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2.黄金の夜鳴鶯
《黄金の夜鳴鶯》
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「さて、始めますか」
コレンルファ伯爵夫人を含めて三件の香水の作製依頼が入っている。依頼者によっては綺麗な細工が施された空瓶を持ち込まれることもある。最初の依頼と二件目は持ち込みだ。瓶を箱から取り出した彼女は、作業机に置いてあるスポイト立て用の瓶の隣に置いた。
そして、机の脇の引き出しから大瓶に詰められた透明な液体を取り出し、鍵付きの棚から飾り気のない蓋の瓶に入った液体を数種類、取り出して同じ机に並べた。最後に足元に廃液用の空の木桶を置いた。
本来ならば、これ以外にも調香には必要な器具があるが、彼女にはそれを必要としない。開業当初、偵察に来た同業者からそのありさまを批判されたこともあったが、最近はなにも言われなくなった。もっとも、呆れられただけなのかもしれないが。
ドーラはイスに腰かけ、空瓶に大瓶から液体を入れ、数回洗浄した。そのあとそれぞれの瓶から液体を数滴ずつスポイトで取り出し、空瓶に詰めていく。その姿はまるで無心で楽器を奏でているようだった。
数分後、作業を終えたドーラは調合したての香水をムエットにつけて嗅ぎ、付けたての香りには満足した。だが、香水は時間が経てば匂いも変わる。あとから匂いを確認するために香水をつけたムエットはその場で捨てることなく、依頼人と調合ナンバーを書いたのち、クリップに挟んで作業机から少し離れた物置台に放置した。机に戻ったドーラは先ほど使った飾り気のない瓶の大半を棚に戻し、液体の入った別の瓶を数本取り出した。
二件目の依頼の香水もすぐに調香し終え、一件目と同じようにムエットを物置台に放置して、三件目の依頼に取り掛かろうと注文票に書いた調合表を確認した。
「あ、れ――――?」
だが、一件目や二件目と違って、注文票に違和感を覚えた。正確に言えば、自分で書いたはずなのに、まるで他人が書いた処方箋を見ているような感覚になった。この何日間かクララと一緒にすごしているのに、『彼女にあう香水』というものが見えてこなかった。
何かが過不足しているのだろう。
クララと会えば思い出せるだろう。でも、せっかくならば、サプライズでプレゼントしたい。だから、彼女をここに連れてくるわけにはいかなかった。
何が足りないんだろうか。それとも何が多いんだろうか。
まるで、パズルのピースが無くなってしまったかのようだった。
伯爵夫人がもう一度この店を訪れるまで、そんなに時間もないだろう。最終確認をするためには、あと少しで完成させなければならない。そうしないと不完全なものを相手に渡すことになる。認定調香師、それも、自ら処方や単独での調香ができる第一級認定調香師として生活している以上、細かい部分まで自分で見極めなければならない。
「どうしよう」
ドーラは不安に駆られ、その場に座り込んでしまった。
なんで?
なんで完成出来上がった香水を思い浮かべられない? なんで仕上がり始めていたはずなのに色を失っていくの?
なんで? なんで? なんで?
「――――ったく、まったく、相変わらずお前はごちゃごちゃ考えているな」
焦点が合っていなかったドーラの視界に映りこんだ茶髪の男はドーラの顎をつかみ、強引に自分の方に顔を向けさせる。彼の深い赤色の瞳はたちまち彼女の目に光を与えた。
「『迷ったときは上を向け』ってお前が言ったんだろうが。そのお前が下を向いてどうするんだ?」
男の声にドーラは反抗しなかった。処方もできず、単独で調香することもできない第二級認定調香師の彼だが、その彼がいなければ自分一人ではどうすることもできなかった事が何度もあった。
「ひと呼吸して落ち着け。そして、何も考えるな」
真正面からドーラに言葉をぶつけるミール。その言葉は彼女にずっしりと重くのしかかる。
「ありがとう、ミロン」
昔の名前でそう彼のことを呼んだフェオドーラ。お前ってやつは、と頭をかきながら恥ずかしそうに目を背けるミール。言われたとおり一呼吸した後、ドーラは彼に礼を言った。この男は小さい時からドーラの傍にいた。だからこそ、彼の言葉はドーラを誤魔化すものではなかった。
「ちょっと顔を洗ってくる」
落ち着きを取り戻した後、ドーラは気分転換のために顔を洗ってくることにした。調香するのに化粧は邪魔で、普段からおしろい以外は付けない。だから、化粧をするのにとられる時間は少なく、すぐに作業に戻れると判断したのだった。
「ああ。それがいいかもな」
ミールもその気分転換方法に賛成し、ドーラが立ち上がるのを支えてくれた。
ドーラが作業場に戻ると、ミールが先ほどの処方箋を見ているのに気づいた。
ミールはドーラの監視下でなければ調香関連の作業ができない上、試験時に起きた事故以来、彼は彼女がいても作業しようともしない。だが、彼も調香師であり、処方箋くらいは見慣れている。
「依頼者はコレンルファ伯爵夫人か」
もしかしてこないだお前が言ってた裁判の話は、と問いかけるミール。うん、そうだよとドーラはそう答え依頼内容を話しすと、そうか、とそっけなく応える。再びしばらくその処方箋を眺めていたが、やがてポツリとひとつの精油の名前を呟いた。
「パルマローザ」
ドーラは唐突なミールの単語に耳を疑った。第二級調香師は調香や処方はできなくても、提案するのは問題ない。彼が提案したものに驚いたのだ。
「見た感じ、クララ嬢の好きそうな感じの香りを集めてるな」
彼の推測に頷く。
「それにお前らしいレシピだ。柑橘系のレモンとオレンジ・スイート、樹木系のレモンマートルという違ったテイストの三つトップとし、レモングラスやマンダリンという柑橘系に、ゼラニウム、カモミール・ローマンというフローラル系、そしてジャスミンをミドルノートにした。最後にほんのりと少し甘く感じさせるミルラ、サンダルウッド、ローズ、フランキンセンスというベースノート。どれもまとまりのない組み合わせだが、匂いに深みが出るな」
彼の言葉にドーラは榛色の目を瞬かせた。彼が言ったのは間違っていない。
「だが、おかしいと思わないか?」
彼が指したのはトップノートの香りが書かれた所だった。トップノートは精油の中でも比較的揮発しやすく、香水ならば吹き付け立てた後、すぐに香るものを指す。
「確かに柑橘単独というのはよくあるが、ここにミドルノートへの継ぎ目としてパルマローザを入れるといいんじゃないのか? でもって、このオレンジスイートは抜いてもいいんじゃないか」
ミールの提案はドーラを納得させた。自分が考えた組み合わせでは、最初と途中からで匂いが分離してしまううえ、甘ったるい匂いのオレンジスイートは余分だったのだ。だから、いつまで経っても違和感を覚えていたのだ。
「どうやら納得したようだな」
ミールはドーラの表情を見て、彼女が納得できたことに気付いたようだった。注文票を返した彼は、そうだ、とドーラの方を見る。
「その色、まるで黄金色だな。俺だったら、そうだな――《黄金の夜鳴鶯》にする、かな?」
さらりと言ったのは、この香水に付ける名前だった。普段、注文香水には名前を付けないが、確かにこの香水にふさわしい名前だろう。ドーラが驚きに固まっていると、じゃ、夕飯作ってくるわ、と言って作業室を出て行った。
よし、もう一度やろう。
ドーラは今度こそいける、そう確信して器具を手に取り、調香を始めた。カタカタという音だけが作業室に鳴りひびく。そして、わずかな時間のあと、うん、どうだろうか、と顔を上げた。
とりあえず、最初の香りは問題ない。他の二つの試香紙とともに窓際におく。
ずっと同じ姿勢で作業をしていたので、体を動かすときしむ音がした。だから一度、腕や背中を伸ばしたあと、後片付けをした。エッセンシャルオイルが飛び散らないように作業をしてはいるものの、どうしても飛び散ってしまう。だから、テーブルもしっかりと拭いた。
「終わったのか?」
ちょうど片付けをし終わったとき、ミールも食事の準備を終えたらしく、作業室にやってきた。
コレンルファ伯爵夫人を含めて三件の香水の作製依頼が入っている。依頼者によっては綺麗な細工が施された空瓶を持ち込まれることもある。最初の依頼と二件目は持ち込みだ。瓶を箱から取り出した彼女は、作業机に置いてあるスポイト立て用の瓶の隣に置いた。
そして、机の脇の引き出しから大瓶に詰められた透明な液体を取り出し、鍵付きの棚から飾り気のない蓋の瓶に入った液体を数種類、取り出して同じ机に並べた。最後に足元に廃液用の空の木桶を置いた。
本来ならば、これ以外にも調香には必要な器具があるが、彼女にはそれを必要としない。開業当初、偵察に来た同業者からそのありさまを批判されたこともあったが、最近はなにも言われなくなった。もっとも、呆れられただけなのかもしれないが。
ドーラはイスに腰かけ、空瓶に大瓶から液体を入れ、数回洗浄した。そのあとそれぞれの瓶から液体を数滴ずつスポイトで取り出し、空瓶に詰めていく。その姿はまるで無心で楽器を奏でているようだった。
数分後、作業を終えたドーラは調合したての香水をムエットにつけて嗅ぎ、付けたての香りには満足した。だが、香水は時間が経てば匂いも変わる。あとから匂いを確認するために香水をつけたムエットはその場で捨てることなく、依頼人と調合ナンバーを書いたのち、クリップに挟んで作業机から少し離れた物置台に放置した。机に戻ったドーラは先ほど使った飾り気のない瓶の大半を棚に戻し、液体の入った別の瓶を数本取り出した。
二件目の依頼の香水もすぐに調香し終え、一件目と同じようにムエットを物置台に放置して、三件目の依頼に取り掛かろうと注文票に書いた調合表を確認した。
「あ、れ――――?」
だが、一件目や二件目と違って、注文票に違和感を覚えた。正確に言えば、自分で書いたはずなのに、まるで他人が書いた処方箋を見ているような感覚になった。この何日間かクララと一緒にすごしているのに、『彼女にあう香水』というものが見えてこなかった。
何かが過不足しているのだろう。
クララと会えば思い出せるだろう。でも、せっかくならば、サプライズでプレゼントしたい。だから、彼女をここに連れてくるわけにはいかなかった。
何が足りないんだろうか。それとも何が多いんだろうか。
まるで、パズルのピースが無くなってしまったかのようだった。
伯爵夫人がもう一度この店を訪れるまで、そんなに時間もないだろう。最終確認をするためには、あと少しで完成させなければならない。そうしないと不完全なものを相手に渡すことになる。認定調香師、それも、自ら処方や単独での調香ができる第一級認定調香師として生活している以上、細かい部分まで自分で見極めなければならない。
「どうしよう」
ドーラは不安に駆られ、その場に座り込んでしまった。
なんで?
なんで完成出来上がった香水を思い浮かべられない? なんで仕上がり始めていたはずなのに色を失っていくの?
なんで? なんで? なんで?
「――――ったく、まったく、相変わらずお前はごちゃごちゃ考えているな」
焦点が合っていなかったドーラの視界に映りこんだ茶髪の男はドーラの顎をつかみ、強引に自分の方に顔を向けさせる。彼の深い赤色の瞳はたちまち彼女の目に光を与えた。
「『迷ったときは上を向け』ってお前が言ったんだろうが。そのお前が下を向いてどうするんだ?」
男の声にドーラは反抗しなかった。処方もできず、単独で調香することもできない第二級認定調香師の彼だが、その彼がいなければ自分一人ではどうすることもできなかった事が何度もあった。
「ひと呼吸して落ち着け。そして、何も考えるな」
真正面からドーラに言葉をぶつけるミール。その言葉は彼女にずっしりと重くのしかかる。
「ありがとう、ミロン」
昔の名前でそう彼のことを呼んだフェオドーラ。お前ってやつは、と頭をかきながら恥ずかしそうに目を背けるミール。言われたとおり一呼吸した後、ドーラは彼に礼を言った。この男は小さい時からドーラの傍にいた。だからこそ、彼の言葉はドーラを誤魔化すものではなかった。
「ちょっと顔を洗ってくる」
落ち着きを取り戻した後、ドーラは気分転換のために顔を洗ってくることにした。調香するのに化粧は邪魔で、普段からおしろい以外は付けない。だから、化粧をするのにとられる時間は少なく、すぐに作業に戻れると判断したのだった。
「ああ。それがいいかもな」
ミールもその気分転換方法に賛成し、ドーラが立ち上がるのを支えてくれた。
ドーラが作業場に戻ると、ミールが先ほどの処方箋を見ているのに気づいた。
ミールはドーラの監視下でなければ調香関連の作業ができない上、試験時に起きた事故以来、彼は彼女がいても作業しようともしない。だが、彼も調香師であり、処方箋くらいは見慣れている。
「依頼者はコレンルファ伯爵夫人か」
もしかしてこないだお前が言ってた裁判の話は、と問いかけるミール。うん、そうだよとドーラはそう答え依頼内容を話しすと、そうか、とそっけなく応える。再びしばらくその処方箋を眺めていたが、やがてポツリとひとつの精油の名前を呟いた。
「パルマローザ」
ドーラは唐突なミールの単語に耳を疑った。第二級調香師は調香や処方はできなくても、提案するのは問題ない。彼が提案したものに驚いたのだ。
「見た感じ、クララ嬢の好きそうな感じの香りを集めてるな」
彼の推測に頷く。
「それにお前らしいレシピだ。柑橘系のレモンとオレンジ・スイート、樹木系のレモンマートルという違ったテイストの三つトップとし、レモングラスやマンダリンという柑橘系に、ゼラニウム、カモミール・ローマンというフローラル系、そしてジャスミンをミドルノートにした。最後にほんのりと少し甘く感じさせるミルラ、サンダルウッド、ローズ、フランキンセンスというベースノート。どれもまとまりのない組み合わせだが、匂いに深みが出るな」
彼の言葉にドーラは榛色の目を瞬かせた。彼が言ったのは間違っていない。
「だが、おかしいと思わないか?」
彼が指したのはトップノートの香りが書かれた所だった。トップノートは精油の中でも比較的揮発しやすく、香水ならば吹き付け立てた後、すぐに香るものを指す。
「確かに柑橘単独というのはよくあるが、ここにミドルノートへの継ぎ目としてパルマローザを入れるといいんじゃないのか? でもって、このオレンジスイートは抜いてもいいんじゃないか」
ミールの提案はドーラを納得させた。自分が考えた組み合わせでは、最初と途中からで匂いが分離してしまううえ、甘ったるい匂いのオレンジスイートは余分だったのだ。だから、いつまで経っても違和感を覚えていたのだ。
「どうやら納得したようだな」
ミールはドーラの表情を見て、彼女が納得できたことに気付いたようだった。注文票を返した彼は、そうだ、とドーラの方を見る。
「その色、まるで黄金色だな。俺だったら、そうだな――《黄金の夜鳴鶯》にする、かな?」
さらりと言ったのは、この香水に付ける名前だった。普段、注文香水には名前を付けないが、確かにこの香水にふさわしい名前だろう。ドーラが驚きに固まっていると、じゃ、夕飯作ってくるわ、と言って作業室を出て行った。
よし、もう一度やろう。
ドーラは今度こそいける、そう確信して器具を手に取り、調香を始めた。カタカタという音だけが作業室に鳴りひびく。そして、わずかな時間のあと、うん、どうだろうか、と顔を上げた。
とりあえず、最初の香りは問題ない。他の二つの試香紙とともに窓際におく。
ずっと同じ姿勢で作業をしていたので、体を動かすときしむ音がした。だから一度、腕や背中を伸ばしたあと、後片付けをした。エッセンシャルオイルが飛び散らないように作業をしてはいるものの、どうしても飛び散ってしまう。だから、テーブルもしっかりと拭いた。
「終わったのか?」
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