冷たい舌

菱沼あゆ

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はじまり

忠尚の策略

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 鳥居のところから和尚を見送ったあと、透子は、そうっと自分の部屋へと向かった。

 こんな田舎では何処の家も鍵をかけたりはしない。

 透子はみんなを起こすまいと、部屋の近くの縁側から入ろうとしていた。

 カラカラとサッシを開けていたとき、いきなり、ぽんっと肩を叩かれた。

「ひっ」

 悲鳴を上げそうになった透子の口を大きな手が塞ぐ。

「ばっ、ばかっ。
 俺だ! 俺っ」

 抑えた声に振り返ると、そっと忠尚の手が外れた。

「どうしたのよ、こんな時間に。

 あっ。
 今、清めてない手で私に触ったわねっ!

 禊から帰ったばっかりなのに~っ」

「禊? 外でやったのか?」

「今日はね。
 ちょっと色々あって。

 まあいいや、お祖父ちゃんには黙っとこ。
 どうせ、明日の朝もするんだし。

 入ったら?」

 透子は、ひょいっと縁側に腰をかけると、草履を脱いだ。

「お、お前んとこの禊って服着ないでやる奴だろ? 外でやんなよっ」

「しっ、しーっ。
 みんな起きるじゃないの」

 忠尚は慌てて口許を押さえた。
 透子は中に入ると手招きをする。

「大丈夫だよ。和
 尚が見張ってたから。

 ほら、早く」

「和尚が……?」

 忠尚がそのとき不快そうな顔をしたことに、透子は気づくことはなかった。


「お邪魔します、って、お前も明日、早いんだろ。
 すぐ帰るから。

 ほら、お前の好きな菊水」

 差し出されたビニール袋の中で光る金色の缶に、まあ、と透子は手を打った。

「天満さんがくれたんだけど、俺よりお前の方が好きかと思って」

 透子は冷酒が好きだ。

 それも高い安いではなく、自分の好みにあった奴だけが好きだ。

「嬉しい。
 わざわざ持ってきてくれたの?」

「いや、ちょっとこの間は悪かったかなって思って、お詫びに」

「そう、ありがとう」

 気を許した全開の笑顔を見せると、忠尚は何故か罰が悪そうな顔をした。

「それより、ちょっと呑んだらどうだ?」
「でも、今、祭りの最中だし」

「いいじゃないか。
 昔から『御神酒あがらぬ神はなし』っていうだろ?

 ひとつくらいなら、大丈夫だよ。ほら」

「そ、そかな」

 透子の手はつい差し出された缶を受け取っていた。

 禊がだいなしになった勢いもあったのかもしれない。

 透子がそれを飲むのを確認してから、忠尚は自分もひとつ取って開けた。

「透子……。
 お前、本当に和尚と結婚するのか?」

 んー、と唸って透子は、他に貰い手もなさそうだしね、と答える。

 つまみがないとちょっとあれだな、と戸棚を開けてみたが、チョコーレートくらいしか発見できなかった。

 そもそも透子はあまり間食というものをしないので、部屋には大概何も置いてないのだ。

「こんなもんしかないけど、いい?」

「なあ……俺じゃ駄目か?」

 酒を呑む手を止め、真剣な顔で見つめる忠尚を見て、透子は問い返す。

「え? チョコレートじゃ駄目?」

「透子……」

 忠尚が透子の後ろに手をついて、覆い被さるように唇を重ねてきた。

 何が起こったのかわからなかった。

 きょとんと見つめる透子に、忠尚は不安そうな顔をした。

 だが、そのとき、額を中心に意識がぐるりと回転した気がした。

 透子は手をつき、額を押さえる。

 まるで、急速に酔いが回ったみたいに、くらくらした。

 透子? と窺うような忠尚の声がすぐ近くでした。

 忠尚が差し出した手に、つい、いつものように縋ってしまう。

 だが、忠尚はいつもと違い、そのまま透子を抱き寄せた。

「忠尚……?」

 顔を見上げた透子は息を呑む。

 そこにあったのは、和尚の顔だった。

 他人が見たら、同じかもしれない。

 だが、透子から見れば、二人はまったく似ていない――

 ……はずだった。

「か、和尚? なんで?
 さっきまで、忠尚だったはずなのに」

 慌てふためくように言ったその言葉に、忠尚は蒼褪める。

 透子に盛られた惚れ薬は、彼女に忠尚を受け入れさせるため、彼を和尚だと錯覚させようとしていた。

「忠尚……忠尚よね?」

 戸惑いながら問う透子に、少しの間のあと、忠尚は投げやりに言った。

「……どっちでもいいよ」

 間近に目の前の人物の瞳を見た瞬間、透子は違う、と思った。

 確かに和尚に見えるのだが、あの、何処か人とは掛け離れた空気が消えている。

 だが、ぐらぐらする額の封印に、判断能力を奪われていた。

「本当は、俺だと認めて、お前に好きだと言って欲しかったよ。

 でも―― 今言ってるこの言葉さえ、お前には、和尚の言葉に聞こえてるんだろう?」

 そう自嘲気味に嗤う。

 透子は忠尚を押し退けようとしたが、額が熱く、そこから力を抜き取られていくようだった。

 忠尚の片手が離れた。
 そっと透子の頬に触れる。

「後で……幾らでも俺を恨んでいいから」

 俯き囁く『和尚』の声に、なんだか透子は胸苦しくなった。

 和尚が泣いている気がしたからだ。

 あの日の淵が思い浮かぶ――。

 龍神を殺したあと、和尚は何も言わずに、ただ淵に立ち尽くしていた。

 どれほど、その背中を抱きしめて、癒してあげたかったことか。

 もう覚悟を決めていた自分がそれをすることは叶わなかったけれど。

 そのときの和尚が今、此処に居るような気がした。

 自分が一番抱き締めたかった和尚が――。


 ねえ――。

 此処に居るのは、和尚? 忠尚?

 透子の瞳は惑ったまま、男の眼から滴るものを見た。

 そっと手を伸ばし、その目許を拭ってやる。

 どっちでもいい――。

「もう……泣かないで」

 透子のその言葉に、男は目を見開いた。





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