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第一部『悪魔と人』

二本松秀明の場合ーその⑦

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後から聞いた話によれば、志恩は昨日の帰宅後に母親から殴られたらしいり理由は学習塾を無断欠席した上にこんな時間まで連絡もせずに遊んでいた事を咎められたからだ。
秀明の予想は当たり、彼は当分の間は外出を禁じられてしまった。
そんな弟を不憫に思った彼は翌日に志恩の家を訪れて出会った経緯と自身の生い立ちとを語り、志恩の情状酌量の余地を主張したのだ。勿論菓子折りと多少ばかりの見舞金。それに秀明の作った言い訳が秀悦なものであったので志恩の処置は減刑されたのだ。
それでも志恩の養母にあまりいい顔をされたなかったのは自分が連れ回したという事が大きかったのだろう。
志恩の養母は神妙な顔を浮かべながら秀明を睨んだ。

「ねぇ、二本松さん……あなたにわかりますか?大切な息子が行方をくらませて夜遅くになっても戻ってこなかった母親の気持ちが……」

「それについては言い訳のしようもありません……ただ私も弟と出会って嬉しくなってしまいましてーー」

「どうして一言だけでもあたしたちに連絡を入れてくださいませんでしたの?」

「……申し訳ありませんでした!」

秀明は机の上に両手を広げて土下座を行う。養母は勿論養父もその秀明の土下座を黙って見下ろしていたのだった。
先に頭を上げるように指示を出したのは養父の方であった。

「二本松くん……キミにとっても志恩が大切な弟である様に彼は私たちにとっても大切な息子なんだ。もし今後も志恩と関わってくれるのならその事も考慮してくれると嬉しい」

それを聞いた養母は両目を大きく開いて自身の夫を信じられないと言わんばかりの目で見つめる。

「信じられない!あなた今後も志恩とこの男との付き合いを認めるつもりなの!?」

「だっ、だって二本松さんだって可哀想じゃあないか……長い間弟と生き別れてーー」

「信じられない!?あなたはどこまで甘ったるいのよッ!志恩が寂しがってる……志恩からただ一人の血の繋がった家族を引き離したら可哀想だ……そんな理由であの女を引き取ってから今頃あたし達は苦労しているのよ!」

養母はヒステリックに掴みかかったが、秀明は養母の言い分は理解できた。志恩だけ引き取っていなければこの二人は誹謗中傷には合わずに近所から村八分に会う事もなかったであろうし、真行寺家から民事訴訟を起こされる事もなかったであろうから。
今のところ民事訴訟は長引いているが、裁判所はとてつもない額の賠償金を命じる事は目に見えている。家のローンと志恩の養育費に加えて、賠償金までも加わる事になるのだ。
その件で神経を擦り減しているところに大切な息子が失踪したのだからあそこまで怒るのも当然だろう。
だから謝罪を続けていたのだ。今から考えれば誤って済む問題ではないのだが、それでも非を認めて謝るしかないだろう。
秀明が謝罪を続けていた時、不意に台所から扉が開いて、志恩が姿を見せた。
憔悴しているところや顔色が悪いところを見ていると、志恩はこれまで布団の中で眠っていたのだろう。
その姿を見た秀明は慌てて立ち上がり、弟を気遣った。

「おい、大丈夫か!?」

「うん、平気だよ……それよりもどうして兄さんがぼくの家に?」

「昨日の事を謝りたくてな、それで来たんだ」

「そうなんだ……わざわざ来てくれてありがとう。兄さん」

志恩の笑顔はまさしく天使の微笑みであった。少年好きの人間であるのならば一発で正気を失いかねない程の美しい笑顔であった。秀明は美しい弟に思わず胸をときめかせていた時だ。養母が志恩の元へと寄ると心配そうに肩をさする。

「志恩大丈夫?ねぇ、この際だから言ってしまいなさい。あいつに酷い事をされたのならばハッキリとね」

「平気だよ、ぼくの兄さんだよ」

その言葉を聞いて秀明は思わず笑顔になってしまう。この少年は信じてくれるのだ。自分の事を。
それだけで前に向けそうな気持ちだ。
秀明が温かい目で弟を見つめていると、背後から養父の声が聞こえてきた。

「なぁ、志恩。折角起きてきたんだし、お前に聞きたい事があるんだ。お前これから先もお兄さんが自分の人生に関わるっていいかって事なんだ。真紀子の事もあったからな母さんはあまりいい顔をしていないんだ」

志恩は黙っていた。当然だろうこの後の自分の一言でこれから先の自分の運命が変わるかもしれないのだ。迂闊な事は言えない。まだ小学生であるのにも関わらず、彼はその言葉の責任の事を知っていたに違いない。
秀明は黙って自分を見つめる弟の姿を見つめていた。秀明からすれば弟が関わり合いになりたくないと告げられれば、このまま自分は身を引っ込むつもりであった。勿論ゲームの際に出会う事はあるだろうが、それ以外の場所では出会わない様にすればいいだけの話なのだ。
秀明からすれば淋しい事この上ないが、昨晩の戦いで守りきれなかった責任や昨日無意味に連れ回してしまった事に対する責任になるかもしれない。
だが、別の心はこの純粋で可愛らしい弟と別れる事を限りなく惜しんでいるのだ。
秀明のそんな思惑が志恩にも伝わったのか、彼は真剣な表情を浮かべて言った。

「ぼくは……ぼくは兄さんとこれからも交流を深めたいんだ。昨日の事はお父さんとお母さんは許してくれないかもしれない……それでもこの人はぼくの兄さんなんだ」

秀明はそれを聞くと黙って微笑む。志恩もそれを見てか、何も言わずに微笑み返す。
それから椅子の上から立ち上がると、そのまま黙って志恩に向かって手を差し伸ばしていく。

「これからよろしくな、弟よ」

志恩は大きな兄の手をしっかりと握り締めたのである。養母はあまりいい顔をしていなかったのだが、養父は肩に手を置いて言った。

「大丈夫だ。二本松くんは一見すれば柄が悪そうだけれど、根はいい人だと思うよ、少なくとも真紀子の時の様な事にはならないと思うな」

「……あなたはどこまで人がいいの?今日いきなり訪ねてきた人の事をそんな簡単に信じちゃって……」

養母はまだ不満そうであったが、自分たちの目の前で楽しそうにはしゃぐ兄弟を見ていると何も言えなくなってしまうのである。

「そういえば兄さんって好きな食べ物とかあるっけ?」

「おれか?おれが好きな食べ物はタバコと酒かな」

「それは食べ物じゃないと思うけど」

「冗談だって!おれの好きな食べ物はあれだ。ビーフシチューだ。お袋や高級料理店のシェフが作るビーフシチューも美味いけど、なによりも自分の手で作るのが一番美味いや」

志恩はそれを聞いて目を輝かせていた。秀明はその愛らしい頭を優しく撫でて微笑みかけながら言った。

「今度食わせてやるよ、タッパーに入った奴だけどな」

「うん!」

志恩も事情は理解しているのか、タッパーである事に文句は言わなかった。本当は温めたものを食べたいであろうに、どこまでも少年は弁えていた。
そんな逞しい息子を見て養母が助け舟を出した。

「なら、今夜はどう?まだ夕食を決めてなかったし」

「そんな、悪いですよ。第一具材がないでしょう?」

「なかったのなら買いに行くから」

「じゃあ、おれが買ってきますよ」

「いいえ、あたしに出させて……仮にも息子のお兄さんにそんなもの出させられないわよ」

立ちあがろうとした養母を秀明は慌てて静止させる。代わりに代金を預かっての買い物に志恩が付いて行く事になったのである。
その道中でも志恩と秀明は会話が絶えなかった。20年以上も会えなかった兄弟なのだ。とてもスーパーへ行く道中のみで語り尽くせるとは思えなかった。
買い物を終えて帰る途中の道でも二人は盛んに話し続けていた。
このまま生き別れていた兄弟の交流は延々と続いていくのかと思われたのだが、秀明の携帯端末に入った一本の着信によって二人の会話は強制的に遮られてしまった。
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