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第49話 弘樹 過去の記憶

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◆◆◆◆◆


(弘樹・・過去の記憶・・)
   (アパート火災当日)

この手だ。
この手で、俺は何度も殴られた。
この口だ。
この口で、俺は何度も罵られた。
この足だ。
この足が、俺を蹴り飛ばした。
この体だ。
この体で俺は押し潰された。息ができないほ肺を圧迫された。

抵抗心を削ぐように、俺の腹を何度も殴って・・俺に弟を陵辱させた。泣いて牡を受け入れる正美を、何度も俺に穢させた。

金の為に。ただ、それだけの為に。
こんな男は、死んだ方がいい。
そう思うはずだ。誰だってそう思う。

◇◇◇◇


泥酔してだらしなく体を弛緩させた父さんを、俺は見つめていた。万年布団に大の字になって横たわる男は、高いいびきをかいている。

俺は視線を脇に置かれた灰皿に移す。

灰皿の縁に火の着いたままのタバコが置かれていた。火事になると危ないから、タバコを消して寝て欲しいと何度も頼んだ。でも、その度に父さんに殴られた。

その内に、注意する気もなくなってしまった。それ以降も、一度もぼや騒ぎは起こっていない。

タバコの火。

寝たばこが原因で火災が起こったニュースをたまに聞くけど・・こんな小さな火が火災につながるとはどうしても思えない。

俺はしゃがんで灰皿からタバコをつまみあげた。燃えている。

『消えろ、消えろ、消えろ』

不意に正美の声が脳裏に蘇る。俺はそっと目を瞑った。そして、ゆっくりと目を開くと、俺はそっと父さんの顔を見つめた。

これは、賭けだ。
臆病な俺の賭け。

こんな小さな火で、全てを焼き尽くせるのかは分からない。でも、ほんの少しでも可能性があるのなら・・俺はそれに賭ける。

火の付いたタバコを、俺はそっと雑誌の上に乗せた。じわじわと赤い輪を作りながら、火が広がってゆく。俺はゆっくりと立ち上がった。

ふと見れば、父さんの飲みかけの酒瓶が枕元にある。酒瓶には蓋がされていなかった。

だらしない父さん。

俺はその酒瓶を足で倒した。畳に度数の高い酒が染み込み広がる。アルコールが燃焼剤になるのかは分からない。

何もかもが不確実だ。

いつの間にか、俺の顔は奇妙に歪んでいた。それは笑い顔だった。同時に、自身が勃起している事にも気が付いた。

俺は・・変態らしい。
笑いたくて、泣きたい気分。

父さん・・あんたは、とんだ変態を作り出したよ。最悪の生き物だ。

俺はふらふらしながら、正美の眠る部屋に向かった。正美は穏やかに眠っている。俺はそのまま正美の布団にもぐりこんでいた。布団を頭まで被り、俺は正美にしがみ付く。

怖い。
怖い。

がたがたと体が震えだす。涙が溢れてきた。

「正美・・俺は、俺は・・」

これから、俺たちはどうなるんだ?
こんなことをして、俺たちは本当に幸せになれるのか?
正美を幸せにできるのか?

正美・・

俺は、本当は。
生きていくのが辛いんだ。

『一緒に生きていこうな』
『がんばって生きていこうな』

そんな言葉、全部嘘なんだ。
お前が俺に縋るから。幼いお前が泣くから。嘘に嘘を重ねて励まして。

俺は、本当は、もう嫌なんだ。こんな人生。こんな汚い人生も、俺の汚れた体も、何もかもが嫌なんだ。

ずっと言いたかった言葉を言っていいか、正美?

「俺は生きていたくない。正美、もう嫌なんだ・・死にたい」

「一緒に死んでくれ。一人にしないでくれ。お願いだから、正美」

「このまま一緒に・・死んでくれないか、正美?兄さんと一緒に」

俺は正美にしがみ付いたまま、布団の中で丸くなって震えていた。

どれくらいたった頃だろうか?

突然、獣の咆哮にも似た声が聞こえた。俺はびくりと震えて、思わず布団から這い出す。

「あ・・ああ」

目の前は煙で灰色に染まっていた。

ぎゃぁああああああああああああああああーーーーーーーーがぁああぁーーーーーーー

声を求め、俺の視線が彷徨う。見たくない。こんな煙で、見えるはずもない。そう思ったのに。

煙が隣室からもうもうと立ち込めていた。その煙の中で、男が燃えていた。

獣のように四つん這いになった父さんの全身を炎が覆い尽くしていた。獣が叫んで蹲り、頭、両手、両肩、両足、背中を火に炙られている。

「なんだ、あれ・・」

あんな生き物・・俺は知らない。

俺は声にならない悲鳴をあげていた。その時、俺のそばで誰かが咳き込む。そして、か細い腕が俺の体に絡みつく。

「兄さん・・けほっ」

正美。
ああ・・駄目だ。
こんな最期は、駄目だ。

あれは獣の死に方だ。あんな最期を正美に与えることなんて、できるはずがない。駄目だ。

「正美!!」

俺は正美を抱きしめると、立ち上がっていた。激しい煙で玄関もよく見えない。

「何っ、これ!!兄さんーー」

「見るな!!口を閉じてろ!大丈夫だから、げほっ・・」

俺は咳き込みながら、身を低くした。そして、僅かに見えた玄関の扉に向かう。

怖い。
早く、外に。外に。

玄関のドアノブにしがみ付くと、がちゃがちゃと鍵を弄る。

「外れろ!!外れろーーー!!」

涙で霞む視線の先で、鍵がゆっくりと外れる。俺は正美を抱えて、外に飛び出していた。転げるようにしてアパートから脱出すると、後はもう呆然として炎を見つめていた。

涙が溢れた。
終わった。
終わったんだ。
父さんが燃えた。

死んだ。全部、消えた。あいつも、あのボロアパートも。

ふと気が付くと、俺の腕の中で正美ががたがたと震えていた。その瞳には、紅い炎が移りこんでいた。

「兄さん・・父さんは・・・?」

震える正美の声。
俺は答えられなかった。

「大丈夫だよ、正美。俺が傍にいるから心配ないよ。俺が守るから、正美」

正美を抱きしめながら、俺は嘘の言葉を重ねる。

ねえ、正美。
兄さんね・・殺人犯になっちゃった。
父さんを殺しちゃった。

燃やしたんだ。

多分、俺はもう大丈夫じゃない。俺はこれから、どうやって生きていけばいいんだ?

苦しい。こんな人生。
苦しいよ・・正美。


◇◇◇◇

(弘樹・・現在・・)
   (函館市内ホテル)


夢を見た。

滲んだ嫌な汗を部屋の風呂で流すと、俺はバスタオルを腰に巻いたまま窓辺に向かった。カーテンを開くと、朝日に輝く函館の町が広がっていた。

函館の朝日は穏やかに俺の身を包む。

「兄さん・・お風呂に入ったの?」

弟の眠そうな声に、俺は振り返った。
俺が笑って頷くと、ベットの中の正美が僅かに顔を赤める。

「なんだ?」
「・・いや」
「気になるだろ?」

「なんで、兄さんも和樹も・・そんなにいい体してるのかなって。大体、兄さんは元警察官だからその体は認めるとして・・和樹は同じ漫画家なのに、納得いかないよ!おかしい、絶対に。プロテインでも飲んだら、僕も少しはムキムキになると思う?」

「プロテインはやめておけ。お前が筋肉質になったら、和樹にふられる可能性があるぞ。まあ、俺はそれでも構わないけどな」

俺の皮肉に枕が飛んできた。その枕を受け止めて、正美に投げ返す。

「正美、今日も晴天だ」

俺の言葉に正美も機嫌を直して、ベットから出て俺に近づく。朝日を受けた正美が酷く綺麗に見えて、俺は狼狽した。

正美が微笑む。

「いい天気だね、兄さん」

穏やかな一日になりそうだった。



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