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第百九十話
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誰からも愛されていないと、悲嘆にくれていた時だったから。
『グレース! お前、すごいね! 学問も体術も、こんな優秀だなんて、驚いたわ! 親として鼻が高いよ!』
そう言って頭を撫でて、とびっきりの笑顔で抱きしめてくれていた母は、王族女性の護衛官になれなかったことで、まるでグレースなんか最初からいなかったものであるかのように、無表情で接するようになった。その背中が言っていた。あんなに期待させておいて、騙しやがった、ぬか喜びさせやがった、恩を仇で返しやがった、母のそういう怨嗟の声が、いたたまれなかった。傭兵稼業や隊商の護衛、魔力がある女性のボディ・ガードなどで実績を積み、高額の報酬を得る身となっても、母は褒めてはくれず、グレース自身も満たされなかった。あの男はそういうグレースの心の隙間に入り込み、言葉巧みにたきつけ、グレースの心に黒いものを植え付けた。あの母親はグレースに立身出世して欲しいのではなくて、『立身出世した娘の母親』になりたかっただけなのだ、グレースの実力を正当に評価していたのではなくて、『王族女性の護衛官』という肩書きを得てほしかったのだ。肩書きを得ることができなかったグレースを愛することができない、腐った性根の母親なんかよりも、オレはお前の実力を心の底から評価する、お前を愛している・・・、そんな男のたわごとを、グレースは信じてしまった。母親に自分を見てほしい、愛されたい、褒められたい、そんな子供じみた願望が自分の中にあることを、グレースは認めたくなかった。きちんと自分の心と向き合わず、目を背けていたから、あんな男につけこまれたのだ。
グレースの複雑な心中は、サシャにはよくわからない。けれど、親に理想を押しつけられることのうっとうしさ、それに応えようと頑張ったのに親の望むような結果が出せなかったということは、うすうす知っていた。サシャが幼い頃からずうっと、グレースは近所の素敵なお姉さんだった。だから、見ていた。成績優秀で、美人で、強くて、サシャの目には一番素敵な女性だったのだ。わからないのは、親の押しつけて来る理想に絶対に応えようとしなきゃいけないのか、ということ。サシャの父親はサシャに自分と同じ漁師になってほしいと言っていたけれど、幼少期から船の上で多くの時間をすごしていたからこそ視力がよく、バランス感覚も鍛えられたサシャが、騎射の成績がトップだから少年兵養成所に入りたいと言うと、ぶーぶー文句は言ったけれど許可してくれたし、サシャが将来どんな職業に就いたとしても、それが親の理想と違っていたからと言ってサシャの存在を否定するようなことは言わないだろうと思う。ただ、兵士になるということは人の命を奪うかもしれない、そのことの重さだけは、真剣に考えろ、魚を殺すこととは違う、と、何度も言っていた。魚を殺すのは食べるためだから、感謝してありがたく美味しくいただけばそれでいい。人を殺すことは、食べるためではない。それから、誰かを殺すかもしれないということは誰かに殺されるかもしれないということだ。それでもお前は兵士になりたいか、と、父親は何度も何度もサシャに言った。
腕の中で、今、グレースが死にかけている。人に剣を向けるということは、自身もまた誰かから剣を向けられる、殺されることと表裏一体なのだという現実を目の当たりにして、サシャは身体が強張る。心が、締め上げられるように痛い。グレースの後悔は、母親の期待に応えられなかったことと、あんな男に騙されたこと、どっちが大きいのだろうと思う。母親の期待に応えられなかったことに端を発し、心が空洞になってしまった。その空洞に、あんな男に入り込まれてしまった。あんな男に騙されてしまった。道を、踏み誤ってしまった。一度、道を間違えたら、人生はもう終わりなのだろうか。後悔に泣き濡れて人生を終えるしかないのだろうか。
『グレース! お前、すごいね! 学問も体術も、こんな優秀だなんて、驚いたわ! 親として鼻が高いよ!』
そう言って頭を撫でて、とびっきりの笑顔で抱きしめてくれていた母は、王族女性の護衛官になれなかったことで、まるでグレースなんか最初からいなかったものであるかのように、無表情で接するようになった。その背中が言っていた。あんなに期待させておいて、騙しやがった、ぬか喜びさせやがった、恩を仇で返しやがった、母のそういう怨嗟の声が、いたたまれなかった。傭兵稼業や隊商の護衛、魔力がある女性のボディ・ガードなどで実績を積み、高額の報酬を得る身となっても、母は褒めてはくれず、グレース自身も満たされなかった。あの男はそういうグレースの心の隙間に入り込み、言葉巧みにたきつけ、グレースの心に黒いものを植え付けた。あの母親はグレースに立身出世して欲しいのではなくて、『立身出世した娘の母親』になりたかっただけなのだ、グレースの実力を正当に評価していたのではなくて、『王族女性の護衛官』という肩書きを得てほしかったのだ。肩書きを得ることができなかったグレースを愛することができない、腐った性根の母親なんかよりも、オレはお前の実力を心の底から評価する、お前を愛している・・・、そんな男のたわごとを、グレースは信じてしまった。母親に自分を見てほしい、愛されたい、褒められたい、そんな子供じみた願望が自分の中にあることを、グレースは認めたくなかった。きちんと自分の心と向き合わず、目を背けていたから、あんな男につけこまれたのだ。
グレースの複雑な心中は、サシャにはよくわからない。けれど、親に理想を押しつけられることのうっとうしさ、それに応えようと頑張ったのに親の望むような結果が出せなかったということは、うすうす知っていた。サシャが幼い頃からずうっと、グレースは近所の素敵なお姉さんだった。だから、見ていた。成績優秀で、美人で、強くて、サシャの目には一番素敵な女性だったのだ。わからないのは、親の押しつけて来る理想に絶対に応えようとしなきゃいけないのか、ということ。サシャの父親はサシャに自分と同じ漁師になってほしいと言っていたけれど、幼少期から船の上で多くの時間をすごしていたからこそ視力がよく、バランス感覚も鍛えられたサシャが、騎射の成績がトップだから少年兵養成所に入りたいと言うと、ぶーぶー文句は言ったけれど許可してくれたし、サシャが将来どんな職業に就いたとしても、それが親の理想と違っていたからと言ってサシャの存在を否定するようなことは言わないだろうと思う。ただ、兵士になるということは人の命を奪うかもしれない、そのことの重さだけは、真剣に考えろ、魚を殺すこととは違う、と、何度も言っていた。魚を殺すのは食べるためだから、感謝してありがたく美味しくいただけばそれでいい。人を殺すことは、食べるためではない。それから、誰かを殺すかもしれないということは誰かに殺されるかもしれないということだ。それでもお前は兵士になりたいか、と、父親は何度も何度もサシャに言った。
腕の中で、今、グレースが死にかけている。人に剣を向けるということは、自身もまた誰かから剣を向けられる、殺されることと表裏一体なのだという現実を目の当たりにして、サシャは身体が強張る。心が、締め上げられるように痛い。グレースの後悔は、母親の期待に応えられなかったことと、あんな男に騙されたこと、どっちが大きいのだろうと思う。母親の期待に応えられなかったことに端を発し、心が空洞になってしまった。その空洞に、あんな男に入り込まれてしまった。あんな男に騙されてしまった。道を、踏み誤ってしまった。一度、道を間違えたら、人生はもう終わりなのだろうか。後悔に泣き濡れて人生を終えるしかないのだろうか。
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