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決意
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独特なエンジン音を立てて走って来た三輪トラックのダットサンが門司青果店の前に停まった。
「トウちゃん、お帰り」
店先で待っていた徹也が登四郎を出迎える。直ぐに店頭の木戸をガタガタと音を立てて開けた。
「今日は、あまりいいものを仕入れられなかった。こんな時間になった時はやっぱり神田まで行かなければダメかな」
登四郎はボヤきながら新宿の淀橋市場で仕入れてきた果物の入った木箱を荷台から下ろし始めた。徹也が手伝う。
「もう少し早く行けば神田まで行かなくても淀橋にだっていいものがあるんじゃないのか?」
「それを言うなよ。あんな遅くまで店を開けて、開場と同時に市場に入ろうと思ったら寝ずに働き通さないと無理だ」
門司青果店は周辺の商店は全て閉まっている中、この店だけが煌々と明かりを灯して営業している。遅くまで店を開けるのにはそれなりの利点があるのだ。
中野は新宿に近く、繁華街としても栄えており、夜遅くまで芸者遊びに興じる旦那衆が多い。旦那衆は奥方への罪滅ぼしか、はたまた芸者への心付けを必要とする。遅くまで開いている青果店には特需があったのだ。
以前は周りの店と同じに閉めていたが、夜中に戸を叩いて売ってくれ、と言う不届き者が一人でなく何人もいた為、開けておく事にしたという事だった。
「そうだね、トウちゃんの老体で寝ないで働くのは無理か」
「言ってくれるなぁ」
荷下ろしする中に他のものとは少し違い、高級感のある紙の箱があった。鼻先を甘い香りがフワリと掠める。
おや、と思った徹也が箱を見ると、高級メロンの箱だった。二つもある。
「トウちゃん、こんなの珍しいな」
登四郎は「いいだろう」と胸を張る。
「いつもなら高級品は根こそぎかっさらって行く高野が今日は休業だったらしくてな。そんな良品を珍しく手に入れられた。たまにはあるんだよ、こういう事も。一つは売約済みだが、もう一つは余分に買ってきたんだ。マリちゃんに食べさせてあげるといい」
「それはいい!」
顔を綻ばせた徹也に登四郎はニッと笑った。
「お代は巽に付けておこうな」
徹也の笑みが一瞬強張ったが、瞬時に元の笑顔を取り戻す。
「そうだ、アイツに絶対払わせるんだ」
果物を店頭に出す為にカゴに移す作業を始めた徹也に登四郎が聞く。
「今朝は、マリちゃんまだ顔見てないけど、どうした」
徹也の手が止まった。
昨夜、登四郎と呑んだが少しも酔えなかった。結局、早めに切り上げ、今ならまだ止められるかもしれない、という一縷の望みを持って家に戻ったが、巽の姿はもうなかった。
煌々と電気の点いた部屋で、裸の万里子が呆然と座り込んでいた。畳の上に生々しい血の跡が残っていた。
巽の姿を見て、ぼろぼろと涙を零して泣き出した万里子を、何も言わずに抱きしめる事しか出来なかった。
ごめん、なんて言う権利は自分には無い。徹也は唇を血が出る程に噛み締めた。
万里子も徹也を決して責めなかった。
自分に出来る事は、と徹也は思う。
万里子を傷付けるような事がこれ以上にないよう守るだけだ。
強くなりたい。強くならなければ、守りきれない。巽を凌ぐ強い男になる。
徹也は登四郎の問いに少しの間考え、ゆっくりと答えた。
「うん、ちょっと今朝は調子が良くないみたいでさ。ちょうど良かったよ、メロンで元気出してもらえる」
登四郎の「それは良かった」と言う笑顔に徹也も笑みで返した。
徹也が切り分けたメロンを万里子は素直に喜んだ。
「こんなメロン、初めて食べた。美味しいね」
「ああ。今度、マリーを高野のパーラー連れて行ってやらないとな」
「え、ほんと!」
「約束する。こんなメロンを贅沢に使ったパフェが食えるらしいぞ」
「えー……でもお高いんじゃ」
「そんな事、気にするんじゃない、マリーはまだーー」
子供なんだから、と言い掛けて徹也は口を継ぐんだ。
「マリーはまだ、そんな稼いでないけど、俺達は結構、稼いでるんだぞ」
無理矢理ごまかし笑った徹也に、万里子は愛らしい笑みを見せた。
「テツさん、ありがとう」
何に対しての〝ありがとう〟だろう。
高野に連れて行ってやる、と言った事に対してか。それとも他の?
三日月型のメロンをスプーンで掬い万里子は美味しそうに食べる。徹也の胸が締め付けられる。
「マリー、俺は、ずっとマリーのそばにいるから。もっと、強くなるから」
呟くように言った徹也に、万里子の手が止まった。真っ直ぐな瞳が徹也を捉えていた。
「ごめん。こんな事、今更言って」
万里子は「ううん」と首を振った。
「ありがとう、テツさん。いいの、もう大丈夫だよ」
「え」
万里子の表情が、急に大人びた気がした。
白い肌に純粋な日本人とは違う、彫りの深い造作の顔。碧い瞳。
綺麗だ。どきりとした徹也に万里子は静かに口を開いた。
「テツさん、あたしね」
静かな、柔らかな声だが、芯の強さを感じた。
「踊り子になるよ。百合子さん超えるくらいの、香蘭の看板になる踊り子になって、独り立ちする」
「マリー」
驚く徹也に万里子は、女神のような笑みを見せた。
諦めとかじゃない。徹也には分かった。
万里子は、諦めたんじゃない。生きる覚悟を決めたんだ。
もう、止められないんだな。徹也も吐息と共に決意する。
「じゃあ俺は、あそこを、あの場所を守る」
「うん」
万里子がいつもの愛らしい笑顔と共に頷いた。
いつもの万里子だ。微かな安堵と罪悪感。万里子はどんな想いを乗り越えて、ここに至ったのか。
そばに、いさせてくれな。
そっと、心中で語りかけていた。
「残りのメロンは、トウシロウさんに食べさせてあげたい」
「お、それがいいな、今日はマリーの顔を見られなくて心配していたから、持っていってあげるといい」
「うん、そうする」
万里子は、たった二か月で、踊り子となる日を迎える。
「トウちゃん、お帰り」
店先で待っていた徹也が登四郎を出迎える。直ぐに店頭の木戸をガタガタと音を立てて開けた。
「今日は、あまりいいものを仕入れられなかった。こんな時間になった時はやっぱり神田まで行かなければダメかな」
登四郎はボヤきながら新宿の淀橋市場で仕入れてきた果物の入った木箱を荷台から下ろし始めた。徹也が手伝う。
「もう少し早く行けば神田まで行かなくても淀橋にだっていいものがあるんじゃないのか?」
「それを言うなよ。あんな遅くまで店を開けて、開場と同時に市場に入ろうと思ったら寝ずに働き通さないと無理だ」
門司青果店は周辺の商店は全て閉まっている中、この店だけが煌々と明かりを灯して営業している。遅くまで店を開けるのにはそれなりの利点があるのだ。
中野は新宿に近く、繁華街としても栄えており、夜遅くまで芸者遊びに興じる旦那衆が多い。旦那衆は奥方への罪滅ぼしか、はたまた芸者への心付けを必要とする。遅くまで開いている青果店には特需があったのだ。
以前は周りの店と同じに閉めていたが、夜中に戸を叩いて売ってくれ、と言う不届き者が一人でなく何人もいた為、開けておく事にしたという事だった。
「そうだね、トウちゃんの老体で寝ないで働くのは無理か」
「言ってくれるなぁ」
荷下ろしする中に他のものとは少し違い、高級感のある紙の箱があった。鼻先を甘い香りがフワリと掠める。
おや、と思った徹也が箱を見ると、高級メロンの箱だった。二つもある。
「トウちゃん、こんなの珍しいな」
登四郎は「いいだろう」と胸を張る。
「いつもなら高級品は根こそぎかっさらって行く高野が今日は休業だったらしくてな。そんな良品を珍しく手に入れられた。たまにはあるんだよ、こういう事も。一つは売約済みだが、もう一つは余分に買ってきたんだ。マリちゃんに食べさせてあげるといい」
「それはいい!」
顔を綻ばせた徹也に登四郎はニッと笑った。
「お代は巽に付けておこうな」
徹也の笑みが一瞬強張ったが、瞬時に元の笑顔を取り戻す。
「そうだ、アイツに絶対払わせるんだ」
果物を店頭に出す為にカゴに移す作業を始めた徹也に登四郎が聞く。
「今朝は、マリちゃんまだ顔見てないけど、どうした」
徹也の手が止まった。
昨夜、登四郎と呑んだが少しも酔えなかった。結局、早めに切り上げ、今ならまだ止められるかもしれない、という一縷の望みを持って家に戻ったが、巽の姿はもうなかった。
煌々と電気の点いた部屋で、裸の万里子が呆然と座り込んでいた。畳の上に生々しい血の跡が残っていた。
巽の姿を見て、ぼろぼろと涙を零して泣き出した万里子を、何も言わずに抱きしめる事しか出来なかった。
ごめん、なんて言う権利は自分には無い。徹也は唇を血が出る程に噛み締めた。
万里子も徹也を決して責めなかった。
自分に出来る事は、と徹也は思う。
万里子を傷付けるような事がこれ以上にないよう守るだけだ。
強くなりたい。強くならなければ、守りきれない。巽を凌ぐ強い男になる。
徹也は登四郎の問いに少しの間考え、ゆっくりと答えた。
「うん、ちょっと今朝は調子が良くないみたいでさ。ちょうど良かったよ、メロンで元気出してもらえる」
登四郎の「それは良かった」と言う笑顔に徹也も笑みで返した。
徹也が切り分けたメロンを万里子は素直に喜んだ。
「こんなメロン、初めて食べた。美味しいね」
「ああ。今度、マリーを高野のパーラー連れて行ってやらないとな」
「え、ほんと!」
「約束する。こんなメロンを贅沢に使ったパフェが食えるらしいぞ」
「えー……でもお高いんじゃ」
「そんな事、気にするんじゃない、マリーはまだーー」
子供なんだから、と言い掛けて徹也は口を継ぐんだ。
「マリーはまだ、そんな稼いでないけど、俺達は結構、稼いでるんだぞ」
無理矢理ごまかし笑った徹也に、万里子は愛らしい笑みを見せた。
「テツさん、ありがとう」
何に対しての〝ありがとう〟だろう。
高野に連れて行ってやる、と言った事に対してか。それとも他の?
三日月型のメロンをスプーンで掬い万里子は美味しそうに食べる。徹也の胸が締め付けられる。
「マリー、俺は、ずっとマリーのそばにいるから。もっと、強くなるから」
呟くように言った徹也に、万里子の手が止まった。真っ直ぐな瞳が徹也を捉えていた。
「ごめん。こんな事、今更言って」
万里子は「ううん」と首を振った。
「ありがとう、テツさん。いいの、もう大丈夫だよ」
「え」
万里子の表情が、急に大人びた気がした。
白い肌に純粋な日本人とは違う、彫りの深い造作の顔。碧い瞳。
綺麗だ。どきりとした徹也に万里子は静かに口を開いた。
「テツさん、あたしね」
静かな、柔らかな声だが、芯の強さを感じた。
「踊り子になるよ。百合子さん超えるくらいの、香蘭の看板になる踊り子になって、独り立ちする」
「マリー」
驚く徹也に万里子は、女神のような笑みを見せた。
諦めとかじゃない。徹也には分かった。
万里子は、諦めたんじゃない。生きる覚悟を決めたんだ。
もう、止められないんだな。徹也も吐息と共に決意する。
「じゃあ俺は、あそこを、あの場所を守る」
「うん」
万里子がいつもの愛らしい笑顔と共に頷いた。
いつもの万里子だ。微かな安堵と罪悪感。万里子はどんな想いを乗り越えて、ここに至ったのか。
そばに、いさせてくれな。
そっと、心中で語りかけていた。
「残りのメロンは、トウシロウさんに食べさせてあげたい」
「お、それがいいな、今日はマリーの顔を見られなくて心配していたから、持っていってあげるといい」
「うん、そうする」
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