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第二部『箱舟』

ウォルター・ビーデカーの場合ーその①

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ウォルター・ビーデカーは信者と共にトラックに乗って教団の本部移設に伴い金塊や宝石に替えた大量の資金をリムジン車で運んでいた。全て寄付金や違法な裏ビジネスで賄った金である。勿論本来であるのならば神の意志に反する行いであるという事は理解できる。だが、教団を運営するための費用や人々にとってのユートピアを維持するためにはこうした金が必要であるのだ。
ウォルターは自らに用意されたブランデーを飲みながら自身のこれまでの事を思い返していく。
ウォルターが訳あって釈放されたのは1989年の事であった。彼は殺人事件の容疑者として1962年からその年まで長らく捕らえられていたのだ。
当初の彼は仮釈放なしの終身刑が食らわされたが、減刑されて27年後に釈放されたのである。
27年ぶりの世界はウォルターからすれば異世界に等しかった。見慣れぬ建物に見慣れぬ装い、見慣れぬ車。ウォルターはリップヴァン・ウィンクルに等しい存在となったのである。
右も左もわからず価値観も大きく変貌したアメリカに着いていけずにウォルターは日本へと渡った。
理由は刑務所にいた時に日本の『源氏物語』という古典に強く惹かれた事や時折刑務所のテレビで放映される日本の事が気になっていた事などが挙げられる。

だが、当時の日本はウォルターの考えていた様な神秘を帯びた国ではなくなっていた。バブルの狂乱に明け暮れ、物ばかりを追い求める国となっていたのである。
それでも、彼は暫く過ごしていくうちに日本の伝統芸や素朴な人々を気に入って、永住を決意した。
このまま日本でうまくやっていける……。
そんな彼の淡い期待を裏切ったのは日本国籍を入手した年であった。その年に日本のバブル経済が崩壊し、人々は宗教に救いを求めるようになったのであった。
バブルが崩壊したのは悲しい事であったが、ウォルターはこれをいい事だと思って見ていた。彼からすれば日本人の無宗教ぶりは見ていられなかったからである。
だが、またしてもそんなウォルターの願いを踏み躙る様に悲劇が起こってしまった。宗教を利用したテロ事件が日本でも発生したのである。日本人はこれを機に宗教からも離れ始めた。
ウォルターはこれを危険な兆候だと感じた。そのため彼は自らの手で宗教団体を立ち上げる事を決意したのだ。

ウォルターは自身の教団を世界の滅亡から逃れるための箱舟と例え、教団の名称を箱舟会と呼称したのである。1998年の事であった。成立から当初は彼と僅かな理解者だけが活動の参加者であった。だが、当時はカルト教団の引き起こした事件からまだ日が経ってもいない事もあり、駅前で演説や勧誘を行えば人々から罵声な物を投げ付けられる事も多々あった。

彼からすれば1998年から2005年にかけての7年間は彼や教団からすれば暗黒の時代であった。変化が起きたのはそれからであった。徐々に教団の布教活動にも耳を傾ける人物が現れるようにもなり、教団の数は増えていったのである。
2009年の情勢不安の頃には教団の信徒の数は倍増し、箱舟会は大きな宗教団体へと変化したのである。結成当初からすれば考えられないほどの躍進であった。
ウォルターは次に増えすぎた信徒をどの様にするのかについて頭を悩ませる様になった。考え抜いた末にウォルターは箱舟を作る事を決めた。
それはさしずめ21世紀のノアの方舟といってもよかった。同時にウォルターは信者に訴え掛けた。

「これから作る箱舟を我々の理想郷にしよう」

「ですが、コクスン……箱舟と仰いますが、どのような?」

「決まっているだろう。人類が最も幸福であった時代を再現するのだ。そう1950年代のアメリカの時代をな」

ウォルターは両手を大きく広げながら信徒に向かって命令を下す。

「わ、わかりました……1950年代のアメリカですね……」

教祖の一言によって日本各地の箱舟会の支部がそれぞれの土地に古き良き時代のアメリカを再現していく。教団の人力と財力を駆使して理想の箱船ら2011年の初頭には各地に完成させられた。

「やったぞ!我々のユートピア理想郷が完成したぞ!」

ウォルターの一言に人々は歓喜した。街の中は世間の様々な俗事に疲れ、救いを求めて入信した人々にとって理想郷そのものであった。毎日畑や牧場。或いは工場に行って教団の仕事を行う事で教団に貢献し、夕方には家に帰って寝るまでの時間を家族と共に過ごす。教団の幹部を除けば難しく頭を使う必要もない。教育も教員免許を持った信者たちが面倒を見る学校に任せてあるから不便もない。
現代文明の利器を使えない事は不便であったが、テレビゲームや携帯電話による子供の視力を嫌う親世代にとって使えないという事は逆にいい事であった。
だが、こうした世間との隔離姿勢は世間から非難され、次第に教団と世間との溝は深まっていく一方にあった。
また、この頃から寄付金や信者からの金。そして街から輸出する動植物の加工品や野菜の売上だけではやっていけなくなり、教団は裏家業に手を染めていった。
敵への報復や更なる資金を獲得するために暗部組織が築き上げられていく。
それがアルベルトという名前を与えられた日本人の幹部が率いる特殊部隊であった。
だが、そのアルベルトが死んでしまった今となっては後任が見当たらない特殊部隊は解散しかかっていた。
ウォルターが頭を悩ませていると、彼のスマートフォンのバイブ音が鳴り響いていく。ウォルターが通話アプリを開くと、外国に飛んでいた部下からの通信が入った。

「ジョニーか、どうした?」

「コクスン。イタリアにて逸材を発見致しました」

「逸材だと?」

「えぇ、逸材です。彼ならばアルベルトの後任を任せられましょう」

「イタリア人か?イタリア人ならばアメリカ風の名前を与えねばならん」

箱舟会の幹部にはウォルターから外国人としてのファーストネームとファミリーネームが地位就任の際に共に与えられるのだ。

「いいえ、コクスン。イタリアに仕事に訪れていたアメリカ人のヒットマン殺し屋です。彼を入信する事ができれば、我が教団は安定致しましょう」

「わかった。お前がそういうのならばその男の入信を認めよう」

ウォルターはそういって通話を終了したが、10秒も経たないうちに新しい着信が彼のスマートフォンに鳴り響く。

「コクスン。大変です。最上真紀子と牙塚を取り逃しました」

「なんだと!?あの二人を流したというのか?」

「えぇ、我々の車が後方まで尾いていたのですが、急にスピードを上げられて逃げられてしまいまして……」

「言い訳はいいッ!時間がかかってもいいッ!必ず見つけ出せッ!」

ウォルターは激昂して通話を終了した。それからリムジンの背もたれに大きく腰を掛けて大きく息を吐いていく。今のところ暗部は取り仕切る部下に自分が直接の命令を下しているが、不便で仕方がない。教祖としての業務と暗部を仕切る業務とが重なってしまってはいくら体があっても持たない。
ウォルターは早くその幹部が現れる事を待ち侘びるしかなかった。
ウォルターはその後疲れを癒すために仮眠をとる事にした。彼の乗るリムジンが大阪の支部に到着するまで彼は眠り続けた。

「よし、ブツを降ろせ」

その一言と共に教団の信者たちがリムジンから金塊や宝石を下ろしていく。
この金は後に小分けに換金して、教団運営に回す予定である。
ウォルターが死んだジョージ・ウィルソン町長の代わりに新しく町長に就任した男の元へと挨拶に向かおうとした時の事である。
またしても、スマートフォンの着信音が鳴り響いていく。
ウォルターがスマートフォンを開くと、そこから掛かってきたのは意外な人物からである。

『もしもし、おれは大阪府警の牙塚ってもんだ。おっと、逆探知しようとしても無駄だぜ、用件だけを済ませたらこちらから一方的に切るからな』

「……わかった。なんでも言ってくれ」

『元よりそのつもりだから安心しろ、条件は貴様らが今運んだはずの宝物をおれたちの元に届けてもらおうか。指定の場所は港区の沿岸部……悪党がブツの取り引きをするのには最適な場所だろ?』

「返答がないのは承知で聞くが、断ったらどうするつもりだ?」

『……先日の少年誘拐事件の犯人はあんたの信徒の某さんだと週刊誌にぶち撒けてやる。マスコミの求める犯人としては頼りない哀れな婆さんだが、バックボーンに箱舟会が関わっているとなれば話は別だろうよ』

その一言はウォルターを焦らせるには十分であった。彼は小さな声で取り引きを了承したのである。
ウォルターはスマートフォンを切るのと同時に尾行していた部下たちが逆尾行を行われて真紀子とその男である牙塚に知られたという事を確信したのであった。
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