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1巻
1-3
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その言葉に、思わず身体ごと振り返る。
ルゼンダの存在は特殊だ。持つ力は強大で、生半可なヤツに後れを取るはずがない。
「お前が取り逃がした、と?」
声に苛立ちを含ませると、ルゼンダは肩を竦めた。
「あれには、さすがの俺も勝てねーよ。あいつ、間違いなく守護者だね」
そう断言されて、私は眇めた目に怒りを滲ませた。しかしルゼンダも慣れたもので、そんな私に恐怖心を抱くことなく飄々としている。
「守護者なのに、ティティを守らなかった、と?」
「さぁ、そこまでは俺には分からねぇわ。で、この事実、どこまでティティに話す?」
「全てを」
私は視線をルゼンダから外し、ベッドで眠るティティに向ける。
「ティティの身体を探ったら、洗脳の跡があった」
「は?」
声だけでルゼンダが目を丸くしているのが分かる。
「どんな内容の洗脳かは分からない。ただ確実にその男が関係しているはずだ。今ティティをヤツと接触させたくない。だから事実をありのまま伝える」
「はっ! 守護者なのに番を守りもしなければ、まさかの洗脳? エグっ!!」
吐き捨てるようなルゼンダのセリフには同意しかない。
守護者がなぜ守るべき相手を守らなかったのか。
その男、アデルは何者なのか。
探る必要があることが多い。
――でも。
「私の手元にティティは来た。なら役立たずな守護者なんて不要だろう?」
ルゼンダが軽くため息をつくのを感じながら、うっすらと嗤う。
ティティ。私の愛しい番。
指の背を愛しい番の頬に滑らせて、その感触を楽しむ。
会いたくて、触れたくて、その宝石のように美しい瞳に私を映してほしくて。
焦がれに焦がれた存在が、今、手の中にある。もう少しその存在を堪能したくて、私はベッドサイドに腰を下ろして飽くことなく髪を梳き、その感触を楽しむ。
ルゼンダは呆れた顔をしたものの、仕方ないとでも思ったのか、部屋から出るべく踵を返した。
「まぁ、昔に比べるとお前の自制心も強くはなったと思ってるけど」
彼は扉に手をかけて振り返る。
「忘れんなよ。ティティにはお前の番って認識はない。お前が暴走すれば、傷つくのはティティだからな?」
そう言い残して、パタンと扉を閉めた。
幕間 一
陽が沈んで辺りは暗闇に沈む。そんななか、激しく上がる炎は辺りを明るく照らし、その家を舐めるように這い焼き尽くしていく。
ティティと四年暮らした家。大事な思い出の詰まった場所だったけど、燃やすしかなかった。
今日ステリアースに戻って、会いたくて仕方なかったティティにようやく会えた。
どうしても彼に告げなければならないことがあったのに、ティティは「薬を届けてくる」と言って出て行ったきり戻って来ない。
訝しく思ってティティの部屋を覗くと、そこは物が片付けられ、飾りのない壁とラグもなくむき出しの床の殺風景な空間となっていた。
その瞬間、俺は全てを悟った。
――きっとアイツらだ。
脳裏に冒険者仲間だったカイトとレスカが浮かぶ。
ギリギリと歯軋りしながら拳を強く握り込むと、俺は身を翻して家の裏手にある小屋に向かった。
音を立てて乱暴に扉を開ければ、恐ろしく狭いその場所の全貌が見てとれる。
ティティが調剤するために使っていた机には、手製のポーションが所狭しと並べられていた。そしてその脇に紙が置かれ、ひらりと風に揺れていた。
それはメッセージカードだった。
『身体に気を付けてね』
短いメッセージ。でも確実に別れの意味合いが籠もっているのを感じた。
グシャリとカードを握り潰す。
帰ってくる道中、この国に空竜が訪れていると聞いた。
――あの人に見つかるのはマズイのに……
番を捜してこの国を訪れた空竜がこの家を見つけたら、残り香からティティの存在がバレてしまう。
そう思った俺は、迷うことなく家に火を放ったのだった。
やるせない気持ちを抱えて家を燃やしていく炎を見つめながら、俺は重大な役割を授かった時のことを思い出していた。
そもそもの始まりは、ティティの両親と誕生したばかりの彼が巣籠もる場所を、人族に見つけられたことによる。
空竜の支配下にある空の一族はその昔、卵生の形で誕生していた有翼種の一族だ。
時の経過と共に赤子の姿で世に生まれるように変化したが、本来殻で大切に守られていた赤子はその守りを失ったことで、非常に弱い存在となってしまった。
そのため彼らは、赤子が生まれると巣籠もりして身を隠し、子を守って過ごすのが常だった。
その巣籠もりの場所を、あろうことか人族の狩人に見つかってしまったのだ。
空の一族は、その背中にある羽によって空を統べる。空中から繰り出される高い戦闘能力を欲する国は多く、空の一族には常に襲われる危険が付きまとっていた。
とはいえ空の一族も獣人、人族如きに負けるはずがなかった。
しかしその狩人が属する国の友好国『アスダイト』が介入してきたことで話は変わった。
武闘派獣人の国アスダイトは、空の一族の力を得るために一個大隊を投入してきたのだ。
ティティは、その場を辛うじて逃げ切った両親によってステリアースの孤児院に預けられることとなり、彼の両親はその後アスダイトの獣人に殺害されてしまうことになる。
だけど、それは序章にしかすぎなかった………
「旦那様、見てください。これ…………」
そんな折、五歳になった俺の左肩に痣が浮き上がってきた。
その頃の俺は入浴などは乳母の手を借りて行っていたが、その乳母が痣に気付いて父に報告したのだ。
「数日前からうっすらと浮かび上がっていたんですが、今日見てみると何かの形のようで」
「なんだこれは……たしかに何かの紋様に見えるな……」
父は訝しげに背中を覗き込み、首を傾げるしかなかった。
「気になるな。これに関しては私が調べるから、お前は他言しないように」
「畏まりました」
恭しく頭を垂れて退室した乳母を見送り、父は俺を見下ろした。
「悪い物ではないが、何か不思議な力を感じるのも確かだ。お前は、テスタント家の跡取りなのだから、何かあってからでは困る。何か異常を感じたら言いなさい」
「父様」
父は厳格な表情を崩さず俺にそう言ったが、俺はそれを遮りクイッとズボンの裾を引っ張った。
この二、三日、夢の中で不思議な声が繰り返し告げた言葉を覚えていた俺は、それが良いか悪いかも考えずに口にしてしまったのだ。
「これは、くうりゅうもん、です。くうりゅうさまのツガイを、俺がまもります」
それは、決して言ってはならない一言だった。なぜなら父は典型的な獣人貴族で、力が全てと考え、それを手に入れるためには手段を選ばない人だったから。
「アデル、陛下に謁見することになった。お前も来るんだ」
ある日父――テスタント侯爵に言われ、共に王宮に赴くことになった。チラリと父の顔を窺うと、にやりとほくそ笑んでいる。
その時の父の顔を見て、俺は「何かが上手くいったんだな」としか思わなかった。
豪華に飾り付けられた謁見の間に辿り着き、父が恭しく頭を垂れ、俺もそれに倣う。
「アスダイトの太陽、コモス陛下にご挨拶申し上げます」
「それがお前の息子か」
階段の数段上にある玉座には壮年の男が座り、肘掛けに腕をついて俺たち親子を見下ろしていた。
アスダイト国王はバッファローの獣人。頭に立派な角を持ち、厳つい体躯で威圧してくる。
バッファローの獣人は体つきに見合わず、力はそれほど強くない。しかし戦士である男たちをまとめ上げる手腕は素晴らしく、それを諸侯に認められて玉座に座る権利を得たという。
「左様にございます」
「お前の案は事前に聞いているが、果たして上手くいくのか?」
「私はそう読んでいます。陛下もお分かりでしょう?」
垂れていた頭を上げ、父は堂々とした様子で国王陛下に視線を向けた。
「コレは最強である空竜の番の守護者なのです。コレを上手く使い、番を操ることができたなら、このアスダイトが空竜を手中に収めることができるのです」
その目は、強大な力が手に入れられると興奮して狂気を孕み、ギラギラと輝いていた。
「そうなれば、我がアスダイトが世界を征することなど容易い」
父はすっと右腕を持ち上げ、「陛下」と呼びかけて、玉座に座る男に差し出した。
「この世を統べる覇者となりませんか?」
無表情で話を聞いていた陛下のこめかみがピクリと動いた。
「しかしテスタント侯爵、ソレはお前の跡取りだろう?」
「問題ございません。これほどの偉業の前には、ほんの些細なことでございます。跡取りはまた作ればいいのです。しかし守護者はそうも参りません」
「なるほど。侯爵の意志の強さは理解した。ならば余もお前の忠義に答えねばな………」
トントンとこめかみを指で軽く叩く。
しばらく思案していた陛下は、おもむろに従者を呼び寄せた。
「剛者の石を持ってこい」
陛下の命令に頭を垂れた従者は、ほどなくして大人の男が持ち上げるのも困難なほど大きく黒い石を持ってきた。
「陛下、これは?」
「ふふ……王家に伝わる宝玉よ。王族の血筋に連なる者を主とする魔石だ」
俺はその禍々しい魔石を見て身震いした。
――アレは、嫌だ。恐ろしい……恐ろしいっ!!
一歩後退り、父のズボンをきつく握る。
その間に陛下は玉座から立ち上がって別の従者から短剣を受け取ると、勢いよく魔石に叩きつけた。
カキン、と澄んだ音が謁見の間に響き、魔石の一部が欠ける。床に落ちたそれを従者が拾い上げ、恭しく陛下へ手渡した。
その石を手にした陛下はなんの躊躇もなく短剣で自分の腕を傷つけ、流れ落ちる血液を魔石に吸わせ始めたのだ。
俺には何が行われているのか分からなかった。
しかしただその行為の全てを恐ろしく感じて、ただただ茫然と立ち尽くしていた。
「こっちに来い、小僧」
陛下が睥睨し、俺に命じてくる。でも俺は恐怖から一歩も動けない。
そんな俺を見下ろしていた父は、「チッ」と舌打ちを洩らした。
「アデル、陛下がお呼びだ」
思わず恐怖で顔が強張り、追いすがるように父を見上げて首を振る。だけどそんな弱い拒絶など意味はないにも等しい。
父は俺の腕を掴むと引き摺るように引っ張り、陛下のもとへ連れていった。そして俺の両腕を後ろでまとめると、床に膝をつかせた。
「魔石の主は余ぞ。アデル・テスタント、お前に命じる。空竜の番を己のモノとしろ。お前だけを見て、お前だけを信じ、お前の命ずることをするよう洗脳するのだ」
血に濡れた短剣を見上げ、滴り落ちる血を絶望と共に見続けていた。
衝撃はすぐにやってきた。
「っあああああぁぁぁっっっ!!」
短剣は左の鎖骨下に突き刺さり、陛下は容赦なく一文字にその箇所を引き裂く。
あまりの痛さに身を捩って叫び散らすが、腕を押さえる父の力は緩まない。追い打ちをかけるかの如く、陛下はバックリと開いた傷に血を吸って鈍い光を宿した赤黒い魔石を押し込んできた。
魔石はまるで意志を持つ生き物のように周囲の肉に根を張り始め、傷の中に納まってしまった。
「余の命に背けば、死を望みたくなるほどの苦痛がお前を襲うだろう。もし、この石を取り出そうとしたなら……」
そこで一旦話すのを止め、陛下は俺の鎖骨の下に埋められた魔石を人差し指で押す。すると、ありえないスピードで周囲の肉が盛り上がり始め、やがて魔石を体内に残した状態で、傷は塞がってしまった。
「この魔石が心臓を潰して、お前を殺すだろう」
魔石を取り込んだ場所を見て満足げに頷いた陛下は、ニヤリと口端を歪めた。
「侯爵、あとはお前の計画通りに。番の洗脳には時間がかかるだろうから、早めに接触させろ」
「しかし、まだ番の行方が………」
「そんなもの関係ない」
フン、と鼻を鳴らして陛下は顎をしゃくり、痛みで動けない俺を示した。
「守護者は番に繋がっている。放ってやれば、ちゃんと番に辿り着くだろう」
「なるほど。ではそのように……」
暗い愉悦を含ませ、父は微笑みながら頷く。
俺はその様子を、ただ見ていることしかできなかった。
「お坊ちゃま、大丈夫ですか?」
乳母がベッドの横で心配そうにウロウロしている。
魔石を左胸に植え込まれたせいで、見た目の傷は塞がったとはいえ、すごく痛む。脂汗を浮かべてなんとか耐えていたものの、屋敷に帰ってきたところで意識をなくしてしまった。
それからずっと高熱に魘されている。
「旦那様、お坊ちゃまは大丈夫でしょうか? こんなに高い熱がもう五日も下がらないなんて……」
ちょうど部屋に訪れた父に、乳母が縋る。
しかし父はそんな乳母を冷たく見下ろし、そしてその冷酷な視線を俺に落とした。
「放っておけ。熱は身体が魔石を拒絶しているせいだ。アデル、お前もいい加減に受け入れろ」
「――旦那様?」
王宮での出来事を知らない乳母は、その冷たい父の態度に信じられないものを見るような視線を向けた。
「医者は不要だ。どうせ役には立たん。水分補給を忘れなければいい」
そう言い捨てて、俺の側に来ることもなく立ち去っていった。
「なんということでしょう……。なんてひどい……」
言葉もなく父を見送った乳母は、ベッドの横に駆け戻ると涙を流しながら俺の腕を擦った。
下がらない熱は、俺の体力を少しずつ奪っていく。はぁはぁと荒い息の中、ジワジワ蝕んでくる魔石の力に必死に抵抗していたけど、それも限界を迎えつつあった。
――でも受け入れてしまったら、番を守れない。番を守るのは俺の定めなのに……
意識は霞み、泥の中を這いずり回っているように身体は重い。
もう、死ぬか、『番に害を与える者』に成り下がるかの二択しか道はないのか……
絶望に心が悲鳴を上げる。どうにもならない状況に、情けなくも涙を流すしかなかった。
その涙を乳母がそっと拭ってくれる。うっすらと目を開けると、彼女は意を決したような顔をして、首から何かを外した。
「お坊ちゃま、これを………」
その何かを俺の首に掛け、服の中に押し込む。よく見えなかったけど、ペンダントのようだった。
トップを飾る石が肌に触れた瞬間、熱を持って疼いていた左胸がすっと癒えるのを感じた。
「な、に……コレ?」
俺はそっと石を押さえて乳母を見上げる。彼女は年相応に刻まれた目尻の皺を笑みで深めて、優しく頭を撫でてくれた。
「神様からの贈り物ですよ。私の曽祖父はその昔、人族の国で神官をしておりました。どうやら治癒魔法を使えたようで、とても重宝されたと聞いています」
ベッド横にある盥の水にタオルを浸して軽く絞り、汗が浮かんだ俺の額を拭う。
「ある時、曽祖父は神託を受けました。『膨大な治癒を必要とする時が来る』と。そしてその神託のあと掌の中にその石がいつの間にかあったのです」
ポンポンとあやすように、胸元にある石を叩く。
「かみさまのいし?」
「おそらくですが。この石にはなんの力もありません。曽祖父は試しに治癒の力を籠めたそうです。そうしたらビックリするくらい力を取られてしまって、意識をなくしてしまったそうですよ」
「いしに、とられるの? だいじょうぶ?」
急激な魔力の消費は命に関わるということは、幼子の俺でも知っていた。
「ええ、命に別状はありませんでした。それから曽祖父は毎日毎日、治癒の力を籠め続けたそうです。それが神託の意味だと思って」
曽祖父を思い出しているのか、乳母は懐かしげに目を細める。
「でも、なかなか石の魔力はいっぱいにならなくて。同じく治癒魔法を使えた祖父が引き継ぎ、そして父が引き継ぎ、そして私が引き継ぎました」
「ちゆの力、たくさんだね?」
「ええ、ええ、それはもう!」
ニッコリと微笑む姿は、本当に嬉しそうだった。
「その石がとうとう先日いっぱいになったんです。神様の意志に沿うことができたのですから、私は本当に嬉しくて」
しかし彼女は嬉しそうな顔から一転、困った顔になり、頬に手を当てて首を傾げた。
「ただこの治癒の力がいつ必要なのか、誰に必要なのか、全く分からないんです。だから……」
すっと真面目な顔になった乳母は、声を潜めて囁いた。
「お坊ちゃまに差し上げます。私も曽祖父の血を受け継いでいるから分かります。その左胸のモノ」
指が示す箇所は、あの魔石を埋め込まれた場所。俺は思わず右手でそこを覆った。
「ソレはよくないものです。お坊ちゃまの命を脅かす禍々しいモノ。だというのに旦那様は放っておくと決められた……」
俺の右手にそっと手を重ねる。いつも側にあった顔は慈愛に満ちていた。
「お逃げなさい」
「え?」
「ここから出ていくのです」
優しい声だったけど、言葉を発する姿は毅然としていて気高かった。
「だって、どこに行けば………」
「貴方は『知っている』はず」
目を見開く。この視線は、この声は、乳母であって乳母ではない……
「行きなさい。そうすれば出会える。出会ったら貴方にできる最善を尽くしなさい。そうすれば」
ふと言葉が途切れる。俺は思わず飛び起きて、彼女の腕を掴んだ。
「なに? どうすればいいの? おねがい、おしえて!!」
「――お坊ちゃま?」
キョトンと瞬く彼女を見て、彼女の中にいた『誰か』がすでに去ったと確信する。
俺は彼女の腕を掴んでいた手をダラリと下ろして俯いた。
空竜紋が浮かんでから、すごくいろんなことが起きた。魔石を埋め込まれたし、高熱に苦しんだし、そして今。
みぞおちにそっと手を当てる。
魂に刻まれた俺の役割を、その時本当に理解した。
――知っている。分かっている。
俺は空竜の番に害を与える者になってしまったけど、その前に番を守るべき守護者なんだ。
「側に行かなきゃ……」
呟く声を乳母は聞いたはずだったのに、彼女は何も言わず静かに微笑んで見守ってくれた。
なかなか隙を見せない父の監視を掻い潜ってテスタント家を出奔できたのは、あの時からさらに一年が過ぎた頃。
まだ六歳と幼かったが、獣人特有の発育のよさもあり、これなら番を守れると判断した。
それに父が剛者の石を砕いたものを俺に飲ませて支配を強化しようとしたのも、出奔を決めた理由だった。
もしかしたら魔石を植え込んだ陛下には俺の居場所が分かるかもしれないと、家を出てすぐの時は行商の下働きをしながら様子を見ていた。しかしアスダイトの国が動く様子は見られなかった。
これなら番のもとへ行っても陛下にはバレやしない、と判断して、俺は守るべき人を捜すために行商の一行と離れることにしたのだった。
行商の一行から離れた俺は、てくてくと道なき道を進んだ。
アスダイト国が何かことを起こしている気配はなかったけど、それでなくても幼い子供の一人旅は不審に思われてしまう。
親はどこだと騒がれたら大変だと、わざと街道から外れて獣道を選んで歩いた。
この時期には木の実がたくさんあったから食べ物には困らなかったし、川に行けば産卵のために戻ってきている魚を捕ることもできた。
行商の一団にいる間に簡単な調理は習ったから、基本的に困ることはない。
寝る場所も、木の洞を探し出し落ち葉を敷き詰めて快適に休むことができた。
むしろ嫡男として窮屈なテスタント侯爵家にいた時より、よほど快適に過ごしていたと思う。
ただ難点を上げるとしたら……
――寂しい、ということ。
仮にも侯爵家の跡取りだったから、周りには人があふれていて一人になることはなかった。
でも今は人を避けて歩くから、昼も夜もずっと一人。それが精神的に未熟な俺にはとても堪えていた。
だからだろうか。いつからか、やけにリアルな夢を見るようになっていた。
あどけなくて可愛いあの子が俺のもとに現れてくれる夢。
とても温かくて幸せな夢なのだ。
今日も木の洞を寝床に、小さく丸まって寝る体勢を取る。うとうとしながら、今日もあの子に会えたらいいな……と願い、俺は夢の世界へと旅立った。
★☆
『ティティ、いる?』
気付いたら真っ白い空間に立っている。
上も下も右も左も、わからなくなりそうなヘンテコな世界で、いつも俺は彼が来るのを待っていた。
しばらくして、ぽにょん、と何とも気の抜けた音が響く。
音がしたほうを振り返ると、そこにティティが姿を現していた。
彼が壁のようなところ放り出された時の音は、あどけなく可愛いティティの登場に似合っていて、ちょっと口元が緩む。
『ここ、僕のあつかい、ヒドいの……』と不貞腐れるティティにバレると拗ねてしまうから、笑っていることは内緒だ。
『遅かったね、ティティ』
パタパタ足音を立てて近づくと、ティティは両手をついて立ち上がるところだった。
『あでぃ!』
俺に気付くと、嬉しそうに抱きつく。
その弾みで白とも灰色とも言い難い、少し青みを帯びた髪がひらりと舞った。グリグリと俺の胸元に額を擦り付けると、やがて満足したように宝石みたいに綺麗なコバルトブルーの瞳で見上げてきた。
『あでぃ、今日はケガない?』
『うん、今日は狩りをしてないから。木の実を取る時に、ちょっと棘が刺さったくらい』
ちょっと舌足らずな喋り方が堪らなく可愛い。
大丈夫だよ、と掌を見せると、ティティはムッと唇を尖らせた。
『トゲ刺さるのも、ケガ! 貸して』
『ん!』と手が差し出される。素直に棘が刺さったほうの手を差し出すと、ティティは俺の手を握りまじまじと眺めてきた。
そしてゴソゴソと懐を探り小さな瓶を取り出すと、コルクの蓋を取り、俺の指先に中身を塗り拡げていく。
『あでぃ、いたくない、いたくない』
呟きながら薬を塗り込み、そして納得がいったのか、曇りのない顔で笑った。
ティティの話では彼は孤児院にいるというが、なぜか随分と迫害されているらしかった。
僕は嫌われているから誰も名前を呼ばない、って寂しそうに言う彼のために、ティティって愛称を付けたのは俺だ。
彼が置かれている状況に憤りながらも、この場所では俺が彼を存分に甘やかしてあげようと思い、優しく頭を撫でた。
『さぁ、ティティ、木の実を持ってきたんだ。一緒に食べよ?』
どっかりと床に座り横を軽く叩いて促すと、彼は少しモジモジしながら腰を下ろした。
『いっぱい採ったから遠慮なく食べて?』
こくんと頷いて、手を伸ばす。
碌に食事も摂れていないのかティティは随分痩せている。夢の中で食べたものが身になるのかは分からないけど、少しでもティティの足しになれば良いな、と思った。
俺はいつの頃からか、ティティを助けたい、守ってあげたいと強く思うようになっていた。
ニコニコ笑いながら、木の実を摘まむティティ。
のんびりといろんな話をしながら、俺はティティと二人の時間を楽しみながら過ごすのだった。
木の洞で、今日も一人目を覚ます。
俺にはもう分かっていた。
夢にいつも現れるあの子が、空竜の『番』なんだ、と。
ルゼンダの存在は特殊だ。持つ力は強大で、生半可なヤツに後れを取るはずがない。
「お前が取り逃がした、と?」
声に苛立ちを含ませると、ルゼンダは肩を竦めた。
「あれには、さすがの俺も勝てねーよ。あいつ、間違いなく守護者だね」
そう断言されて、私は眇めた目に怒りを滲ませた。しかしルゼンダも慣れたもので、そんな私に恐怖心を抱くことなく飄々としている。
「守護者なのに、ティティを守らなかった、と?」
「さぁ、そこまでは俺には分からねぇわ。で、この事実、どこまでティティに話す?」
「全てを」
私は視線をルゼンダから外し、ベッドで眠るティティに向ける。
「ティティの身体を探ったら、洗脳の跡があった」
「は?」
声だけでルゼンダが目を丸くしているのが分かる。
「どんな内容の洗脳かは分からない。ただ確実にその男が関係しているはずだ。今ティティをヤツと接触させたくない。だから事実をありのまま伝える」
「はっ! 守護者なのに番を守りもしなければ、まさかの洗脳? エグっ!!」
吐き捨てるようなルゼンダのセリフには同意しかない。
守護者がなぜ守るべき相手を守らなかったのか。
その男、アデルは何者なのか。
探る必要があることが多い。
――でも。
「私の手元にティティは来た。なら役立たずな守護者なんて不要だろう?」
ルゼンダが軽くため息をつくのを感じながら、うっすらと嗤う。
ティティ。私の愛しい番。
指の背を愛しい番の頬に滑らせて、その感触を楽しむ。
会いたくて、触れたくて、その宝石のように美しい瞳に私を映してほしくて。
焦がれに焦がれた存在が、今、手の中にある。もう少しその存在を堪能したくて、私はベッドサイドに腰を下ろして飽くことなく髪を梳き、その感触を楽しむ。
ルゼンダは呆れた顔をしたものの、仕方ないとでも思ったのか、部屋から出るべく踵を返した。
「まぁ、昔に比べるとお前の自制心も強くはなったと思ってるけど」
彼は扉に手をかけて振り返る。
「忘れんなよ。ティティにはお前の番って認識はない。お前が暴走すれば、傷つくのはティティだからな?」
そう言い残して、パタンと扉を閉めた。
幕間 一
陽が沈んで辺りは暗闇に沈む。そんななか、激しく上がる炎は辺りを明るく照らし、その家を舐めるように這い焼き尽くしていく。
ティティと四年暮らした家。大事な思い出の詰まった場所だったけど、燃やすしかなかった。
今日ステリアースに戻って、会いたくて仕方なかったティティにようやく会えた。
どうしても彼に告げなければならないことがあったのに、ティティは「薬を届けてくる」と言って出て行ったきり戻って来ない。
訝しく思ってティティの部屋を覗くと、そこは物が片付けられ、飾りのない壁とラグもなくむき出しの床の殺風景な空間となっていた。
その瞬間、俺は全てを悟った。
――きっとアイツらだ。
脳裏に冒険者仲間だったカイトとレスカが浮かぶ。
ギリギリと歯軋りしながら拳を強く握り込むと、俺は身を翻して家の裏手にある小屋に向かった。
音を立てて乱暴に扉を開ければ、恐ろしく狭いその場所の全貌が見てとれる。
ティティが調剤するために使っていた机には、手製のポーションが所狭しと並べられていた。そしてその脇に紙が置かれ、ひらりと風に揺れていた。
それはメッセージカードだった。
『身体に気を付けてね』
短いメッセージ。でも確実に別れの意味合いが籠もっているのを感じた。
グシャリとカードを握り潰す。
帰ってくる道中、この国に空竜が訪れていると聞いた。
――あの人に見つかるのはマズイのに……
番を捜してこの国を訪れた空竜がこの家を見つけたら、残り香からティティの存在がバレてしまう。
そう思った俺は、迷うことなく家に火を放ったのだった。
やるせない気持ちを抱えて家を燃やしていく炎を見つめながら、俺は重大な役割を授かった時のことを思い出していた。
そもそもの始まりは、ティティの両親と誕生したばかりの彼が巣籠もる場所を、人族に見つけられたことによる。
空竜の支配下にある空の一族はその昔、卵生の形で誕生していた有翼種の一族だ。
時の経過と共に赤子の姿で世に生まれるように変化したが、本来殻で大切に守られていた赤子はその守りを失ったことで、非常に弱い存在となってしまった。
そのため彼らは、赤子が生まれると巣籠もりして身を隠し、子を守って過ごすのが常だった。
その巣籠もりの場所を、あろうことか人族の狩人に見つかってしまったのだ。
空の一族は、その背中にある羽によって空を統べる。空中から繰り出される高い戦闘能力を欲する国は多く、空の一族には常に襲われる危険が付きまとっていた。
とはいえ空の一族も獣人、人族如きに負けるはずがなかった。
しかしその狩人が属する国の友好国『アスダイト』が介入してきたことで話は変わった。
武闘派獣人の国アスダイトは、空の一族の力を得るために一個大隊を投入してきたのだ。
ティティは、その場を辛うじて逃げ切った両親によってステリアースの孤児院に預けられることとなり、彼の両親はその後アスダイトの獣人に殺害されてしまうことになる。
だけど、それは序章にしかすぎなかった………
「旦那様、見てください。これ…………」
そんな折、五歳になった俺の左肩に痣が浮き上がってきた。
その頃の俺は入浴などは乳母の手を借りて行っていたが、その乳母が痣に気付いて父に報告したのだ。
「数日前からうっすらと浮かび上がっていたんですが、今日見てみると何かの形のようで」
「なんだこれは……たしかに何かの紋様に見えるな……」
父は訝しげに背中を覗き込み、首を傾げるしかなかった。
「気になるな。これに関しては私が調べるから、お前は他言しないように」
「畏まりました」
恭しく頭を垂れて退室した乳母を見送り、父は俺を見下ろした。
「悪い物ではないが、何か不思議な力を感じるのも確かだ。お前は、テスタント家の跡取りなのだから、何かあってからでは困る。何か異常を感じたら言いなさい」
「父様」
父は厳格な表情を崩さず俺にそう言ったが、俺はそれを遮りクイッとズボンの裾を引っ張った。
この二、三日、夢の中で不思議な声が繰り返し告げた言葉を覚えていた俺は、それが良いか悪いかも考えずに口にしてしまったのだ。
「これは、くうりゅうもん、です。くうりゅうさまのツガイを、俺がまもります」
それは、決して言ってはならない一言だった。なぜなら父は典型的な獣人貴族で、力が全てと考え、それを手に入れるためには手段を選ばない人だったから。
「アデル、陛下に謁見することになった。お前も来るんだ」
ある日父――テスタント侯爵に言われ、共に王宮に赴くことになった。チラリと父の顔を窺うと、にやりとほくそ笑んでいる。
その時の父の顔を見て、俺は「何かが上手くいったんだな」としか思わなかった。
豪華に飾り付けられた謁見の間に辿り着き、父が恭しく頭を垂れ、俺もそれに倣う。
「アスダイトの太陽、コモス陛下にご挨拶申し上げます」
「それがお前の息子か」
階段の数段上にある玉座には壮年の男が座り、肘掛けに腕をついて俺たち親子を見下ろしていた。
アスダイト国王はバッファローの獣人。頭に立派な角を持ち、厳つい体躯で威圧してくる。
バッファローの獣人は体つきに見合わず、力はそれほど強くない。しかし戦士である男たちをまとめ上げる手腕は素晴らしく、それを諸侯に認められて玉座に座る権利を得たという。
「左様にございます」
「お前の案は事前に聞いているが、果たして上手くいくのか?」
「私はそう読んでいます。陛下もお分かりでしょう?」
垂れていた頭を上げ、父は堂々とした様子で国王陛下に視線を向けた。
「コレは最強である空竜の番の守護者なのです。コレを上手く使い、番を操ることができたなら、このアスダイトが空竜を手中に収めることができるのです」
その目は、強大な力が手に入れられると興奮して狂気を孕み、ギラギラと輝いていた。
「そうなれば、我がアスダイトが世界を征することなど容易い」
父はすっと右腕を持ち上げ、「陛下」と呼びかけて、玉座に座る男に差し出した。
「この世を統べる覇者となりませんか?」
無表情で話を聞いていた陛下のこめかみがピクリと動いた。
「しかしテスタント侯爵、ソレはお前の跡取りだろう?」
「問題ございません。これほどの偉業の前には、ほんの些細なことでございます。跡取りはまた作ればいいのです。しかし守護者はそうも参りません」
「なるほど。侯爵の意志の強さは理解した。ならば余もお前の忠義に答えねばな………」
トントンとこめかみを指で軽く叩く。
しばらく思案していた陛下は、おもむろに従者を呼び寄せた。
「剛者の石を持ってこい」
陛下の命令に頭を垂れた従者は、ほどなくして大人の男が持ち上げるのも困難なほど大きく黒い石を持ってきた。
「陛下、これは?」
「ふふ……王家に伝わる宝玉よ。王族の血筋に連なる者を主とする魔石だ」
俺はその禍々しい魔石を見て身震いした。
――アレは、嫌だ。恐ろしい……恐ろしいっ!!
一歩後退り、父のズボンをきつく握る。
その間に陛下は玉座から立ち上がって別の従者から短剣を受け取ると、勢いよく魔石に叩きつけた。
カキン、と澄んだ音が謁見の間に響き、魔石の一部が欠ける。床に落ちたそれを従者が拾い上げ、恭しく陛下へ手渡した。
その石を手にした陛下はなんの躊躇もなく短剣で自分の腕を傷つけ、流れ落ちる血液を魔石に吸わせ始めたのだ。
俺には何が行われているのか分からなかった。
しかしただその行為の全てを恐ろしく感じて、ただただ茫然と立ち尽くしていた。
「こっちに来い、小僧」
陛下が睥睨し、俺に命じてくる。でも俺は恐怖から一歩も動けない。
そんな俺を見下ろしていた父は、「チッ」と舌打ちを洩らした。
「アデル、陛下がお呼びだ」
思わず恐怖で顔が強張り、追いすがるように父を見上げて首を振る。だけどそんな弱い拒絶など意味はないにも等しい。
父は俺の腕を掴むと引き摺るように引っ張り、陛下のもとへ連れていった。そして俺の両腕を後ろでまとめると、床に膝をつかせた。
「魔石の主は余ぞ。アデル・テスタント、お前に命じる。空竜の番を己のモノとしろ。お前だけを見て、お前だけを信じ、お前の命ずることをするよう洗脳するのだ」
血に濡れた短剣を見上げ、滴り落ちる血を絶望と共に見続けていた。
衝撃はすぐにやってきた。
「っあああああぁぁぁっっっ!!」
短剣は左の鎖骨下に突き刺さり、陛下は容赦なく一文字にその箇所を引き裂く。
あまりの痛さに身を捩って叫び散らすが、腕を押さえる父の力は緩まない。追い打ちをかけるかの如く、陛下はバックリと開いた傷に血を吸って鈍い光を宿した赤黒い魔石を押し込んできた。
魔石はまるで意志を持つ生き物のように周囲の肉に根を張り始め、傷の中に納まってしまった。
「余の命に背けば、死を望みたくなるほどの苦痛がお前を襲うだろう。もし、この石を取り出そうとしたなら……」
そこで一旦話すのを止め、陛下は俺の鎖骨の下に埋められた魔石を人差し指で押す。すると、ありえないスピードで周囲の肉が盛り上がり始め、やがて魔石を体内に残した状態で、傷は塞がってしまった。
「この魔石が心臓を潰して、お前を殺すだろう」
魔石を取り込んだ場所を見て満足げに頷いた陛下は、ニヤリと口端を歪めた。
「侯爵、あとはお前の計画通りに。番の洗脳には時間がかかるだろうから、早めに接触させろ」
「しかし、まだ番の行方が………」
「そんなもの関係ない」
フン、と鼻を鳴らして陛下は顎をしゃくり、痛みで動けない俺を示した。
「守護者は番に繋がっている。放ってやれば、ちゃんと番に辿り着くだろう」
「なるほど。ではそのように……」
暗い愉悦を含ませ、父は微笑みながら頷く。
俺はその様子を、ただ見ていることしかできなかった。
「お坊ちゃま、大丈夫ですか?」
乳母がベッドの横で心配そうにウロウロしている。
魔石を左胸に植え込まれたせいで、見た目の傷は塞がったとはいえ、すごく痛む。脂汗を浮かべてなんとか耐えていたものの、屋敷に帰ってきたところで意識をなくしてしまった。
それからずっと高熱に魘されている。
「旦那様、お坊ちゃまは大丈夫でしょうか? こんなに高い熱がもう五日も下がらないなんて……」
ちょうど部屋に訪れた父に、乳母が縋る。
しかし父はそんな乳母を冷たく見下ろし、そしてその冷酷な視線を俺に落とした。
「放っておけ。熱は身体が魔石を拒絶しているせいだ。アデル、お前もいい加減に受け入れろ」
「――旦那様?」
王宮での出来事を知らない乳母は、その冷たい父の態度に信じられないものを見るような視線を向けた。
「医者は不要だ。どうせ役には立たん。水分補給を忘れなければいい」
そう言い捨てて、俺の側に来ることもなく立ち去っていった。
「なんということでしょう……。なんてひどい……」
言葉もなく父を見送った乳母は、ベッドの横に駆け戻ると涙を流しながら俺の腕を擦った。
下がらない熱は、俺の体力を少しずつ奪っていく。はぁはぁと荒い息の中、ジワジワ蝕んでくる魔石の力に必死に抵抗していたけど、それも限界を迎えつつあった。
――でも受け入れてしまったら、番を守れない。番を守るのは俺の定めなのに……
意識は霞み、泥の中を這いずり回っているように身体は重い。
もう、死ぬか、『番に害を与える者』に成り下がるかの二択しか道はないのか……
絶望に心が悲鳴を上げる。どうにもならない状況に、情けなくも涙を流すしかなかった。
その涙を乳母がそっと拭ってくれる。うっすらと目を開けると、彼女は意を決したような顔をして、首から何かを外した。
「お坊ちゃま、これを………」
その何かを俺の首に掛け、服の中に押し込む。よく見えなかったけど、ペンダントのようだった。
トップを飾る石が肌に触れた瞬間、熱を持って疼いていた左胸がすっと癒えるのを感じた。
「な、に……コレ?」
俺はそっと石を押さえて乳母を見上げる。彼女は年相応に刻まれた目尻の皺を笑みで深めて、優しく頭を撫でてくれた。
「神様からの贈り物ですよ。私の曽祖父はその昔、人族の国で神官をしておりました。どうやら治癒魔法を使えたようで、とても重宝されたと聞いています」
ベッド横にある盥の水にタオルを浸して軽く絞り、汗が浮かんだ俺の額を拭う。
「ある時、曽祖父は神託を受けました。『膨大な治癒を必要とする時が来る』と。そしてその神託のあと掌の中にその石がいつの間にかあったのです」
ポンポンとあやすように、胸元にある石を叩く。
「かみさまのいし?」
「おそらくですが。この石にはなんの力もありません。曽祖父は試しに治癒の力を籠めたそうです。そうしたらビックリするくらい力を取られてしまって、意識をなくしてしまったそうですよ」
「いしに、とられるの? だいじょうぶ?」
急激な魔力の消費は命に関わるということは、幼子の俺でも知っていた。
「ええ、命に別状はありませんでした。それから曽祖父は毎日毎日、治癒の力を籠め続けたそうです。それが神託の意味だと思って」
曽祖父を思い出しているのか、乳母は懐かしげに目を細める。
「でも、なかなか石の魔力はいっぱいにならなくて。同じく治癒魔法を使えた祖父が引き継ぎ、そして父が引き継ぎ、そして私が引き継ぎました」
「ちゆの力、たくさんだね?」
「ええ、ええ、それはもう!」
ニッコリと微笑む姿は、本当に嬉しそうだった。
「その石がとうとう先日いっぱいになったんです。神様の意志に沿うことができたのですから、私は本当に嬉しくて」
しかし彼女は嬉しそうな顔から一転、困った顔になり、頬に手を当てて首を傾げた。
「ただこの治癒の力がいつ必要なのか、誰に必要なのか、全く分からないんです。だから……」
すっと真面目な顔になった乳母は、声を潜めて囁いた。
「お坊ちゃまに差し上げます。私も曽祖父の血を受け継いでいるから分かります。その左胸のモノ」
指が示す箇所は、あの魔石を埋め込まれた場所。俺は思わず右手でそこを覆った。
「ソレはよくないものです。お坊ちゃまの命を脅かす禍々しいモノ。だというのに旦那様は放っておくと決められた……」
俺の右手にそっと手を重ねる。いつも側にあった顔は慈愛に満ちていた。
「お逃げなさい」
「え?」
「ここから出ていくのです」
優しい声だったけど、言葉を発する姿は毅然としていて気高かった。
「だって、どこに行けば………」
「貴方は『知っている』はず」
目を見開く。この視線は、この声は、乳母であって乳母ではない……
「行きなさい。そうすれば出会える。出会ったら貴方にできる最善を尽くしなさい。そうすれば」
ふと言葉が途切れる。俺は思わず飛び起きて、彼女の腕を掴んだ。
「なに? どうすればいいの? おねがい、おしえて!!」
「――お坊ちゃま?」
キョトンと瞬く彼女を見て、彼女の中にいた『誰か』がすでに去ったと確信する。
俺は彼女の腕を掴んでいた手をダラリと下ろして俯いた。
空竜紋が浮かんでから、すごくいろんなことが起きた。魔石を埋め込まれたし、高熱に苦しんだし、そして今。
みぞおちにそっと手を当てる。
魂に刻まれた俺の役割を、その時本当に理解した。
――知っている。分かっている。
俺は空竜の番に害を与える者になってしまったけど、その前に番を守るべき守護者なんだ。
「側に行かなきゃ……」
呟く声を乳母は聞いたはずだったのに、彼女は何も言わず静かに微笑んで見守ってくれた。
なかなか隙を見せない父の監視を掻い潜ってテスタント家を出奔できたのは、あの時からさらに一年が過ぎた頃。
まだ六歳と幼かったが、獣人特有の発育のよさもあり、これなら番を守れると判断した。
それに父が剛者の石を砕いたものを俺に飲ませて支配を強化しようとしたのも、出奔を決めた理由だった。
もしかしたら魔石を植え込んだ陛下には俺の居場所が分かるかもしれないと、家を出てすぐの時は行商の下働きをしながら様子を見ていた。しかしアスダイトの国が動く様子は見られなかった。
これなら番のもとへ行っても陛下にはバレやしない、と判断して、俺は守るべき人を捜すために行商の一行と離れることにしたのだった。
行商の一行から離れた俺は、てくてくと道なき道を進んだ。
アスダイト国が何かことを起こしている気配はなかったけど、それでなくても幼い子供の一人旅は不審に思われてしまう。
親はどこだと騒がれたら大変だと、わざと街道から外れて獣道を選んで歩いた。
この時期には木の実がたくさんあったから食べ物には困らなかったし、川に行けば産卵のために戻ってきている魚を捕ることもできた。
行商の一団にいる間に簡単な調理は習ったから、基本的に困ることはない。
寝る場所も、木の洞を探し出し落ち葉を敷き詰めて快適に休むことができた。
むしろ嫡男として窮屈なテスタント侯爵家にいた時より、よほど快適に過ごしていたと思う。
ただ難点を上げるとしたら……
――寂しい、ということ。
仮にも侯爵家の跡取りだったから、周りには人があふれていて一人になることはなかった。
でも今は人を避けて歩くから、昼も夜もずっと一人。それが精神的に未熟な俺にはとても堪えていた。
だからだろうか。いつからか、やけにリアルな夢を見るようになっていた。
あどけなくて可愛いあの子が俺のもとに現れてくれる夢。
とても温かくて幸せな夢なのだ。
今日も木の洞を寝床に、小さく丸まって寝る体勢を取る。うとうとしながら、今日もあの子に会えたらいいな……と願い、俺は夢の世界へと旅立った。
★☆
『ティティ、いる?』
気付いたら真っ白い空間に立っている。
上も下も右も左も、わからなくなりそうなヘンテコな世界で、いつも俺は彼が来るのを待っていた。
しばらくして、ぽにょん、と何とも気の抜けた音が響く。
音がしたほうを振り返ると、そこにティティが姿を現していた。
彼が壁のようなところ放り出された時の音は、あどけなく可愛いティティの登場に似合っていて、ちょっと口元が緩む。
『ここ、僕のあつかい、ヒドいの……』と不貞腐れるティティにバレると拗ねてしまうから、笑っていることは内緒だ。
『遅かったね、ティティ』
パタパタ足音を立てて近づくと、ティティは両手をついて立ち上がるところだった。
『あでぃ!』
俺に気付くと、嬉しそうに抱きつく。
その弾みで白とも灰色とも言い難い、少し青みを帯びた髪がひらりと舞った。グリグリと俺の胸元に額を擦り付けると、やがて満足したように宝石みたいに綺麗なコバルトブルーの瞳で見上げてきた。
『あでぃ、今日はケガない?』
『うん、今日は狩りをしてないから。木の実を取る時に、ちょっと棘が刺さったくらい』
ちょっと舌足らずな喋り方が堪らなく可愛い。
大丈夫だよ、と掌を見せると、ティティはムッと唇を尖らせた。
『トゲ刺さるのも、ケガ! 貸して』
『ん!』と手が差し出される。素直に棘が刺さったほうの手を差し出すと、ティティは俺の手を握りまじまじと眺めてきた。
そしてゴソゴソと懐を探り小さな瓶を取り出すと、コルクの蓋を取り、俺の指先に中身を塗り拡げていく。
『あでぃ、いたくない、いたくない』
呟きながら薬を塗り込み、そして納得がいったのか、曇りのない顔で笑った。
ティティの話では彼は孤児院にいるというが、なぜか随分と迫害されているらしかった。
僕は嫌われているから誰も名前を呼ばない、って寂しそうに言う彼のために、ティティって愛称を付けたのは俺だ。
彼が置かれている状況に憤りながらも、この場所では俺が彼を存分に甘やかしてあげようと思い、優しく頭を撫でた。
『さぁ、ティティ、木の実を持ってきたんだ。一緒に食べよ?』
どっかりと床に座り横を軽く叩いて促すと、彼は少しモジモジしながら腰を下ろした。
『いっぱい採ったから遠慮なく食べて?』
こくんと頷いて、手を伸ばす。
碌に食事も摂れていないのかティティは随分痩せている。夢の中で食べたものが身になるのかは分からないけど、少しでもティティの足しになれば良いな、と思った。
俺はいつの頃からか、ティティを助けたい、守ってあげたいと強く思うようになっていた。
ニコニコ笑いながら、木の実を摘まむティティ。
のんびりといろんな話をしながら、俺はティティと二人の時間を楽しみながら過ごすのだった。
木の洞で、今日も一人目を覚ます。
俺にはもう分かっていた。
夢にいつも現れるあの子が、空竜の『番』なんだ、と。
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☆☆☆
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