冷たい舌

菱沼あゆ

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はじまり

呪法

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 夜の青龍神社は祭りの後の、不気味な静けさに包まれていた。

 こうして走っていると、あのときを思い出す。

 透子が淵に向かったのに気づき、彼女を追ったあの夜を――。

 二度と……あんな思いをするのは厭だ。

 お前を誰にも渡さないと誓ったのに。
 お前を産んだ龍神にさえ、渡さないと誓ったのに。

 真っ暗な神社が見えた。

 母屋にも明かりがないが、何故か透子の部屋の窓だけ開いて、薄いカーテンが風に揺れていた。

「透子っ!」

 窓から部屋に飛び込む。
 後先などは考えていなかった。

 ちょうど窓の下は透子のベットで、和尚はスプリングの効いたその上に落ちる。

 息をついて部屋を見渡したが、そこには誰もいない。

「透子っ!」

 もう一度、叫んだとき、いきなりドアが開いた。

 はっ、と身構え、振り返ると、龍也が立っていた。
 パジャマ姿で眠い目を擦っている。

「和尚。
 夜這いなら、もうちょっと静かにやってくれ」

 思い切り不満そうに言う龍也に、和尚は抑えた声で訊いた。

「おいっ、透子は何処だ!?」
「あ? 居ないのか?」

 龍也はそこでようやく、姉の部屋を見回す。

「あの馬鹿。
 潔斎中なのに、いっぱい引っかけやがって」

 その声に、龍也の視線の先を追った和尚は、蓋の開いた金色の缶が転がっているのに気がついた。

 近づいてそれを拾う。

 中身はほとんど残っていなかった。
 絨毯は濡れていないから、零れたわけではないだろう。

 遅かったか……!

 天満から菊水の缶に薬を仕込んでいたことを聞かされていた和尚は、それを握り潰す。

 その耳障りな金属音に龍也は目をしばたたいた。

「おい、どうかしたのか、和尚。
 透子は……」

 言いかける龍也の言葉を塞ぐように、和尚は腕を掴み、壁に押しつけた。

「お前、なんにも気配とか感じなかったのか。何かおかしな――」

「いや……別に」

 そこで、和尚は気がついた。
 ドアのところ、呪法がかけてある。

 外とこの空間とを隔絶する呪法。
 長く持つようなものではなかったが。

 ――この程度の術というと、やはり忠尚!

「和尚……」

 目が覚めてきたのか龍也が、不安げにこちらを見ていた。

 だが、和尚はそれには構わず、足許にあった蓋の開いていない缶を踏み潰す。

「おいっ」

 思わず和尚を止めようとした龍也に、和尚は振り返らずに低い声で言った。

「龍也。
 今、見たことは忘れて、おとなしく寝てろ」

「かず……」
「そうでなきゃ、お前でも、術を使って忘れさせるぞ」

 ただならぬ気配に、龍也が唾を呑み込んだ。

 和尚は開いた窓に、はためく白いカーテンをただ見つめる――。




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