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第2章 十八歳の軌跡
8.運命の再会
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選択科目である流通論の講義をさぼると、水嶋翔琉は一人でヒルトップに向かって歩いていた。新入生勧誘のイベントも一段落し、通路に出ているサークルの数も先週より激減していた。
(今年の新入生は五人か……。そのうちの三人が可愛い女の子だったから、まあ豊作の方だな……。それにしても、神守咲希って本当に『残念美人』だったよな……)
新歓コンパで泥酔し、桐生将成に向かって『あたしのバージン、返してよッ! すっごく痛かったんだからねッ!』と叫んだ咲希を思い出して、翔琉はニヤニヤと笑みを浮かべた。
(サークル全員の前で『自分の処女は将成に捧げました』って宣言するなんて、いったいどういう神経してるんだか……)
新入生を勧誘している時に、咲希の美貌に一目惚れをして声をかけたのは翔琉だった。この子を絶対に落としてやると決めた三日後に、「バージン事件」が起こったのだった。
(将成の奴、思ってたよりもずっと手が早かったんだな。さすがに友達の彼女を奪うわけにもいかねえし、今回は諦めるか……。ああ、どこかにいい女いねえかな……?)
何気なく周囲を見渡した翔琉の視界に、ヒルトップから出て来た一人の女生徒が映った。その女性を眼にした瞬間、翔琉の時間が停止した。
艶やかな漆黒の髪を腰まで伸ばした絶世の美女だった。肌の色は抜けるように白く、小さめの顔には切れ長の眼や細く高い鼻梁、魅惑的な唇が絶妙のバランスで配置されていた。V字に胸元が開いた白いスキニーニットを盛り上げる胸は大きく、引き締まったウェストを包む黒のタイトスカートからは細く長い脚が伸びていた。
美しく煌めく瞳は漆黒で、星々の輝きを放って翔琉を魅了した。その瞳に引き寄せられたかのように、気づいたら翔琉はその女性の目の前に立っていた。
「何か……?」
長い黒髪を揺らしながら、その女性が首を傾げて翔琉を見つめた。その美しい黒瞳に魅入りながら翔琉はゴクリと生唾を飲み込んだ。これほどの美女と間近でまみえるのは、咲希を勧誘したとき以来だった。だが、目の前の彼女からは、咲希にはない妖艶な女の色香が放たれていた。
「き、君……新入生だよね?」
無意識に声が震えた。女に声をかけるのにこれほど緊張するのは初めてだった。
「新入生……?」
キョトンとした表情を浮かべた彼女も美しかった。天が恵んでくれたチャンスを活かそうと、翔琉は勢い込んで彼女に話しかけた。
「俺は商学部二年の水嶋翔琉ッ……! 天文旅行サークルの渉外をやってるんだ!」
「はあ……」
興味なさそうな声で応えると、彼女はその場を立ち去ろうとした。翔琉は慌てて彼女の前に回り込むと、思わず行く手を塞ぐように両手を広げながら言った。
「よかったら、うちに入ってくれないか? 何なら、名前を置いてくれるだけでもいいから……」
「名前でございますか……?」
彼女の言葉に大きく頷きながら、翔琉が語気を強めた。
「そう、君の名前を教えてッ!」
実のところサークルの勧誘など、どうでもよかった。単に彼女の名前を知りたいという欲求だけが翔琉を支配していた。
「宝治玉藻と申します。もう、行ってもよろしいでしょうか?」
玉藻は翔琉から視線を外すと、黒髪を靡かせながら歩き始めた。急いで彼女の横に並ぶと、翔琉は本気で玉藻を口説き始めた。
「君みたいな美人に、ぜひ入って欲しいんだ。サークルの説明をするから、少し時間をくれないかい? お茶でも奢るよ!」
「残念ですが、私、人を捜しておりますので……」
「人捜し……? 何なら、手伝おうか? こう見えても、結構人脈はあるんだ……。名前や学部を教えて……」
これほどの美人とこのまま別れるには惜しいと思い、翔琉が追いすがった。少しでも一緒にいられるのならば、口実など何でもよかった。
「学部というものは存じておりません。お名前も、サキとしか……」
「サキッ? 咲希って子なら、うちのサークルにも一人いるよ!」
思いも寄らない天の恵みに、翔琉は嬉しそうに叫んだ。
「本当でございますか?」
翔琉の言葉を聞いて、玉藻が美しい黒瞳を見開きながら笑みを浮かべた。
「うちにいるのは神守咲希って子なんだけど、苗字は分からないのかい?」
「はい……。存じているのは、サキって名前だけでございます。とても綺麗な方なので、目立ってはいるかと思うのですが……」
玉藻の言葉に、彼女が捜しているサキが咲希であることを確信した。
(この子が綺麗って言うくらいだから、相当な美人だ。咲希も黙っていたら絶世の美女だし、たぶん間違いないだろう?)
咲希が聞いたら怒りそうなことを考えながら、翔琉が玉藻に告げた。
「何だったら、サッキーを呼び出してあげようか?」
「サッキー……?」
「ああ、咲希って子の愛称なんだ。待ってて、今呼んでみるから……」
そう告げると、翔琉はスマートフォンを取り出して咲希に電話をかけ始めた。五回目のコールで、咲希が電話に出た。
突然鳴りだしたメロディに、咲希は急いでボリードからスマートフォンを取り出した。そして、液晶に表示された名前を見て、首を傾げた。
「誰からだい……?」
不審そうな咲希の様子に気づき、右横を歩いている将成が声をかけてきた。
「水嶋さんから……。何だろう……?」
サークルの連絡を受けるために携帯番号は教えていたが、翔琉から電話をもらうのは初めてだった。咲希は通話アイコンをスライドさせて、電話に出た。
「もしもし……?」
「サッキー? 水嶋だけど……。今、時間ある?」
「えっと……今、将成……桐生さんと一緒にいるんですが……」
将成の顔を見上げながら、咲希が翔琉に告げた。
「将成と……? まあ、あいつが一緒でもいいや。ちょっとヒルトップまで来れるかな?」
「はい……。ちょっと聞いてみますね」
そう告げると、咲希はマイク部分を押さえながら将成に訊ねた。
「水嶋さんがヒルトップまで来て欲しいって……。行ってもいいかな?」
「いいけど……。俺も一緒に行くよ」
翔琉の手の早さを知り尽くしている将成が、苦笑いを浮かべながら告げた。
「もしもし……。OKだそうです。ヒルトップのどこに行けばいいんですか?」
聖光学院大学のヒルトップは、四階建ての大きな建物だ。一階には書籍や学用品、生活用品が販売されている生協があり、二階から四階は学食になっていた。ハンバーガーショップやコンビニエンスストアを始め、カフェテリア、中華、洋食、日本食など十店舗もの店が入っている言わば大規模なフードセンターだった。特に二階にあるカフェテリア兼ベーカリーは広大で、その席数は八百席以上もあった。
「二階のカフェテラスに来てくれるか? あそこなら席数も少ないからすぐに見つかるよ」
オープンテラスになってる二階の喫茶店を翔琉が指定してきた。その喫茶店のメニューにプリンアラモードがあることを思い出すと、咲希は苦笑いを浮かべた。
(咲耶が知ったら、うるさいだろうな……)
その咲耶は今、咲希の中で爆睡していた。昨夜遅くまで、夢中でスマホゲームをやっていたのだ。
「分かりました。今、三号館の近くにいるので、十分くらいで行けると思います」
「分かった、待ってるよ……」
そう告げると、翔琉からの通話が切れた。咲希は将成の顔を見つめながら、呼び出された理由を訊ねた。
「何の用かな? 特に急ぎの連絡事項ってないわよね?」
「さあ……? あいつのことだから、先週の「バージン事件」の真相を聞きたいだけかもよ」
「し、将成ッ……!」
笑いながら告げた将成の言葉に、咲希は真っ赤になって叫んだ。それは咲希の大学史を飾る最大の黒歴史だった。
「まあ、取りあえず向かうか……。呼び出されたんだから、プリンでも奢ってもらえよ」
「そうね……。咲耶も寝てるし、久しぶりにプリン食べてみようかな……?」
咲耶の帰りを待っていた一年半、咲希はずっとプリン断ちををしていたのだ。その想いを仇で返されたことを思い出して、咲希は咲耶の目の前でプリンを食べてやろうと決意した。
(九尾狐から助けてくれたのはいいけど、その後で将成に色々と恥ずかしいことを暴露させたことはまだ許してないんだからね! しばらくの間、あんたにはプリン食べさせないんだから……!)
ニヤリと悪だくみの笑みを浮かべると、咲希は将成と一緒にヒルトップへと向かって行った。
昼休みも終わった三限目の途中ということもあり、二階のカフェテリアにいる学生の数は思ったよりも少なかった。咲希たちは南側にあるガラス扉を開けて、カフェテラスの中に入っていった。三十席ほどの店内には、二組の学生しかいなかった。そのうちの奥にいる二人の学生に向かって歩こうとし、咲希は驚愕のあまり足を止めた。
「どうした、咲希……?」
こちらに向かって手を振っている水嶋翔琉までの距離は、あと十メートルもなかった。不意に立ち止まった咲希を不審な表情で見つめながら、将成が訊ねてきた。
「……て……」
「え……?」
咲希の言葉が聞き取れずに、将成が聞き返した。そして、咲希の横顔を見た瞬間、将成は驚愕に眼を大きく見開いた。
「逃げ……て……、将成……」
ガクガクと全身を震わせながら、咲希が蒼白な表情で告げた。その黒曜石に輝く瞳は、激甚な恐怖を映しながら真っ直ぐに前を見据えていた。
「咲希……? どうしたんだ……?」
「は、早く……逃げてッ! 九尾狐よッ!」
翔琉の隣に座る女生徒を見つめながら、咲希が叫んだ。
「何だってッ……?」
咲希の視線を追って、将成がその女生徒を見つめた。
腰まで真っ直ぐに伸ばした黒髪と、陶磁のような白い肌を持つ絶世の美女だった。切れ長でやや釣り上がった眼には漆黒の瞳が輝き、細く高い鼻梁に続く唇は濡れたように艶やかだった。
清純な色香を持つ咲希とは異なり、その女性は妖艶とも言える娼婦のような色気に満ちていた。白いニットセーターを盛り上げる胸は豊かで、咲希よりも二カップ以上は大きかった。
将成は思わずゴクリと生唾を飲み込んで彼女を見つめた。これほど濃密な色気を放つ美女から視線を外すことなど、できるはずがなかった。翔琉がすでに彼女の虜になっていることは、ひと目見て分かった。
「何してるんだ、こっちに来て座れよ……」
翔琉の声に、咲希はハッと我に返った。そして、彼の隣に座る美女の顔を改めて見つめた。
(やっぱり、九尾狐にそっくりだわ……。でも、彼女から妖気はまったく感じない……)
外見は九尾狐そのものだが、妖気をゼロにすることが可能なのか咲希には分からなかった。それとも、本当にただの他人のそら似なのだろうか?
「咲希、本当に九尾狐なのか……?」
将成が咲希の耳元で囁いてきた。その言葉に、咲希は小さく首を振った。
「分からない……。妖気は感じないけど、見た目は九尾狐そのものよ……」
「とにかく、話を聞いてみよう……。妖気がないってことは、すぐに攻撃する意志がないっていう意味だろう?」
「そうね……。本当に九尾狐だとしたら、あの膨大な妖気を隠しきれるとは思えないし……」
蒼白な表情のまま頷くと、咲希は将成を守るように彼の前を歩いた。
「紹介するよ……。こちらは、宝治玉藻さん……」
「宝治と申します。よろしくお願いいたします……」
美しい貌に微笑みを浮かべながら、玉藻が二人に頭を下げた。長い黒髪が揺れて、芳しい香りが鼻孔をくすぐった。
「神守咲希です……よろしくお願いします」
「桐生将成です。よろしく……」
二人は玉藻に自己紹介すると、四人掛けのテーブル席に並んで腰を下ろした。玉藻の前に咲希が、翔琉の目の前には将成が座った。
「玉藻さん、どうかな……?」
翔琉が玉藻に、捜しているサキが咲希で合っているのかを訊ねた。当然ながら、咲希と将成には翔琉の質問の意味が分からなかった。
「はい……。間違いございません。私が捜していたのは、こちらの方です」
「そうか……。よかった……」
玉藻の答えに、翔琉が嬉しそうな笑顔を浮かべながら告げた。これで、玉藻との縁がすぐに切れることがなくなったからだ。
「捜していたって、あたしをですか?」
咲希が緊張しながら、玉藻の美しい貌を見つめた。
(やはり、この女は九尾狐なの……?)
『どういうことじゃ、これは……? 何故、九尾狐がここにおるのじゃ?』
突然、咲希の脳裏に咲耶の声が響き渡った。
(咲耶……! よかった……今、起こそうかと思ってたわ。やっぱり、この女は九尾狐なの? 妖気がまったく感じられないけど……)
九死に一生を得た気持ちで、咲希がホッと胸を撫で下ろした。咲耶さえいれば、九尾狐が相手でも何とかなると思ったのだ。
『九尾狐ほどの妖魔なら、妖気の制御など容易いことじゃ。それに、此奴は自分で名乗ったであろう?』
(宝治玉藻って言ってたけど……?)
咲耶の言葉に首を捻りながら、咲希が訊ねた。
『宝治は、褒似じゃ……。その昔、西周を滅亡に導いた傾国の美女……褒似のことじゃ。そして、玉藻は日本における九尾狐の名そのものではないか? 鳥羽上皇の寵姫であった玉藻前じゃぞ……』
(……! たしかに……)
咲耶の説明を聞いて、咲希は納得した。やはり、間違いなく目の前に座る玉藻が九尾狐であることを確信した。
「安心してください……。今日はあなたのお顔を拝見しに来ただけですから……」
咲希の心を読んだかのように、美しい貌に微笑みを浮かべながら玉藻が告げた。
「顔を見に来た……?」
(何かをするつもりじゃないってこと……?)
『そのようじゃな……。戦うつもりであれば、会った瞬間に攻撃してくるはずじゃ……』
咲希の疑問に、咲耶が頷きながら答えた。
「咲希、大丈夫なのか……?」
将成が厳しい表情で玉藻を見据えながら訊ねてきた。いつでも咲希の前に立てるように、椅子には軽く腰掛けたままだった。
「うん……。大丈夫みたい……」
将成の言葉に頷くと、咲希は玉藻の眼を真っ直ぐに見つめながら訊ねた。
「今日は顔を見に来ただけって言ったけど、本当の目的は何ですか?」
「お、おい、サッキー……! 何でそんなケンカ腰なんだ?」
咲希の言葉に、翔琉が驚いて訊ねた。何も知らない翔琉にしてみれば、咲希が玉藻にケンカを売っているように見えたのだ。
「目覚めたら、昔とずいぶん変わっておりましたわ。ですから、この世界のことを色々と知りたくなったのです。しかし、他に知人がいないので、取りあえずあなたに会いに来たという訳です。しばらくの間、あなたと一緒におりますので、よろしくお願いします……」
「い、一緒にいるって……?」
昨日殺されかけた相手から一緒にいると言われて、咲希は驚きに黒曜石の瞳を大きく見開いた。
たしかに、九尾狐が玉藻前として生きていたのは、平安時代末期だ。その頃に咲耶に封印されたとすれば、およそ八百年以上眠り続けていたことになる。八百年前から突然現代にタイムスリップしたようなものだった。三大妖魔とは言え、戸惑うのは当然かも知れないと咲希は思った。
「ということは、玉藻さん、<プレアデス>に入ってくれるのかい?」
翔琉が嬉しそうに身を乗り出しながら、玉藻に訊ねた。
「<プレアデス>とは……?」
「俺たちの天文旅行サークルの名前だよ。サッキーも将成も、<プレアデス>のメンバーなんだ」
「お二人がご一緒であれば、私は構いませんわ……」
咲希と将成の顔を見つめながら、玉藻が頷きながら告げた。
「ホントかッ! やったッ! では、早速、加入届を……」
鞄から加入届とペンを素早く取り出すと、翔琉は玉藻の目の前に置いた。
「ここに名前を書けばよろしいのですか?」
「そうだよ。サインをしてくれるだけでいい……」
翔琉の言葉に、玉藻は記載されている内容も読まずにスラスラとペンを走らせた。横書きであったが、流れるような美しい草書体だった。
(九尾狐って、もしかして字が読めない……?)
現代のワープロで打たれた文字は、楷書体だった。それも漢字、かな、カタカナだけでなく英語やアラビア数字まで混在している。平安時代に漢字とかな以外の文字があるとは思えなかった。
『此奴、放っておいたら詐欺に遭いまくりじゃのう……』
咲耶も同意見だったらしく、苦笑いを浮かべながら告げてきた。
(でも、連れて帰るわけにはいかないわよ。あたしたちの生命を狙っているんだから……)
『ふむ……。どうするかのう?』
困ったようにため息をつきながら咲耶が言った。
「ところで、玉藻さん。どうやってここが分かったの?」
「私、こう見えても鼻が利くんですの。あなたの神気を追って来たんですわ」
「においって……」
ニッコリと微笑みながら告げた玉藻の言葉に、咲希が顔を引き攣らせた。十八歳の乙女としては、自分の体の臭いが気になったのだ。
「ところで、今どこに住んでいるんですか?」
「どこって、ここですわ……」
咲希の質問に、玉藻はキョトンとした表情を浮かべながら答えた。
「ここ……?」
「ええ……。あそこにある稲荷神社におりますわ」
玉藻は、テラスから正門の左側に見える山の中を指差した。
「稲荷神社……? そんなもの、大学の中にあったの?」
聖光学院大学のキャンパスは八王子市、多摩市、日野市の三市にまたがる広大な敷地だ。敷地内にはほとんど人の手が入っていない小さな山もあった。玉藻が指したのは、その山の中だった。
「そう言えば、聞いたことあるぞ。金住稲荷って神社がキャンパス内にあるって……」
咲希の質問に、翔琉が驚きながら答えた。彼も、玉藻がそんなところに住んでいるなど考えてもいなかった。
(咲耶……、稲荷神社って、神様が祀ってあるのよね? 妖魔が神社に住むことなんてできるの?)
『私も初めて聞いたが……。じゃが、稲荷神社は宇迦之御魂神という五穀豊穣や商売繁盛の女神を祀る神社じゃ。そして、宇迦之御魂は素戔嗚の娘じゃ。稲荷神社の神使は狐じゃし、九尾狐とは縁が深いのかも知れぬ』
咲耶も驚きの表情を浮かべながらも、稲荷神社と九尾狐の関係を説明した。
「でも、あの辺りは『蜂やマムシに注意』って看板が出ているはずだ。さすがに、若い女の子があんなところに一人でいるのはまずくないか?」
将成が心配げな表情を浮かべながら、咲希を見つめた。その瞳に浮かぶ同情の色に気づいて、咲希がムッとした。
(将成の奴……。九尾狐は古代中国の殷の妲己なのよ! 若いどころか、三千歳を超えてるわよッ! ちょっと綺麗だからって、鼻の下を伸ばしてッ!)
『仕方なかろう……。九尾狐は、古の帝王や皇族を手玉に取ってきた女狐じゃ。建御雷神の守護を受けているとは言え、普通の男が奴の魅力に抗うことなど不可能じゃ……』
嫉妬する咲希を見て、咲耶が苦笑いを浮かべながら告げた。それが正論だったため、咲希も渋々咲耶の言葉を認めた。
「じゃあ、俺のアパートに来るかい? 少し古いけど、2LDKだから寝る部屋は余ってるし……」
「よろしいのですか……?」
翔琉の言葉に、玉藻がパアッと顔を輝かせた。それを見て、咲希が慌てて叫んだ。
「よろしいはずないでしょッ! 何考えてるんですか、水嶋さんッ! 昼間から堂々と女の子を部屋に連れ込まないでくださいッ!」
「い、いや……そんなつもりじゃ……」
下心を咲希に見抜かれて、翔琉が顔を逸らしながら呟いた。
「でも、俺は自宅住まいだし……。かといって、あんな山の中の神社にいつまでも住まわせているわけにいかないし……」
「やっぱり、俺のアパートに来てもらうしかないかな……」
将成、翔琉、そして玉藻本人までが咲希の顔をじっと見つめた。その無言の圧力に、咲希は顔を引き攣らせた。
(どうする、咲耶……? あたしのマンションに住まわせても大丈夫かな……?)
『仕方なかろう……。今の九尾狐はまだ完全に妖気が恢復しておらぬ故、何かあれば私が何とかしてやってもよい。その代わり、プリン禁止は解除してもらおうか?』
咲希に恩を売るチャンスだと思い、咲耶がニヤリと笑いながら告げた。
(それとこれとは……)
『嫌なら構わんぞ。将成に冷酷な女だと思われてもよければじゃが……』
「わ、分かったわよッ! しばらくは、あたしのマンションに泊めてあげるわ!」
咲耶の言葉に反論できず、咲希が両手でバンッとテーブルを叩きながら叫んだ。
『プリン禁止は解除じゃからな! 忘れるでないぞ!』
勝ち誇った咲耶の声が、咲希の脳裏に響き渡った。
「ありがとうございます、咲希。あなたなら、そう言っていただけると思っておりましたわ」
天性の美貌を輝かせながら、玉藻が嬉しそうに告げた。その妖艶な美しさに、翔琉と将成が魅入っていた。
「その代わり、あたしたちには絶対に手を出さないって誓ってッ! それが守れないなら、この話はなしよッ!」
咲耶がいるとは言え、寝首を掻かれては堪らないと思って咲希が告げた。
「手を出すなって……? サッキー、玉藻ちゃんに将成を取られるとでも思ってるのかい?」
咲希の言葉の意味を誤解して、翔琉が笑いながら冷やかしてきた。だが、咲希は翔琉のセリフを無視して、真剣な表情で玉藻を見つめた。
「当然ですわ。恩を仇で返すような真似は致しませんわ。ですから、あなた方も私を封印しようなどとはなさらないでくださいませ」
黒曜石の瞳に秘められた意味を正確に察すると、玉藻がニッコリと微笑みながら告げた。玉藻にとっても、咲耶と一緒にいることは諸刃の剣だったのである。
「分かったわ、約束する……。しばらくの間は、休戦ってことにしましょう」
「そうしていただけると助かりますわ。では、これからよろしくお願い致します」
長い髪を揺らしながら、玉藻が咲希に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく……。九尾……玉藻さん……」
「玉藻と呼び捨てで結構ですわ。私も咲希と呼ばせていただきますから……」
見る者を魅了する笑顔を浮かべながら、玉藻が咲希に告げた。
「分かったわ、玉藻……。よろしくね」
(これでよかったのかな? まさか、三大妖魔と一緒に暮らすなんて、考えもしなかったわ……)
『まあ、此奴と戦うよりはよかろう。本気で戦ったら、この大学程度は跡形もなくなるからのう……』
笑いながら告げた咲耶の言葉に、咲希は顔を引き攣らせた。咲耶と九尾狐の能力を、改めて実感させられたのだ。
こうして、昨日殺されかけた相手と、咲希は一緒に暮らすことが決定した。
(今年の新入生は五人か……。そのうちの三人が可愛い女の子だったから、まあ豊作の方だな……。それにしても、神守咲希って本当に『残念美人』だったよな……)
新歓コンパで泥酔し、桐生将成に向かって『あたしのバージン、返してよッ! すっごく痛かったんだからねッ!』と叫んだ咲希を思い出して、翔琉はニヤニヤと笑みを浮かべた。
(サークル全員の前で『自分の処女は将成に捧げました』って宣言するなんて、いったいどういう神経してるんだか……)
新入生を勧誘している時に、咲希の美貌に一目惚れをして声をかけたのは翔琉だった。この子を絶対に落としてやると決めた三日後に、「バージン事件」が起こったのだった。
(将成の奴、思ってたよりもずっと手が早かったんだな。さすがに友達の彼女を奪うわけにもいかねえし、今回は諦めるか……。ああ、どこかにいい女いねえかな……?)
何気なく周囲を見渡した翔琉の視界に、ヒルトップから出て来た一人の女生徒が映った。その女性を眼にした瞬間、翔琉の時間が停止した。
艶やかな漆黒の髪を腰まで伸ばした絶世の美女だった。肌の色は抜けるように白く、小さめの顔には切れ長の眼や細く高い鼻梁、魅惑的な唇が絶妙のバランスで配置されていた。V字に胸元が開いた白いスキニーニットを盛り上げる胸は大きく、引き締まったウェストを包む黒のタイトスカートからは細く長い脚が伸びていた。
美しく煌めく瞳は漆黒で、星々の輝きを放って翔琉を魅了した。その瞳に引き寄せられたかのように、気づいたら翔琉はその女性の目の前に立っていた。
「何か……?」
長い黒髪を揺らしながら、その女性が首を傾げて翔琉を見つめた。その美しい黒瞳に魅入りながら翔琉はゴクリと生唾を飲み込んだ。これほどの美女と間近でまみえるのは、咲希を勧誘したとき以来だった。だが、目の前の彼女からは、咲希にはない妖艶な女の色香が放たれていた。
「き、君……新入生だよね?」
無意識に声が震えた。女に声をかけるのにこれほど緊張するのは初めてだった。
「新入生……?」
キョトンとした表情を浮かべた彼女も美しかった。天が恵んでくれたチャンスを活かそうと、翔琉は勢い込んで彼女に話しかけた。
「俺は商学部二年の水嶋翔琉ッ……! 天文旅行サークルの渉外をやってるんだ!」
「はあ……」
興味なさそうな声で応えると、彼女はその場を立ち去ろうとした。翔琉は慌てて彼女の前に回り込むと、思わず行く手を塞ぐように両手を広げながら言った。
「よかったら、うちに入ってくれないか? 何なら、名前を置いてくれるだけでもいいから……」
「名前でございますか……?」
彼女の言葉に大きく頷きながら、翔琉が語気を強めた。
「そう、君の名前を教えてッ!」
実のところサークルの勧誘など、どうでもよかった。単に彼女の名前を知りたいという欲求だけが翔琉を支配していた。
「宝治玉藻と申します。もう、行ってもよろしいでしょうか?」
玉藻は翔琉から視線を外すと、黒髪を靡かせながら歩き始めた。急いで彼女の横に並ぶと、翔琉は本気で玉藻を口説き始めた。
「君みたいな美人に、ぜひ入って欲しいんだ。サークルの説明をするから、少し時間をくれないかい? お茶でも奢るよ!」
「残念ですが、私、人を捜しておりますので……」
「人捜し……? 何なら、手伝おうか? こう見えても、結構人脈はあるんだ……。名前や学部を教えて……」
これほどの美人とこのまま別れるには惜しいと思い、翔琉が追いすがった。少しでも一緒にいられるのならば、口実など何でもよかった。
「学部というものは存じておりません。お名前も、サキとしか……」
「サキッ? 咲希って子なら、うちのサークルにも一人いるよ!」
思いも寄らない天の恵みに、翔琉は嬉しそうに叫んだ。
「本当でございますか?」
翔琉の言葉を聞いて、玉藻が美しい黒瞳を見開きながら笑みを浮かべた。
「うちにいるのは神守咲希って子なんだけど、苗字は分からないのかい?」
「はい……。存じているのは、サキって名前だけでございます。とても綺麗な方なので、目立ってはいるかと思うのですが……」
玉藻の言葉に、彼女が捜しているサキが咲希であることを確信した。
(この子が綺麗って言うくらいだから、相当な美人だ。咲希も黙っていたら絶世の美女だし、たぶん間違いないだろう?)
咲希が聞いたら怒りそうなことを考えながら、翔琉が玉藻に告げた。
「何だったら、サッキーを呼び出してあげようか?」
「サッキー……?」
「ああ、咲希って子の愛称なんだ。待ってて、今呼んでみるから……」
そう告げると、翔琉はスマートフォンを取り出して咲希に電話をかけ始めた。五回目のコールで、咲希が電話に出た。
突然鳴りだしたメロディに、咲希は急いでボリードからスマートフォンを取り出した。そして、液晶に表示された名前を見て、首を傾げた。
「誰からだい……?」
不審そうな咲希の様子に気づき、右横を歩いている将成が声をかけてきた。
「水嶋さんから……。何だろう……?」
サークルの連絡を受けるために携帯番号は教えていたが、翔琉から電話をもらうのは初めてだった。咲希は通話アイコンをスライドさせて、電話に出た。
「もしもし……?」
「サッキー? 水嶋だけど……。今、時間ある?」
「えっと……今、将成……桐生さんと一緒にいるんですが……」
将成の顔を見上げながら、咲希が翔琉に告げた。
「将成と……? まあ、あいつが一緒でもいいや。ちょっとヒルトップまで来れるかな?」
「はい……。ちょっと聞いてみますね」
そう告げると、咲希はマイク部分を押さえながら将成に訊ねた。
「水嶋さんがヒルトップまで来て欲しいって……。行ってもいいかな?」
「いいけど……。俺も一緒に行くよ」
翔琉の手の早さを知り尽くしている将成が、苦笑いを浮かべながら告げた。
「もしもし……。OKだそうです。ヒルトップのどこに行けばいいんですか?」
聖光学院大学のヒルトップは、四階建ての大きな建物だ。一階には書籍や学用品、生活用品が販売されている生協があり、二階から四階は学食になっていた。ハンバーガーショップやコンビニエンスストアを始め、カフェテリア、中華、洋食、日本食など十店舗もの店が入っている言わば大規模なフードセンターだった。特に二階にあるカフェテリア兼ベーカリーは広大で、その席数は八百席以上もあった。
「二階のカフェテラスに来てくれるか? あそこなら席数も少ないからすぐに見つかるよ」
オープンテラスになってる二階の喫茶店を翔琉が指定してきた。その喫茶店のメニューにプリンアラモードがあることを思い出すと、咲希は苦笑いを浮かべた。
(咲耶が知ったら、うるさいだろうな……)
その咲耶は今、咲希の中で爆睡していた。昨夜遅くまで、夢中でスマホゲームをやっていたのだ。
「分かりました。今、三号館の近くにいるので、十分くらいで行けると思います」
「分かった、待ってるよ……」
そう告げると、翔琉からの通話が切れた。咲希は将成の顔を見つめながら、呼び出された理由を訊ねた。
「何の用かな? 特に急ぎの連絡事項ってないわよね?」
「さあ……? あいつのことだから、先週の「バージン事件」の真相を聞きたいだけかもよ」
「し、将成ッ……!」
笑いながら告げた将成の言葉に、咲希は真っ赤になって叫んだ。それは咲希の大学史を飾る最大の黒歴史だった。
「まあ、取りあえず向かうか……。呼び出されたんだから、プリンでも奢ってもらえよ」
「そうね……。咲耶も寝てるし、久しぶりにプリン食べてみようかな……?」
咲耶の帰りを待っていた一年半、咲希はずっとプリン断ちををしていたのだ。その想いを仇で返されたことを思い出して、咲希は咲耶の目の前でプリンを食べてやろうと決意した。
(九尾狐から助けてくれたのはいいけど、その後で将成に色々と恥ずかしいことを暴露させたことはまだ許してないんだからね! しばらくの間、あんたにはプリン食べさせないんだから……!)
ニヤリと悪だくみの笑みを浮かべると、咲希は将成と一緒にヒルトップへと向かって行った。
昼休みも終わった三限目の途中ということもあり、二階のカフェテリアにいる学生の数は思ったよりも少なかった。咲希たちは南側にあるガラス扉を開けて、カフェテラスの中に入っていった。三十席ほどの店内には、二組の学生しかいなかった。そのうちの奥にいる二人の学生に向かって歩こうとし、咲希は驚愕のあまり足を止めた。
「どうした、咲希……?」
こちらに向かって手を振っている水嶋翔琉までの距離は、あと十メートルもなかった。不意に立ち止まった咲希を不審な表情で見つめながら、将成が訊ねてきた。
「……て……」
「え……?」
咲希の言葉が聞き取れずに、将成が聞き返した。そして、咲希の横顔を見た瞬間、将成は驚愕に眼を大きく見開いた。
「逃げ……て……、将成……」
ガクガクと全身を震わせながら、咲希が蒼白な表情で告げた。その黒曜石に輝く瞳は、激甚な恐怖を映しながら真っ直ぐに前を見据えていた。
「咲希……? どうしたんだ……?」
「は、早く……逃げてッ! 九尾狐よッ!」
翔琉の隣に座る女生徒を見つめながら、咲希が叫んだ。
「何だってッ……?」
咲希の視線を追って、将成がその女生徒を見つめた。
腰まで真っ直ぐに伸ばした黒髪と、陶磁のような白い肌を持つ絶世の美女だった。切れ長でやや釣り上がった眼には漆黒の瞳が輝き、細く高い鼻梁に続く唇は濡れたように艶やかだった。
清純な色香を持つ咲希とは異なり、その女性は妖艶とも言える娼婦のような色気に満ちていた。白いニットセーターを盛り上げる胸は豊かで、咲希よりも二カップ以上は大きかった。
将成は思わずゴクリと生唾を飲み込んで彼女を見つめた。これほど濃密な色気を放つ美女から視線を外すことなど、できるはずがなかった。翔琉がすでに彼女の虜になっていることは、ひと目見て分かった。
「何してるんだ、こっちに来て座れよ……」
翔琉の声に、咲希はハッと我に返った。そして、彼の隣に座る美女の顔を改めて見つめた。
(やっぱり、九尾狐にそっくりだわ……。でも、彼女から妖気はまったく感じない……)
外見は九尾狐そのものだが、妖気をゼロにすることが可能なのか咲希には分からなかった。それとも、本当にただの他人のそら似なのだろうか?
「咲希、本当に九尾狐なのか……?」
将成が咲希の耳元で囁いてきた。その言葉に、咲希は小さく首を振った。
「分からない……。妖気は感じないけど、見た目は九尾狐そのものよ……」
「とにかく、話を聞いてみよう……。妖気がないってことは、すぐに攻撃する意志がないっていう意味だろう?」
「そうね……。本当に九尾狐だとしたら、あの膨大な妖気を隠しきれるとは思えないし……」
蒼白な表情のまま頷くと、咲希は将成を守るように彼の前を歩いた。
「紹介するよ……。こちらは、宝治玉藻さん……」
「宝治と申します。よろしくお願いいたします……」
美しい貌に微笑みを浮かべながら、玉藻が二人に頭を下げた。長い黒髪が揺れて、芳しい香りが鼻孔をくすぐった。
「神守咲希です……よろしくお願いします」
「桐生将成です。よろしく……」
二人は玉藻に自己紹介すると、四人掛けのテーブル席に並んで腰を下ろした。玉藻の前に咲希が、翔琉の目の前には将成が座った。
「玉藻さん、どうかな……?」
翔琉が玉藻に、捜しているサキが咲希で合っているのかを訊ねた。当然ながら、咲希と将成には翔琉の質問の意味が分からなかった。
「はい……。間違いございません。私が捜していたのは、こちらの方です」
「そうか……。よかった……」
玉藻の答えに、翔琉が嬉しそうな笑顔を浮かべながら告げた。これで、玉藻との縁がすぐに切れることがなくなったからだ。
「捜していたって、あたしをですか?」
咲希が緊張しながら、玉藻の美しい貌を見つめた。
(やはり、この女は九尾狐なの……?)
『どういうことじゃ、これは……? 何故、九尾狐がここにおるのじゃ?』
突然、咲希の脳裏に咲耶の声が響き渡った。
(咲耶……! よかった……今、起こそうかと思ってたわ。やっぱり、この女は九尾狐なの? 妖気がまったく感じられないけど……)
九死に一生を得た気持ちで、咲希がホッと胸を撫で下ろした。咲耶さえいれば、九尾狐が相手でも何とかなると思ったのだ。
『九尾狐ほどの妖魔なら、妖気の制御など容易いことじゃ。それに、此奴は自分で名乗ったであろう?』
(宝治玉藻って言ってたけど……?)
咲耶の言葉に首を捻りながら、咲希が訊ねた。
『宝治は、褒似じゃ……。その昔、西周を滅亡に導いた傾国の美女……褒似のことじゃ。そして、玉藻は日本における九尾狐の名そのものではないか? 鳥羽上皇の寵姫であった玉藻前じゃぞ……』
(……! たしかに……)
咲耶の説明を聞いて、咲希は納得した。やはり、間違いなく目の前に座る玉藻が九尾狐であることを確信した。
「安心してください……。今日はあなたのお顔を拝見しに来ただけですから……」
咲希の心を読んだかのように、美しい貌に微笑みを浮かべながら玉藻が告げた。
「顔を見に来た……?」
(何かをするつもりじゃないってこと……?)
『そのようじゃな……。戦うつもりであれば、会った瞬間に攻撃してくるはずじゃ……』
咲希の疑問に、咲耶が頷きながら答えた。
「咲希、大丈夫なのか……?」
将成が厳しい表情で玉藻を見据えながら訊ねてきた。いつでも咲希の前に立てるように、椅子には軽く腰掛けたままだった。
「うん……。大丈夫みたい……」
将成の言葉に頷くと、咲希は玉藻の眼を真っ直ぐに見つめながら訊ねた。
「今日は顔を見に来ただけって言ったけど、本当の目的は何ですか?」
「お、おい、サッキー……! 何でそんなケンカ腰なんだ?」
咲希の言葉に、翔琉が驚いて訊ねた。何も知らない翔琉にしてみれば、咲希が玉藻にケンカを売っているように見えたのだ。
「目覚めたら、昔とずいぶん変わっておりましたわ。ですから、この世界のことを色々と知りたくなったのです。しかし、他に知人がいないので、取りあえずあなたに会いに来たという訳です。しばらくの間、あなたと一緒におりますので、よろしくお願いします……」
「い、一緒にいるって……?」
昨日殺されかけた相手から一緒にいると言われて、咲希は驚きに黒曜石の瞳を大きく見開いた。
たしかに、九尾狐が玉藻前として生きていたのは、平安時代末期だ。その頃に咲耶に封印されたとすれば、およそ八百年以上眠り続けていたことになる。八百年前から突然現代にタイムスリップしたようなものだった。三大妖魔とは言え、戸惑うのは当然かも知れないと咲希は思った。
「ということは、玉藻さん、<プレアデス>に入ってくれるのかい?」
翔琉が嬉しそうに身を乗り出しながら、玉藻に訊ねた。
「<プレアデス>とは……?」
「俺たちの天文旅行サークルの名前だよ。サッキーも将成も、<プレアデス>のメンバーなんだ」
「お二人がご一緒であれば、私は構いませんわ……」
咲希と将成の顔を見つめながら、玉藻が頷きながら告げた。
「ホントかッ! やったッ! では、早速、加入届を……」
鞄から加入届とペンを素早く取り出すと、翔琉は玉藻の目の前に置いた。
「ここに名前を書けばよろしいのですか?」
「そうだよ。サインをしてくれるだけでいい……」
翔琉の言葉に、玉藻は記載されている内容も読まずにスラスラとペンを走らせた。横書きであったが、流れるような美しい草書体だった。
(九尾狐って、もしかして字が読めない……?)
現代のワープロで打たれた文字は、楷書体だった。それも漢字、かな、カタカナだけでなく英語やアラビア数字まで混在している。平安時代に漢字とかな以外の文字があるとは思えなかった。
『此奴、放っておいたら詐欺に遭いまくりじゃのう……』
咲耶も同意見だったらしく、苦笑いを浮かべながら告げてきた。
(でも、連れて帰るわけにはいかないわよ。あたしたちの生命を狙っているんだから……)
『ふむ……。どうするかのう?』
困ったようにため息をつきながら咲耶が言った。
「ところで、玉藻さん。どうやってここが分かったの?」
「私、こう見えても鼻が利くんですの。あなたの神気を追って来たんですわ」
「においって……」
ニッコリと微笑みながら告げた玉藻の言葉に、咲希が顔を引き攣らせた。十八歳の乙女としては、自分の体の臭いが気になったのだ。
「ところで、今どこに住んでいるんですか?」
「どこって、ここですわ……」
咲希の質問に、玉藻はキョトンとした表情を浮かべながら答えた。
「ここ……?」
「ええ……。あそこにある稲荷神社におりますわ」
玉藻は、テラスから正門の左側に見える山の中を指差した。
「稲荷神社……? そんなもの、大学の中にあったの?」
聖光学院大学のキャンパスは八王子市、多摩市、日野市の三市にまたがる広大な敷地だ。敷地内にはほとんど人の手が入っていない小さな山もあった。玉藻が指したのは、その山の中だった。
「そう言えば、聞いたことあるぞ。金住稲荷って神社がキャンパス内にあるって……」
咲希の質問に、翔琉が驚きながら答えた。彼も、玉藻がそんなところに住んでいるなど考えてもいなかった。
(咲耶……、稲荷神社って、神様が祀ってあるのよね? 妖魔が神社に住むことなんてできるの?)
『私も初めて聞いたが……。じゃが、稲荷神社は宇迦之御魂神という五穀豊穣や商売繁盛の女神を祀る神社じゃ。そして、宇迦之御魂は素戔嗚の娘じゃ。稲荷神社の神使は狐じゃし、九尾狐とは縁が深いのかも知れぬ』
咲耶も驚きの表情を浮かべながらも、稲荷神社と九尾狐の関係を説明した。
「でも、あの辺りは『蜂やマムシに注意』って看板が出ているはずだ。さすがに、若い女の子があんなところに一人でいるのはまずくないか?」
将成が心配げな表情を浮かべながら、咲希を見つめた。その瞳に浮かぶ同情の色に気づいて、咲希がムッとした。
(将成の奴……。九尾狐は古代中国の殷の妲己なのよ! 若いどころか、三千歳を超えてるわよッ! ちょっと綺麗だからって、鼻の下を伸ばしてッ!)
『仕方なかろう……。九尾狐は、古の帝王や皇族を手玉に取ってきた女狐じゃ。建御雷神の守護を受けているとは言え、普通の男が奴の魅力に抗うことなど不可能じゃ……』
嫉妬する咲希を見て、咲耶が苦笑いを浮かべながら告げた。それが正論だったため、咲希も渋々咲耶の言葉を認めた。
「じゃあ、俺のアパートに来るかい? 少し古いけど、2LDKだから寝る部屋は余ってるし……」
「よろしいのですか……?」
翔琉の言葉に、玉藻がパアッと顔を輝かせた。それを見て、咲希が慌てて叫んだ。
「よろしいはずないでしょッ! 何考えてるんですか、水嶋さんッ! 昼間から堂々と女の子を部屋に連れ込まないでくださいッ!」
「い、いや……そんなつもりじゃ……」
下心を咲希に見抜かれて、翔琉が顔を逸らしながら呟いた。
「でも、俺は自宅住まいだし……。かといって、あんな山の中の神社にいつまでも住まわせているわけにいかないし……」
「やっぱり、俺のアパートに来てもらうしかないかな……」
将成、翔琉、そして玉藻本人までが咲希の顔をじっと見つめた。その無言の圧力に、咲希は顔を引き攣らせた。
(どうする、咲耶……? あたしのマンションに住まわせても大丈夫かな……?)
『仕方なかろう……。今の九尾狐はまだ完全に妖気が恢復しておらぬ故、何かあれば私が何とかしてやってもよい。その代わり、プリン禁止は解除してもらおうか?』
咲希に恩を売るチャンスだと思い、咲耶がニヤリと笑いながら告げた。
(それとこれとは……)
『嫌なら構わんぞ。将成に冷酷な女だと思われてもよければじゃが……』
「わ、分かったわよッ! しばらくは、あたしのマンションに泊めてあげるわ!」
咲耶の言葉に反論できず、咲希が両手でバンッとテーブルを叩きながら叫んだ。
『プリン禁止は解除じゃからな! 忘れるでないぞ!』
勝ち誇った咲耶の声が、咲希の脳裏に響き渡った。
「ありがとうございます、咲希。あなたなら、そう言っていただけると思っておりましたわ」
天性の美貌を輝かせながら、玉藻が嬉しそうに告げた。その妖艶な美しさに、翔琉と将成が魅入っていた。
「その代わり、あたしたちには絶対に手を出さないって誓ってッ! それが守れないなら、この話はなしよッ!」
咲耶がいるとは言え、寝首を掻かれては堪らないと思って咲希が告げた。
「手を出すなって……? サッキー、玉藻ちゃんに将成を取られるとでも思ってるのかい?」
咲希の言葉の意味を誤解して、翔琉が笑いながら冷やかしてきた。だが、咲希は翔琉のセリフを無視して、真剣な表情で玉藻を見つめた。
「当然ですわ。恩を仇で返すような真似は致しませんわ。ですから、あなた方も私を封印しようなどとはなさらないでくださいませ」
黒曜石の瞳に秘められた意味を正確に察すると、玉藻がニッコリと微笑みながら告げた。玉藻にとっても、咲耶と一緒にいることは諸刃の剣だったのである。
「分かったわ、約束する……。しばらくの間は、休戦ってことにしましょう」
「そうしていただけると助かりますわ。では、これからよろしくお願い致します」
長い髪を揺らしながら、玉藻が咲希に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく……。九尾……玉藻さん……」
「玉藻と呼び捨てで結構ですわ。私も咲希と呼ばせていただきますから……」
見る者を魅了する笑顔を浮かべながら、玉藻が咲希に告げた。
「分かったわ、玉藻……。よろしくね」
(これでよかったのかな? まさか、三大妖魔と一緒に暮らすなんて、考えもしなかったわ……)
『まあ、此奴と戦うよりはよかろう。本気で戦ったら、この大学程度は跡形もなくなるからのう……』
笑いながら告げた咲耶の言葉に、咲希は顔を引き攣らせた。咲耶と九尾狐の能力を、改めて実感させられたのだ。
こうして、昨日殺されかけた相手と、咲希は一緒に暮らすことが決定した。
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