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1巻
1-2
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「……ティティ。ただいま」
鼻先を擦っていた手を止める。えっと……、なんで今、ここにアデルが……?
「あ、うん……あの……」
会うつもりがなかったのに会ってしまって、混乱して上手く言葉が紡げない。
「お帰りって……言ってくれないの?」
顔に影を落としたアデルはわずかに首を傾げた。
「っ……あの、お帰り。怪我、ない?」
「ないよ。大丈夫」
ゆるりと眦を細める。そして流れるような仕草で僕の頬に掌を当てた。
ぴくり、と肩が揺れる。
「ティティ、少し話がしたい。時間貰えない?」
少し言いにくそうな顔で、そう切り出した。
……そっか。
アデルもちゃんと区切りをつけようとしているのか、と納得した。
――でも。
もう一度外に目を向ける。
南門から馬車に乗る予定だから、そろそろ出なきゃ間に合わない……
僕は微笑みをなんとか浮かべて、彼を見つめた。
「ごめんね、アデル。さっき完成した薬を急いで届けなくちゃいけなくて……」
「じゃあ、帰ってきてからでいい」
「……ごめん、遅れそうだから行くね」
「ティティ――」
外套を羽織ってバッグを肩にかけると、僕は彼の言葉の続きを聞こうともせず逃げるようにその場を後にした。
――僕は卑怯だ。
アデルだって区切りをつけないと、レスカのもとに行けないじゃないか。でもアデルから面と向かってサヨナラを言われたら……僕は……
ぐっと込み上がるモノを呑み込み、少しでも早くアデルがいる場所から遠ざかろうと足を速めた。
荒れ狂う気持ちを抱えたまま南門へ向かう。
――やっぱり、無理だよ。直接別れを切り出されたら、堪えられない……
じわりと眦に涙が浮かぶ。
アデルとは彼が七歳で孤児院に入った時からの付き合いで、もう十三年も一緒にいた。
アデル以外の人たちが僕を半端者と蔑む中で、彼だけは変わらず僕に優しく接してくれていた。いつも「可愛い」や「大好き」と、ある時は言葉で、ある時は態度でずっと示してくれていたんだ。
そうやってずっと好意を向けてくれた唯一の人を、好きにならずにはいられない。
この世界でたった一人、僕に愛情をくれた人。
彼の側を離れたくはなかった。
自分は半端者だから彼にはふさわしくない……。いつもは自分に言い聞かせるようにそう口にしていたけど、本心ではずっと僕を選んでほしかった。
――別の人を選んでほしくなかった……
忙しく動かしていた足を止める。
堰を切ったように流れる涙が一向に止まらない。
とっさに外套のフードを被ってその場にしゃがみ込んでしまった。
「――アデル……。なんで…………」
露店が並ぶ大通りは夕暮れ前というのもあって、行き交う人々が多い。そんな中で突然しゃがみこんだ僕に人々は訝しげな視線を向けてくるけど、もう僕には涙を止める術はなくて、こうして我慢するしかなかった。
「――はぁ……」
グスグスと洟を啜る。
本当に情けない。いい大人が失恋したからって、通りで大泣きなんて……
泣きすぎてズキズキ痛む頭を押さえて、僕はのろりと顔を上げた。空は橙色になり、足元の影は長さを伸ばしている。
視線の先に小さく目的地の門が見えた。
あの門の向こうの停留所から、海辺の街への馬車に乗る。
早朝に港で水揚げされる魚介類を運ぶための馬車に相乗りさせてもらうことになっていて、夕暮れにこの街を出て夜通し馬車を走らせることになっていた。明日の朝に目的の街に着く予定だ。
ゆっくり立ち上がり、トボトボと歩みを再開する。
――と、その時。無視することができない強烈な存在を感じ取って、思わず足を止めた。
「――え? なに……?」
その存在を捜すために視線を彷徨わせる。
周りを歩いていた人々もその場に立ち止まり、辺りを見回していた。
そして、綺麗な空色の髪に夕焼け色の瞳を持つ、ずば抜けて美しいその男性を見つけたんだ。
まるで魅了されてしまったかのように、その綺麗な瞳から目が離せない。僕の視線に気が付いたのか、彼はゆったりと頭を動かす。
そしてその瞳が僕を映したと思った瞬間、彼は大きく目を見開き、食い入るように僕を見つめた。
視線が合ってしまうと、まじまじと不躾に見ていたことが恥ずかしくなる。僕はそそくさとその場をあとにするべく足を動かした。
その時、ふわりと風もないのに空色の髪がなびくのが視界の端に映った。
「あ……」と思った瞬間、彼は僕のすぐ目の前まで来ていて、僕はその腕の中に捕らわれてしまっていた。
突然のことに混乱して固まる僕にお構いなしで、きつく抱きしめて離そうとしない。
頭の中で思考がグルグルと回りまとまらなかった。
彼の「私の愛しい人。貴方の名前を私に教えて?」と宣う声は素晴らしかったけど、混乱したままの僕は深く考えることができなくて、ポロリと発言してしまっていた。
「――誰かと間違えていませんか?」
瞬間、ぴしりと周囲の人たちが固まったのを感じて「しまった!」と内心焦ってしまう。そして彼らは「何コイツ、信じらんねぇ……」的な視線を僕に向けるものだから、さらに焦る。
「あ、の……」
なんでそんな目を向けられるのか分からない僕は困ってしまう。
いまだに僕を離そうとしない彼を見上げると、切れ長な瞳にゆるりと甘さを滲ませて彼は微笑んだ。
「――泣いてたの?」
すりっと目元を優しく指の腹で撫でる。
さっきまで大泣きしてたから目元が赤くなってるのかな……と思いつつ、この世のものとは思えない美しさを誇る彼に泣き腫らした見苦しい顔を見られたくなくて、僕はとっさに俯いてしまった。
「誰に、泣かされたの?」
頤に指がかかる。クイッと持ち上げられて顔を背けることもできず、夕焼け色の瞳に顔を覗き込まれた。
「ねぇ。誰が、貴方を、傷付けたの?」
その言葉にゾワっと悪寒が背中を走る。彼の目も口も、変わらず優しく微笑んでいるのに、すごく怒っているのをひしひしと感じる。
「離して……っ」
僕はこの見知らぬ人を急に怖く感じて、腕を伸ばして彼の胸を押し、腕から抜け出そうと藻掻いた。
「――アスティア様」
しかし落ち着いた静かな声が響いて、ふっと男性の視線の強さが和らいだ。
思わず抵抗するのを止めて声の方向に目を向けると、真っ黒な髪に同じ色の瞳を持つ白皙端麗な男性が静かに控えていた。
執事みたいな服を身に着けているけど、付き従っているところを見ると従者かな?
薬を卸していた貴族の屋敷で働く人たちを思い浮かべながらそう思った。
従者は僕の顎を掴んで離さない人を見ている。
――『アスティア』ってこの人の名前だろうか?
空色の長髪の男性――アスティアと呼ばれた彼は僕から視線を外すことなく、わずかに眉根を寄せて背後の従者に向けて不機嫌そうに言葉を放った。
「ルゼンダ、邪魔をするな」
「ですが、番様が怯えておられます。一度お引きください」
その言葉に、少しアスティアが首を傾げる。しかしその後、両腕を滑らせるようにして僕の両肩に置くと、ゆっくりと屈み、耳のすぐ側に唇を寄せて囁いた。
「――怖い?」
耳に吹き込むような囁きに、ゾクゾクとした甘い痺れを感じて反射的にアスティアに視線を向けると、こちらをじっと窺う一対の瞳と視線が交差した。
アスティアの強い視線に捕らわれて、動けなくなる。
「貴方は、誰?」
震えそうになる声を必死に抑えて問うと、アスティアは顔を綻ばせた。
「私? 私は――」
「っだから、怖がらせんじゃねぇっつてんだろ!」
絶世の美貌の持ち主が言葉を発しようと唇をわずかに開いたその時、アスティアの背後に大人しく控えていたはずのルゼンダと呼ばれた黒髪の従者が、口調も荒く叱咤しアスティアを蹴り飛ばしていた。
「愛しい番に出会えて浮かれてんのはいいが、ちっとは周りに配慮しやがれ!」
あ……あれ? この人、第一印象と随分違う……
蹴り飛ばされたアスティアは恨みがましい視線を向けるが、ルゼンダは一顧だにせず、ツカツカと僕に歩み寄った。
「アスティアが暴走して悪かったな。まぁこっちが全面的に悪いんだけど、アイツにも事情があってさ。許してやってよ」
「はぁ……」
「ルゼンダ、余計なことを言うな」
「うっせーし。お前に話してんじゃないよ」
ルゼンダは肩くらいの位置で右手をひらつかせて、「はんっ!」と鼻で笑う。
美貌の男性に抱きしめられたかと思ったら、今度は突然二人の言い合いが始まってしまった。その光景を前に、僕は混乱した頭を落ち着かせることを放棄した。
――ああ……一刻も早くこの場から立ち去ってしまいたい。
ぼうっとそう考えながらアスティアとルゼンダの口喧嘩をぼんやりと眺めていると、僕と同じようにアスティアの美貌に目を奪われていた人たちのこそこそ話す声が聞こえてきた。
「あれ、空竜じゃないか? ステリアースを訪れてるって噂、本当だったんだな」
「歴代の空竜の中でも、今代が一番ヤバいって話だよな? この国大丈夫かよ、オイ」
聞き慣れない単語を耳が拾う。
「――くうりゅう……?」
コテンと首を傾げてその言葉を反芻していると、僕の声に反応したアスティアが嬉しそうに微笑んだ。
「私の可愛い人。私のことを呼んだ?」
…………え、空竜ってアスティアのこと!?
「……竜なの?」
唖然としながら呟く。
「そうだよ。空竜は貴方の番たる私のことだ」
そう言ったアスティアは甘やかに頬を緩めて、すごく嬉しそうに笑っていた。
★☆
「ま、お茶でも飲んで落ち着きな」
粗野な口調に反して丁寧な手つきでカップをローテーブルに置くと、ルゼンダはニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
この人、白皙の美貌って言葉がピッタリな端正な顔をしていて、さらに彼の白い肌に黒髪が映えてすごくカッコいいんだけど、容姿と態度が全然一致しない。
僕はルゼンダと目の前のカップに視線を行き来させて、居心地悪くもぞりと身じろいだ。
彼らに連れてこられたのは、貴族の屋敷が並ぶ区域の一角。他の屋敷より遥かに装飾が多くて派手な印象の屋敷だった。
旅立つために南門近くまで来たはいいけど、彼らと出会い、結局半ば拉致されるようにこの屋敷に連れてこられたのだ。
そろりと室内に目を向ける。
豪華な調度品が飾る客間は、僕には馴染みがないきらびやかさで落ち着かない。そもそも、こんな高級そうな場所に僕がいていいの?
それに、それ以外にも居心地が悪い理由があった。
「どうしたの? アイツの存在が不愉快?」
優しい声が背後から聞こえる。そう、背後から。
なんで僕、この人の膝の上に座っているのかな……
すごく恥ずかしいし、居たたまれない。
そんな僕の心情を知ってか知らずか。アスティアは背後から僕の左頬を掌で包むと、優しく力を込めて自分のほうを向くように誘った。
「私だけを見て? アレの存在が嫌なら消しちゃおうか?」
もう片方の手でルゼンダを指さすアスティアは甘く蕩けた表情をしている。しかし彼はおそらく本気で言っている。
「……ぇ……っと……」
「アスティア、お前の番がドン引いてんぞ」
「煩い」
「ま、いいや。で、えーっと番様?」
「あ、僕ティティって呼ばれてます」
全く口をはさむ隙がなかったせいで、自分の名前すら伝えていなかった、とちょっと慌てる。
本来は自分の本当の名前を名乗るべきなんだろうけど、神に存在を認めてもらえていない者の名を呼ぶことを神殿の神官たちはひどく嫌う。
高貴な人たちはおそらく獣神を信仰しているだろうから、僕みたいな者の本名を呼ぶことすら忌々しく思うかもしれない。
ちょっと考えて、アデルに呼ばれていた愛称を名乗ったけど、仕方ないよね。
「ティティ、ね。可愛い~」
「なんでお前が私より先に番を呼ぶんだ」
ルゼンダが愛称を口にした瞬間、辺りの空気が急速に冷えてズンと重くなる。しかしアスティアの殺気を含んだ声に対して、ルゼンダは特に気にした様子もなく肩を竦めた。
「お前に任せても、話が一向に進まんだろーが。自業自得」
威圧を振り撒くアスティアを軽くいなすと、彼は改めて僕のほうを向いた。
「どこかに行く途中だったんだろ? 拉致って悪かったな」
「……いえ」
拉致って言った。自覚あったのかぁ……、と思わず呆れてしまう。
「あんな人目の多い所じゃ迂闊に話もできねーし。諦めて」
あっさり言い放つ。ホント、見た目の上品さとのギャップがひどい。僕はため息をついた。
「なんで僕、ここに連れて来られたんですか?」
「え? そりゃ君がソイツの番だから」
ルゼンダの言葉に目を瞠ってしまう。あまりの驚きに言葉すら出ない。
誰が、誰の、何だって?
半端者が、空竜の……
「――は?」
孤児院育ちで十分な教育を受けることができなかった僕でも、竜がこの世界のヒエラルキーにおいて頂点に位置する存在だということは知っている。
そんなヒエラルキーの底辺に位置する半端者が、トップに位置する竜の番?
「なんの冗談……」
あり得ない。絶対にあり得ない。
「なぜ、冗談だと思うの?」
スルリとお腹に回した両腕に力を籠めて、閉じ込めるように抱きしめたアスティアは、頬を僕の頭に擦り寄せて満足げに吐息を洩らした。
「ずっと捜してた。貴方に守護者が付いてるって分かってても、見つけるまでは心配で堪らなかった」
また一つ理解できない単語が飛び出てきて、首を傾げる。
『守護者』とはなんだろう。
ここは僕が知っている世界とズレてるのかもしれない。ズキズキと頭が痛み始める。無言となった僕の顔を、アスティアが心配そうに覗き込んだ。
「ティティ、どうしたの? どこか……」
「……なぁ、ティティ。君、今までどこで誰とどう暮らしてた?」
ふと何かに気付いた様子のルゼンダが、アスティアの言葉を遮って聞く。
僕は俯けていた顔をのろりと上げて、ルゼンダに目を向けた。
「守護者を知らないって、そんなのあり得ない。君は今まで、誰と一緒にいたんだ?」
「今まで……? えっと、孤児院で育って。ずっと一緒だったアデルとは大人になってからも……」
痛むこめかみをそっと指で押さえる。
「「アデルって誰?」」
二人の声が重なる。
「――僕の、恋人だった人」
その僕の言葉に、真っ黒な瞳と夕焼け色の瞳が驚きの色に染まった。
ああ、頭が痛くて吐きそう……
無言で顔見合わせる二人の側で僕の視界は暗転し、意識が遠のいていった。
★☆
気付くとティティの身体から力が抜けて、前に崩れ落ちそうになっていた。
「っと!」
慌ててルゼンダが手を差し伸べて支える。ティティを膝上に乗せていた私は我に返り、意識をなくした愛しい番を横抱きにして抱え込んだ。
カクンと力なく仰向く頭を腕で支え、胸元に引き寄せる。
「――は? 恋人?」
「気にするトコそこなの? いや、たしかに気にはなるけれども!」
「私の番だぞ!? なのに他に恋人って……」
「落ち着け、アスティア。それより守護者不在のほうが問題だろーが」
保有する力の強さゆえに生態系ヒエラルキーの頂点に君臨する私たち竜ではあるが、その種族の特性として己の番にはとても弱い。
『竜を倒すなら番を狙え』とは命知らずの冒険譚にも記してあるほどだ。そして実際に竜を支配しようと企む者たちに、過去幾度となく番たちは狙われてきた。
そんな番を守るのが守護者だ。常に番の側にあり、その存在を守り抜く者。
神が定めた運命の相手が番であるように、守護者もまたそうあるべく神が定めた存在なのだ。
そんな大切な守り手が不在……
私がティティを捜し求めている間に、一体彼に何が起きていたんだろう。
「まず、そのアデルってヤツから調べるか?」
「そうだな。孤児院時代からずっと共にあったのなら、その男が何か知っている可能性は高い」
ルゼンダの提案に頷く。
本来、守護者は竜の番を守るように本能の根底に刻み込まれており、番の側で必要な知識を与えて竜の相手に相応しく育てていく。
それがなかったというのなら、出会ってから今までのティティの戸惑いも当然だと理解できる。
私は意識をなくしたティティをじっと見つめた。
月白と呼ばれる、うっすらと青みを帯びる薄灰色の髪。宝石アウイナイトのような美しいコバルトブルーの瞳。
神秘的なまでに美しい色彩をまといながら、獣人の特徴を持たない状態で育ったティティ。
この獣人の国ステリアースで後天性獣人と見なされた彼は、守護者不在の状態でどれほど過酷な人生を歩んだのだろう……
この国の内情を知っているだけに、腹の奥に言いようのない怒りが湧き上がる。
「――その男、さっさと連れて来い」
ようやく出会えた番から視線を外すことなくルゼンダに命じる。
先ほどまでの粗野な雰囲気を収めたルゼンダは、白皙の美貌に相応しい冴え冴えとした瞳で、仕える主に恭しく頭を垂れた。
すぐに背後でパタンと静かに扉が閉まる。
さっそく調べに向かったのだろう。それに目を向けることなく、腕の中で瞳を閉じたままのティティをただ見つめた。
――違う。本当はティティなんて名前じゃない。
私は彼の本当の名前をちゃんと知っている。だけど彼の名前を呼ぼうとした時、声が出せなかった。おそらく彼自身になんらかの制約が掛けられているのだ。
思わずぐっと唇を噛みしめる。
何かが、もしくは誰かが私とティティの間を邪魔している。
そう思うと怒りのあまり空竜の力の制御が緩み、辺りの空気が不穏に揺らめく。
「……ん」
その時、ティティの形のいい唇がわずかに開いて小さな声が聞こえてきた。少し眉根を寄せて、苦しそうな様子を見せている。
私は大きく息を吐いて荒れ狂う感情と力を抑え込むと、彼を抱き上げて寝室へと移動した。
この屋敷にもティティのための部屋は準備されていたけれど、それを使わせる気はない。彼は私と共にあるべきなのだから。
カチリと小さな音を立てて寝室の扉を開く。中央に置かれた天蓋付きの豪奢なベッドにティティを横たえた。
この国を訪れた際に国王に押し付けられた滞在先の屋敷は、派手派手しく品に欠けて私の好みではない。
大事な番を我が空竜城に連れて戻った際には、私たちの部屋を彼に似合うものに変えようと心に決めている。
そろりとティティの頬を掌で包み込む。
ふと、彼が寝苦しそうな服のままであることに気が付いた。
一瞬、ぴくりと腕を震わせて躊躇する。
他の者に着替えを頼もうかとも考えたが、大事な人に他人が触れることを耐え難く感じて、結局自分で彼を着替えさせることにした。
着ていた服の紐を解く時、不謹慎なほどに胸が高鳴った。もちろん、意識もなく同意もないティティに手を出すつもりはない。
それでもようやく邂逅を果たした愛しい人を前に、湧き上がる欲を抑えることができずに私は大きくため息をついた。
「……はぁ、本当に可愛い……」
自分の煩悩と戦いながら寝衣に着替えさせ、ゆっくり休めるように上掛けをかけてやる。
顔に掛かる髪をそっと払うと、年より幾分幼く見える寝顔が見えて、ふと彼の誕生を知らされた時のことを思い出した。
私が九歳の誕生日を迎える直前、ティティはこの世に生まれてきてくれた。
竜には必ず番が存在する。空竜以外の竜は、大人になるとその存在を求めて世界中を旅する。
しかし空竜は、他の竜と比べてずば抜けて強い力を持つゆえに心身の均衡を崩しやすく、その心の安寧をもたらすものとして番が必須だった。
空竜の番は空の一族と呼ばれる者たちから誕生すると決まっていて、番の証として宝石のように美しいコバルトブルーの瞳を持つとされている。
私にも例外なくティティが番として誕生したけれど、生まれて間もないティティにすぐに会うことは叶わなかった。
なぜなら、空竜の独占欲はすさまじく強く、まだ幼く未発達の精神では、自分の欲求に従って番を雁字搦めに囲ってしまう可能性があったからだ。
それではお互いに幸せになれないということで、ある程度自分の欲求が自制できる十歳になるまで、空竜は番同士の顔合わせを禁止されていた。
――せっかくこの世に、私のもとに来るべく生まれてきてくれたのに、会えないなんて!
番が誕生したという何よりも嬉しい知らせと共に、あと一年は会えないという絶望を感じたことを強く覚えている。
でも、たった一年会えないだけなんてなんの苦痛でもなかった。
あと数日でティティに会えるはずだった、あの日。
空竜城にもたらされたのは、私の愛しい番が何者かに襲撃を受けて行方不明になったという残酷な知らせだった。
ぞわりと恐怖とも怒りともつかない激しい感情が体内を駆け巡り、髪が逆立つような感覚が身体を襲った。あの時父に力を抑え込まれていなければ、確実に周囲の国々を潰すほどの力を放出していたと思う。
あれから十九年。こんなにも長く番を見つけることができないとは、夢にも思わなかった。
いなくなった番を捜そうと半狂乱になりながら力を巡らせたけれど、何かに弾かれて番の気配を辿ることができなかったのだ。
こうなってしまえば、番を捜し出すために、他の竜と同じく世界中を巡るしか方法はない。
そうやってあちこちを巡り、ようやく捜し出した愛しい人。
しかし彼は私の想像をはるかに超える厳しい世界で生きていた。
私は横たわる彼の身体に触れて、魔力を操作して愛しい番の身体を探る。
そもそも彼はなぜこうも痩せているのだろう。
着替えさせる時に見た薄い身体。そのあちこちに残る鞭の跡には殺意が湧く。
なんとか自分を律してさらに探り、知り得た情報に思わずきつく眉根を寄せてしまった。
「なぜ――」
優しく愛しい彼の髪を指で梳く。愛しい唯一に会うことができなくて、とても辛かった。でも貴方はそれ以上に過酷な人生を歩んだんだな……
「アスティア」
密やかな声が背後から響く。視線だけを流すと、外套をまとったままのルゼンダが控えていた。無言で促すと、ルゼンダは早速調べた情報を話し始めた。
「アデルってヤツは冒険者で、この三ヶ月遠征していたようだ。だがパーティメンバーは遠征先で死んでいた。冒険者ギルドの見立てでは、魔獣の仕業ではなさそうだ、だと」
彼は話しながら、パチン、と外套を留めるピンを外す。
「ティティの家は、俺が行った時には燃えてた。放火されたっぽい」
「アデルという男は?」
「いた……だが、逃げられた」
鼻先を擦っていた手を止める。えっと……、なんで今、ここにアデルが……?
「あ、うん……あの……」
会うつもりがなかったのに会ってしまって、混乱して上手く言葉が紡げない。
「お帰りって……言ってくれないの?」
顔に影を落としたアデルはわずかに首を傾げた。
「っ……あの、お帰り。怪我、ない?」
「ないよ。大丈夫」
ゆるりと眦を細める。そして流れるような仕草で僕の頬に掌を当てた。
ぴくり、と肩が揺れる。
「ティティ、少し話がしたい。時間貰えない?」
少し言いにくそうな顔で、そう切り出した。
……そっか。
アデルもちゃんと区切りをつけようとしているのか、と納得した。
――でも。
もう一度外に目を向ける。
南門から馬車に乗る予定だから、そろそろ出なきゃ間に合わない……
僕は微笑みをなんとか浮かべて、彼を見つめた。
「ごめんね、アデル。さっき完成した薬を急いで届けなくちゃいけなくて……」
「じゃあ、帰ってきてからでいい」
「……ごめん、遅れそうだから行くね」
「ティティ――」
外套を羽織ってバッグを肩にかけると、僕は彼の言葉の続きを聞こうともせず逃げるようにその場を後にした。
――僕は卑怯だ。
アデルだって区切りをつけないと、レスカのもとに行けないじゃないか。でもアデルから面と向かってサヨナラを言われたら……僕は……
ぐっと込み上がるモノを呑み込み、少しでも早くアデルがいる場所から遠ざかろうと足を速めた。
荒れ狂う気持ちを抱えたまま南門へ向かう。
――やっぱり、無理だよ。直接別れを切り出されたら、堪えられない……
じわりと眦に涙が浮かぶ。
アデルとは彼が七歳で孤児院に入った時からの付き合いで、もう十三年も一緒にいた。
アデル以外の人たちが僕を半端者と蔑む中で、彼だけは変わらず僕に優しく接してくれていた。いつも「可愛い」や「大好き」と、ある時は言葉で、ある時は態度でずっと示してくれていたんだ。
そうやってずっと好意を向けてくれた唯一の人を、好きにならずにはいられない。
この世界でたった一人、僕に愛情をくれた人。
彼の側を離れたくはなかった。
自分は半端者だから彼にはふさわしくない……。いつもは自分に言い聞かせるようにそう口にしていたけど、本心ではずっと僕を選んでほしかった。
――別の人を選んでほしくなかった……
忙しく動かしていた足を止める。
堰を切ったように流れる涙が一向に止まらない。
とっさに外套のフードを被ってその場にしゃがみ込んでしまった。
「――アデル……。なんで…………」
露店が並ぶ大通りは夕暮れ前というのもあって、行き交う人々が多い。そんな中で突然しゃがみこんだ僕に人々は訝しげな視線を向けてくるけど、もう僕には涙を止める術はなくて、こうして我慢するしかなかった。
「――はぁ……」
グスグスと洟を啜る。
本当に情けない。いい大人が失恋したからって、通りで大泣きなんて……
泣きすぎてズキズキ痛む頭を押さえて、僕はのろりと顔を上げた。空は橙色になり、足元の影は長さを伸ばしている。
視線の先に小さく目的地の門が見えた。
あの門の向こうの停留所から、海辺の街への馬車に乗る。
早朝に港で水揚げされる魚介類を運ぶための馬車に相乗りさせてもらうことになっていて、夕暮れにこの街を出て夜通し馬車を走らせることになっていた。明日の朝に目的の街に着く予定だ。
ゆっくり立ち上がり、トボトボと歩みを再開する。
――と、その時。無視することができない強烈な存在を感じ取って、思わず足を止めた。
「――え? なに……?」
その存在を捜すために視線を彷徨わせる。
周りを歩いていた人々もその場に立ち止まり、辺りを見回していた。
そして、綺麗な空色の髪に夕焼け色の瞳を持つ、ずば抜けて美しいその男性を見つけたんだ。
まるで魅了されてしまったかのように、その綺麗な瞳から目が離せない。僕の視線に気が付いたのか、彼はゆったりと頭を動かす。
そしてその瞳が僕を映したと思った瞬間、彼は大きく目を見開き、食い入るように僕を見つめた。
視線が合ってしまうと、まじまじと不躾に見ていたことが恥ずかしくなる。僕はそそくさとその場をあとにするべく足を動かした。
その時、ふわりと風もないのに空色の髪がなびくのが視界の端に映った。
「あ……」と思った瞬間、彼は僕のすぐ目の前まで来ていて、僕はその腕の中に捕らわれてしまっていた。
突然のことに混乱して固まる僕にお構いなしで、きつく抱きしめて離そうとしない。
頭の中で思考がグルグルと回りまとまらなかった。
彼の「私の愛しい人。貴方の名前を私に教えて?」と宣う声は素晴らしかったけど、混乱したままの僕は深く考えることができなくて、ポロリと発言してしまっていた。
「――誰かと間違えていませんか?」
瞬間、ぴしりと周囲の人たちが固まったのを感じて「しまった!」と内心焦ってしまう。そして彼らは「何コイツ、信じらんねぇ……」的な視線を僕に向けるものだから、さらに焦る。
「あ、の……」
なんでそんな目を向けられるのか分からない僕は困ってしまう。
いまだに僕を離そうとしない彼を見上げると、切れ長な瞳にゆるりと甘さを滲ませて彼は微笑んだ。
「――泣いてたの?」
すりっと目元を優しく指の腹で撫でる。
さっきまで大泣きしてたから目元が赤くなってるのかな……と思いつつ、この世のものとは思えない美しさを誇る彼に泣き腫らした見苦しい顔を見られたくなくて、僕はとっさに俯いてしまった。
「誰に、泣かされたの?」
頤に指がかかる。クイッと持ち上げられて顔を背けることもできず、夕焼け色の瞳に顔を覗き込まれた。
「ねぇ。誰が、貴方を、傷付けたの?」
その言葉にゾワっと悪寒が背中を走る。彼の目も口も、変わらず優しく微笑んでいるのに、すごく怒っているのをひしひしと感じる。
「離して……っ」
僕はこの見知らぬ人を急に怖く感じて、腕を伸ばして彼の胸を押し、腕から抜け出そうと藻掻いた。
「――アスティア様」
しかし落ち着いた静かな声が響いて、ふっと男性の視線の強さが和らいだ。
思わず抵抗するのを止めて声の方向に目を向けると、真っ黒な髪に同じ色の瞳を持つ白皙端麗な男性が静かに控えていた。
執事みたいな服を身に着けているけど、付き従っているところを見ると従者かな?
薬を卸していた貴族の屋敷で働く人たちを思い浮かべながらそう思った。
従者は僕の顎を掴んで離さない人を見ている。
――『アスティア』ってこの人の名前だろうか?
空色の長髪の男性――アスティアと呼ばれた彼は僕から視線を外すことなく、わずかに眉根を寄せて背後の従者に向けて不機嫌そうに言葉を放った。
「ルゼンダ、邪魔をするな」
「ですが、番様が怯えておられます。一度お引きください」
その言葉に、少しアスティアが首を傾げる。しかしその後、両腕を滑らせるようにして僕の両肩に置くと、ゆっくりと屈み、耳のすぐ側に唇を寄せて囁いた。
「――怖い?」
耳に吹き込むような囁きに、ゾクゾクとした甘い痺れを感じて反射的にアスティアに視線を向けると、こちらをじっと窺う一対の瞳と視線が交差した。
アスティアの強い視線に捕らわれて、動けなくなる。
「貴方は、誰?」
震えそうになる声を必死に抑えて問うと、アスティアは顔を綻ばせた。
「私? 私は――」
「っだから、怖がらせんじゃねぇっつてんだろ!」
絶世の美貌の持ち主が言葉を発しようと唇をわずかに開いたその時、アスティアの背後に大人しく控えていたはずのルゼンダと呼ばれた黒髪の従者が、口調も荒く叱咤しアスティアを蹴り飛ばしていた。
「愛しい番に出会えて浮かれてんのはいいが、ちっとは周りに配慮しやがれ!」
あ……あれ? この人、第一印象と随分違う……
蹴り飛ばされたアスティアは恨みがましい視線を向けるが、ルゼンダは一顧だにせず、ツカツカと僕に歩み寄った。
「アスティアが暴走して悪かったな。まぁこっちが全面的に悪いんだけど、アイツにも事情があってさ。許してやってよ」
「はぁ……」
「ルゼンダ、余計なことを言うな」
「うっせーし。お前に話してんじゃないよ」
ルゼンダは肩くらいの位置で右手をひらつかせて、「はんっ!」と鼻で笑う。
美貌の男性に抱きしめられたかと思ったら、今度は突然二人の言い合いが始まってしまった。その光景を前に、僕は混乱した頭を落ち着かせることを放棄した。
――ああ……一刻も早くこの場から立ち去ってしまいたい。
ぼうっとそう考えながらアスティアとルゼンダの口喧嘩をぼんやりと眺めていると、僕と同じようにアスティアの美貌に目を奪われていた人たちのこそこそ話す声が聞こえてきた。
「あれ、空竜じゃないか? ステリアースを訪れてるって噂、本当だったんだな」
「歴代の空竜の中でも、今代が一番ヤバいって話だよな? この国大丈夫かよ、オイ」
聞き慣れない単語を耳が拾う。
「――くうりゅう……?」
コテンと首を傾げてその言葉を反芻していると、僕の声に反応したアスティアが嬉しそうに微笑んだ。
「私の可愛い人。私のことを呼んだ?」
…………え、空竜ってアスティアのこと!?
「……竜なの?」
唖然としながら呟く。
「そうだよ。空竜は貴方の番たる私のことだ」
そう言ったアスティアは甘やかに頬を緩めて、すごく嬉しそうに笑っていた。
★☆
「ま、お茶でも飲んで落ち着きな」
粗野な口調に反して丁寧な手つきでカップをローテーブルに置くと、ルゼンダはニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
この人、白皙の美貌って言葉がピッタリな端正な顔をしていて、さらに彼の白い肌に黒髪が映えてすごくカッコいいんだけど、容姿と態度が全然一致しない。
僕はルゼンダと目の前のカップに視線を行き来させて、居心地悪くもぞりと身じろいだ。
彼らに連れてこられたのは、貴族の屋敷が並ぶ区域の一角。他の屋敷より遥かに装飾が多くて派手な印象の屋敷だった。
旅立つために南門近くまで来たはいいけど、彼らと出会い、結局半ば拉致されるようにこの屋敷に連れてこられたのだ。
そろりと室内に目を向ける。
豪華な調度品が飾る客間は、僕には馴染みがないきらびやかさで落ち着かない。そもそも、こんな高級そうな場所に僕がいていいの?
それに、それ以外にも居心地が悪い理由があった。
「どうしたの? アイツの存在が不愉快?」
優しい声が背後から聞こえる。そう、背後から。
なんで僕、この人の膝の上に座っているのかな……
すごく恥ずかしいし、居たたまれない。
そんな僕の心情を知ってか知らずか。アスティアは背後から僕の左頬を掌で包むと、優しく力を込めて自分のほうを向くように誘った。
「私だけを見て? アレの存在が嫌なら消しちゃおうか?」
もう片方の手でルゼンダを指さすアスティアは甘く蕩けた表情をしている。しかし彼はおそらく本気で言っている。
「……ぇ……っと……」
「アスティア、お前の番がドン引いてんぞ」
「煩い」
「ま、いいや。で、えーっと番様?」
「あ、僕ティティって呼ばれてます」
全く口をはさむ隙がなかったせいで、自分の名前すら伝えていなかった、とちょっと慌てる。
本来は自分の本当の名前を名乗るべきなんだろうけど、神に存在を認めてもらえていない者の名を呼ぶことを神殿の神官たちはひどく嫌う。
高貴な人たちはおそらく獣神を信仰しているだろうから、僕みたいな者の本名を呼ぶことすら忌々しく思うかもしれない。
ちょっと考えて、アデルに呼ばれていた愛称を名乗ったけど、仕方ないよね。
「ティティ、ね。可愛い~」
「なんでお前が私より先に番を呼ぶんだ」
ルゼンダが愛称を口にした瞬間、辺りの空気が急速に冷えてズンと重くなる。しかしアスティアの殺気を含んだ声に対して、ルゼンダは特に気にした様子もなく肩を竦めた。
「お前に任せても、話が一向に進まんだろーが。自業自得」
威圧を振り撒くアスティアを軽くいなすと、彼は改めて僕のほうを向いた。
「どこかに行く途中だったんだろ? 拉致って悪かったな」
「……いえ」
拉致って言った。自覚あったのかぁ……、と思わず呆れてしまう。
「あんな人目の多い所じゃ迂闊に話もできねーし。諦めて」
あっさり言い放つ。ホント、見た目の上品さとのギャップがひどい。僕はため息をついた。
「なんで僕、ここに連れて来られたんですか?」
「え? そりゃ君がソイツの番だから」
ルゼンダの言葉に目を瞠ってしまう。あまりの驚きに言葉すら出ない。
誰が、誰の、何だって?
半端者が、空竜の……
「――は?」
孤児院育ちで十分な教育を受けることができなかった僕でも、竜がこの世界のヒエラルキーにおいて頂点に位置する存在だということは知っている。
そんなヒエラルキーの底辺に位置する半端者が、トップに位置する竜の番?
「なんの冗談……」
あり得ない。絶対にあり得ない。
「なぜ、冗談だと思うの?」
スルリとお腹に回した両腕に力を籠めて、閉じ込めるように抱きしめたアスティアは、頬を僕の頭に擦り寄せて満足げに吐息を洩らした。
「ずっと捜してた。貴方に守護者が付いてるって分かってても、見つけるまでは心配で堪らなかった」
また一つ理解できない単語が飛び出てきて、首を傾げる。
『守護者』とはなんだろう。
ここは僕が知っている世界とズレてるのかもしれない。ズキズキと頭が痛み始める。無言となった僕の顔を、アスティアが心配そうに覗き込んだ。
「ティティ、どうしたの? どこか……」
「……なぁ、ティティ。君、今までどこで誰とどう暮らしてた?」
ふと何かに気付いた様子のルゼンダが、アスティアの言葉を遮って聞く。
僕は俯けていた顔をのろりと上げて、ルゼンダに目を向けた。
「守護者を知らないって、そんなのあり得ない。君は今まで、誰と一緒にいたんだ?」
「今まで……? えっと、孤児院で育って。ずっと一緒だったアデルとは大人になってからも……」
痛むこめかみをそっと指で押さえる。
「「アデルって誰?」」
二人の声が重なる。
「――僕の、恋人だった人」
その僕の言葉に、真っ黒な瞳と夕焼け色の瞳が驚きの色に染まった。
ああ、頭が痛くて吐きそう……
無言で顔見合わせる二人の側で僕の視界は暗転し、意識が遠のいていった。
★☆
気付くとティティの身体から力が抜けて、前に崩れ落ちそうになっていた。
「っと!」
慌ててルゼンダが手を差し伸べて支える。ティティを膝上に乗せていた私は我に返り、意識をなくした愛しい番を横抱きにして抱え込んだ。
カクンと力なく仰向く頭を腕で支え、胸元に引き寄せる。
「――は? 恋人?」
「気にするトコそこなの? いや、たしかに気にはなるけれども!」
「私の番だぞ!? なのに他に恋人って……」
「落ち着け、アスティア。それより守護者不在のほうが問題だろーが」
保有する力の強さゆえに生態系ヒエラルキーの頂点に君臨する私たち竜ではあるが、その種族の特性として己の番にはとても弱い。
『竜を倒すなら番を狙え』とは命知らずの冒険譚にも記してあるほどだ。そして実際に竜を支配しようと企む者たちに、過去幾度となく番たちは狙われてきた。
そんな番を守るのが守護者だ。常に番の側にあり、その存在を守り抜く者。
神が定めた運命の相手が番であるように、守護者もまたそうあるべく神が定めた存在なのだ。
そんな大切な守り手が不在……
私がティティを捜し求めている間に、一体彼に何が起きていたんだろう。
「まず、そのアデルってヤツから調べるか?」
「そうだな。孤児院時代からずっと共にあったのなら、その男が何か知っている可能性は高い」
ルゼンダの提案に頷く。
本来、守護者は竜の番を守るように本能の根底に刻み込まれており、番の側で必要な知識を与えて竜の相手に相応しく育てていく。
それがなかったというのなら、出会ってから今までのティティの戸惑いも当然だと理解できる。
私は意識をなくしたティティをじっと見つめた。
月白と呼ばれる、うっすらと青みを帯びる薄灰色の髪。宝石アウイナイトのような美しいコバルトブルーの瞳。
神秘的なまでに美しい色彩をまといながら、獣人の特徴を持たない状態で育ったティティ。
この獣人の国ステリアースで後天性獣人と見なされた彼は、守護者不在の状態でどれほど過酷な人生を歩んだのだろう……
この国の内情を知っているだけに、腹の奥に言いようのない怒りが湧き上がる。
「――その男、さっさと連れて来い」
ようやく出会えた番から視線を外すことなくルゼンダに命じる。
先ほどまでの粗野な雰囲気を収めたルゼンダは、白皙の美貌に相応しい冴え冴えとした瞳で、仕える主に恭しく頭を垂れた。
すぐに背後でパタンと静かに扉が閉まる。
さっそく調べに向かったのだろう。それに目を向けることなく、腕の中で瞳を閉じたままのティティをただ見つめた。
――違う。本当はティティなんて名前じゃない。
私は彼の本当の名前をちゃんと知っている。だけど彼の名前を呼ぼうとした時、声が出せなかった。おそらく彼自身になんらかの制約が掛けられているのだ。
思わずぐっと唇を噛みしめる。
何かが、もしくは誰かが私とティティの間を邪魔している。
そう思うと怒りのあまり空竜の力の制御が緩み、辺りの空気が不穏に揺らめく。
「……ん」
その時、ティティの形のいい唇がわずかに開いて小さな声が聞こえてきた。少し眉根を寄せて、苦しそうな様子を見せている。
私は大きく息を吐いて荒れ狂う感情と力を抑え込むと、彼を抱き上げて寝室へと移動した。
この屋敷にもティティのための部屋は準備されていたけれど、それを使わせる気はない。彼は私と共にあるべきなのだから。
カチリと小さな音を立てて寝室の扉を開く。中央に置かれた天蓋付きの豪奢なベッドにティティを横たえた。
この国を訪れた際に国王に押し付けられた滞在先の屋敷は、派手派手しく品に欠けて私の好みではない。
大事な番を我が空竜城に連れて戻った際には、私たちの部屋を彼に似合うものに変えようと心に決めている。
そろりとティティの頬を掌で包み込む。
ふと、彼が寝苦しそうな服のままであることに気が付いた。
一瞬、ぴくりと腕を震わせて躊躇する。
他の者に着替えを頼もうかとも考えたが、大事な人に他人が触れることを耐え難く感じて、結局自分で彼を着替えさせることにした。
着ていた服の紐を解く時、不謹慎なほどに胸が高鳴った。もちろん、意識もなく同意もないティティに手を出すつもりはない。
それでもようやく邂逅を果たした愛しい人を前に、湧き上がる欲を抑えることができずに私は大きくため息をついた。
「……はぁ、本当に可愛い……」
自分の煩悩と戦いながら寝衣に着替えさせ、ゆっくり休めるように上掛けをかけてやる。
顔に掛かる髪をそっと払うと、年より幾分幼く見える寝顔が見えて、ふと彼の誕生を知らされた時のことを思い出した。
私が九歳の誕生日を迎える直前、ティティはこの世に生まれてきてくれた。
竜には必ず番が存在する。空竜以外の竜は、大人になるとその存在を求めて世界中を旅する。
しかし空竜は、他の竜と比べてずば抜けて強い力を持つゆえに心身の均衡を崩しやすく、その心の安寧をもたらすものとして番が必須だった。
空竜の番は空の一族と呼ばれる者たちから誕生すると決まっていて、番の証として宝石のように美しいコバルトブルーの瞳を持つとされている。
私にも例外なくティティが番として誕生したけれど、生まれて間もないティティにすぐに会うことは叶わなかった。
なぜなら、空竜の独占欲はすさまじく強く、まだ幼く未発達の精神では、自分の欲求に従って番を雁字搦めに囲ってしまう可能性があったからだ。
それではお互いに幸せになれないということで、ある程度自分の欲求が自制できる十歳になるまで、空竜は番同士の顔合わせを禁止されていた。
――せっかくこの世に、私のもとに来るべく生まれてきてくれたのに、会えないなんて!
番が誕生したという何よりも嬉しい知らせと共に、あと一年は会えないという絶望を感じたことを強く覚えている。
でも、たった一年会えないだけなんてなんの苦痛でもなかった。
あと数日でティティに会えるはずだった、あの日。
空竜城にもたらされたのは、私の愛しい番が何者かに襲撃を受けて行方不明になったという残酷な知らせだった。
ぞわりと恐怖とも怒りともつかない激しい感情が体内を駆け巡り、髪が逆立つような感覚が身体を襲った。あの時父に力を抑え込まれていなければ、確実に周囲の国々を潰すほどの力を放出していたと思う。
あれから十九年。こんなにも長く番を見つけることができないとは、夢にも思わなかった。
いなくなった番を捜そうと半狂乱になりながら力を巡らせたけれど、何かに弾かれて番の気配を辿ることができなかったのだ。
こうなってしまえば、番を捜し出すために、他の竜と同じく世界中を巡るしか方法はない。
そうやってあちこちを巡り、ようやく捜し出した愛しい人。
しかし彼は私の想像をはるかに超える厳しい世界で生きていた。
私は横たわる彼の身体に触れて、魔力を操作して愛しい番の身体を探る。
そもそも彼はなぜこうも痩せているのだろう。
着替えさせる時に見た薄い身体。そのあちこちに残る鞭の跡には殺意が湧く。
なんとか自分を律してさらに探り、知り得た情報に思わずきつく眉根を寄せてしまった。
「なぜ――」
優しく愛しい彼の髪を指で梳く。愛しい唯一に会うことができなくて、とても辛かった。でも貴方はそれ以上に過酷な人生を歩んだんだな……
「アスティア」
密やかな声が背後から響く。視線だけを流すと、外套をまとったままのルゼンダが控えていた。無言で促すと、ルゼンダは早速調べた情報を話し始めた。
「アデルってヤツは冒険者で、この三ヶ月遠征していたようだ。だがパーティメンバーは遠征先で死んでいた。冒険者ギルドの見立てでは、魔獣の仕業ではなさそうだ、だと」
彼は話しながら、パチン、と外套を留めるピンを外す。
「ティティの家は、俺が行った時には燃えてた。放火されたっぽい」
「アデルという男は?」
「いた……だが、逃げられた」
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