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第30話 壊れかけ

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◆◆◆◆◆


「正美、これを漫画化するのか?」

俺は弟から渡された小説『深海の森』の単行本を手に取り、ぱらぱらとページをめくりなごら正美に声を掛けた。

妻が友人と北海道旅行に行っているので、久しぶりに弟にマンションに泊まりに来るよう誘った。

マンションにやって来た正美は、上機嫌に俺にこの単行本を渡してきた。そして、掴んだチャンスを嬉しそうに俺に話す。

「そうなんだよ!元々は藤村先生への依頼だったんだけど、和樹が僕の絵のほうがこの話には向いているって推薦してくれたんだ!読みきりだけど、前編、中篇、後編に分けて三週にわたって僕の漫画が載るんだよ、兄さん。ページ数も結構多くてもう大変なんだ。でも、すごく嬉しくて!」

興奮気味に話す正美に俺は微笑んだ。

「良かったな、正美!」

「うん!担当さんもね、僕の筆の遅さを心配していたんだけど。でも、原作のあるものを漫画化するのに、僕は向いていたみたい。もう完成まじかなんだよ!今回の企画が成功したら、原作付きの漫画家として仕事を回してくれるようになりそうなんだ」

「良かったな、正美。何にしても、お前の作品が雑誌に載るのは嬉しい。小説を先に読むか、正美が漫画化した作品を先に読むか迷うところだ」

俺はそう話して、手の中にある単行本を見つめた。すると、正美が微笑む。

「いい小説だよ、兄さん。近親相姦ものなんだけど、とても切ない作品なんだ。でもすごく素敵だから先に小説を読んで、それから僕の漫画を読んでみてよ。その後に、批評でも感想でもいいから兄さんの感想を聞かせて」

正美はそう言うと立ち上がりキッチンに入った。マンションに来る途中で、すき焼きの材料を買い込んできた正美は早速調理を始める。

「何か手伝おうか?」
「いいよ、慣れてるから」

正美はあっさりそう答えると、手馴れた手つきで野菜の下処理を始める。同居人の為に、何時も料理をしているのだろうか?

何となく、苦い気分になった。

小林の脅威が去った事もあり、俺は正美に新しい住居に引っ越してはどうかと提案した。だが、困った顔をした正美が、やんわりと俺の提案を断った。

俺はその事にショックを受けていた。
離れていく・・俺の弟が。

それは仕方のないことだ。それを望んでいたのは俺自身なのに、現実になりつつある事に狼狽している自分がいる。

俺はため息を付いて、つまらない考えを振り払おうとした。そして、手元にある小説の一ページ目を捲ってみた。


◇◇◇


切ない話だった。

幼くして親を失った兄妹。二人は支えあって困難を乗り越え生きてきた。だが、あまりに近い二人の関係はそれぞれの想いに揺れる。

妹の自分に対する気持ちに気が付く兄。道ならぬ想いに苦しむ妹。

やがて、兄は妹と離れる事を決意し、そして一人の女性と出会い結婚する。失意のまま短い恋愛を繰り返す妹は、兄とよく似た男と出会い体の関係を結ぶ。やがて、その関係が愛に変わる。

だが、兄は離れてゆく妹の様子に動揺を感じ始める。妻との夫婦生活も上手くいかなくなり、やがて歪んでゆく想い。そして・・兄は、妹を永遠に手に入れる方法を歪んだ欲望の中見出す。

婚約を報告に来た妹を、兄は旅行に誘う。旅先の静かな森の中、湖に漕ぎ出した一艘のボート。

兄はボート上で強引な行為に出る。妹は抵抗しながらも、その行為を受け入れてしまう。涙を流しながら絡み合った末に、兄は一つの決断を下す。

妹の細い首に手を掛ける兄。

まるでそれを望むように目を瞑る妹。そして、手に掛けた妹を抱きしめ、共に湖の底に身を沈める兄。

◇◇◇

俺は昔から涙もろい。

いつの間にか、俺は涙ぐんでいた。読み終わって顔をあげると、料理の準備を終えた正美が俺の顔を見つめていた。

「・・悲しい結末だな」

俺がそう呟くと正美も頷き口を開く。

「兄妹で結ばれる事はないから・・」

そっと正美が呟くと、ふわりと笑顔を見せる。

「兄さんは意外と涙もろいよね?」

俺も笑う。

「昔はよく泣いていたけど、今はそうでもないぞ?」

「そうかなぁ?今、涙ぐんでるよ?」
「うるさいぞ、正美!」

俺は照れ隠しに、正美の頭をぽかりと叩いてそっと涙を拭った。

「とにかく、正美。がんばれよ!いい作品に仕上げろ」

俺がそう言うと、正美は真剣な顔をして頷いた。夕飯には少し遅い時間になってしまったが、俺も正美も明日は休みなのでそう焦る事もなかった。

すき焼き鍋をテーブルに置き、コンロに火をつける。俺たちはビールを用意して乾杯した。上等の肉を買ってきたらしく、柔らかくすごく美味しかった。

美味い食事に舌鼓を打つと、酒の進み具合も早くなる。夕飯を終える頃には、正美はとろりとした目をしていた。それでも、俺たちはソファーに移動して飲み続けた。

結局、正美が先に沈没した。

俺も相当酔いが回っていたが、二組の布団を敷くと何とか正美を布団に運んだ。少し汗ばんでいたので、正美のシャツのボタンを二つ外してやる。

不意に、それが目に付いた。
赤い痣。

明らかに唇で付けられた痕だ。正美の首元に付けられたその痕跡に、俺は酷く狼狽していた。酔った俺の頭が、勝手な想像を始める。

正美の首筋に唇を寄せる男の姿。
藤村和樹。

俺は首を振って、その想像を振り払おうとした。なのに、なかなか幻の男は正美の前から立ち去らない。俺は思わず手で振り払おうとした。その手が、僅かに正美の頬に触れる。

どきりとした。

子供の頃と変わらぬ、しっとりとした正美の肌。俺はいつの間にか頬に触れ撫でていた。

幼い頃の正美のこの頬に何度俺は唇を寄せたことだろう。痛がり泣く正美の頬を撫で、口付けをして慰めた。そして、何度も陵辱を繰り返した。

その正美の首元に、俺ではない男の唇のうっ血痕が残っている。

不意に感じた嫉妬に、俺は困惑し眩暈がした。酔いのせいだろう、恐らく。思考が混乱している。もう、いいじゃないか。

正美がもしも男を・・藤村を選んだとしても、正美が幸せならそれでいいじゃないか。少なくとも、俺を想って正美がずっと苦しむよりいい。

藤村は正美を支えてくれている。今、正美を支えているのは藤村だ。弟に住居を与え、自立するための仕事を与え、正美の笑顔を引き出している。

だからもう、藤村に正美の事を任せてもいいんだ。そうだろ?

くそ、考えている事とやっていることがばらばらだ。

男の痕を消すように、俺は唇を押し付け吸い上げている。俺は酔っているんだ。酔って正気じゃないから・・こんなことをしているんだ、俺は。

「んんっ・・」

正美が身じろぎする。それでも目覚める気配はない。懐かしい。柔らかい肌が過去を思い出させる。

「・・正美」

そっとボタンを外しさらに胸元を肌蹴させる。ぷっくりとした胸の突起に自然と俺は指を伸ばしていた。そっと触ると、ピクリと体を震わせた正美の様子に、俺は一気に過去の時代に流される。

過去の俺は何時も涙を流しながら正美を犯していた。同時に欲情もしていた。今の俺もまた、涙を浮かべそして欲情している。

誰にも、奪われたくない。
過去の俺が泣き叫んでいる。

父親にも、他の大人にも、正美を触れさせたくない。俺だけが触れる。俺だけだ。

中学生の俺が、頭の中で叫び声をあげていた。

俺が守る。俺が守る。俺だけが中に入る。中に・・深く、深く。

俺が正美を守る。
その為に親父を殺した。小林も要に殺させた。

激しい独占欲が俺の行動を操る。許して、正美。俺は酔っているんだ。正気じゃない。

弟の胸の突起を口に含み、俺は舌を絡める。

「ん・・あぁ・・」

不意に正美が甘い声をあげた。俺はびくりと震えて、胸の突起から唇を離す。正美は酔いつぶれたままだった。その正美の上に跨った自分の醜さに、俺は愕然とした。

「俺は何を!」

俺は正美から飛びのくと、よろけながら廊下を歩き浴室に飛び込む。服を着たまま、俺は冷たいシャワーを浴びた。だが、体の熱がどんどん奪われていくのに、一点だけが熱を持ち続けた。

「う・・くっ」

最悪だ。
俺はズボンを乱し、牡を引き出すと擦り上げ始めた。最初は妻を想ってそれでも達せられず、要の裸体を想い達せられず。

そして最後に正美を想った。

一気に吐き出される欲望が、俺の罪深さを語っていた。

「はぁ・・ははははははーーー!」

いつの間にか、俺は狂ったように笑い出していた。なんだこれは。俺は馬鹿か?体がふらふらする。俺はそのまま、浴室の床に座り込んでいた。

俺の精神は弱いと妻が言っていた。その指摘は正しい。なんだよ、まったく。俺の精神は壊れかけじゃないか。

ゆらゆらと視界が揺れていく。きっと、酒に酔ったせいだ。そう願いたい。俺の精神が異常をきたしたとは思いたくなかった。

俺の穢れた白濁が、シャワーの水で排水溝に流れ込んでゆく。冷たいシャワーを浴び、少しずつ頭が冷めていく。

「もう少し、ここにいた方がいいな」

正美に危害を加えないように。

このまま、風邪でも引いて寝込んじまうのもいい。妻のはるかが旅行から帰ってきたら、体調管理がなっていないって言いそうだな。それでも、温かいお粥でも作ってくれるだろう。

あいつの料理は美味いから・・きっと、心も落ち着くさ。

きっと。


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