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第2章 十八歳の軌跡

9.姫百合

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「それで、そちらの方はどなたなの? ここは関係者以外立入禁止のフロアなんだけど……」
 今日は将成が必修の授業があるため、咲希が一人で神社幻影隊S.A.P.本部に報告に来ると連絡を受けていたのだ。その咲希の横に座っている美少女の姿を見つめて、色葉が困惑の表情を浮かべた。
 色葉の隣では大和がいぶかしげな顔をしながら、その少女の美しさに目を瞠っていた。

わたくしは、宝治玉藻ほうじたまもと申します。ゆえあって、咲希と一緒に暮らすことになりました。以後、お見知りおきくださいませ」
 時代がかった玉藻の挨拶に、色葉と大和は顔を見合わせた。

「えっと……、玉藻は一応、那須の事件の関係者なんです」
殺生石せっしょうせきの……? もしかして、被害者なの……?」
 咲希の言葉に黒茶色の瞳を見開きながら、色葉が身を乗り出して訊ねた。被害者がいるという報告は受けていなかったが、もしそうであれば賠償の問題に発展する可能性があるからだ。

「いえ……。被害者というか、どちらかと言えば当事者のような……」
「どういうことだ、咲希? ちゃんと説明してくれ」
 煮え切らない咲希の言葉に、大和が厳しい視線で見据えてきた。目の前の美少女が「殺生石事件」の関係者であるとは、とても思えなかったのだ。

「そうだ……! お二人は、玉藻って名前に聞き覚えはありませんか?」
 玉藻の正体が九尾狐クミホであるとすぐに告げるのはショックが大きすぎると思い、咲希は外堀から少しずつ埋めていこうと考えた。
「玉藻……? 珍しい名前だけど、知り合いにはいないわね。大和は知ってる?」
「いや……。これだけ美人なら、一度あったら忘れるはずないと思うが……」
 妖艶な玉藻の色香に惑わされている大和を、色葉が嫉妬のこもった視線で睨んだ。

「咲希、こちらのお二人はどういう方々ですの?」
 まだ紹介を受けていない玉藻が、怪訝な表情を浮かべながら咲希に訊ねた。その言葉に、色葉と大和が慌てて自己紹介を始めた。

「ごめんなさいね、挨拶が遅れたわ。あたしは咲希の上司で、神社本庁神宮特別対策部、神社幻影隊シュライン・アペックス・ファントム主任宮司リーダー天城色葉あまぎいろはよ。そして、隣にいるのが……」
神社幻影隊シュライン・アペックス・ファントムは、通称、S.A.P.と呼ばれているんだ。俺はS.A.P.の副主任宮司サブリーダー国城大和くにしろやまとだ。よろしく、宝治さん……」

「宝治玉藻です。咲希とは昨日知己ちきを得たばかりですが、よろしくお願いいたします」
 二人が差し出した名刺を受け取ると、玉藻が改めて挨拶した。
「昨日知り合ったばかりで、一緒に暮らすの?」
 色葉が驚いて、咲希に訊ねた。

「はい……。玉藻は住むところがないんで、取りあえずあたしのマンションに……」
「そうか……。こんな綺麗な子を放り出したら可哀想だからな……痛ッ!」
 テーブルの下で、色葉がヒールの踵で大和の足を踏みつけながら訊ねた。
「まず、宝治さんが「殺生石事件」のどんな関係者なのかを教えてくれるかしら?」
「はい……。それは……」
 どこから話していいのか分からずに、咲希は玉藻の顔を見つめた。

わたくし、三日前に久しぶりに目を覚ましたのでございます」
「三日前……?」
 色葉は玉藻の言葉があることと符牒ふちょうが合っていることに気づいた。三日前といえば、殺生石が二つに割れた日だった。
「長い間眠っておりましたので、ある程度力が戻ったのは昨日のことでございました」
 玉藻の説明を聞いて、咲希は咲耶が告げた言葉を思い出した。

『お主、復活したばかりじゃな? 八百年前と比べて、大きく力が落ちておるぞ……。本来のお主が放った火球なら、とて簡単に斬り裂くことなどできなかったじゃろうに……』

(三大妖魔とは言え、八百年も眠っていたらすぐには力が戻らないのも当然かも……)
 咲希は左隣に座る玉藻の美しい横顔を見つめながら思った。すると、独り言のつもりだったのだが、咲耶の声が脳裏に響いた。
『恐らく、今の此奴こやつは全盛期の力の十分の一程度しかないぞ。まあ、ひと月もすれば元の力を取り戻すやも知れぬが……』

(そうなっても、咲耶の方が力は上なの……?)
『八百年前と同じ力であれば、の方が上のはずじゃ……。まあ、ギリギリといったところかも知れぬがな……』
 つまり、咲耶、夜叉ヤクシャ九尾狐クミホの力は、ほとんど同等だということに咲希は気づいた。

「長い間寝ていたって、入院してたってことかい?」
 左足の甲を擦りながら、大和が訊ねた。その言葉に、玉藻がキョトンとした表情を浮かべた。
「入院……ですか? 咲希、入院とは何でしょうか?」
「病気や怪我を治す場所で休むことよ……」
 デジャヴを感じながら、咲希が説明した。一年半前、咲耶と再会した頃にも色々と質問攻めに遭ったことを思い出したのだ。

「入院とは異なりますわ。ある悪い方に、ずっと眠らされていたのです」
『悪い方とは何じゃッ! 鳥羽上皇を騙して、国中を混乱させたのはどこのどいつじゃッ!』
 玉藻の説明を聞いた途端に、咲耶が憤慨して叫んだ。
(まあまあ……。取りあえず、玉藻の話を聞きましょう……)
 慌てて咲耶を宥めると、咲希が先を促すように玉藻を見つめた。

「悪い奴に眠らされてたって、監禁でもされてたの?」
 玉藻の言葉に、色葉が驚いて眼を見開いた。
「はい、似たようなものですわ。そして、昨日その悪いお方がわたくしに会いにいらしたのです。怖くなって反抗したら、その方は刀でわたくしの左肩を切りつけてきました」

「ち、ちょっと……!」
 何の悪気もなさそうに自分の視点で話す玉藻に、咲希が文句を言おうとした。だが、それよりも早く色葉と大和が同情の言葉をかけた。
「暴力団なの、その男は……? 警察には行った? 怪我は大丈夫だったの?」
「まだそいつに狙われてるのか? 何なら、俺たちがそいつを捕まえてやろうか?」
 いつの間にか悪人にされた咲希が、茫然として玉藻を見つめた。

『分かったであろう? 此奴こやつは昔から人に取り入るのが得意なのじゃ。早いとこ此奴こやつの正体を告げぬと、極悪人にされてしまうぞ』
 咲耶の意見に、咲希が大きく頷いた。だが、玉藻の言葉を否定しようとするよりも早く、彼女が話を続けた。

わたくしは必死でその方から逃げて、何とか一命を取り留めました」
「大変だったわね。それで咲希を頼ったっていう訳ね? 咲希、あなたの力で彼女を守ってあげなさい。これは、S.A.P.の主任宮司リーダーとしての命令よ」
 黒茶色の瞳に真剣な光を浮かべながら、色葉が告げた。その様子を見て、咲希は小さくため息をついた。

「玉藻、今の説明だと、あたしが悪者みたいなんだけど……」
「そんなことございませんわ。あたしを傷つけたのは、咲希ではありませんもの……」
『何じゃ、この女狐はッ! すべてが悪いような言い方ではないかッ!』
 脳裏に響き渡る咲耶の叫びを無視して、咲希が色葉に向かって告げた。

「色葉さん、今の話はあくまで玉藻の立場から見たものです。今度は同じことをあたしの立場で話しますね」
 そう前置きすると、咲希は昨日のことを説明し始めた。

「将成とあたしが殺生石の前に到着したのは、昨日の午後一時過ぎでした。聞いていたとおり、殺生石の注連縄しめなわは引き千切られて、石は真っ二つに割れていました。その中心は丸く抉られていて、まるで卵から何かが抜け出たように見えました」
 具体的な描写を含んだ咲希の話に、色葉と大和は真剣な表情を浮かべた。

「最初、殺生石の周囲には何の妖気もありませんでした。しかし、突然凄まじい妖気が殺生石から溢れ出て、周囲が漆黒の闇に包まれたんです。そして、その闇が晴れると、あたしは一人で広い草原に立っていました」
「草原……?」
 咲希の説明に、色葉が怪訝な表情を浮かべた。

「はい、それが九尾狐クミホの結界の中だったんです」
九尾狐クミホが実在したのかッ!」
 細い眼を限界まで見開きながら、大和が叫んだ。その叫びに頷くと、咲希が話を続けた。
「あたしの目の前には、真紅の着物を着た美しい女性が立っていました。その女性が九尾狐クミホであることはひと目で分かりました。何故なら、彼女から感じた妖気は、夜叉ヤクシャに勝るとも劣らないものだったからです」

夜叉ヤクシャに……。やはり、九尾狐クミホは三大妖魔と呼ばれるに相応しい妖気を持っていたってわけね?」
 美しい貌に緊張を浮かべながら、色葉が訊ねた。
「はい。もし彼女のSA係数が測定可能だとすれば、一万以上は確実だと思います」
「い、一万だとッ……?」
 S.A.P.で最強の力を持つ咲希でさえ、SA係数は二一五〇なのだ。大和は驚愕のあまり言葉を失った。

「そして、九尾狐クミホはあたしを咲耶と間違えました」
「咲耶……?」
 初めて聞く名前に、大和が咲希の顔を見つめながら訊ねた。
「色葉さんには前に話したと思います。木花咲耶このはなさくや……あたしの守護神です」
「あの話……本当なの……?」
 茫然とした表情を浮かべた色葉に、咲希は大きく頷いた。

「約八百年前に、九尾狐クミホを殺生石に封印したのは咲耶でした。九尾狐クミホは八百年の間に少しずつ力を取り戻していって、三日前に殺生石からこの世界に戻ってきたんです。そして、あたしの中にいる咲耶ごと、あたしを殺そうとしました」
「……ッ! 怪我はしていないわよね? どうやって九尾狐クミホから逃げられたの?」
 咲希の身を案じて、色葉が体を乗り出しながら訊ねた。

「直径二メートルを超える火焔の熱球を投げつけられ、あたしは死を覚悟しました。その時に、あたしの中で眠っていた咲耶が目を覚ましたんです。そして、<咲耶刀>でその火球を両断してくれました。その時の余波で、九尾狐クミホの左肩に傷が入ったんです」
 予想を遙かに超える咲希の体験に、色葉も大和も言葉を失って固まった。

「咲耶はある事情で、九尾狐クミホを見逃しました。その九尾狐クミホが、今日あたしに会いに来たんです」
 そう告げると、咲希は左隣に座っている玉藻の顔を見つめた。
「まさか……?」
「嘘だろ……?」
 美しい貌に魅惑的な微笑を浮かべた玉藻を見つめて、色葉と大和は驚愕のあまり眼を見開いた。

「古代中国のいん王朝における妲己だっき、西周で傾国の美女と呼ばれた褒似ほうじ、鳥羽上皇の寵姫であった玉藻前たまものまえ……。宝治は褒似ほうじから、玉藻は玉藻前から取った名前のようです……」
 咲希の説明を聞き終えると、玉藻は優雅な所作で立ち上がった。そして、腰まで伸ばした長い黒髪を揺らしながら、色葉と大和に改めて挨拶をした。

「宝治玉藻と申します。以後、お見知りおきくださいませ……」

 色葉と大和は衝撃のあまり、言葉を失って硬直していた。


 立川にある自宅マンションに戻ると、咲希は持っていた荷物をドサリとフローリングに置いた。新宿のサブナードで玉藻の服や下着、生活用品や食料などをまとめ買いしてきたのだ。
「ふう、重かった……。あなたのおかげで凄い散財だったわ。感謝してよね……」
 今日一日で、十五万円以上もの出費だった。身長は咲希とほとんど変わらない玉藻だったが、咲希の服はサイズが合わなくて着られなかったのだ。玉藻の胸は咲希より二カップも大きかったのだ。

「まったく、何を食べたらそんなに成長するのよ……?」
 白いニットセーターを大きく盛り上げている玉藻のバストを見つめながら、咲希が羨ましそうに告げた。
「色々とありがとうございます、咲希……。どうですか、これ? 似合いますか……?」
 買ってきた黒のワンピースを体の前に当てながら、玉尾が嬉しそうに笑顔で訊ねてきた。

「うん、よく似合っているわよ……口惜しいけど……。あたしには、そんな大人っぽい服、合わないからね……」
 色白で美しい玉藻は、ファッションモデルのように何を着ても様になった。その上、女の咲希から見てもゾクッとするほどの色香があるため、どんなセクシーな服でさえもしなやかクールに着こなすのだ。

「そうですわ。わたくしとしたことが、忘れるところでした。買っていただいた着物のお代を渡しておきますわ」
 にこやかな笑みを浮かべながら、玉藻が咲希に向かって告げた。
「お代……? あなた、お金持ってたの?」
「はい。こう見えても、かなり蓄えがあるんですの」
 驚いた表情を浮かべる咲希に、玉藻が自信満々に頷いた。

「まさか、昔の財宝とかじゃないでしょうね?」
 古代中国の装飾品や平安時代の通貨などを渡されても困ると思い、咲希が釘を刺した。その予想を裏切らないセリフを玉藻が口にした。
「何か問題があるのですか? 宝石がたくさんついた髪飾りとか、翡翠の首飾りや腕輪などが数え切れないほどあるのですが……」
 玉藻の言葉にハアッと大きなため息をつくと、咲希が呆れたように言った。

「そんなもの、女子大生が換金したら大ごとになるわよ。S.A.P.の報酬もあるし、当面はあたしがあなたの生活費を何とかするわ。その代わり、落ち着いたらあなたにも働いてもらうからね……」
「働くのですか? わたくしが……? 仕事というものは、殿方がするものでは……? 女子おなごはそれを享受しておればよいではないですか?」
 キョトンとした表情を浮かべて、玉藻が首を捻った。その仕草を見ただけで、世の中の男たちは彼女のために死に物狂いで働くに違いなかった。

「いつの時代の話をしているのよ? 今は男女平等なの……」
 ドッと疲れを感じて、咲希はため息をつきながらベッドに腰を下ろした。その時、不意に玉藻が両手をパンッと慣らして叫んだ。
「そうですわ! よい事を思いつきましたわ。これならば、今も使えるのではありませんか?」
 そう告げると、玉藻は黄金に輝く金の延べ棒を取り出して咲希の目の前に置いた。窓から差し込む夕陽を反射して、金の延べ棒が燦然と輝きを放った。

「ち、ちょっと……! そんなもの、どこから取り出したのよッ?」
 ズシリと重そうな金の延べ棒を見て、咲希が驚愕した。
わたくしの結界の中からですわ。それ一本で一貫はあります。同じ物があと五千本はあるかと……」
「ご、五千って……」
 一貫は3.75㎏だ。現在の金の価値に換算すると、この一本だけで三十万円以上だった。それが五千本あれば、十五億円を軽く超えていた。

「取りあえず、百本くらいあれば足りますか? 足りなければあるだけお渡ししておきましょうか?」
「あ、あるだけって……。そんなにいらないわよ」
 ニッコリと微笑みながら告げる玉藻の言葉に、咲希は顔を引き攣らせた。こんな物を五千本も換金する女子大生がどこにいるのかと言いたかった。

(どうする、咲耶……?)
 生活費を入れてもらうのは助かるが、その方法と規模は咲希の常識を遙かに超えていた。驚愕と困惑のあまり、咲希は咲耶に助けを求めた。
『それは今の価値にすると、どのくらいなのじゃ?』
(たぶん、これ一本でプリンが千個くらい食べられるわ……)

『何とッ! ぜひ、もらっておくのじゃッ! 一本と言わずに、あるだけもらっておくのじゃッ!』
 興奮した咲耶が、咲希の脳裏に大声で叫んだ。
(バカ言わないでッ! そんなにもらえるはずないでしょッ!)
 咲耶のおかげで、咲希は冷静さを取り戻した。

「それじゃあ、一本だけいただくわ。今日の買い物代とあなたの当面の生活費を合わせると、そのくらいだから……。足りなくなったら、また請求させてもらうってことでいいかな?」
「それだけでよろしいのですか? でも、何度もお渡しするのは面倒なので、百本ほど渡しておきますね」
 玉藻がそう告げると、次の瞬間には咲希の目の前に百本の金の延べ棒が積まれていた。

「ち、ちょっと……! こんなにいらないってばッ!」
 黒曜石の瞳を見開いて叫ぶ咲希に、玉藻がニッコリと笑顔を浮かべながら言った。
「遠慮なさらないでくださいませ。こんな物、わたくしの蓄えの中では最も価値が低いものですから……」
 玉藻のセリフに、咲希は茫然として言葉を失った。

(そう言えば九尾狐クミホって、妲己だっき褒似ほうじだったんだっけ……? さすがに昔の皇帝や王族を手玉に取ってきた女だわ……。スケールが違いすぎる……)

 燦然と輝く金の延べ棒百本を前にして、艶然と笑みを浮かべる玉藻の美貌を咲希は見つめた。その日、咲希が手にしたのは、現代の価値に換算すると三千万円を超える黄金だった。


「さすがに、シングルに二人で寝るのは狭いわね……」
 フローリングに玉藻を一人で寝かせる訳にもいかず、咲希は自分のベッドを半分使わせることにした。
(これも同衾って言うのかな……?)
 このベッドで将成と何度か愛し合ったことはあったが、女同士で寝るのは初めてだった。

「咲希には感謝しておりますわ。わたくし九尾狐クミホと知った上で、このようによくしていただいて……」
「玉藻……?」
 突然、感謝の言葉を述べ始めた玉藻に驚いて、咲希が目の前にある美貌を見つめた。

「お礼をさしあげたいと思うのですが、いかがですか?」
「お礼……? さっき、金の延べ棒をたくさんもらったじゃない?」
「あれは、わたくしの生活費ですわ。わたくしが申し上げているのは、九尾狐クミホとしてのお礼・・です。どうか、お受けくださいませ……」
 そう告げると、玉藻の全身から紛れもない妖気が溢れ始めた。

「……ッ! 玉藻、何をッ……?」
 驚愕に叫び声を上げようとした咲希は、玉藻の眼を見つめた瞬間に硬直した。
(か、体が動かないッ……?)
 夜の星々のように煌めく玉藻の黒瞳に、咲希は吸い込まれるような恐怖を感じた。全身が金縛りに遭ったかのように麻痺して、指一本動かすことができなかった。

(咲耶ッ! 何とかしてッ! 咲耶ッ……!)
『落ち着くのじゃ、咲希……。お前を傷つけようという意志は、九尾狐クミホから感じぬ。もしかして、此奴こやつ……?』
 玉藻の考えに気づくと、咲耶はニヤリと笑みを浮かべた。そして、楽しそうな表情で咲希に告げた。
『何事も経験じゃ……。一度、試してみるがよい』
(経験……? 試すって、何を……?)
 そう思った瞬間、咲希は黒曜石の瞳を大きく見開いた。

「……ッ!」
 美しい玉藻の顔が近づいてきて、咲希の唇を塞いだのだ。
(そんなッ……? 女同士で、キスを……?)
 小さくて柔らかく、熱い舌が咲希の唇を割って挿し込まれた。そして、ゆっくりと口腔を撫で回すと、ネットリと咲希の舌を絡め取った。その瞬間、咲希は全身をビクンッと跳ね上がらせた。凄まじい快感が脳天に突き抜けたのだ。

(うそ……? 何、これ……? 気持ちいい……。こんなキス……知らない……)
 まるで強力な媚薬でも飲まされたかのように、急激に体中が熱く火照り始めた。咲希は無意識に自ら舌を絡めると、抑えきれない快感で全身をビクッビクッと痙攣させた。凄絶な愉悦に意識が急速に白くなっていき、閉じた瞼の裏でチカチカと閃光が瞬き始めた。

(そんな……、うそッ……? あたし、イッちゃうッ……? だめッ……! イクッ……!)
 次の瞬間、ビクンッビクンッと総身を痙攣させると、咲希は歓喜の頂点に駆け上がった。
九尾狐クミホのお礼、いかがですか? いん紂王ちゅうおうも、西周の幽王も、わたくしの口づけを得るために幾多の国々を滅ぼしました……」
 凄まじい官能に蕩けきった瞳で、咲希が玉藻の濡れた唇を見つめた。そして、玉藻が告げた言葉が真実であることを実感した。今のキスは、いまだかつて得たことがない壮絶な快感を咲希に刻み込んだのだった。

「もう一度、欲しいですか……? 九尾狐クミホ口づけおれいを……」
 魂さえ蕩かせるような玉藻の声に、咲希は無意識に頷いていた。玉藻の美貌が近づいてくると、咲希の唇を再び塞いだ。その舌がネットリと絡みつき、甘い唾液が注ぎ込まれた瞬間、咲希は再び絶頂を極めた。だが、歓悦の頂点を極めて慄える咲希を無視するかのように、玉藻はネットリと舌を絡ませ濃厚な口づけを続けた。

(うそ……! だめッ! また、イッちゃうッ! だめぇッ! イクぅううッ!)
 背筋を大きく仰け反らせると、咲希は全身をビックンッビックンッと凄絶に痙攣させながら続けざまに絶頂を極めた。頭の中が真っ白に染まり、全身が痙攣し続けて四肢の先端まで凄まじい快感に痺れきった。将成に愛されたときの数倍にも及ぶ快絶が、咲希の意識をドロドロに蕩かせた。

 限界を超える官能の奔流に、茫然と見開いた黒瞳からは随喜の涙が流れ落ち、ワナワナと震える唇からはネットリとした涎が糸を引いて垂れ落ちた。
 ビクンッビックンッと痙攣を続ける咲希を見下ろすと、玉藻はニッコリと微笑みを浮かべながら告げた。

「今宵はここまで……。これ以上したら、こわれてしまいますわ」
 その言葉を耳にした瞬間、咲希の意識はスーッと暗闇に吸い込まれるように消滅した。女同士の口づけを受けて、咲希は生まれて初めて失神したのだった。

『さすがに、世界の名だたる王侯を手玉に取ってきただけあるわ。ネンネの咲希には、刺激が強すぎたかのう……?』
 美しい貌にニヤリと微笑を浮かべながら、咲耶は好敵手ライバルの手腕に満足そうに頷いていた。
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