夜薔薇《ナイト・ローズ》~闇夜に咲く薔薇のように

椎名 将也

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第5章 火焔の王

10 月明かりの下で

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 途中で二回の休憩を挟みながら、アトロポスは愛馬シリウスを駆って西ハザリア街道から北ローゼン街道を進み、首都レウルーラ南大門にある馬舎亭に到着した。シリウスだけなら四ザン半もあれば辿り着くのだが、バッカスが借りた馬の脚に合わせたため、首都までおよそ六ザンかかった。
「ご苦労様、シリウス。ゆっくりと休んでね」
 体中の汗を丁寧に拭いてやり、何回かに分けて水を飲ませてから、アトロポスはシリウスの首を抱きしめて馬舎亭を後にした。

「俺も馬を買うかな? 馬繋場や馬舎亭で借りた馬じゃ、シリウスの脚についていけないしな」
「そうね。でも、馬ってどこで買うの?」
 アトロポスがバッカスの顔を見上げながら訊ねた。一緒に並んで立つと、二人の身長差は三十セグメッツェ近くあるのだ。

「どこって……シリウスはどこで買ったんだ?」
「もらったのよ……シルヴァに……」
 言いづらそうにアトロポスが告げた。正直なところ、バッカスの前ではあまりシルヴァレートの話はしたくなかった。
「もらった? あんなとびきりの軍馬をか……?」
 バッカスが驚いて大声を上げた。アトロポスは慌てて人差し指を立て、自分の唇の前に持っていった。

「目立つから、大声出さないでよ。もともと、シリウスはシルヴァの持ち馬の中で一番の駿馬だったんだって。初めて会った時、私はシルヴァの敵だったの。だから、私の信用を得るために、シルヴァはシリウスを私の愛馬にしろって言ったのよ」
「シルヴァって、何者なんだ……?」
 予想もしない話に、バッカスが驚きの表情を浮かべた。
「絶対に大声を出さないでよ」
「ああ……」
 アトロポスの言葉に、バッカスが大きく頷いた。

「レウルキア王国の現国王アンドロゴラスの嫡子で、シルヴァレート第一王子よ」
「……ッ!」
 思わず叫びそうになり、バッカスは慌てて自分の口を右手で押さえた。
「今は王家を出奔した家出息子だけどね」
 アトロポスが笑いながら告げた。

「何で、そんな人がお前の恋人なんだ?」
 バッカスが声を潜めながら訊ねた。
「これ以上は、宿に着いたら話すわ。こんな道の往来だと、誰が聞いているかも分からないから……」
「ああ……。そうだな……」
 近くで誰も聞き耳を立てていないことを確認すると、バッカスがホッとしながら頷いた。

「取りあえず、前に私が泊まっていた『銀の白鳥亭』に行くわよ。二人部屋が空いていればいいんだけど……」
「寝台は一つでもいいぞ」
 耳元で囁いたバッカスの言葉に、アトロポスは真っ赤になって彼を睨みつけた。
「絶対に二つにするわ。今朝みたいな眼に遭うのはごめんだもの……」
 何度も泣きながら許しを乞うても責められ続け、失神までさせられたことを思い出すと、アトロポスは首筋まで真っ赤になりながらバッカスを恨めしそうに睨んだ。


 アトロポスの希望に反して、『銀の白鳥亭』の二人部屋は満室だった。空いていたのは前回泊まった三階の東南角部屋だけであり、横で嬉しそうに笑うバッカスを睨みながらアトロポスは仕方なく予約を入れた。上級宿だけあり一人部屋でも広さは百平方メッツェ以上あるため、実際には二人で泊まっても問題なかった。ただし、寝室には大人二人が優に寝られる大きな寝台が一つだけしかなかった。

 アトロポスは寝室に荷物を置くと、居間の中央にある優雅な布張りのソファにバッカスと並んで腰を下ろした。
「どうする? 先に食事に行く? お腹空いたでしょ?」
「いや、酒が入る前に、シルヴァレート王子のことを聞きたい。一介の冒険者であるお前がどうしてシルヴァレート王子と知り合ったのか、何故恋人同士なのか、教えてくれ」
 バッカスの濃茶色の瞳に真剣な光が浮かんでいることを見て取り、アトロポスはすべてを打ち明ける決心をした。

「長くなるわよ。それでもいい?」
「ああ、構わない……」
 大きく頷きながら、バッカスが答えた。
「私、孤児なの。六歳まで、この間のセント・ルミナス教会の隣りにある孤児院にいたわ。当時の生活は貧困そのものだった。その日に食べる物もろくになくて、一年間ずっと同じ服を着ていたわ」
 当時を思い出しながら、アトロポスが話し出した。

 年上の男の子からいじめを受けていたこと。その男の子が小さな子たちの食事を奪ったことに怒り、角棒で滅多打ちにしたこと。その罰として三日間反省房に入れられたこと。その反省房の中で、裕福な大人の力を借りようと思い立ったこと。そして、孤児院を抜け出して盗みを働こうとし、捕まったこと。

「その馬車にいた小さな女の子が、当時のアルカディア国王の第一王女アルティシア様だったの。それから十年間、私はアルティシア様と一緒に育てられ、勉強や剣術を学んだわ」
 予想もしなかったアトロポスの過去を聞いて、バッカスは言葉を失った。
「そして、あの政変クーデターが起きたの。私はアルティシア様……姫様を護りきれずにダリウス将軍に捕まったわ。そして、シルヴァが私の前に姿を見せたの」
「……」
 バッカスは濃茶色の瞳に真剣さを映しながら、アトロポスの話に聞き入った。

「姫様の生命を救うことを条件に、私はシルヴァに身を任せたわ。シルヴァは処女だった私を三日三晩抱き続けた。そして、彼が部屋を出て行った後、彼のメイドから聞いたの。国王と王妃、そして姫様が処刑されて御首を晒されたと……」
「あの、南外門の事件か……」
 バッカスの言葉に、アトロポスが頷いた。

「私は軟禁されていた朱雀宮を抜け出した。そして、武器や防具を揃えて、南外門を襲撃し、シルヴァを人質に取ったの。その時に、シルヴァから真実を聞かされたわ。彼は、私との約束を守って、姫様をユピテル皇国に逃がしていた……。シルヴァは私に命じて自分を人質にさせたと言い、この件を狂言に変えて王家を出奔したわ。それからザルーエクまで、私はずっとシルヴァと一緒だった」

「そのシルヴァレート王子は、何故今一緒じゃないんだ?」
 バッカスの言葉に、アトロポスは首を横に振った。
「分からない。シルヴァと一緒にいるうちに、私は彼を深く愛し始めた。この鎧もシルヴァが選んでくれた物だし、<蒼龍神刀アスール・ドラーク>はシルヴァが作ろうと言ってくれた刀よ。材料の蒼炎炭鋼石はクロトー姉さんが出してくれたけどね」
 アトロポスは左手で<蒼龍神刀アスール・ドラーク>の柄に触れながら告げた。

「ザルーエクにはもともと、ユピテル皇国に向かった姫様の後を追うために立ち寄ったの。ここで冒険者登録をしたのは、これから先の街やユピテル皇国に入る時の身分証を得るためよ。刀や鎧を作ったり、昇格試験を受けたりして、思いの外に滞在が長くなってしまっただけなの。ザルーエクに着いてから四日目に、シルヴァは置き手紙を残して姿を消したわ。その手紙がこれよ」
 天龍の革鎧ヘルムドラーク・ハルナスの隠しからシルヴァレートの手紙を取り出すと、アトロポスはバッカスに手渡した。

「読んでいいのか?」
「ええ。あなたには隠し事をしないって決めたから……」
 悲しげな笑顔を浮かべると、アトロポスがバッカスに向かって頷いた。
「ありがとう、ローズ……」
 バッカスは折りたたまれた手紙を広げると、真剣な表情で読み始めた。


『愛するローズへ

 急用ができた。しばらく戻ることはできないが、心配しないで欲しい。たぶん、長くかかると思う。申し訳ないが、ユピテル皇国へは一人で行って欲しい。無事、アルティシアに会えることを願っている。いつの日になるか約束はできないが、必ず迎えに行く。

 シルヴァレート=フォン=アレキサンドル』


 バッカスは再び手紙を丁寧に折りたたむと、アトロポスに返しながら訊ねた。
「今どこにいるかは分からないのか?」
「先日、ダリウス将軍と面会した時、シルヴァの情報を聞いたわ。シルヴァは今、アストリア共和国にいて、レウルキア王国の国境に攻め入ったって……」
「何だとッ?」
 アストリア共和国が軍事行動を起こしたなどという情報は初耳だった。バッカスは驚愕に大きく目を見開きながら叫んだ。

「ダリウス将軍にも硬く口止めされているから、絶対に他には漏らさないで。これは最重要国家機密よ。クロトー姉さんにも話してないわ」
「分かった……」
 バッカスが真剣な表情で頷いた。
「アストリア共和国との国境にあるエーデルワイス砦を、シルヴァは軍を率いて攻めたそうよ。その時には、エーデルワイス砦が防衛に成功し、シルヴァは撤退したって……。でも、日数が合わないのよ」
「日数……?」
 バッカスの言葉に頷くと、アトロポスが続けた。

「ザルーエクからアストリア共和国の国境までは、通常は馬で十四、五日かかるそうよ。でも、シルヴァがエーデルワイス砦を攻めたのは、ザルーエクで行方をくらませてからわずか十日後なの。つまり、誰かがシルヴァの名前を騙っている可能性もあるわ」
「偽物か……」
「うん。その可能性が大きいと思う。ダリウス将軍が調査して、何か分かったら教えてくれることになっているわ」
 アトロポスはダリウス将軍とマグノリアの親子の再会に力を貸したことをバッカスに告げた。

「つまり、最初は敵だったダリウス将軍も、今では有力な味方になったってことか……」
「そういうことよ。味方にすれば、あれほど頼りになる男性もなかなかいないわ」
 アトロポスの言葉を聞いて、バッカスが苦笑いを浮かべた。
「お前、俺には女と話しただけでヤキモチを焼いておいて、自分は他の男を褒めるのかよ……」
「当然でしょ。私はダリウス将軍を尊敬できる人物だと思っているだけで、あなたみたいに嫌らしい下心なんてないもの」
 ジロリとアトロポスに睨まれて、バッカスは慌てて手を振った。

「俺だって、下心なんてなかったぞ」
「どうだかね? あの娘の胸ばっかり見てたくせに……」
 形勢が悪いことを自覚すると、バッカスは話を戻した。
「そんなんじゃなかったけどな……。それより、ローズはこれからどうするんだ? シルヴァレート王子を捜しに行くのか、それともアルティシア王女に逢いに行くのか?」

「ずいぶんと迷っていたけど、シルヴァのことはダリウス将軍に任せることにしたわ。私は姫様に逢いに行く。そして、姫様が今のアンドロゴラス王の政策をどう思っているのかを確認するわ」
 アトロポスはバッカスの濃茶色の瞳を真っ直ぐに見据えて言った。彼女がこの決断をした理由は、バッカスだった。シルヴァレートには会いたいが、バッカスと一緒には会いたくないというのが、今のアトロポスの本音だった。

「もし、アルティシア王女が王権を取り戻したいと言ったらどうするんだ?」
「分からない……。姫様の話を聞いてから決めるわ。当時は分からなかったけど、今ならはっきりと言えるわ。アルカディア王の政策は間違っていた。それを正して国民を救ったのが、今のアンドロゴラス王よ。そのことを姫様が否定されるのであれば、私はどんなことをしても姫様を説得するわ」

「そうか……」
 バッカスは、アトロポスが強い理由が今はっきりと分かった。他の誰もが経験したことのない過酷な運命を、アトロポスは自分の力で切り開いてきたのだ。大人顔負けの苦難を、この十六歳の少女が乗り越えてきたのだ。だからこそ、アトロポスは誰よりも気高く孤独なのだ。
 バッカスは、自分の命に替えてもアトロポスを支えていこうと、決意を新たにした。

「それと、最後に一つだけ……。私の名前は、アトロポス=ローズよ。ローズは姓なの。名前はアトロポス。運命の糸を紡ぐ女神と同じ名前だそうよ。だから、あなたの運命は、私が紡いであげる。この先、どんなに過酷なことが待っているとしても、あなたと私の運命の糸は絶対に切れない。私が切らさないわ、バッカス」
 そう告げると、アトロポスはバッカスの首に両手を廻した。黒曜石の輝きを放つ黒瞳が、真っ直ぐにバッカスの眼を見つめた。

「アトロポス……いい名だ。これからお前のことを、アトロポスと呼んでいいか?」
 濃茶色の瞳に優しさを映しながら、バッカスがアトロポスの黒瞳を見つめた。二人の唇が徐々に近づいていった。そして、唇が触れる距離で、アトロポスが囁いた。
「あなただけに……許してあげる……好きよ、バッカス。愛しているわ……」
 お互いの唇を重ねると、二人は濃密に舌を絡め合った。

 夜のとばりが下りた後で、窓から差し込む月明かりが優しく二人の裸身を照らした。

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