胡蝶の舞姫

深智

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昭和35年5月 中野 鍋屋横丁

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 新宿大ガードを抜けると、賑やかな東側とは違う風景が広がる。飲屋街のしょんべん横丁がわずかな賑わいを見せるのみで、閑散としていた。

 夜も更けた頃、大きな風呂敷包を抱えた徹也は万里子を連れて新宿駅の西口前へと走る。

「マリー、あれに乗れるぞ!」

 都電の新宿駅西口前停留所には白地に赤いラインの入った電車が発車を待っていた。徹也に手を引かれ、混み合う電車にギリギリで飛び込んだ。

 大勢の乗客を乗せた路面電車はゴトンッという鈍く重い音を立てて線路の上を滑り出した。入り口付近に立った万里子は窓に貼り付き外を見る。

 店が閉まり、各家々に灯る灯りが連なる静かな夜の風景が車窓から見えた。東側の、ネオン煌めく街とは真逆の世界が広がる。

 万里子はこの景色を見る度に思い出す。

 東京に来たのは、こちら側からだった。電車の車窓から見た景色は、闇市の広がる暗い景色だったのに。

「マリー」

 隣に立つ徹也に声を掛けられ顔を上げた。

「こっちから新宿入って、出てしまったのは東口で、びっくりしただろそん時は。新宿、駅を挟むと別世界みたいだもんな」」

 万里子は、フフッと笑いながら「うん」と応えた。

 徹也と巽の兄弟の自宅がある中野に身を寄せるようになって二年の月日が経った。

 徹也はいつも、口数少ない万里子の気持ちを汲んで言葉にしてくれた。ずっと昔から一緒にいたような安心感をくれる大切な存在になりつつあった。

 けれど、巽はーー。

「四年後には東京で五輪があるんだ。こっちも、これからどんどん変わってくるぞ。実際、マリーが来た五年前より明るくなっているだろ」
「うん」

 開放感に満ちた大勢の人間で賑わう明るい電飾で飾られた街と、人々の生活という現実が広がる家々が並ぶ街。東京は五輪という一大イベントに向け清濁併せ持ったまま、増殖を続けていた。

 家々の生活の灯火の中に真っ暗に沈む一角を車窓の向こうに見、徹也は呟く。

「淀橋浄水な、あそこも移転が決まっているんだ。本当に、こっちも変わっちまうんだろうな。みんな変わる。このままで、言い訳がない」
「テツさん?」

 見上げる万里子に徹也は「なんでもないよ」と優しく笑った。

 新宿を出た電車は中野区に入り、成子坂下、本町一丁目、二丁目、と停まり、車掌の「次は鍋屋横丁~」という案内が車内に響いた。

「降りるぞ」

 電車が停まると徹也は入り口に立つ車掌に二人分の運賃を払い、万里子の手を引き、降りた。

 オデオン座という大きな看板を掲げた映画館の周囲には商店街が並ぶ。夜更けの街だったが、都電の走る大きな交差点付近に広がる街は賑やかだった。

 角に、万年筆という文字を象った電飾看板が煌々と灯る大きな商店のある方へと道路を渡ると、戸を閉めてた商店が並び、住宅があり、生活の息吹が感じられる。

 中野の繁華街である鍋屋横丁という街は大規模な商店街が人々の生活圏に溶け込んでいる街だった。

 人の息吹、生活の鼓動。万里子は大きく息を吸った。人の匂いがする。廓とは違う、普通の生活の匂い。

 もう三年になるのに胸一杯に懐かしい想いが広がり、喉の奥に疼痛が走った。自分はこの中に入りたかったんだ。

「マリー」

 万里子の背に優しい手の感触があった。静かで柔らかな声が、夜の街に優しく溶ける。

 わたしは、この手に引かれたあの日から、生きると決めたの。この東京で。

 木戸の閉まった商店が並ぶ中、灯りを点す店舗が一軒あった。軒先きには恰幅の良い中年男性が立っていた。

「おお、お帰り、マリちゃん」

 こちらに向かって手を振るのは、巽と徹也の住む借家の主人、門司登四郎。青果店を営んでいる。

「ただいま、トウちゃん」

〝トウちゃん〟。初めて紹介された時、巽と徹也がそう呼ぶのを聞いた万里子は、暫くは二人の父親と勘違いしたが、当然違う。

『劇場の管理人の金造さんの古い友人。俺たちの面倒を見てくれた人』

 皆、誰かしらに支えられ、恩義をもらいながら生きている。

 自分も、そう。

 万里子は登四郎に「ただいま」と明るく言った。登四郎は徹也の持つ風呂敷包みを見た。

「今夜も大荷物だな」
「はい、たくさんお針子仕事、もらってきました」

 登四郎はそうかそうかと目を細めた。

 万里子は針仕事が得意だった。

 遊郭で遊女達の着物を縫い、お直しをする仕事をずっと任され、富夫は洋裁まで学ばせていた。

『もし何かあってもこれで食っていくんだよ』

 富夫の言葉通り、今、自分のやる事を見つけられていた。



 青果店の二階の借家は四畳半と三畳間、小さなお勝手があった。狭かったが綺麗な設えの住まいは、三人で住むのには充分だった。

 軽い夕食を終え、万里子は踊り子達の衣装を縫い始めていた。針仕事をする万里子の横顔を、煙草を吸いながら見つめる徹也は複雑な想いを抱える。

「マリーは幾つになったんだっけ」

 万里子は運針の手を休める事なく答える。

「十八です」
「そっか」

 徹也は、煙が沁みて目を閉じた。

 万里子にこのまま針仕事を続けさせてやる道は、と思う胸が強い力で押し潰される。巽の声が聞こえる。

『いいか、十八だ、十八になったらーー』

 ごめん、万里子。本当に、ごめん。

 徹也は立ち上がる。

「マリー、俺、ちょっとトウちゃんの店閉めるの手伝ってくるわ」

 万里子が手を止め、顔を上げた。

「うん、分かった」
「その後、多分トウちゃんと呑みに行くから、先に寝ててくれな」
「はい」

 万里子は笑顔で「頑張ってきてね」と徹也を見送った。


 徹也が階下に下り外に出ると、くわえ煙草で路地を歩いてくる巽が見えた。

 スラックスに両手を突っ込み、ゆったりとした歩調で歩く長身の男は、街路灯の下、妖しい美しさを放っていた。

 美しき鬼だ。

 徹也は巽と顔を合わせぬよう、登四郎の店に入って行った。奥でそろばんを弾く登四郎に声を掛ける。

「トウちゃん、今夜はそろそろ閉めないか。カンちゃんとこの屋台に呑みに行こうよ」
「お、それはいいな!」

 登四郎の呑気な声に、徹也は泣きそうな顔で頷いていた。

 今夜は、少しでもここから離れていたいから。



 階段を登ってくる音に、万理子は顔を上げた。

 テツさん? 随分早いけど、忘れ物かな。

 針と縫っていた衣装を置き、立ち上がった万理子は入り口に迎えに出たが、凍りついた。

「お出迎え、してくれたんだな。いい子だ」

 巽は、三年経った今でも打ち解けていなかった。それどころか、恐怖が増した。

 どうして?

 巽と二人きりになった事はなかった。

 今夜は、なぜ。

「テツさーー、いっ……!」

 万理子は手首を掴み上げられ口を塞がれた。目を見開き、見上げた先に冷たい瞳があった。

 女を喰らう美しい鬼が、笑う。

 声が、出ない。

「テツは、今夜は戻んねーよ」
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