子たちが遊びに来ているとき、おとぎが急にそんなことを言い出したからだ。

「昨日のクイズで言っていた。
『ニワトリはコケコッコーと鳴きますが。
 では、パンダはなんと鳴くでしょう』って。

 江戸ではニワトリは、『とってんこう』と鳴くんだ」

 違うニワトリなのか? とおとぎは小首を傾げている。

 縁側の向こうを見ているおとぎは、ニワトリの姿を求めているのかもしれないが。

 いやいや。
 今の東京の民家にいきなりニワトリいないから、と渉は思う。

「単に言葉に表すとき、違う風になるんじゃないか?
 アメリカ人には、Cock-a-doodle-dooクック ドゥードゥル ドゥーって聞こえてるんだろ?」

 菜々子が、
「でも、江戸は同じ日本だし。
 そんな前の話じゃないのに、面白いね。

 だって、ちょっと前まで江戸生まれの人ってまだいたわけでしょ?
 
 おとぎちゃんに、この時代ってどう見えてるのかなって思ったりするんだけど。

 その人たちは、江戸から少しずつ変わって行ったわけだから、違和感とかなかったと思うけど。

 ふと、昔を思い出してみたりすると、すごく変わったなあって思うんでしょうね」
と言う。

「そうだな。
 俺たちの子どもの頃からも、ずいぶん変わってると思うけど。

 普段、変わったなとか、便利になったなとか、いちいち思わないもんな。

 ところで、おとぎ。
 昨日は見なかったのか。

 火のついた梁の落ちてくる夢は」

 あえてこの場でそれを言ったのは、みんながいるところなら、また違うなにかをしゃべるかもと思ったからだ。

「えっ?
 なにそれ」
と驚く菜々子に、おとぎの梁が落ちてくる夢の話をする。

「大丈夫?
 それ、ほんとうにならない?」

 そう心配した菜々子は、

「あ、でも、ここから戻らなきゃいいんだよね?」
とおとぎの手をとり、言っていた。

 だが、
「そういうわけにもいかんのじゃ」
とおとぎは言う。

「今、戻り方はわからんのだが。
 私はいつか江戸に――

 あの吉原に戻らねばならん」

 そんな、どうして、と菜々子は言うが――。

「私がいなくなったら、みんなが困る。
 借金が返せず、私の妹が売りに出されるかもしれん。

 それに、あんな妓楼でも世話になった。
 私ひとりを花魁として育て上げるのに、ずいぶん金を使っておる。

 その恩を忘れて逃げることなどできん。
 私まで忘八ぼうはちになっては駄目だと思うのだ」

 忘八とは、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌 の八つの大切な徳を失った者のこと。

 妓楼の楼主は忘八と呼ばれているそうだが。

 そのくらい非情でなければ、吉原で妓楼を営むことなどできないということだろう。

 だが、そんな楼主にさえ、恩を忘れては駄目だとおとぎは言う。

 おとぎの手をとったまま、菜々子は涙を落としていた。

「帰っちゃ駄目だよ、おとぎちゃん。
 ここから、育ててくれた妓楼に感謝してればいいじゃない。

 帰っちゃ駄目だよ」

 そう言いながらも、菜々子にも、おとぎの苦悩の意味がわかってはいるのだろう。

 彼女にも弟がいる。

 自分の代わりに弟がひどい目に遭うかもしれないと聞いたら、居ても立っても居られくなることだろう。

「まあ、とりあえず、今は帰る方法がわからないから。
 ここでの生活を楽しむことにするよ。

 きっと一生忘れない――。

 菜々子や、メガネや、渉やおかあさん、おとうさん。
 おじいちゃん、おばあちゃん。

 ああ、あのお腹がぐーと鳴りながらも、強がってケータリングを食べなかった人のことも」
とおとぎは笑う。

 メガネが、
「まあ、もしかしたら、ここから戻ったとき、同じ時間に戻れるのかもしれないし。
 そしたら、ここに何ヶ月いようと、何年いようと、向こうの世界には影響ないだろうし」
と言う。

「そうだよっ。
 おばあちゃんになるまで、こっちで楽しんでから戻ればいいんだよっ」

 そう言う菜々子におとぎは笑い、
「それだと戻っても、私だとはわかってはもらえんのじゃ」
と言った。

 まあ、それもありかな、と渉は思っていた。

 同じ時間、同じ地点に戻れるのなら。

 こっちで充分生きてからの方がいい。

 おとぎはすでに新造となっている。

 彼女が火事に遭うのは、遊女として彼女の名が残っていないことからいって。
 おそらく、戻ってすぐのことなのだろうから。

 だが――。

「ね、おとぎちゃん、そうしなよ」
と菜々子は湧き上がる不安を振り払おうとするように明るく言う。

「そうだ。
 日曜、みんなで出かけようよ。

 百貨店とかどう?
 おとぎちゃんが好きな、キラキラしたものがたくさんあるよ」

「百貨店?」

 菜々子は江戸の大店から百貨店へと変遷していく過程についても説明しながら、おとぎの気持ちを盛り上げようとしていた。

 一見、チャラチャラしているように見えるが、いい奴だ。

 なんで付き合わなかったんだ、という目で、メガネを見たが。

 いや、それとこれとは別だろ、という目で見返される。

 まあ確かにわかる。

 菜々子はいい奴だが、近すぎて。

 妹か姉のような存在になってしまっている。

 もっとも、菜々子にとってのメガネは、いくら近くても、そうではなかったようなのだが。

 上手くいかないな、と思いながら、渉は夜、縁側で三味線を弾いているおとぎを見ていた。

 滋のもらってきた赤い提灯の下で爪弾くおとぎの姿は、普段のおとぎとは違い、妖艶で美しい。

 俺ならわかる気がするな、と渉は思う。

 さっき、おとぎは年老いてから吉原に戻っても、誰も自分のことをわからないだろうと言っていたが。

 俺ならわかる気がする――。

 百年経って、老婆になったおとぎが自分の前に現れても。

 あの女優が必要以上に、おとぎに噛み付いてたのもわかるな、と渉は思った。

 ああいう職業の人間は自分より目立ちそうな者に敏感なのだろう。

 おとぎの奏でる音は夜風に乗って流れていったが。

 とってんこうという鳴き声とは違い、近所から、うるさいと文句を言ってくることなどないだろうと思われた。

 誰もが思わず耳を澄ませてしまう、華やかだが、何処か物悲しい調べだった。




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