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聚楽台
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明らかにサイズの合っていない詰襟の学生服を、裾も袖も幾重にも捲り上げて無理に着ている。肩も当然合っていない。
恐らく学生服の中の身体は相当華奢なのだろう。学帽を目深に被り、顔を隠していれば確かに男に見えなくもなかったか。
いや、分かるだろう。
恵三は内心で吐き捨てた。
アイツら、真の間抜けだな。
前を歩く三人の後に付いた恵三は、詰襟の学生を見て改めて考えた。
多分、こんな男達に付いて行くしかないくらい宛もないのに東京に出て来た。しかも、女である事を隠し、変装をして。押して測るべき事情があったのだろう。
「やあ、こんなところにいたのか」
突如として聞こえた恵三の、響きの良いバリトンボイスに男達は飛び上がる程驚き、振り向いた。彼らの後ろを付いて歩いていた学生も同様だ。
目深に被ったら学帽の下から陶磁器のように白い頬が見えた。柔らかなラインを描く白いフェイスラインに恵三は確信した。
間違いなかったやはり、女だ。
「つ、津田さん!」
男達は恵三の姿に慌てふためき慄いた。
「な、なぜ津田さんがこんなところに!」
恵三は優雅な笑みを浮かべた。
「知り合いの子をうちで引き取る事になって迎えに来たのだが一足遅くてね。探したら、君達が連れて行くところが見えてね」
一見すると優美な笑みだが目は対峙する者を震え上がらせるほど冷たい。男達は圧倒され追い詰められた。
「す、すみません! 津田さんのお知り合いとは知らず!」
「失礼しました!」
「あ、待って!」
男達は連れて行こうとしていた学生を振り向きもせず一目散にその場を去って行った。
唯一の宛てが無くなった失望感だろうか、学生はがっくりと肩を落とした。
「アイツらに付いて行ったらロクでもない未来しか無かったぞ」
恵三は、小柄な学生の被る学帽をバッと取り去った。
飛び上がる程に体を震わせ、顔を上げた〝少女の顔〟に恵三はハッと息を呑んだ。
「混血児か」
*
突然声を掛けて来た男によって、〝アテ〟が霧散した。
学帽を取り上げられ顔を晒されてしまった恵美子は男を睨み付けた。
背は、それほど高くは無い。しかし、弘前では見た事のない一分の隙もない洗練された身なりをした男は、他を圧倒するような空気を纏っていた。
ゴクリと固唾を呑み込んだ恵美子だったが、ここで怯んではいけないと地に着く両足に力を込めた。
目を逸らす事なく見つめる恵美子に男はククッと笑った。すっと手が伸びたかと思うと、顎を掴まれ上を向かされた。
「いい目をしてるな。女にしておくのは惜しいくらいの度胸を持っていると見た」
近くで見ると、鼻筋の通った彫りの深い造作の顔に切れ長の目が油断のない光を湛えていた。
この男は敵か味方か。自分に利となる男か、害となる男か。
必死に考える恵美子に男は言った。
「お前はこれからどうするつもりだ」
「芸者になるの」
銀平以外の人間、しかも母にすら話した事のない夢、目標だった。
ずっと心に決めていた事だ。
「私は、芸者になる」
強い意志の表明は声の通りに比例する。真っ直ぐに、まるで針の穴に糸を通すように空気の粒子を通り抜ける澄んだ声だった。
「なるほど」
男はフッと笑い、取り上げていた学帽を恵美子の頭に戻した。大きな手が、頭をぐっと押さえる。
「いいだろう、気に入った。付いて来い」
しっかりと、互いの双眸が合わされた。見つめ合った瞳に映る顔に、二人はこの先に待つ未来を見た気がした。
「何処に、行くの」
「知り合いの置屋だな。芸者になる道を作ってやる」
男の言葉に恵美子は「あ」と声を出し、荷物の中から一本の扇子を出した。
「この芸者さんがいた置屋に行きたい」
男は恵美子に渡された扇子を開き、「ほう」と息を吐いた。
「胡蝶か」
扇子に書かれていた芸名と思われる文字を読み、恵美子の顔を見た。
「分かりますか」
期待を込めて言った恵美子に男は「いや」と首を振る。恵美子は肩を落とした。
やはり、この東京で、そんなに簡単に見つかるわけがなかったのだ。何も考えずに弘前を飛び出して来てしまった自分の不甲斐なさを悔いた。
やせ我慢せず銀平に、お願いしておけばよかった、と泣きそうになった時だった。
「胡蝶という芸者は知らないが、心当たりはあるな」
扇子を閉じ、恵美子に返しながら男は言った。
「こころ、あたり?」
心臓の鼓動が、どくんと大きな波を立てた。
「芸者が皆、芸名に必ず蝶が入っている置屋は知っている」
闇に飲み込まれそうになっていた恵美子の眼前に、一筋の光が見えた瞬間だった。
「お、お願いします! そこに連れて行ってください!」
青みがかった瞳が真っ直ぐに一途な光を放っていた。男は一瞬眩しそうに目を細め、さり気なく視線を外しスラックスのポケットから懐中時計を取り出した。
時刻を確認しポケットに戻し、男は言う。
「まだ早いな。この時間に押しかけても迷惑を掛ける」
「あ、そうだった」
恵美子は、今はまだ早朝である事を思い出した、と同時にお腹が、豪快な音を立てて〝ある事〟を主張した。
「あっ」
慌ててお腹を押さえたが、遅かった。ずっと冷たい印象を与えていた切れ長の目と端正な顔が緩んだ。男はハハハと声を上げて笑い出す。
「こいつはいい!」
「わ、笑わないでください!」
男は、顔を真っ赤にして怒る恵美子の頭に手を置き言った。
「安心したんだろう。腹が空いている事も忘れるくらい緊張していたんだな」
優しい表情に柔らかな声は気持ちを鎮める。
この人は一体何者。恵美子の探るような目に男は応えた。
「俺は、津田恵三だ。お前に、責任持って芸者の道筋を作ってやる」
恵美子の心がほんの少し解れ、緩む。
「私は、絵美子、中丸絵美子と言います」
咄嗟に、本名を偽った。目に入った看板の名前を騙っていた。
そうだ、〝宗方〟は捨てる。
「わかった。よろしくな。とにかく飯を食おう。それから少し上野を案内してやろう。来い」
恵三は恵美子の手を取ると上野公園の方へと歩き出した。
男に手を取られたのは生まれて初めてだった。朝の通勤で賑わう人混みの中を器用に縫って歩いていく恵三の後ろ姿を絵美子は見つめた。
信じてみよう。この人に付いていくと決めたのだから。
*
上野公園の土手沿いの商業ビルの中にある聚楽台というレストランで、見た事も聞いた事のない料理の並ぶメニューを見、絵美子は目を瞬いた。
「どうした、食べたいものがないか」
恵三に言われ、絵美子は首を振った。
「分からないから」
絵美子の心底困った顔に恵三は、ああ、と微笑んだ。
「ここにはそんな高価な食い物はないんだがな。まあいい、俺が決めてやろうな」
「おねがいします……」
しおらしく応えた絵美子に恵三は頷いた。
辺りを見回すと、集団就職で上野に上京してきた学生服の子らが、勤め先の会社や工場関係の者と来て食事していテーブルがいくつか見受けられた。
「ここにああやって来られる奴らは待遇がいい。ただ、この先は分からないけどな」
意味深に呟いた恵三の言葉に絵美子は「はあ」とだけ応え、〝待遇〟という言葉に自らの境遇を思い返した。
レストランなど、生まれてこの方来た事はなかった。ずっと、母と二人、あの館の屋根裏部屋で、時に食堂の片隅で残り物を啜ってきた。
なぜ、あんな惨めな想いをしなければいけなかったのか。
母が〝日本人〟じゃないから?
あたしが、混血児だから?
戦時中から受け続けた差別の記憶はきっと、一生消えない。膝の上で両拳を握りしめ唇を噛んだ絵美子の耳に、静かな声が届いた。
「あの戦争は、数え切れない数の人間の心を蝕んだ。今は何食わぬ顔で過ごす人間だって、あの戦火を生き抜ける為に、見た目からは信じられない事に手を染めて生きて来ていたりするんだ」
恵三の深く低い声には、身慄いする程の冷たさが感じられた。
弘前では到底お目にかかれない、洗練された高級な身なりの男だ。頬杖を突いて窓の外を眺める横顔は、鼻筋の通った聡明な印象を与える美男だった。
一体何者なのだろう、と思う絵美子がそっと眺めていると、恵三がフッとこちらを向いた。
「頼んだものが来たぞ」
女性の給仕が「お待たせしました」と運んできたのは丼ものだった。さつま揚げやサツマイモの天ぷら、明太子、様々なものが乗っていた。
「これ、なんですか」
テーブルに置かれたものを見、恵三は笑う。
「いや、俺も分からん」
「え?」
「実は、ここは俺も初めてでな。珍しいそうなものを頼んでみた。面白いな、西郷丼という名前が付いていた」
「そうなんですか……」
箸を持ち、珍しそうに丼を眺める絵美子に恵三は、自分に運ばれてきたコーヒーを手に思案しながら話す。
「集団就職で東京に来るのは、東北方面よりも九州の方が多い。多分、ここに来る故郷を離れた者への気遣いみたいなものだろう」
絵美子は、丼に込められた想い自らの境遇に重ねる。
「ここを出たら、上野公園も見せてやろうな。ちょうど、桜が咲き始めた頃だ。上野の桜は東京の名物の一つだ」
桜、と聞いて絵美子の脳裏に、弘前城の下に咲き誇る満開の桜がパアッと広がった。
「故郷を、捨てたわけじゃないの」
でも今は。
呟いた絵美子に恵三は窓の外を眺め、静かに言った。
「帰るかどうかは、大人になってから考えればいい」
どんな意味が込めた言葉だったのかは分からなかったが、絵美子は涙声で「はい」とだけ応えた。
とにかく今は、この目の前の丼を。絵美子は顔を上げて割り箸を割った。
恐らく学生服の中の身体は相当華奢なのだろう。学帽を目深に被り、顔を隠していれば確かに男に見えなくもなかったか。
いや、分かるだろう。
恵三は内心で吐き捨てた。
アイツら、真の間抜けだな。
前を歩く三人の後に付いた恵三は、詰襟の学生を見て改めて考えた。
多分、こんな男達に付いて行くしかないくらい宛もないのに東京に出て来た。しかも、女である事を隠し、変装をして。押して測るべき事情があったのだろう。
「やあ、こんなところにいたのか」
突如として聞こえた恵三の、響きの良いバリトンボイスに男達は飛び上がる程驚き、振り向いた。彼らの後ろを付いて歩いていた学生も同様だ。
目深に被ったら学帽の下から陶磁器のように白い頬が見えた。柔らかなラインを描く白いフェイスラインに恵三は確信した。
間違いなかったやはり、女だ。
「つ、津田さん!」
男達は恵三の姿に慌てふためき慄いた。
「な、なぜ津田さんがこんなところに!」
恵三は優雅な笑みを浮かべた。
「知り合いの子をうちで引き取る事になって迎えに来たのだが一足遅くてね。探したら、君達が連れて行くところが見えてね」
一見すると優美な笑みだが目は対峙する者を震え上がらせるほど冷たい。男達は圧倒され追い詰められた。
「す、すみません! 津田さんのお知り合いとは知らず!」
「失礼しました!」
「あ、待って!」
男達は連れて行こうとしていた学生を振り向きもせず一目散にその場を去って行った。
唯一の宛てが無くなった失望感だろうか、学生はがっくりと肩を落とした。
「アイツらに付いて行ったらロクでもない未来しか無かったぞ」
恵三は、小柄な学生の被る学帽をバッと取り去った。
飛び上がる程に体を震わせ、顔を上げた〝少女の顔〟に恵三はハッと息を呑んだ。
「混血児か」
*
突然声を掛けて来た男によって、〝アテ〟が霧散した。
学帽を取り上げられ顔を晒されてしまった恵美子は男を睨み付けた。
背は、それほど高くは無い。しかし、弘前では見た事のない一分の隙もない洗練された身なりをした男は、他を圧倒するような空気を纏っていた。
ゴクリと固唾を呑み込んだ恵美子だったが、ここで怯んではいけないと地に着く両足に力を込めた。
目を逸らす事なく見つめる恵美子に男はククッと笑った。すっと手が伸びたかと思うと、顎を掴まれ上を向かされた。
「いい目をしてるな。女にしておくのは惜しいくらいの度胸を持っていると見た」
近くで見ると、鼻筋の通った彫りの深い造作の顔に切れ長の目が油断のない光を湛えていた。
この男は敵か味方か。自分に利となる男か、害となる男か。
必死に考える恵美子に男は言った。
「お前はこれからどうするつもりだ」
「芸者になるの」
銀平以外の人間、しかも母にすら話した事のない夢、目標だった。
ずっと心に決めていた事だ。
「私は、芸者になる」
強い意志の表明は声の通りに比例する。真っ直ぐに、まるで針の穴に糸を通すように空気の粒子を通り抜ける澄んだ声だった。
「なるほど」
男はフッと笑い、取り上げていた学帽を恵美子の頭に戻した。大きな手が、頭をぐっと押さえる。
「いいだろう、気に入った。付いて来い」
しっかりと、互いの双眸が合わされた。見つめ合った瞳に映る顔に、二人はこの先に待つ未来を見た気がした。
「何処に、行くの」
「知り合いの置屋だな。芸者になる道を作ってやる」
男の言葉に恵美子は「あ」と声を出し、荷物の中から一本の扇子を出した。
「この芸者さんがいた置屋に行きたい」
男は恵美子に渡された扇子を開き、「ほう」と息を吐いた。
「胡蝶か」
扇子に書かれていた芸名と思われる文字を読み、恵美子の顔を見た。
「分かりますか」
期待を込めて言った恵美子に男は「いや」と首を振る。恵美子は肩を落とした。
やはり、この東京で、そんなに簡単に見つかるわけがなかったのだ。何も考えずに弘前を飛び出して来てしまった自分の不甲斐なさを悔いた。
やせ我慢せず銀平に、お願いしておけばよかった、と泣きそうになった時だった。
「胡蝶という芸者は知らないが、心当たりはあるな」
扇子を閉じ、恵美子に返しながら男は言った。
「こころ、あたり?」
心臓の鼓動が、どくんと大きな波を立てた。
「芸者が皆、芸名に必ず蝶が入っている置屋は知っている」
闇に飲み込まれそうになっていた恵美子の眼前に、一筋の光が見えた瞬間だった。
「お、お願いします! そこに連れて行ってください!」
青みがかった瞳が真っ直ぐに一途な光を放っていた。男は一瞬眩しそうに目を細め、さり気なく視線を外しスラックスのポケットから懐中時計を取り出した。
時刻を確認しポケットに戻し、男は言う。
「まだ早いな。この時間に押しかけても迷惑を掛ける」
「あ、そうだった」
恵美子は、今はまだ早朝である事を思い出した、と同時にお腹が、豪快な音を立てて〝ある事〟を主張した。
「あっ」
慌ててお腹を押さえたが、遅かった。ずっと冷たい印象を与えていた切れ長の目と端正な顔が緩んだ。男はハハハと声を上げて笑い出す。
「こいつはいい!」
「わ、笑わないでください!」
男は、顔を真っ赤にして怒る恵美子の頭に手を置き言った。
「安心したんだろう。腹が空いている事も忘れるくらい緊張していたんだな」
優しい表情に柔らかな声は気持ちを鎮める。
この人は一体何者。恵美子の探るような目に男は応えた。
「俺は、津田恵三だ。お前に、責任持って芸者の道筋を作ってやる」
恵美子の心がほんの少し解れ、緩む。
「私は、絵美子、中丸絵美子と言います」
咄嗟に、本名を偽った。目に入った看板の名前を騙っていた。
そうだ、〝宗方〟は捨てる。
「わかった。よろしくな。とにかく飯を食おう。それから少し上野を案内してやろう。来い」
恵三は恵美子の手を取ると上野公園の方へと歩き出した。
男に手を取られたのは生まれて初めてだった。朝の通勤で賑わう人混みの中を器用に縫って歩いていく恵三の後ろ姿を絵美子は見つめた。
信じてみよう。この人に付いていくと決めたのだから。
*
上野公園の土手沿いの商業ビルの中にある聚楽台というレストランで、見た事も聞いた事のない料理の並ぶメニューを見、絵美子は目を瞬いた。
「どうした、食べたいものがないか」
恵三に言われ、絵美子は首を振った。
「分からないから」
絵美子の心底困った顔に恵三は、ああ、と微笑んだ。
「ここにはそんな高価な食い物はないんだがな。まあいい、俺が決めてやろうな」
「おねがいします……」
しおらしく応えた絵美子に恵三は頷いた。
辺りを見回すと、集団就職で上野に上京してきた学生服の子らが、勤め先の会社や工場関係の者と来て食事していテーブルがいくつか見受けられた。
「ここにああやって来られる奴らは待遇がいい。ただ、この先は分からないけどな」
意味深に呟いた恵三の言葉に絵美子は「はあ」とだけ応え、〝待遇〟という言葉に自らの境遇を思い返した。
レストランなど、生まれてこの方来た事はなかった。ずっと、母と二人、あの館の屋根裏部屋で、時に食堂の片隅で残り物を啜ってきた。
なぜ、あんな惨めな想いをしなければいけなかったのか。
母が〝日本人〟じゃないから?
あたしが、混血児だから?
戦時中から受け続けた差別の記憶はきっと、一生消えない。膝の上で両拳を握りしめ唇を噛んだ絵美子の耳に、静かな声が届いた。
「あの戦争は、数え切れない数の人間の心を蝕んだ。今は何食わぬ顔で過ごす人間だって、あの戦火を生き抜ける為に、見た目からは信じられない事に手を染めて生きて来ていたりするんだ」
恵三の深く低い声には、身慄いする程の冷たさが感じられた。
弘前では到底お目にかかれない、洗練された高級な身なりの男だ。頬杖を突いて窓の外を眺める横顔は、鼻筋の通った聡明な印象を与える美男だった。
一体何者なのだろう、と思う絵美子がそっと眺めていると、恵三がフッとこちらを向いた。
「頼んだものが来たぞ」
女性の給仕が「お待たせしました」と運んできたのは丼ものだった。さつま揚げやサツマイモの天ぷら、明太子、様々なものが乗っていた。
「これ、なんですか」
テーブルに置かれたものを見、恵三は笑う。
「いや、俺も分からん」
「え?」
「実は、ここは俺も初めてでな。珍しいそうなものを頼んでみた。面白いな、西郷丼という名前が付いていた」
「そうなんですか……」
箸を持ち、珍しそうに丼を眺める絵美子に恵三は、自分に運ばれてきたコーヒーを手に思案しながら話す。
「集団就職で東京に来るのは、東北方面よりも九州の方が多い。多分、ここに来る故郷を離れた者への気遣いみたいなものだろう」
絵美子は、丼に込められた想い自らの境遇に重ねる。
「ここを出たら、上野公園も見せてやろうな。ちょうど、桜が咲き始めた頃だ。上野の桜は東京の名物の一つだ」
桜、と聞いて絵美子の脳裏に、弘前城の下に咲き誇る満開の桜がパアッと広がった。
「故郷を、捨てたわけじゃないの」
でも今は。
呟いた絵美子に恵三は窓の外を眺め、静かに言った。
「帰るかどうかは、大人になってから考えればいい」
どんな意味が込めた言葉だったのかは分からなかったが、絵美子は涙声で「はい」とだけ応えた。
とにかく今は、この目の前の丼を。絵美子は顔を上げて割り箸を割った。
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