胡蝶の舞姫

深智

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〝中丸絵美子〟になる

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 浅草を抜け隅田川を渡った先が墨田区になる。23系都電が走る清澄通りに面した横綱町一丁目に墨田区役所はあった。アーチ型の窓が並ぶ洋風の建物だった。

「で、そこの東両国二丁目辺りに住んでいた、というわけですね」

 戸籍課の窓口で対応に当たる鼻眼鏡の神経質そうな男は絵美子に疑わしげな視線を向けた。絵美子は冷静に「はい」と答える。

「まだ三才だったのであまり覚えてはいないのですが、空襲で両国一帯が全て焼けてしまう前、この辺りにあった北田商店という駄菓子屋さんのおばあちゃんによくしてもらった記憶があります」

 絵美子はカウンターに拡げられた地図を指差し説明した。

 北田商店というのは戦前から戦中にかけて実際に実在した商店の名だ。信憑性を持たせるエピソードをでっち上げるには、実在したものの名前を挙げるのが一番だ。

 絵美子はここに来る前に目を通した資料で、この商店の家族が空襲で皆死亡しており、過去の証言を得るのは不可能という情報を頭に入れてあった。

 ごめんなさい、使わせていただきます。

 心中で、天国にいるであろう見ず知らずの商店主に謝りながら、絵美子はツラツラとでまかせを述べていった。

 隣に立ち見守る恵三は、絵美子の適応能力の高さに感心していた。

「そうですか、まあ、幼かったからあまり鮮明に覚えていないのは仕方なしにしても、お宅のような娘が住んでいた、となれば相当目立ったんじゃないですかね」

 窓口の男の疑ぐりの視線は絵美子の容姿に向けられた。 

 やはり来たか、と恵三が前に出ようとした時、絵美子がしっかりとした口調で答えた。

「当時あの辺りに住んでいた人に、私のような混血児がいたという記憶はあまりないと思います。母が私を昼間は外に出さないようにしてくれていたので。この容姿の人間は、たとえ幼い子供であっても石を投げられるような時代だったんです」

 話しをする絵美子の意識は弘前に飛んでいた。

 幼い日、近所の子供に石を投げられ血だらけになった絵美子は屋根裏の部屋でハサミを手にしていた。

 この目。この目がみんなとちがう。この目さえなければこんなことされない。

 目にハサミを刺す直前、母が飛び込んで来て止めてくれた。母は絵美子を抱きしめて言った。

『エミー、あなたのその青い目は、お父さんのものなの。お母さんが愛したお父さんがあなたに残してくれたものなの。だからそんな事、絶対にしないで。大丈夫、この戦争は終わるから。終わればきっと、大丈夫。あなたにこんな事をする人はいなくなるから』

 母の愛が、私をずっと守ってくれていた。自分はちゃんと肯定されていた。母の存在は片時も忘れた事はない。

 でもごめんなさい。お母さん、私は〝宗方恵美子〟を捨てます。

 お母さんの事を忘れる訳じゃない。お母さんはちゃんと私の中に生きている。いつか、お母さんに逢えた時、私は生きたよ、って言う為に。

「母が、私を守る為に暗くなるまで私を外に出さず、近所の目から私を隠してくれていたんです。だから、私は近所の人を知りません。空襲で母を亡くしたので、今では何故あそこに住んでいたのか、知る術はありません」

 話す絵美子の頰を涙が一筋伝って落ちた。鼻眼鏡の男が明らかに慌てた。

「いやいや、辛い事を思い出させて悪かったね。あの年の三月の空襲で住民台帳も焼けてしまってね。何も残っていないんだよ。だから今でもあなたみたいな人が絶えなくてね。少しでも記憶に残っている事を聞いて判断するようにしているんだよ。まあ、あなたのような戦災孤児は、気の毒だよね」

 男が恵三にちらりと送った視線が何を意味していたのかは想像に難くなかった。

 絵美子の出で立ちと、年の離れた身なりの良い男。さしずめ、あまり宜しくない想像をしたのだろうが。

 戸籍を作ってもらえるのなら、ここは好きに想像させておこう。

 恵三は、ハンカチで涙を拭う絵美子の肩を優しく抱いた。

 よくやった、お前は本当に賢いよ。




 車の中で、絵美子は出来立ての戸籍謄本を眺めていた。本籍地として墨田区東両国の住所が書かれていた。名前は〝中丸絵美子〟。

 これで、本当に私は中丸絵美子になったんだ。

 胸に複雑な想いが渦巻く。不安、後悔? 説明など出来ない。絵美子は改めて隣に座る男の正体を思った。

「恵三さん」

 絵美子は小さな声で話しかける。「なんだ」と答えた恵三の声は優しい。

「恵三さんの事は、おかあさんや蝶花姐さんから教えてもらっています。その、ご苦労なさってきたんだろうな、っていう境遇も」

 言いにくそうに話す絵美子の言葉を恵三は静かに聞いていた。

「お座敷での恵三さんが、どこか怖いのも、何となくですけど、分かる気になっていました。でも今回、初めて、私自身が恵三さんをちょっと怖いな、って思ってしまったんです」
「俺が、怖い?」

 恵三が意外そうな反応を示し、絵美子は顔を上げた。端正な顔の中の目は冷徹そうに見えるが、自分に向ける視線はいつも優しかった。

 何故怖いと思ったのか。

 言い淀む絵美子に、恵三がそっと手を伸ばした。微風を頰に感じ、冷たい感触を覚える。

 長い指がしなやかに頰に触れた。柔らかに撫でられ、絵美子は微かな痺れを覚えた。

「ちゃんと説明してみろ」

 揺れる車内、時折体が触れ合う。絵美子はコクリと唾を呑み込んだ。

「私の事、どこまで調べたんですか。どこまで、知っているんですか」

 僅かな沈黙の後、恵三が「なるほど」と応えた。

「絵美子はやはり賢いな」
「え」

 頰に触れていた指が離れる。恵三は窓に肘を突きフッと笑い、絵美子に流し目を送った。

 これほどの芳香を放つ男は、他にいない。絵美子は思わず逸らした視線を謄本に落とした。

「ど、どういう、意味ですか、皮肉ですか」

 恵三がハハハと笑った。

「本当にお前は飽きないな」
「からかわないでください」

 顎に、しなやかな手が掛かり、顔を半ば強引に向けられた。心臓が跳ね上がりそうになりながら絵美子は恵三を真っ直ぐに見た。

 形の良い切れ長の目を冷たく光らせ自分を見ている。いつもと違う。この目は、お座敷で見せる目だ。

 固唾を呑む絵美子に恵三は顔を近づけた。絵美子は瞬きも忘れ恵三を見入った。

「絵美子。俺を怖いと思う感覚は間違っていない」

 恵三の、低さの中に甘さが滲む声が絵美子の心を掴む。

「今回俺は図らずも、俺にはどんな隠し事も出来ないという事を教えたっていう事になるからな」

 絵美子は恐る恐る頷く。

 どうやって調べたのか。いつから知っていたのか。それより何より、自分が故郷で何をしてここに逃れてきたのかを、恐らくこの人は全て知っている。

 全てを不問に付し、自分の故郷の足跡を消す手伝いをしてくれた。

 目を逸らすものか、と必死に見つめる絵美子に恵三の瞳が緩んだ。フと笑った次の瞬間、額同士が合わさった。

 目と目が、ゼロ距離になる。息遣いまで聞こえる距離にいる恵三に、絵美子は呼吸を止めたが、心臓だけが激しい鼓動を繰り返していた。

 車の揺れによっては、まさかの事態になりかねない。

「絵美子」

 吐息がかかるくらいの場所で名を呼ばれても返事など出来ない。微かな香水と、煙草の匂いに頭が麻痺してしまいそう。

 目の回りそうな表情をする絵美子に恵三は額をグッと押し当てて言った。

「安心しろ、お前は〝人殺し〟はしていない」

 一言が全てを物語っていた。

 安堵か、恐れか。絵美子の中を目まぐるしく感情が渦を巻く。

「恵三、さん」

 鼻も触れてしまいそうな距離で絵美子は声を絞り出す。恵三が、目を閉じるのが見えた。

「さっきの涙は胸の中にしまっておけ」

 心を包む柔らかな低い声に絵美子の胸が熱くなった。そっと、呟く。

「もう、泣きません」

 恵三の目が開き、視線が合わさった。沈黙が続く。ドキドキと鳴る胸は、自分が何かを待っているという事か。

 唇をキュッと噛み締めた時、恵三がクッと笑った。

「え」

 あっという間に美しい顔が遠ざかる。

「え」

 ニッと笑う顔が視界いっぱいに広がる。絵美子は眉間に縦皺を作った。

「何か期待したか」
「なにをですか!」

 プイッと横を向いた絵美子に恵三はクックと笑いながら楽しそうに窓の外を見た。

「もう少し、大人になったらな」
「だから、なにをですか!」

 運転手が、肩を震わせているのが横目に見えた。

 

 機嫌を直せ、と銀座のつづれ屋に絵美子を連れて行った恵三は、そのあと、同じ五丁目のあずま通り沿いにある新富寿司に入った。

 彩り豊かな江戸前寿司に喜ぶ絵美子に恵三は笑う。

「機嫌は直ったか」

 寿司を頬張っていた絵美子は軽く睨む。呑み込み、湯呑みを手にツンとした。

「機嫌なんて、最初っから悪くなってませんもん」
「そうだったか」
「そうです」

 お銚子を取った絵美子の酌を受けながら恵三は徐に話し始めた。

「絵美子に、チャンスをやる」

 何の事か、という顔をした絵美子に恵三は真剣な眼差しを向けた。

「今度の俺の座敷に、芸を見る目のある旦那衆を呼ぶ」

 絵美子の目の色が変わる。恵三はお猪口に口をつけながら頷いた。

「東をどりに毎年喜んで足を運ぶくらいに、純粋に芸者の舞いが好きな旦那衆だ。俺はあくまで、その旦那衆を呼ぶだけだ。あとはお前の力次第だ」

 頷く絵美子の顔に、闘志が漲る。

「絵美子、自分の力で客を掴んでみせろ」
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