胡蝶の舞姫

深智

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芸名の秘密

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 恵三さん、覚えてますか。

 大事な思い出は、絵美子の心に息づく。

『社会勉強だ。今日は銀座に連れて行ってやろう』

 花菱で仕込みとして働き始めて三ヶ月ほど経った頃だった。恵三から贈られた着物を着、絵美子は初めて銀座の街中に連れられて行った。

 瀟洒なスーツの恵三は周囲の女性の視線を集めながらハイカラな街に溶け込んでいたが、まだ何も知らない絵美子にとって、銀座の街は、刺激が強過ぎた。

 和光デパートの見た事もない高級な嗜好の世界は、もはや異次元だった。

 人の波、嗅いだ事のない香りの中に晒されてすっかり疲弊してしまった絵美子は、それでも全てを吸収しようと気丈に振る舞った。

 昼食を銀座一丁目の亜寿多で済ませた後、恵三は絵美子に笑い掛けた。

『よく頑張ったな。最後にご褒美だ。子供でも喜びそうなところに連れて行ってやろうな』

 子供でも喜びそうな?

 行き着いた場所は、松坂屋デパートの屋上だった。

『釣り堀?』

 顔を輝かせた絵美子に恵三はくわえ煙草で目を細めた。

『ああ。遊園地、っていうのもちょっと違うなと思ってな。どうだ、やるか?』
『はい!』

 家族連れやカップルで賑わう釣り堀の空いている場所に、並んで座り、釣り糸を垂らした。

 釣れる釣れないなんて、どちらでこ良かった。ただ、純粋に楽しかった。

 ふと見上げると、完成したばかりの赤い鉄塔が天高くそびえる姿が遠くに見えた。

『恵三さん、東京タワーです』

 恵三は相変わらず煙草を咥えたまま、『ああ』と応えた。

『とうとう、完成したんだそうだ。これから世の中が大きく変わぞ。全てが、変わるんだ』

 静かに言った恵三の言葉はとても重く意味深に絵美子の中に残った。

 あの日、もう一つ絵美子は大切な思い出を胸に刻んだ。

 帰り際、やや大きめの段差を下りる時、躊躇した絵美子に手が差し出されたのだ。

『姫君、お手を』

 冗談めかして笑いながら言った恵三の、ほんの束の間見せた姿だった。

 絵美子の中に刻み込まれた恵三のそんな姿は、後にも先にも見る事はなかった。



 銀座八丁目の中央を横切る路地、金春こんぱる通りにある銭湯の金春湯は、夕刻時、これから座敷に上る芸者がよく利用する。

 湯気上がる浴室内は、水を流す音、洗面器が床に置かれる音、人の声が反響する。その日の疲れを癒す者がゆったりと湯に浸かりながらも、女湯はお喋りに花を咲かせる者も多い。

「で、姫花ちゃんは、その芸名に隠された秘密、今日、恵三さんにお話しできたの?」
「出来ませんでした」
「えー、なんで」

 今夜はお座敷はないからゆっくり、という蝶花と銭湯に来ていた絵美子は、日中にあった事を報告していた。

 上野公園を散策した後、恵三は精養軒へ連れて行ってくれた。

 食事をする中で、恵三は絵美子に洋食のマナーを教え、今読むべき本や、世の中で起きている事、政治、経済の仕組みなど、様々な話を丁寧に分かりやすく話した。

 ご飯食べに連れ出し、幼い半玉が身に付けていくべき事を教えてくれる恵三に、自分の取るに足らない芸名の由来など、と絵美子は思ったのだ。

「恵三さんが『姫』って呼んでくれたのが忘れられなくて、おかあさんと蝶花姐さんにわがまま言ってもらった芸名なんです、なんてちょっと話せません」

 蝶花がアハハと笑い、豊かな胸が浸かる湯が大きく波打った。絵美子の白い肌に温かな波が押し寄せる。

「そうねぇ、あたしはともかく、おかあさん困ってたわ。自分からこの名前がいい、なんていう子、前代未聞だって」

 絵美子は両手で顔を覆い、蚊の鳴くような声で「すみません」と言った。蝶花は絵美子の髪を撫でる。

「いいのいいの。店の名前とあたしの芸名からちゃーんと〝花〟って名前、あげられたし。姐さん達が代々ずっともらってきた〝蝶〟にもう拘る必要はないわ。現に、アンタは新しい芸者の道、切り開いてくれそうだし」

 湯に浸かるせいか、恥ずかしさからか、頰を赤く染めた絵美子は「ありがとうございます」と理解ある頼れる姐さんに礼を言った。素直に、この姐さんでよかったと思う。

 蝶花の、絹のように滑らかて美しい白い肌が湯の中で揺れていた。時折、腕を伸ばしてお湯を体に掛ける仕草が同性でもドキリとするほど艶めかしい。

 芸事はどの姐さんにも劣らない一流芸者の蝶花は、これほどの女の芳香を纏いながら決して色は売らない。誇り高き芸者の鑑、と言われるが、実は。

『姫花ちゃん、鋭いわよね。あたしが自分に嘘ついてるって、直ぐに気付くなんて。そうよ、あたしは、女であって、女じゃないの。でも、そんな人間は、世の中では異物扱いされちゃう。結構、生きづらいのよ。だから、あたしは〝女〟として生きているの』

 銀平の時と同じだった。絵美子は蝶花に出会った時、同じ匂いを嗅ぎ取った。蝶花と一緒にいるといつも故郷に故郷に残してきた大切な人を思い出す。

 銀ちゃん、元気にしているかな。

 東京に来るって、約束した。きっと会える。銀ちゃんが見つけられるような一流の芸者になるんだ。

 湯に浸かる絵美子がそっと目を閉じ北の故郷に祈るを向けた時、ぱちゃんとお湯が顔に掛けられた。蝶花がクスッと笑っていた。

「なぁに、蝶花姐さん」
「それにしても恵三さんたら、旦那なんて言い方して。意外と〝古い人〟だったのねぇ」

 古い人。恵三さんが?

 絵美子は恵三の姿を思い浮かべる。確かに、年はだいぶ上だが、古い感覚の持ち主には見えなかった。

 額がトンと叩かれた。蝶花の柔らかな微笑が向けられていた。

「古い人、って頭が固いっていうのと違うのよ。仕来りしきたりを知る人っていう意味。あの人は革新派よ。何か大きな事を成し遂げようとしている。多分、本来なら足枷になるようなものを嫌う人よ。実のところ、一人の芸者に肩入れするような事絶対になかった人なのに、っておかあさんが言ってた。それが、姫花ちゃんの旦那になるって宣言した。これがどういう意味か、分かる?」

 首を振った絵美子は、蝶花に両手で顔を挟まれ真剣な眼差しを受けた。

「勉強しなさい。芸者の本分である芸事は当然疎かにしてはダメだけど、男を駒に出来るくらいの知性と教養を身に付けなさい。いい? 知の蓄えが出来るのは、半玉の今だけよ。一本になったら、知らないでは済まされない。しっかりやりなさい」

 常にしなやかで、柔和な雰囲気に身を包み、どんな刃ものらりくらりと身を交わすように生きる蝶花の、初めての重い言葉だった。

「蝶花姐さん」

 眼差しの緊張がフッと切れ、いつもの柔らかな瞳に戻り、蝶花はフワッと笑った。

「お説教、おしまい。あたしは一応、姐さんだからね。アンタをちゃーんと教育せんといかんからね」

 姐さんは温かい。

「ああ、お説教まだあった」
「え?」

 蝶花が悪戯っぽい笑みを見せてそっと耳打ちした。

「姫花ちゃんは〝お酌〟?」
「お酌?」
「処女って意味」

 絵美子がバシャッと湯に荒波を立てた。蝶花が笑う。

「よかった、それは大事にして」
「大事にって……」

 蝶花は両手を伸ばし指先を見つめ、しみじみと言う。

「今は、水揚げなんて制度無いけれど、初めては大事な場面に取っておきなさい。大事な人の為、ううん、自分の為に、よ。決して、後悔のないようにね」

 絵美子の胸がにわかにドキドキし始めていた。

 意味は、分かる。とても。私は、誰と?

 真っ先に思い浮かべてしまったのは。

 手を見つめ、自らの身体を見た時、バシャっと湯が揺れた。

「さ、のぼせちゃうから、上がりま~す」
「え、ちょっと待って、蝶花姐さんっ」

 アハハと笑いながら湯から上がる蝶花に絵美子も続く。振り向いた蝶花は、絵美子の全身をしたから上まで見る。

「うーん、やっぱりまだ早かったわね。まだまだね」
「え、いやです、蝶花姐さん!」

 慌てて前を隠して怒る絵美子に蝶花は笑いながらタオルと洗面器を持って出て行った。慌てて自分の洗面器を取り、姫花も浴場を後にした。
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