上 下
21 / 77
第一話 皐月

9-1

しおりを挟む

 空の色は皐月の衣装みたいな群青だった。その下に連なって見えるのは、今を盛りと咲く桃の花。
 そして、その桃花にも劣らない、美しい男妓たち……を、俺は見ることができない。
 なぜなら俺は、今、彼らの先頭にいるからだ。……まじか。

 春嵐に連れられて、俺は妓楼のホールへと向かった。薄布の下からちらりと見ると、そこには兄さんたちが集まっていて、時間を待っているようだった。時間になれば扉が開き、桃花並木を歩くのだ。
 しかし俺がホールに入った瞬間、皆の視線がつき刺さった。俯いて薄布の両端を抑える。
 ……やばい。
「皐月。遅いよ? お前は今日の主役なんだから、誰よりも早く支度しないといけないのに」
 そう言ったのは月季だった。その声が少し尖っている。俺は薄布で顔を隠したまま、頭を下げた。
 ……声でもばれる可能性がある。そうだ、俺の数少ない特技として、人の声真似ができるというのがある。声優仲間の声を真似していたら褒められて、調子にのってゲーム実況の合間にも披露していたら、いつしか特技としてプロフィールにも書かれるようになった。今こそ、その力を発揮するべきだ。
「すみません、やり直してもらっていましたので」
 我ながらうまく皐月の声真似ができたと思う。しかしその直後、月季は言った。
「やり直し? もしかして春嵐兄さんが仕上げたんですか? ちょっと皐月、顔をお見せよ」
 ……背筋がひやりとする。早くもアウトか。短かった……。
 すると「あっはっは」と豪快な笑い声がした。
「だーめ。この子はね、今夜のお相手にしか顔を見せたくないんだって。あたしが仕上げたんだからそりゃあ極上よ。安心おし」
「……まあ、春嵐兄さんがそう言うなら」
 思わずほっと息を吐いた。ここまで来たら見つかりたくない。けれど時間の問題な気もする。
「兄さん。皐月の仕上げならさっき俺も見たけど、なんでやりなおしたんですか?」
 いぶかしげな鶴天佑の声にぎくりとする。……まずい。
「この子、もしかして嫌だったんじゃないの? 化粧はほぼなし、下着姿でそこらへん走りまわってたわよ。とっつかまえて化粧したんだから!」
 得意そうな声。俺は薄布の端をぎゅっと握って俯いた。これを取られたら終わる。
「……そうか。戻ってきてくれて、よかった」
 ほっとしたような鶴天佑の声。彼は皐月が乗り気でないことを危惧していたのだろう、だからこその安堵だ。まさか俺が成り変わっているとは思うまい。
 ……やがて。
 外で、鐘の鳴る音がした。まずは注意を引くために軽く3回、そして時の鐘が澄んだ音を響かせる。やがて鐘が鳴り終わり……。
 扉が、開いた。
「……よし、皐月。行こう。最初の挨拶を忘れるなよ」
 頷いてみせる。よかった、言ってくれなかったらそのまま歩き出すところだった。
 とりあえず外に出た。つまずかないように足元を見ながら、おそるおそる。
 ……その時、皐月の声を思い出した。
『雪柳、それじゃだめだ。もっと背筋を伸ばして前を見て。腰はつきださないようにね』
 ……そうだ。
 背筋を伸ばして、前を見る。
 そのさきには群青の空、桃色の並木、そして両サイドの店の前にずらりと並び、こちらを見つめる多くの目。
 ここを乗り切れば、とりあえず街の中での鶴汀楼の威厳は守れる。俺は深々と拱手をし、息を呑んで歩き出した。一歩一歩。長い裾は兄さんの誰かが持ってくれているようだ。
 ――ほほう、今年は孵化があるんだね。
 ――さすが鶴汀楼だね、あの刺繍の見事なこと。
 ――お顔を拝見したいものだねえ。今年はどんな美少年なのか。
 ひそひそ、漏れ聞こえる声は好奇心に満ちている。皐月として、とりあえず行列を全うすることだけを考えて歩を進める。慣れない靴でこけたりしたらすべてが終る。後からは兄さんたちが付いてきている気配がする。
 そんなに長くないはずの距離が、まるで永遠のように感じられた。
 並木の終わりが近づき、ふと顔を上げると。そこには青い袍に幅広の帯をしめた長身の男が……。
 ……はえっ?
 薄布の間から思わず見上げた。そこにいたのは先日刀削麺をごちそうになって別れた、真波さんで。
 まさか、なんで。青鎮軍の将軍さんだろ? なんでこんなとこにいんの!?
 思わずパニックになるが、俺のゴールはたぶんここだ。
 立ち止まって、薄布越しに見つめた。しかしその表情はよくわからない。
 すっと、手が差し伸べられた。これは……手を取れ、ということか?
 おそるおそる手を取ってみると、軽く握られた。
 そして、彼が歩き始めるのに合わせて、身体の向きを変えた。手をつないでもらうことで、随分歩きやすくなってほっとする。
 ――青鎮軍の。ずいぶん若い将軍になったもんだ。
 ――あれは程家の坊ちゃんじゃないか。いやはや、美丈夫だねえ。
 ――あっちもお盛んなのかねえ。
 ゲスの極み!というようなひそひそ声が聞こえる。俺はなんとなくふわふわした気持ちで桃花並木を歩く。群青の空はまたたくまに黒に染まり、街の灯りと、木々の間に置かれた灯籠の、ぼんやりとした橙の灯りが桃花を照らす。なんて幻想的な風景だろう。
 行きと違って帰りは随分早く感じられた。妓楼の扉の前までくると、ほっと息をついた。中に入ろうとすると、ぐい、と腕をつかまれ、身体の向きを変えさせられる。
「……拱手だ」
 ぼそっと言われて、慌てて拱手をする。しまった、終わりにも必要なのか。
「ありがとうございます」
 小声で礼を言って、今度こそ妓楼の中に戻る。……ようやく、終わった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

人間の俺は狼に抱かれている。

BL / 連載中 24h.ポイント:49pt お気に入り:3,195

2人の騎士に愛される

BL / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:235

異世界に落っこちたら溺愛された

BL / 連載中 24h.ポイント:255pt お気に入り:3,520

オメガバース物語 ヤクザver.

BL / 連載中 24h.ポイント:71pt お気に入り:1,039

盲目少年に恋しイタチザメ

BL / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:90

離宮・番外編

BL / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:254

処理中です...