胡蝶の舞姫

深智

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洞爺丸

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 昭和二十九年九月。函館港。

 巽は何処かから手に入れてきた洞爺丸のチケットを徹也に見せ得意げに言った。

「スゲーだろ。気の良さそうなジジイとババア捕まえて『これから青森にいる父ちゃんに会いに行くのに切符失くした』って泣きマネしたらこれくれたぜ。チョロいなぁ」
「え、そのおじいさんとおばあさんを騙したって事?」
「そうだよ。金持ってる奴は幾らだって騙していいんだよ」

 徹也は閉口した。責める事は出来なかった。兄の行動は全て自分に繋がっているからだ。

 戦争で両親を亡くし、親戚中をたらい回しにされた末に預けられた家は意地悪な叔父の家だった。

 毎日こき使われ殴られる日々の中で、とうとう巽がキレた。

 叔父は、どんなに殴られても泣くどころか睨み返す巽より、気持ちが優しい徹也を標的にした。

 その日も徹也を理不尽な理由で殴り続ける叔父に巽はキレた。

 側にあった木刀で叔父を滅多打ちにして殺し、ありったけの金を盗み、徹也の手を取り逃げた。

 叔父の家を出た後は無我夢中で函館港まで来た。

「何処に行くの」
「東京だ。ちょっと待ってろ」

 徹也に言い置いて人混みの中に入って行った巽が暫くして戻ってくると、手に青函連絡船洞爺丸の切符を二枚握っていた。

 老夫婦を騙して貰ってきたと言う。罪悪感に胸を塞がれ表情が暗くなる徹也の頭を軽く叩く。

「俺たちはこれから生まれ変わるんだよ。ぜってー、あんな惨めな生活には戻りたくねーだろ!」

 どんな時も手を携えて生きてきた。けれど、自分たちの前途には荒波しか待っていないと、あの時既に決まっていたのかもしれない。


 洞爺丸が離岸して間も無く、風が強くなり、船内の揺れが酷くなった。そこからは早かった。

 船は七重浜沖であっという間に台風の渦に飲み込まれた。

 乗船前に巽は一等船室にいる宝石商に目を付けていた。激しく揺れる船の甲板で、宝石商の男を荒れる海に突き落とし荷物を奪った。

 荷物の中から金目の物だけ取り出し懐に入れ、沈没した船から脱出した。

 抱えた宝石の重さに沈みそうになりながら、真っ暗な荒れる海を懸命に泳いだ。挫けそうになった徹也の手を巽が掴む。

「テツ、この手、離すなよ! 俺たちはゼッテー死なない! 死んでたまるか!」

 徹也は兄の手を、絶対に離すものかと必死に握り、波に揉まれながら泳いだ。

 沈没船から投げ出された乗船客達の悲鳴。船の残骸。この世の地獄を暗い海の中で見た。

 あの夜の恐怖は一生忘れないだろう。




 病室の窓からは走り抜けるオレンジ色の列車が見えていた。

 窓側のベッドで良かった。こうして外の景色が見られる。

 徹也はベッドに座り窓の外をぼんやりと眺めていた。二日ほどの検査入院の予定が思ったよりも長引いていた。

『テツさん、なんでもなければそれで安心なんだから。もし病気だとしても、調べて貰って、ちゃんと治しましょ。だってあたしはテツさんがいないと生きていけないから』

 マリー。

 心配そうに見上げて言う万里子の顔を思い出すと胸が心地よく痺れる。

 最初は検査なんてしなくていい、ただの疲れだ、と断ろうとしたが、万里子の泣きそうな顔、優しい言葉に打たれた。

 マリーは自分が守らなければいけないのだ。

 入院した時の決意を思い出した徹也の脳裏にふと不安が過ぎる。

 自分がいない間、マリーは大丈夫だろうか。

 徹也がいる間は巽には極力マリーに手を出させなかったが、自分がいなければ巽を止められる人間はいない。

 巽、と徹也は小さく呟いていた。

 自分の、たった一人の身内なのに。ずっと直ぐ側にいたのに。

 巽はもう、別人格を持った兄ではない人間になってしまった。

 駄目だ! こうしてはいられない。

 ベッドから足を下ろし立ち上がろうとした徹也の目にたった今考えていた男が映り込んだ。

「テツ、どうした、ションベンでも行くのか」
「兄貴」

 見舞いに訪れたのか、兄の巽が立っていた。

 いつからだろう、実兄をこれほど警戒するようになったのは。

 一層キツくなった吊り上がった目は鋭い光を放つ。美形であるが、怖さの方が先に立つ。

 紳士的なものを一切持っていない為、最近では街のチンピラと変わらない雰囲気を漂わせるようになっていた。

「散歩でもしようかと思ったんだよ」
「そうかよ」

 徹也はベッドから下りるのをやめ、巽は側にあった椅子に腰を下ろした。

「なんだよ、珍しいじゃねーか。百合子の時には一度だって見舞いに来なかったくせに」
「そんなのはもう済んだ事じゃねーか」

 済んだ事。

 徹也の心が重くなる。巽にはもう人の心は残っていない、という分かりやすい証明だった。

 あんまりだ、百合子はそれでも巽を待っていたというのに。

「お前は百合子と違って俺と血を分けた弟だろ」

 血も涙も枯れた男と思っていたが、血だけはあったか。徹也は乾いた笑いを漏らした。

「白々しい事言わなくていいよ」

 徹也のキツい言葉も意に関せず、巽はヒヒッと笑った。

「お前に用があったんだよ」
「用?」

 怪訝な表情を向けた徹也に巽は口角を上げた。見透かすような目に射抜かれ徹也はブルッと震えた。

 何を言い出すんだ?

 警戒する徹也に巽は顎を少し上げ、見下ろすような格好をした。

「お前、マリーの事で俺に隠していた事があるだろ。俺を出し抜けるとでも思っていたのか」

 殺意までも感じる声だった。ゴクリと固唾を呑み込んだ徹也の肩に手を置き、巽はクッと笑う。

「マリーは、周防直也の娘なんだろ。すげーな。こんな秘密を隠していたのか」
「な、!?」

 バレていた!?

「マリーが持っていた物を、俺が知らないとでも思ったか」

 蒼白になった徹也に巽は感情の見えない笑みを見せた。一切笑っていない目が恐怖を誘う。

「お前さ、俺たちを拾った男を覚えているか」

 いきなり話の方向が変わり巽はたじろぐ。

「あ、ああ、覚えてる」

 洞爺丸の沈没で海に放られた後、必死に泳ぎ辿り着いた七重浜で、巽と徹也は一人の紳士に拾われた。

 不正に船に乗り込み、身元がバレる訳に行かなかった巽と徹也は救護に来た人員に助けを求められなかった。

 漂着する遺体や遺品の収集騒動に紛れ逃げ出そうとした二人の前に一人の紳士が現れた。

『どうした、君たち。ここから逃げれば生きている事を家族に知らせてもらえないぞ』

 ハットを被り、高そうな背広に身を包む紳士だった。暗がりの中、遠くから辛うじて届く松明の灯だけで身分が違う人間と分かった。

『いいんだよ、俺たちには親なんてもういねーんだ! 俺たちは東京に行くんだ!』

 全身ずぶ濡れで息巻く巽に紳士は「うむ」と笑った。

『いいね、気に入った。では俺が君たちを東京に連れて行ってやろう』

 美貌の紳士だったが、圧倒する空気を纏っていた。

 ここまで二人もの人間を殺し金品を奪った巽でも、紳士には必要以上の間合いを詰められなかった。初めて会うタイプの男だったのだ。

 紳士は、言葉通り巽と徹也に服を与え、汽車に乗せ、東京まで連れてきた。

 預けられた先が、新宿二丁目で富夫が営む遊郭だった。

 預ける前に巽が盗んだ宝石を、何も聞かず値踏みし大金と引き換えた。

 初めて見る札束に慄く二人に紳士は笑った。

『どうした。この先君たち次第で幾らでも手に出来るものだ。気にせず受け取るといい。こんな石より今の君たちには直ぐに役に立ってくれるぞ』

 あの男のおかげで売りに出されていた小屋を買い、富夫に助けられながら商売を軌道に乗せた。

「あの男がどうしたんだよ」

 意図が読めず、警戒しながら聞いた徹也を巽は鼻で笑った。

「お前は何も感じたりしなかったのかよ。あの紳士の正体知りたいと思わなかったのかよ。俺はあのクセー紳士をずっと追ってきた」

 恩人である紳士を〝臭い〟と表現する巽に徹也は苦い想いを抱く。

「それで、あの紳士が何者か分かったって言うのか」
「ああ、そうだ」

 巽の不敵な笑いにゾクリと背筋が冷たくなった。

「津田恵三って男だ。周防直也の腹違いの弟だ。スゲーだろ。これから大事に〝飼って〟きたマリーの本領発揮だ」
「巽、まさか」
「そうさ、マリーを使って周防から金を引き出す。ごっそりいただくぜ」

 マリーは〝飼って〟などいない!

「そんな事はさせない!」
「あ?」

 徹也は巽の胸ぐらを掴んでいた。

「マリーを、道具になどさせない!」

 食い下がる徹也の腕を巽は乱暴に払った。倒れた徹也をニヤつく顔で見下ろす。

「ウゼェな。お前に何が出来る? マリーを生かしてやれるのは俺だろ?」

 許せない一言だった。

「巽!」

 尚も掛かっていこうとした時、仕切りのカーテンが開き、看護婦数人が入ってきた。

「佐藤さん、どうしたんですか!」

 看護婦達に抑えられ、徹也は大人しくなる。

「すみませんね、弟がちょっと興奮してしまってるんスよ。病気の事が不安みたいなんスね。俺は帰りますんで、後はよろしく頼みますよ」

 シレッと言い、巽はひらりと手を振り帰って行った。

「佐藤さん、落ち着きましょう。病気はきっと大丈夫ですから。何もなければ、来週には直ぐ退院ですから」

 気遣う看護婦の言葉を聞きながら、徹也は拳を握り締め奥歯を力一杯噛んでいた。

 アイツ、マリーを!

 腐っていた。兄は既に芯まで腐っていたのだ。

 直ぐにでもこんなところ飛び出してマリーの元に帰りたい。しかし。

 マリーの顔が浮かんだ。

 約束をした。何でもないという証明が出来て初めて安心してマリーが抱ける。

 自分の不甲斐なさに涙が溢れ落ちた。

 悔しさに咽び泣いた徹也は咳き込んだ。

 止まらない咳に不安が襲う。

 咳が止まり、口元を押さえていた手の平は血で染まっていた。

 
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