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本編

滲む水無月㈠

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 近頃、そこそこに驚いた話をしよう。

 水無月とは、読んで字の如く水の無い月ではなかったらしい。
 まぁ現在の暦においても梅雨に当てはまるため、水ないことないよね? と素朴な疑問をこぼしたのが、事の始まりだ。

 或る神は説いた。水無月ないし神無月とは、本来〝水の月〟や、〝神の月〟という意味でございます、と。

 てっきり打ち消しだと思い込んでいた〝無〟の役割が、〝の〟の意味を表す連体助詞だったと……あぁ、頭痛が痛い。漢文はそういったトラップがありがちだ。次の定期考査は大丈夫だろうか。

 やはり、授業を長らく休むのは危険である。たとえ知恵の神の加護があろうとも。
 神社で学業成就のお守りを買う以前に、ご利益のほうから嬉々としてやってくるとしても。

「嗚呼、なんと殊勝な御方か……修羅の道を御自らお進みなさらずとも、よろしかろうに……」
「いーえ、どこかのべにさんがなんと言おうが今日こそは学校行きますので、わっかりやすい泣き真似やめなさい、そこ」

 さめざめと口許を覆う少年の神は、紺青の袖より覗かせた三日月形の唇で、草笛の音色を震わせる。
 
「すっかりお元気になられて、安心致しましたぞ。看病も悪くはありませんでしたが、やはりいつもの穂花ほのかが、紅は一番でございますれば」

 そうと語った面持ちに、揶揄からかいの色はなかった。

 平素は重力の洗練をものともせず、ふわりと宙を漂っている桜霞の領巾で紺青の上衣にたすき掛けをした紅は、数回廻した急須を傾ける。

 お気に入りの白磁の湯飲みから、香ばしい香りが広がった。
 慣れた手つきで差し出されたそれを両手で包み込めば、手のひらのぬくもりにほう……とため息が漏れる。
 食後の一服まで、紅の給仕には非の打ちどころがない。長年連れ添った妻かと錯覚さえするほどだ。

「そりゃあねぇ、元気なのに家に引きこもってるほうが、気が滅入っちゃうよ。毎日じめじめしてるし、世の中も仄暗いし!」

 穂花が言を荒らげる理由は、肌にべったりと張りつくような湿気にまみれた日々だ。ここに、朝はなんとなく垂れ流しているニュースの、あまり喜ばしくない案件も加算されよう。
 小学校で飼っていたウサギが何者かによって等――みなまで言わないが。朝っぱらからやめてほしい。

 一変して、可愛らしい女性アナウンサーは溌剌とサッカー日本代表の一大ニュースを報じる。
 下手な大根役者ならば楽々打ち負かせるであろう声音の変貌ぶり。拡大紙面を挟んだ隣の男性アナウンサーやコメンテーターたちの関心も、そちらに集中した。
 まるで、先刻までのことがなかったかのようなスタジオの雰囲気に、世間の闇を垣間見た気分だ。

「そうですな。人の世に暗雲が立ち込めているのは、なにも昨日今日始まったことではございませぬ」
「何気にディスるのやめて?」
「はは、物は考えようです。雲が晴れないのならば、いっそ蛙の気持ちにでもなられては如何か?」

 なんと脈絡のないことを言うのだろうか。
 眉間にしわを寄せて見やった穂花に、紅は頬笑み、上へ向けた手のひらでそっと庭を指した。

「あっめ、あっめ、ぴっちゃ、ぴっちゃ、ぱっしゃ、ぱしゃ~」

 するとどうだろう。いつもはもう少し寝ているはずの妖が、傘も差さずに庭へと下りて行くところではないか。

 天色の髪や薄紫の着物が濡れることも厭わず、むしろ裸足で水溜まりへ踏み入り、鼻歌混じりに飛沫を跳ねさせている。
 幼子のようにはしゃぐ様たるや、まさに水を得た魚の如し。
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