胡蝶の舞姫

友秋

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返し刀

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「何が甘いっていうの!」

 抗う絵美子の足を掴んだまま高笑いしていた有島は、勝ち誇ったように言い放つ。

「やはりお前はまだ半玉だ。俺を舐めていたな。お前のやろうとしていた事など、全てお見通しだ」

 有島は睨み付ける絵美子の顔に手を伸ばし、グッと掴んだ。顎を強く掴まれ痛みが走ったが絵美子は顔に出したら負けと言わんばかりに歯を食い縛った。

「俺のやって来た事が悪事だと言いたいんだろうが、何故表沙汰にならないのか、分かるか」

 そう言えば、と絵美子の胸がギクリと鳴った。

「記者どもを掌握しているからだよ。お前が掴んだ記者など既に俺の手中にいる」

 蒼白になるとはまさにこの事。

 今回、記事にしてくれと頼んだ記者は、自分の客ではなかった。蝶花姐さんの座敷に一緒させてもらい、意気投合した客だった。

 将来の為に一人でも多くの客と繋がりを持とうと努力した結果、今の人脈をなんとか築いたが、何が何でも自分に付いて来てくれる客など、まだ片手の指でも余るほどしかいない。

 自分は、まだまだだった。

 不甲斐なさに涙が込み上げたが、絵美子は泣くものか、と有島を見据えた。

「残念だったな。お前の計画など、俺にしてみりゃ赤子同然だ。観念するんだな」

 再び有島の手が絵美子の着物の中に侵入しようと滑り出した。

 弘前での忌まわしい記憶が蘇る。

 中学に上がった頃から、自分に向けられる若旦那の目に異様なものを感じていた。あの夜、獣はとうとう牙を剥いたのだ。

 絶対に許してなるものか、と刺し違える覚悟で抗い、刺して逃げたのだ。

 刺した事に、少しの後悔もない。

『お前は〝人殺し〟はしていない』

 恵三さん。あなたの意味深な言葉は私に新しい〝人生〟を与えた。

 恐怖に硬直しそうだった身体に血が巡る。絵美子の目に力が宿った。

「待ちなよ!」

 絵美子の強く凜とした声に、さしもの有島も動きを止めた。

「私の処女を、タダで貰えると思うな!」
「何?」

 眉が太く鷹のような目をした有島の顔が、驚きに染まる。隙を突かれた為か、足を掴む手の力が一瞬緩んだのを絵美子は見逃さなかった。手を振り払い足を引っ込めて離れ立ち上がった。

 逃げようとする訳でもなく、絵美子は有島を見下ろし仁王立ちした。

「私の処女が欲しいなら、一生私の面倒を見るって約束しな! それが出来ない男になんて、私はあげられないよ! 私は高いんだよ! 芸者をなめるな!」

 許せなかった。こんな卑劣な男!

 多分、ここからは無傷では逃げられない。ならば、この状況を逆手に取ってやる。

 覚悟を決めた。けど、転んでもタダでは起きない!

 着物も髪も乱れ、到底客前に出られる状態ではない筈の半玉芸者が、有島の目には、どんなベテラン芸者よりも強く凛々しく美しく見えた。

 緊張で空気が張り詰める沈黙の中で、有島がハハハハハと豪快に笑い出した。

「参った。俺の負けだ。お前、気にいったよ」
「は?」

 突然の有島の豹変ぶりに絵美子は逆に構える。有島は髪をで搔き上げながら尚も笑い続けた。

「この俺を断念させた芸者は胡蝶という芸者以来だ」

 胡蝶? 胡蝶、姐さん?

 目を見開き、突っ立ったままの絵美子に有島は座れ、と指示をする。絵美子は警戒しながら有島とは少し離れた場所に座った。

「お前、姫花というんだったな」
「はい」
「そうか。改めて、ちゃんと覚えておくよ。ああ、すまない悪いが、煙草を取ってくれ」

 絵美子は警戒を解く事なく、有島に視線を送った状態で座敷から煙草を取った。

 のはいいが、絵美子の渡し方に有島は目を丸くした。ライターと煙草を盆にのせて畳を滑らせて寄越したのだ。

 ますます可笑しくなったのか、有島は腹を抱えて笑いだす。

「なるほどな、あの冷血と言われる津田が気に入るんだ。只者ではないよな」

 煙草を咥えて火を点ける有島に絵美子は恐る恐る問う。

「あの、一ついいですか」
「なんだ」
「胡蝶姐さんは、どんな芸者さんだったんですか」

 知りたい。胡蝶姐さんの、新橋に残した足跡を。

 煙を吐き出した有島が、懐かしむような目をした時だった。

「申し訳ありません! 今、そちらの座敷は、ご遠慮頂きたくーー」

 廊下から女将の困り果てた声が聞こえ、バタバタという足音が聞こえて来た。

 スパンッという音と共に障子が勢いよく開けられ、スーツ姿の美麗な男が現れた。

「恵三さん!」

 早足の足音だったが息一つ乱れずに立っていた恵三の表情はいつもよりも固い。

 恵三は、絵美子と有島を見、部屋を見、何かを察したようだった。余裕の笑みに変わる。

「有島先生、姫花はどうでしたか」

 皮肉を込めた物言いに、有島はフンと鼻を鳴らした。

「お前、もう少しまともに躾けろ。この半玉はこのままだととんでもない芸者になるぞ」
「お言葉、覚えておきましょう」

 フッと笑った恵三は座敷に一歩踏み出す。

「今回の件について、少しよろしいですか。姫花が懸命に腐心したというのにあっさり有島先生に買収された不届きな記者はこちらで突き止めさせていただきました。相応の〝仕返し〟をさせていただいてますので、ご了承ください」

 淡々と語る恵三に、有島は煙草を落としそうになった。

「それと、今夜の件は、私の用意した記者に話しはつけてあります。もちろん、あなたに買収などされない記者に。先生は今後、妙な動きはされない事を進言いたします。どうぞ良しなに」

 どうぞ良しなに、だと? 有島はタバコを噛み潰した。苦々しく応える。

「ああ、分かった分かった。こちらも相応の対処をさせてもらう」

 恵三はニッコリと微笑んだ。

「ハイヤーをお呼びしております、有島先生」

 胸に手を当て、慇懃な態度で退室を促した恵三に有島は舌打ちした。

「今夜は、完敗だな」

 立ち上がった有島は絵美子を見、ニヤリと笑った。

「胡蝶は、誇り高い、孤高の芸者だったぞ」

 孤高の芸者。

 気高さとか、気品とか。弘前で見せてくれた姿そのままに、新橋で生きていたのだ。

 絵美子は去っていく有島に三つ指突いて頭を下げた。

 廊下ですれ違い様、恵三は有島の耳元に囁く。

「有島先生、今夜は命拾いしましね」
「何」
「もし、今夜、姫花を傷物にしていたらこんな事では済ましませんでしたよ」

 有島が恵三の顔を見ると、ゾクリとするほど美しく冷たい笑みを浮かべていた。有島は小さくため息を吐く。

「どうやら、この先はお前に付いた方が得策のようだな。あの半玉の事もあるからな」
「どうぞ、良しなに」

 頰をピクリともさせずに微笑む恵三の、二度目の〝良しなに〟に有島は肩を竦めた。「仕事を分けてやる」とだけ言い残し、去っていった。



 静かになった座敷に恵三が入って来た。絵美子は正座のまま恵三を見上げる。

 何と言われるのだろう。

 恵三さんが来るなんて。

 麗しい恵三の姿からは感情は読めない。ドキドキと鳴る胸が止まらない。

 構える絵美子の前に来た恵三は屈み、視線の位置を合わせた。真っすぐに見つめ合う。

「恵三さん、私」
「まったく、お前という女は。今回のはさすがの俺も、焦ったな」
「え」

 恵三が、クスリと笑う。

「この俺をここまでさせるのは、お前くらいだ」

 絵美子の顔に、影が出来る。いつも鼻先を掠めていた香りが、絵美子の身体を包んでいた。

「無事で良かった」

 息遣いを、全身で感じていた。

「恵三さん……」

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