胡蝶の舞姫

友秋

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 五輪に向け、東京の街が目に見えて大きな変貌を遂げている。道路が作られ、ビルが建ち、目に見えて以前の姿を失っていく。良い事なのか、哀しい事なのか。

 近代的で機能的に作られた街のコンクリートの中には貪欲な人間達の欲望も一緒に固められている。この街の姿は不気味に蠢く人の業と重なる。

 執務室で引っ切り無しに続く仕事の山の片付けに追われていた恵三は、ひと段落したところで窓の外を見た。

 煙草を咥え、皇居を見下ろす。ひと吸いして吐き出した煙の向こうの景色は、木々の葉の色が少しずつ変わり始めていた。ギラギラとしていた日差しが丸みを帯びたものに変わり、お堀の水面が柔らかに光を反射していた。

「専務、お電話です。お取りください」

 秘書のデスクに掛かった電話を取った山村がボタンを押し、恵三のデスクの電話に転送した。

「花菱の女将からです」
「ああ」

 受話器を取ると、女将の明るい元気な声が聞こえた。用件は、先日呉服屋に頼んだ絵美子の秋の着物が届いたという報告と礼だった。

「いつも、絵美子に沢山の気遣いをいただき、本当に何とお礼を申したら良いか」

 恵三は、煙草を灰皿に押し付けて揉み消しながら笑った。

「絵美子が喜んでくれればいいだけの事です。お気になさらず」
「まあ、本当に、幸せな妓です」

 女将の声が少しくぐもったように感じた。ここ最近、恵三の仕事が忙しく、座敷以外で絵美子と会う機会が減っていた。

「津田様のお陰もあり、最近では姫花もお座敷に呼ばれる事が多くなりまして」

 女将の言う通り、会う機会が減ったのは絵美子自身が忙しくなったのもある。

「絵美子は、忙しくとも変わりはありませんか」

 一瞬の間があったように感じた。「ええ、まあ」と言う歯切れの悪い返事が返ってきた。

「何か、あるようですね」

 言いづらいであろう女将の気持ちを汲み、恵三から切り出した。

 絵美子の事だ、大人しくなどしてはいないだろう。今度は何だ、何をやらかして俺を驚かせてくれるんだ?

 淡い期待をしている自分に気付き、恵三は苦笑いした。

 恵三の気持ちなど知らぬ女将のため息が、電話の向こうから微かに聞こえた。

「さすがは、津田様です。あの子の事をよくご理解してらっしゃいます。実は、最近の絵美子に少し気掛かりな事がありまして……間もなく一本になる大事な時期だというのにーー」

 女将の神妙な声に、恵三は耳を傾けた。



 女将の話しを聞き終えた恵三は「分かりました」と応え、思案する。

 絵美子のヤツ。笑い出しそうになるのを堪えて再び口を開いた。

「そういう事なら、そろそろ向こうも動く頃でしょう。次のお座敷はいつですか」

 女将から「今夜です」という返事が返ってきた。

 話を終えて受話器を置いた恵三はデスクの書類全てにサッと目を通し、顔を上げた。

「山村、今から舞い込んできたものは全て明日に回せ。急ぎのものがあれば、俺が明日徹夜してでも終わらせてやる。ここにあるものは、そうだな、15時までには終わらせる。それから岡田を呼べ。早急に調べてもらいたい事がある」
「かしこまりました。では昼食は」
「そんなものは要らない。終わらせ次第、出掛けるぞ」



 戦前、待合という名で黙認状態だった連れ込み宿は、戦後、お上の方策で割烹とまとめられ〝料亭〟という通りの良い名前に変わった。待合と一緒くたにされた老舗割烹は、プライドを持って看板に割烹の文字を掲げている。

 待合は、表向きは消えたが、風習自体が無くなった訳ではない。

「今夜の有島様の座敷、大丈夫なのかい」

 女将の千代の心配は最もであり、絵美子は千代の気持ちをしっかりと受け止めた上で覚悟を持って「大丈夫」と答えた。

 梅奴の件は大っぴらにはされていないが、新橋花街の芸者屋女将の間では広く知るところとなっている。

 最近では有島の座敷は、老舗割烹として名の通った信頼出来る料亭以外は受けないよう、皆努めていた。

 それでも言葉巧みに、あるいは昨今の花街全体の景気の陰りに乗じた破格な玉代に絆され、分かっていながらも芸者を出してしまう女将もいた。花菱の女将はその点、決して緒を緩める事はなかった。

 だからこそ、絵美子は千代の懸命の計いを無にしてしまう結果を招く訳にはいかない。有島の座敷は毎度、絵美子は相応の覚悟を持って挑んできた。

「今夜は林田屋の喜代ちゃんが一緒だったね。よろしく伝えておくれ」
「はい。では行ってまいります」

 当初、銀座七丁目の老舗料亭の小松という話だったが、着いて直ぐに場所が変更になった旨を女将に告げられた。

 もう一度ハイヤーに乗り、指定された築地三丁目の料亭田川へ。田川は、知る人ぞ知る今に残る〝待合〟だった。

 ついに来たか。絵美子はハイヤーの中で目を閉じた。

 これが、有島のやり方なのだ。

 有島の考えている事など百も承知。そうなればこっちのものだ。だから、泳がせてきた。

 恵三さんに会う事も我慢して有島の座敷に上がってきた。黙って向こうの思う通りになどさせるものか。



 到着した座敷に芸者は絵美子一人だった。

「やあ、姫花。場所を変えて悪かったね、こちらの方がゆっくりと話しが出来ると思ってね。そのうち、他の者も来る。それまで、姫花の酌で話しでもしようじゃないか」

 芸者に舞いもさせず、酌だけさせて、その後は? 全てが、ルール違反。恥を知れ!

 笑顔で有島のそばに行き、絵美子は内心で毒づいた。恐らく、他の者など来ない。そんなのは想定内だ。

「有島先生、では今夜は面白いお話、たくさん聞かせていただきとうございます」

 甘えるように言った絵美子に有島の表情がだらし無く歪む。酌を受けながら、絵美子の肩を抱いてきた。

「そうだな、姫花はどんな話が聞きたいんだ?」
「私が今一番気になりますのは、五輪関係の談合のお話しです」

 有島は、ほお、と嘆息を漏らして絵美子を見た。

「姫花はいつもながら際どいところに食い込んでくるな。よし、俺はお前を気に入っているからな。知りたい事を遠慮なく聞いてみろ」
「嬉しい!」

 腰を抱き、身体を密着させてくる有島に吐き気がしそうだったが、絵美子は笑顔を絶やさず巧みに聞き出していった。

 有島は、いわゆる建設族と言われる議員だ。敵対派閥は、国の財布を握る大蔵官僚。金をいかに引き出すかの攻防に、大手建設会社を要する巨大財閥が絡んでいく。

 その最中に周防財閥があった。

 戦後、巨大財閥はGHQに解体されるという憂き目に遭っているが、周防財閥は戦前から戦中にかけて巧みに自らの体を切り分け、本体の財力を隠した。戦後、覚醒したかの如く財界の主流に躍り出た。

 豊かな財力に物を言わせて五輪関係の事業を次々と勝ち取る様に、方々の要人が目を付けた。耳目を集める中、魑魅魍魎の政界で周防家の噂が実しやかに囁かれる。

〝周防の後継者は相当なお人好しで簡単に騙せるらしい。彼を取り込んでしまえば、周防は自由に出来る〟

 男達は色めきだった。しかし、簡単に落とせると思っていた城は鉄壁の城門の向こうにあった。

 鉄壁の城門とは、津田恵三、その人だった。

 彼を潰し、周防から追い出さなければいけない。恵三を陥れようという動きはそこから生まれていた。

 大事な部分は、いつ、どのように。

 心臓が激しく脈打ったが、絵美子は努めて冷静を装い次を促す。

「どんな手を使おうとしてますの」

 核心に迫る問いだった。ここを知らなければ、半ば捨て身のこの作戦は完遂出来ない。

 絵美子は引き出す為に有島にしなだれかかる。奥の手の甘えの色目は必死さを隠す為。今の絵美子の持てるギリギリの手法は余裕を失う。有島の目に抜け目無い光が走ったのを見逃す程に。

「それはだなーー」

 酒の入り鼻の下を伸ばす有島は簡単に落とせると思った。しかし。

「これ以上の話は、寝物語にさせてもらおうか」
「!」

 絵美子の腕が掴まれた。有島の顔が変わっていた。

 しまった! 危険を察知した絵美子が咄嗟に離れようとしたが、強い力に阻まれあっという間に抱え込まれた。

「俺を誰だと思っている」

 ほんの少し前まで緩んだだらしない顔をしていた男が、野獣のように光る目をした恐い男に変わっていた。固唾を呑み込む絵美子に有島はクククと笑う。

「お前の後ろにいる男を知らないとでも思ったか」

 目を見開く絵美子に有島は口の端を歪めた。

「ちょっと俺を甘く見ていたんじゃないか。これ以上の話を聞きたければ、俺にかしずけ」
「誰が!」

 噛み付く勢いで反抗する絵美子に有島はフンと笑う。

「お前はまだ何も分かっていないようだから俺が教えてやろう。俺達の目的と、あの男の目的は根本から違う。俺達は政治家だ。この国を動かし、国の先を見据え、国の為に動いている。けどな、あの男は違う。祖国に裏切られた男が、国の為に動くと思うか」
「国に、裏切られた男?」

 この男は、何を話し出したの。睨み付ける絵美子に有島は続ける。

「関東軍として満洲で国の為に戦ったというのに、戦後、国に見捨てられシベリアに抑留された男だ」

 絵美子は、初めて知る恵三の過去に愕然とする。ワイシャツの襟元に覗く首から背中にかけて伸びている傷跡を思い出した。あの傷は、壮絶な過去を物語っていた。

 国の為? どの国? 祖国? 

 目を閉じ恵三を思い出す。

 自分は、何を大事にし、柱にして生きていくのか。

 国なんて、大き過ぎて分からない。今は、生きていくのに精一杯。だったら、自分が今一番大切にして守りたい物を守ればいい。

「あの男をこれ以上のさばらせるのは国の為にならんから、今のうちに俺の手で潰すんだよ」
「勝手になさればいい。けど、恵三さんは貴方のような男に潰されるような男じゃない」

 国の為などという大義名分を掲げて威張り、確信犯的に自分の行動を正当化するような男。

「こんな、卑劣な手で女を手篭めにしようとする男なんかに!」

 有島が高笑いする。

「本性現したな」

 有島が絵美子の身体を抱え上げ、襖を開けた。次の間には布団が敷かれていた。

「離して!」
「諦めろ」

 布団の上に投げ出された身体は押さえ込まれた。

「〝お酌〟なんだってな。津田恵三のお抱え芸者を横取りするのは気分がいい。そうだな、俺のものになったら、全て話してやってもいい」

 近づく顔が舌舐めずりする。蛇のようだ、と絵美子の全身に鳥肌が立つ。

「日本人と違うその真っ白い肌を舐めてみたいと思っていたんだよ」

 有島は絵美子をうつ伏せにし帯に手を掛けた。

「こんな事、タダでさせるもんか!」
「何?」

 帯に掛かった手が止まった瞬間、絵美子は渾身の力を振り絞り、有島の腹を蹴り上げた。しかし、よく鍛えられた腹にダメージを与えられず、反対に足首を掴まれた。

「噂には聞いていたが、とんだじゃじゃ馬だな」

 足首を掴まれた事で着物の裾が大きくはだけた。

 この体勢は駄目! このままだとーー!

「このくらいの跳ねっ返りを大人しくさせるのも悪くないな。じゃあ先にこっちから攻めるか」

 愉快そうに笑う有島は掴んだ絵美子の白い足を撫で、そのまま着物の奥へと手を這わせようとした。

「今夜の事、週刊現生の記者に話してあるよ!」

 絵美子の言葉に有島の手が止まる。

「なんだと」
「アンタが、今まで私達にしてきた事、全部書いてもらう! 今夜もここに連れ込まれるとこまで記者が張ってる! これでアンタも終わりだよ!」

 有島の顔が、一瞬固まったように見えた。

 勝った。絵美子がそう思った瞬間だった。有島が、ハハハハハと高笑いを始めた。

「やっぱりお前はガキだ。甘いな!」

 今度は、絵美子が凍りつく番だった。
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