胡蝶の舞姫

深智

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アゲハ蝶

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「マリー、この方がお前を引き取ってくださる事になった。お礼を言いなさい」
「え、ちょ」

 こんな直ぐに? と戸惑う徹也に万里子は明るい笑みを見せた。

「本当ですか! ありがとうございます!」
「そうと決まれば話は早い。客人の気が変わらないうちに、マリー、荷物をまとめて準備しておいで」
「はい!」

 満面の笑顔で「お願いします」と挨拶をして部屋から出て行った万里子に、徹也は『まだ待て』とは言えなくなってしまった。

 文字通り、気の変わらぬうち、なのだろう。さすが、遊郭の主人だ。

 ため息を吐いた徹也は手の中に十字架を見た。

 鈍い光を放つ十字架。
 周防の名を名乗りながら、この街に漂着した少女。
 少女は過去に怯える。

 どうもキナ臭いな。

 同じ〝流れ者〟としてここまで生き延びてきた徹也の野生的嗅覚が作動したが、今分かっている断片的なピースはあまりにも足りない。どのピースを辿っても直ぐに行き止まりだ。

「とりあえず、それはマリーに返してあげてね」

 キセルをくわえながら言った富夫に徹也は「ああ」と答え、クロスを巾着袋にしまった。

「それにしてもさ、GHQは日本政府に公娼廃止指令を突き付けておきながら、自分たちは別だったんだろうね」

 富夫の声に言い表せない程の感情の澱みが見えた。

「日本人は蔑まれていたんだ。敗戦国だって現実を突き付けられてたんだよ」

 吐き捨てるような富夫の呟きに徹也は返事をしなかった。

 敗戦の焼け野原から信じられない早さで復興してきた東京の街。

『もはや戦後ではない』という一節が二年前、経済企画庁の白書に記され浸透し、今年は東京オリンピックの招致も成功間近となっているが、一部の人間の心の奥にはまだ暗い記憶が澱んだ川のように流れ続けている。

 徹也は煙草を一本取り出してくわえた。

「俺たちみたいな底辺を必死に生きる人間は、今を生きるのに必死で戦勝国だとか敗戦国だとか、そんなの気にしている余裕なんてねえよ。アメ公がどうとかも俺には関係ない」

 富夫は「徹也らしいね」と笑った。

「けどそうだね。生きるのに必死だからこそ、女はああやって体を売ってでも逞しく生きる事ができるんだ」

 キセルの煙が富夫のため息と混ざり合った。

「プライドに縛られて何もできないのは男の方かもしれないよ」

 徹也はクッと喉を鳴らした。

「そんな事、とうの昔から知っていた。女の方が、強い」
「そうだね。僕みたいに、男でもない、女にもなり切れない生き物が一番弱い」

 なんとも言えない笑いを漏らした徹也に富夫は剥れた表情で言う。

「だから、こんなに弱い生き物を労ってちょうだい」
「何言ってんだよ。アメ公とも堂々と渡り合ってきた富さんのどこが弱いんだよ」
「やだよ、徹也は。あれでどれだけの寿命を削ってきたと思ってるんだい」

 一頻り軽口を叩きあい、笑い合った二人の、煙草とキセルの煙が部屋を満たした。開け放たれた障子の向こうに広がる荒れた庭に視線を向けた徹也は一つ気になる事を聞いた。

「マリコは、処女か」

 虚を衝く問いに富夫は一瞬固まったが、直ぐに余裕の笑みを取り戻す。

「そう、御察しの通り、マリコはここであくまで小間使いとして僕や女達の身の回りの世話をさせていた。男の前には出した事はないよ」

 富夫が、女を性的対象に見ない男である事を徹也は知っていた。その富夫がずっと置いていたという事が、マリコが処女であろう何よりの理由だ。

 富夫の店で働く女達が、逃げても戻ってくる理由が分かる。女の気持ちも痛いほど分かる男など、なかなかいまい。ここの女達は、体を売りながらも幸せでいられるのだろうか。

 黙り込んだ徹也の考えている事を察した富夫が静かに話す。

「処女だけど、大丈夫だ。こんなところで三年も暮らしたんだ。女と男がする事といえばどんな事かくらい嫌ってほど分かっているさ。多分、大抵の事には免疫がある。徹也が心配している兄貴殿の事も心配いらないだろ」

 苦いものを噛んだような顔をした徹也に富夫は肩を竦めて見せた。

「そんときゃそん時だ。多分、あの子は分かってるさ」

 安心してのうのうと暮らす保証なんてしなくていい、富夫は言葉は暗にそう言っていた。

「いずれ、お宅のとこの踊り子にすればいい」

 結局、そうなるのだろうな、と徹也は庭に視線を移した。

 誰もいないのかと思ったら、微かに女の笑い声が聞こえた。奥の間に、何人か匿っているのだろう。

「俺も兄貴も、ここにいた女達と同じだ。富さんには感謝してる」
「何をいきなり言い出すのさ」

 困惑気味に笑った富さんの笑みは、女のように艶かしく綺麗だった。徹也は言葉を継いだ。

「富さんがいなかったら、俺らは今頃どうなっていたか分からない」
「ああ、そんな事か」

 遠くを見るような目をした富夫は、四年前、徹也と兄のたつみがこの街にやって来た頃の事を思い出した。

「フラッとこの街に現れたまだ年端の行かない子供があんな恐ろしいモノを持っていてビックリしたよ。とにかく騙されないようにしてやらないと、と思っただけだよ」

 一旦言葉を切った富夫は、口角を上げた笑みを徹也に向けた。

「あの時は聞かなかったけど、今はもう聞いても構わないね? 身寄りのない子供が、どんな方法であんな金塊を手に入れたのかな?」

 徹也は、フッと笑みを零した。

 確かに、もう時効か、と思いながら、

「さあて、どうやってだったかな」

 はぐらかした。

 富夫もキセルの細長いパイプを指に挟んで頬杖を突きながら、ふうん、と意味深な笑みを浮かべた。

「僕は知ってるよ、君ら兄弟は北海道から来たんだってね」
「……」
「徹也達がここに来たのは四年前の秋。青森沖で大きな海難事故が合った時期と重なるのは、偶然かな」

 面食らったような表情を見せた徹也の隙を、富夫は柔和な笑みを浮かべたままフワッと捕まえた。

 徹也の目の前が一瞬真っ暗になった。

 脳裏には、荒れ狂う暗い海。空は、風がゴウゴウと唸り渦巻き真っ暗だった。

 洞爺丸だ。あの日、台風が直撃する海に出航した船は、荒波に呑み込まれた。

 固く強く握り合った手。

『テツ、この手、離すなよ! オレたちは絶対に死なない! 死んでたまるか!』

 沈没前に、ある男から荷物を奪った。この金で。死んでたまるか。

 ああ、あの夜の計り知れないストレスと、荒波に揉まれ生死の境を漂った恐怖が、兄貴の心を壊してしまったんだったな。

「徹也」

 名を呼ばれ、浮世を漂っていた精神が戻って来た。顔を上げると富夫がこちらを伺っていた。徹也は煙草をくわえ直す。

「たとえあの時に〝何か〟が合ったとしてそれを裏付ける証拠なんてもうねえから」



 徹也の不敵に光る瞳を見つめていた富夫はキセルを火鉢にトントンと叩き付け、肩を竦めた。

 本当に、いい男だね。

 爽やかな短髪に、整った顔立ち。

 強い光を放つ眼に迷いなど微塵もない。大地を踏みしめるその足は、指で土を握るように立っている。向かい風がどんなに吹き荒れようとも、物ともしない。

 喰ってしまいたくなる男だ。富夫は眩しそうに目を細めた。

 この子は、生きる世界が日の差す世界でなくとも、内に秘めた信念は揺らぐ事なく真っ直ぐに進んで行くのだろう。

「そうだった、あの事故の生存者は無し、となっていたね」

 含みのある言葉に意味深な笑みを返した徹也に富夫は続ける。

「君たち兄弟は、この先どんな荒波に呑み込まれても生き残れるよ」

 祈りも込めて一語一語を噛み締めるように言った富夫に徹也は不惑な笑みを向けた時、障子の向こうから声がした。

「準備出来ました」
「いいよ、入っておいで」

 障子が開くと、小さな風呂敷包一つを脇に置いた少女が正座していた。割烹着は取り、肩上げをした赤い絣姿だった。

 まだ幼いのに、どこか覚悟を決めたような少女の姿に徹也もいよいよ、肚を決めた。

 兄貴も事もまだ心配だが、なるようにしかならないな。

「じゃあ、行こうか」

 少女は愛らしい笑みで「はい!」と応えた。





「僕はまだ暫くはこの街にいるから、何かあれば聞きにおいで」

 玄関まで見送りに来た富夫は、キセルを細い指に挟み相変わらず女と見紛う笑みを浮かべていた。

「マリー」

 富夫のしなやかな手が万里子の頭を優しく撫でた。

「僕の願いは、ずっと変わらないよ。マリーは蝶におなり。美しい美しい、アゲハ蝶に」

 万里子は何も言わずに富夫の腰に抱きついていた。

 アゲハ蝶。

 万里子と富夫の別れの挨拶の間、徹也は心中で反芻していた。

 どんな蝶に? どこを舞う蝶に?

 美しく羽化した蝶は、どこを舞う。
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