胡蝶の舞姫

深智

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上京

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 弘前の駅を発った就職列車は期待と不安で一杯の学生達を乗せ、夜の闇広がる海沿いを、山中を、東京へ向けてひたすら走る。最初は興奮に包まれ騒がしかった車内も、次第に静かになっていった。

 ところどころから寝息が聞こえる。タラップに留まり床に座り込んでいた恵美子も、ウトウトしながら列車の揺れに身を任した。

 ガタンと大きく揺れた時、学生服の胸元に携えていたロザリオが何かを訴えるかのように強く胸に当たった。恵美子は手を服の上から手を当て、深呼吸する。

 お母さん。

 この十字架を手に持ち、毎朝祈りを捧げていた母。大好きだった母をあの状態で置いてきてしまった事は、自分がこの先一生背負わなければいけない十字架だ。

 でも、と恵美子は母を想う。

『恵美子、覚えておいて。キリスト様の教えではね、亡くなった人の魂は肉体から離れて神様の元へ行くの。生を失った肉体に霊魂は宿っていない。それがキリスト様の教えなの。だから恵美子。お母さんは亡くなっても肉体から離れてあなたを見守り続けるから』

 母の言葉を都合よく解釈してしまっているかもしれない。

 でもお母さん。

 恵美子は胸の前で祈る形に手を組んだ。

 これが今あたしが出来る精一杯だったの。生きたいの。お母さんの分まで。だからお母さん、許してください!

 列車は走る。宵闇を切り裂き未来へ向かって。




「東京だど!」
「すげえな、東京だ」
「でっけぇだでもん、がっぱだぁ」

 どこからともなく歓声が上がった。東からの日の光が差し込む頃、車内が賑やかになった。夜が明けると共に車窓が、異次元を思わせる程に様変わりしていた。

 顔を上げて窓の外を見た恵美子の目に真っ先に飛び込んで来たのは、弘前では見たこともない高い建物がひしめく街だった

「これが、東京」

 目に入ってくる者全てが、生まれ育った街にはないもの。眩しくて、恐いものに見えた。

 ここが、東京。

 列車を降りる学生達の中に紛れ上野駅十九番線ホームに立った恵美子は見た事も無いスケールの駅に圧倒された。

 これが、東京ーー!

 弘前駅とは比べ物にならない大きな駅、人の数。巨大な渦に呑み込まれそうになる。

 改札口に向かう人の波に飲み込まれ、流され、恵美子は気付けば上野駅広小路口広場に出ていた。

 正規の就職口を用意されて故郷を立って来た者には迎えが出ている。大勢の人でごった返す駅構内には目印となる手作りの案内板を持ち学生を探す者が多くいた。

 自分の迎えの者を見つけた学生達は順に駅から出て行き、構内は次第に人が減って行く。当然、迎えなどない恵美子は天井高くだだっ広い広小路口広場を見渡し、立ち尽くしていた。

 大きな荷物を背負って改札口に入って行く行商人。粋な背広姿の男達。改札口前には、朝から酒を飲み座り込む汚い作業服姿の男達の姿もあった。

 恵美子の目には全てが異世界の風景のように映った。

 銀平に、最後まで行く宛の心配をされた。しかし恵美子は、大丈夫と応えた。

 ここまでのお膳立てをしてもらって行く宛まで用意してもらう訳にはいかなかった。もしそこまでして貰えば、銀平もただでは済むまい。

 きっと、何とかなる。そう信じてここまで来た。

 恵美子は懐にしまってあった踊りの扇子を出した。

『東京に行ったら、花菱という芸者置屋を探しなさい。そこに行けたら、女将さんにこの扇子を見せて』

 自分を可愛がってくれた芸者の姉さんの言葉を恵美子は思い出していた。

 全く宛が無いわけじゃない、何とかなると思っていたのだが、この、上野駅に降り立った瞬間、自分がどれほど甘く考えていたかを思い知らされた。

 自らが育った青森とは、全てが桁違いだった。芸者置屋など、右も左も分からない今見つけられる訳がなかった。

 わたしは、外国に来てしまったみたい。

 途方に暮れて立ち尽くす恵美子に近付く影が二つあった。

「君、君、お迎えの人はまだ?」

 ジャンパー姿の男が二人、フランクな感じで恵美子に話し掛けてきた。

「ああ、お迎えの人に見つけて貰えなかった、とかかな」

 柔らかな物腰の男達に、心細かった絵美子は安堵を求めた。

「あ、あの」

 気を許しかける恵美子に男達は更に優しい口調で言う。

「いいよいいよ、連れて行ってあげよう。君みたいな男の子を受け入れるところは大体の見当がつくからね」

 男の子、と言われ恵美子は改めて自分が変装をしている事を思い出した。

「あ、はい」

 男であると思われているのなら暫くはそのままで行こう、と覚悟を決めた。

 何処に行ったら良いのか分からないのなら、知る人間に付いて行けば道が開けるかもしれない。恵美子は、二人の男に付いて歩き出した。



 ガード下に位置する不忍口前の交差点で信号待ちする車の中から、学生服の集団がぞろぞろと移動する光景が見えていた。

 引率と思われる大人に付いて列を成す集団、二、三人の学生を連れて行く作業着の大人の姿もあった。

「そんな季節か」

 後部座席で窓に肘を置き、頬杖を突いて外を眺めていた津田恵三はボソリと呟いた。

「そうですね。今朝は就職列車が青森から着く日だと聞いております。本来ならば、こういった事が分かっている日の朝に上野に出てくるのはあまり」

 運転手の男が、ハンドルを握り前方を見たまま恵三の呟きに応えたが。

「俺は知らなかった。それだけだ」

 説教じみてきたベテラン運転手の言葉を遮り、はねつけた。

 恵三の機嫌が悪くなる事を回避する為に運転手は内心でそっとため息を吐き、話を終わらせた。

 バックミラー越し盗み見た後部座席では、栗色のベストに藍色のネクタイを締めた若い男が、長い足を組んでゆったりと座る。

 聡明な光を放つ目は獲物を狙う猛禽、もしくは抜き身のナイフような鋭さを常に持つ。三十歳という若さからは信じ難い雰囲気を醸し出していた。

 この堂々たる風貌は内面から滲み出る自信から来るものか。

「それにしても恵三様。こんな早朝に直也様のところに行かれるとは、余程の事で」
「ああ」

 恵三は苛立たしげに舌打ちした。

「直也が扶桑電気との間に締結した契約を撤回させる」
「そ、それは」

 慄く運転手に恵三は静かに続けた。

「扶桑電気の社長がタヌキなのは周知の事実だろう。それを、上役のヤツら俺がいない間にお人好しの直也一人にあのタヌキとの交渉のテーブルに付かせやがって」

 フンと鼻を鳴らした恵三は足を組み替え、不敵に笑った。

「日米安保のような契約など、俺が破棄させてやる」

 この男は、やると言ったらやるのだろう。運転手は思う。

 恵三の専属運転手に配属された時、少なからず落胆した。

 妾の子だ。同僚達に憐れまれた。

『可哀想にな。正統な周防すおう家側近路線から外されたな』

 その時は確かに、自分にはもうこれ以上の道は望めないと諦めたが、ここに来て、違う道が見えてきた。

 この男が、このまま妾の子として大人しく影に徹しているだろうか。
 この男は、この巨大財閥を脅かす程の人間になるのではないだろうか。
 いや、もしかすると、全てを呑み込んでいくのではないだろうか。

 運転手は、自分よりもふた周り近くも年下の男に、畏れに近い感覚を抱いていた。改めて車内のピリピリとした空気を肌で感じハンドルを握る手に力を込めた時だった。

「ああ、あの二人組み、性懲りもなくまだこの辺りをチョロチョロしていますね。今日もまた、田舎から出てきた子を捕まえてどこかに連れて行こうとしている」

 恵三は運転手の視線の先に目を向けた。この辺りでは有名な、斡旋詐欺を働く二人組の中年男が学生を一人連れて下谷の方へと歩き出していた。

 男達の後を付いて歩く男子学生を眺めていた恵三はボソリと言った。

「あれは、男じゃないな。女だ」
「え?」

 運転手が聞き直すのと、恵三がドアを開けて外に出るのはほぼ同時だった。

「悪いが、直也のところに先に行ってくれ。俺は少し用を足してから行くと伝えてくれ」
「恵三様!」

 呼び止める声も虚しく、ドアがバンッと音を立て閉まる。運転席からは遠ざかって行く恵三の後ろ姿が見えていた。

 恵三は真っ直ぐ、二人連れの男とその後を付いて行く小柄な学生の元へと向かって行った。
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