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 匠は左手で胸元の龍を掴むと、そのまま廊下へと向かった。

「……あれ? 匠さん? どこへ?」
 ふいに立ち上がった匠に気が付き、後ろから深月が声を掛ける。
「……」
 だが、返事もせず、声のする方へ顔を向けもせず、匠は何かに追われるように部屋を出た。
 視界がほとんど無くても、この部屋……この自分達の家の中だけなら、ほぼ不自由なく普通に歩き回る事ができる。
 しかし、リビングを出て暗い廊下を歩く頃には、すでに体が震え、呼吸が苦しくなっていた。

 ……まだだ……。
 もう少し……もう少し待て…………。

 震えて動かなくなる足をやっとの思いで引き摺り、リビングから一番近い洗面所に入ると中から鍵を掛けた。
 もう普通に呼吸をする事さえ、できなかった。
 ズルズルと壁に沿うように体が崩れ、膝をつく。

 ハァ……ハァ……
 ハァ……ハァ……
 全身が震えた。
 膝を付き、両腕で自分の体を抱きしめ、震えを止めようとした。

 ……止まれ……止まれ……。
 ……頼む……止まってくれ……!


 声をかけた深月の方を見向きもせず、リビングを出て行った匠の後ろ姿。
 それを浅葱も見ていた。
 いつもは、誰に対してもそんな態度をとる匠ではない。
 ……匠……?
 嫌な違和感を覚え、
「ちょっと待っててくれ」
 それだけ言うと、浅葱は匠の後を追ってリビングを出た。

「ん? どうした? 恭介……」
「浅葱さん? どうしたんですか? 打ち合わせがまだ…………」
 二人の声が背中で聞こえた。

 廊下に、もう匠の姿は見えなかった。
 洗面所の鍵の閉まった扉をノックする。

 匠はまだ無意識に閉鎖空間を嫌がる。
 もちろん、それが洗面所や風呂、トイレならば、閉まっていても特に不思議はないのだが、浅葱の微かな違和感は、今ははっきりとした胸騒ぎに変わっていた。

「匠……? ここに居るのか……?」
 いきなり扉がノックされ浅葱の声がした。

「どうした? 気分でも悪いのか?」

 ……あさぎ……さん…………。

 まだ震えが止まっていなかった。
 それどころか、ますます酷くなっている。
 声を聞かれまいと、膝を付いたまま、必死に手を伸ばし蛇口のレバーを開けた。
 勢い良く水が流れ出す。

 ハァ……ハァ……
 ハァ……ハァ……

 水音に紛れ呼吸をした。

「何ですか? 浅葱さん」
 力を振り絞って平静を装い、普通のトーンで返事をした。
 タグを握る手にも、もう力が入らなくなっている。

「あ……いや……」


 リビングから浅葱を呼ぶ深月の声がしていた。

「ほら、流さんが呼んでますよ。行ってあげてください」
 水音に誤魔化された匠の声はいつも通りだ。

「……ああ。何でも無いなら良いんだ」
 そう言うと浅葱の足音が遠ざかって行く。

 ……ん……ックッ…………!


「匠さん、どうかしたんですか?」
 浅葱がリビングに戻ると、深月が不安そうに尋ねてくる。
 頭の隅に残る一抹の不安を、浅葱は自ら打ち消した。
 これから仕事に出る深月に、余計な心配をかけるつもりはない。

「いや、何でもない。続けよう」


 ひと通り打ち合わせが終わる頃、匠はリビングへ戻って来ていた。
 何も言わずにソファへ座り、何事もなかったように転がったボールを拾い上げた。
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