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第三話 雪柳

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「雪柳! ラムしゃぶ、完成だ!」
 天才料理人、孟さんが言った。
「最近食が細いみたいだから、たくさん食べてほしいと思ってな」
 笑うと目がなくなる孟さんの笑顔を見ながら、思わずじーんとする。
「ありがとう孟さん! 嬉しいです!」
 孟さんがニコニコと出してきたのは、大皿に盛られた薄切りのラム肉だった。見事に薄く切られ、くるくる巻いてきれいに置かれている。これ! これだよ! その傍には山盛りの野菜と、タレの入った椀も置かれていた。
「お前のいうゴマダレも作ったぞ。胡麻を油とともに練り、酢に醤、砂糖、酒、花椒も加えてみた」
「うわあ~」
 厨房の大きなテーブルの前でワクワクしながら見ていると、孟さんは七輪的なやつをテーブルの上におき、炭をいれた。そしてその上に鍋を置き、湯を沸かし始めた。
「さっすが孟さん! 完璧ですね!」
「おうよ! 抜かりはない!」
 盛り上がっていると、皐月と秋櫻、珍しく鈴蘭兄さんもやってきて、興味深そうに孟さんの手つきを見つめている。
 丁度昼飯どきで、開けっぱなしの厨房の窓からは明るい日差しが差し込んでいた。季節はちょうど春の盛りで、みずみずしい緑の匂いが清々しい。
「おー。ついにラムしゃぶとやらができたのか。楽しみだなー」
 鶴天佑もやってきて、腕を組みながらひょいと孟さんの肩越しに鍋を覗きこむ。ぐつぐつと鍋のなかが沸き始めたら食べごろだ……。
 すると鶴天佑のもとに門番を務めるおじさんが小走りで近寄ってきた。何やら耳打ちすると、鶴天佑は頷いて厨房を出て行った。
 七輪で湯を沸かすのって時間がかかるな、と思いながら、椅子に座って待っていると……。
 厨房の扉が開く音がした。そして足音が近づいてくる。
 ふっとそちらを見た。そこには……。

 ――真波さんがいた。

 黒い袍に身を包み、以前と変わらぬ精悍な姿で。
「……しんは、さ、ん……」
 ことばが詰まって声にならない。すると真波さんは俺を見て微笑んだ。
「……雪柳」
 ほっとして……嬉しくて、たまらない。ぼうっと彼を見つめる。
「……おかえり、なさい」
 目の奧が熱くなる。泣かないようにぐっと唇を噛みしめて、彼に向かって一歩踏み出す。そしてその逞しい背中に腕を回した。
「お待ちしていました……」
 腕のなかに確かに彼がいる。胸の奧から熱いものが湧き出して、涙となって頬を零れる。彼も俺をまた、ぎゅっと抱き寄せてくれた。

 一瞬、世界が止まった気がした。

 ……しかし実際、世界は止まっていなくて。

「……あー。程将軍、今お部屋準備しますので、そちらで、ね」
 鶴天佑が上ずった声で言った。真波さんは目を見開いて、ぱっと周りを見る。俺も釣られてそちらを見ると、とっさに秋櫻と皐月、鈴蘭兄さんと孟さんが目を逸らすのが見えた。……見られてた!
「……ああ、すまない」
 真波さんが咳払いとともに答える。ちょっとだけ耳が赤い。俺は自然と笑ってしまって。
 ぐつぐつと鍋の沸き立つ音がする。だけど今一番大事なのは、目の前にいるこの人だ。 
「ごめんなさい、孟さん。あとでいただきます。……行きましょう、真波さん」
 その手を取って厨房を出た。つないだ手の感触が嬉しい。また来てくれたことが嬉しい。また会えたことが。
 鶴天佑は準備すると言ったけど、あの部屋は使ったあとは必ず清掃が入るし、現状俺しか使ってないから空いていると知っている。
 どことなくふわふわして、雲の上を歩いているようだ。部屋までの道のりがやけに遠くてもどかしい。
 やがて部屋について扉を閉めた。その瞬間、後ろから抱きしめられた。
「雪柳……」
 胸が震えて言葉が出ない。もう何度考えたかわからない、嬉しいという感情に支配されて、また涙があふれ出す。
「はい。真波さん……」
「……会いたかった」
「……僕も、です」
 首筋に感じる、あつい吐息。胸のまえに回された腕に力がこもる。ゆっくりと振り向くと、美しい目と目があった。
「君が、好きだ」
 その言葉に目を見開いた。初めて彼から聞いた言葉。きっとあの夜に聞き取れなかったことば。
「君がここの男妓であることはわかっている。それでも……もしも帰ることができたら、君に言おうと思っていた」
「……はい」
 ぎゅっと彼の背中に腕を回す。その首筋に顔を寄せた。
「僕も、好き、です」
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