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昭和33年3月 弘前 エミー
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屋根裏部屋に駆け込んだ恵美子は、布団で眠る母の元に駆け寄った。
「お母さん!」
呼びかけに反応しない母の顔は、裸電球の薄暗い明かりの下でも、もう二度と目は開けない事を恵美子に語り掛けていた。眠るような、死顔だった。
そっと母の手を取った恵美子の目から涙が溢れる。痩せて、骨と皮だけのようになってしまった母の手を頬に添えた。
お母さん、あなたは、幸せだった?
漏れる嗚咽を奥歯を噛み締めて堪えた恵美子の耳を、階下から女の悲鳴が劈いた。バタバタという足音に男の怒声が混じる。
「恵美子! 恵美子は何処に行った!」
「屋根裏に逃げたか!」
足音の向かう先が変わった。
アイツらが来る!
キッと顔を上げた恵美子は母の手を、優しく布団の中に戻した。
「お母さん。ごめんね。私は、お母さんとの約束通り、生きる為にここから逃げるね」
立ち上がった恵美子は止め処なく溢れる涙をグイッと手で拭った。
着崩れていた着物を勢いよく脱ぎ、壁に掛けてあったセーラー服を着た。この屋根裏に駆け込んだ時床に放った短刀を拾う。べったりと付いた血を、脱ぎ捨てた着物で拭き取った。
この短刀は捨てていけない。それからそれから。
足音が近づく。恵美子の鼓動が加速する。階段を上り始めたら直ぐだ。焦る心が鼓動を加速させ、手を震えさせた。
荷物はまとめている時間はない。でもこれだけは!
母の大切な小物入れに入っていたロザリオを手にすると首に掛けてセーラー服の中に隠した。血を拭き取った短刀を鞘に収め、机の引き出しから大事な扇子を取り出す。
短刀と扇子の二つを一緒に握り締めた。
これさえあれば、何もいらない。
「お母さん。ごめんね」
屋根裏の小さな小窓に手を掛けて自らの体を引っ張り上げた恵美子は脱出間際に部屋を振り返った。
眠るように息を引き取った母の顔は、穏やかだった。
「お母さん、私は行くね」
生きる為にーー!
「絵美子! てめえ!」
男達が薄暗い屋根裏に雪崩れ込んだ時には既に、絵美子の姿はなかった。天井に近い、開け放たれた小さな窓から、小雪混じりの冷たい風が吹き込んでいた。
「探せ!」
口髭に羽織姿の大柄な男が下男達に指示をした。男達が一斉に階下へと下りて行き、屋根裏が静かになる。
「馬鹿な娘だ。隠れられる場所なんてこの辺りにはないのにな。なあ、そうだろ千賀子」
呟くように言った男は、布団に横たわりもう動く事のない女に話し掛け、ククと笑った。
「アンタも、不憫な女だよなあ」
*
月明かりが反射しボンヤリと行く手を照らす雪の道を、絵美子は裸足で走った。
足が冷たい。息が苦しい。死にそう。でも今止まる訳には行かない。とにかく、あそこに行けば!
追手に追いつかれる前に、絵美子は街一番の大尽と言われる大地主の松平家の前に辿り着いた。
高い塀に囲まれた蔵屋敷だが絵美子は勝手知ったる様子で、ある場所に立ち、石を投げた。
石は一発で狙いの窓に命中したようだった。一階の窓は塀に妨げられ見えないが、気配で分かる。
「銀ちゃん!」
声を押さえながら、叫ぶと。
「いつもの場所!」
返答があった。絵美子は屋敷の裏手に回った。
屋敷をぐるりと囲んでいるかに見える高い塀は、裏手回れば柊の垣根に変わる。塗壁と垣根の間に、秘密の出入り口があった。
「エミー!」
隙間から白い手が出て手招きしていた。絵美子はその手に促されて中へと入った。
静まり返る屋敷の中は、雪が全てを白く染め、事物を呑み込み、眠らせていた。
「ありがと、銀ちゃん!」
安堵もあり、思いのほか声が大きくなってしまった絵美子に、銀平はシーッと口の前に人差し指を立てた。
雪が月明かりを反射する幻想的な明るさの中、銀平の姿は息を呑む程美しかった。
「ああ、こんなに冷えて。裸足なのね、可哀想に。とりあえず入ろう。話はそれから聞くから」
銀平の優しい声に絵美子は泣きそうになるのを堪え、頷いた。
冬でも枯れる事がなく節分でも馴染みの鬼避けの葉は、すり抜ける絵美子の身体を幾分か傷付けていた。血が滲む足を見て銀平が心配そうに言った。
「やっぱり柊の葉っぱ、刺さったのね。大丈夫?」
絵美子は気遣ってくれる銀平に笑みを向けた。
「大丈夫。わたしは、これ以上の罰を受けなきゃ行けない罪を犯してきたから」
ハッと息を呑んだ銀平だったが直ぐに表情を引き締めた。
「エミー、僕は君を助けてみせるからね」
銀平の言葉に絵美子は深く頷いていた。
絵美子の話を聞いた銀平は、自分の学生服と、大きなハサミを用意した。
「東京に行くの。直ぐに」
黒い詰襟の学生服とハサミを握る銀平に恵美子は首を傾げた。銀平は強い口調で言う。
「僕の学生服をあげるから今直ぐこれに着替えて。あ、でも着替える前にその長い髪の毛、ばっさり切ろう」
「え、銀ちゃん」
狼狽える絵美子の手を、銀平は握り締めた。
「男になりなさい。ここを、弘前を出るまで。ああ、学帽もあげる。これを目深に被ればきっと大丈夫」
銀平は、壁に掛けてあった学帽を絵美子に渡した。固唾を呑み頷いた絵美子だったが、でも、と問う。
「いくら変装しても、駅で見つかったり」
「大丈夫」
銀平はニッコリと微笑んだ。
「エミーはついてる。今夜、弘前駅から就職列車が出る。それに乗って。大勢の学生でホームはごった返してるから紛れて乗り込むの。いい?」
大胆な作戦に、絵美子は舌を巻く。
さすがは代議士の息子だ。世間をよく知っている。
一つ纏めに縛った長い髪の毛にハサミを当てた銀平が「いい?」と聞き、絵美子は目を閉じて頷いた。
長い髪の毛には母との思い出が溢れていた。幼い頃から母に櫛で梳いてもらい、結ってもらった。
ザクリという鈍い音と共に髪が一気に切り落とされた。
母の思い出との別れの時だった。
「私は、生きる為に故郷を捨てるんだ」
銀平は黙ったままハサミを滑らせ、短くなった毛を器用に切りそえろえていく。
「銀ちゃん、すごい、髪を切れるの」
「エミーは、芸者さんになりたいって話してたよね。僕が髪結いになれば、エミーとずっと一緒に働けると思って」
恵美子の胸が温かくなる。目を閉じ、小さく「ありがと」と呟いていた。
絵美子が銀平の部屋に入った時からずっとラジオが点いていた。落ち着いたトーンの男の声が紹介する歌が静かに流れる音楽番組のようだった。
髪を切って貰っている間、何気なく聴いていた絵美子がったが、ある歌手の歌声に心を打たれた。
低くもなく、高くもなく、独特な響きを持つ、ハスキーな声。男の声の筈なのに、どことなく女性のような色気を滲ませる。
外国語の歌で、歌詞など分からない筈なのに、うったえてくる情感が切ないラブソングである事を伺わせた。
「素敵な歌手でしょう」
絵美子が耳を澄ませている事に気付いていた銀平は静かに言った。
「うん、素敵。何だか、胸に沁みて来て、涙が出て来そう」
「エミーは、いいものが分かる子ね」
絵美子の短くなった髪に櫛を通しながら銀平はフフと笑った。
「この歌手は、僕の憧れの人なんだ」
「銀ちゃんの憧れの人?」
銀平は、絵美子の肩に掛けていたケープをそっと外し、切った髪の毛を新聞紙に包んだ。
「丸山明宏といって、銀座の銀巴里というシャンソン喫茶で歌う歌手だったんだ」
「だった?」
「今は、歌ってない」
「どうして」
「ある事実を公表したから、追放されちゃったんだ」
「ある、事実?」
銀平は、絵美子の正面に回ると短くなった髪を両手で撫でた。
「うん、良い。どこぞの美少年みたい」
「からかわないで」
照れ臭そうに肩を竦めた絵美子の手を銀平は両手でそっと包んだ。
銀平の手は、冷たくてしなやかな手は心地良く、心をゆっくりと落ち着かせてくれる魔法の手だった。
「エミーは、僕の真の姿を言い当てて、僕自身を尊重してくれた。誰にも話せなかった僕の秘密をエミーは何の偏見も無く受け入れて、本当の僕を友達として愛してくれた。エミーのような友達はもうきっとこの先現われない」
「銀ちゃん」
銀平の深い想いの篭った絵美子への言葉で、丸山明宏という歌手の生き方を知った。
「その歌手はもしかして、」
「さ、時間無いよ! エミー、着替えて! ああ、その前にこれは」
絵美子がここに来る時に大事に持って来た物を銀平は見た。
「扇子と、短刀、それからロザリオ」
扇子と短刀を見せ、最後に首に掛けていたロザリオを見せた。
短刀は、刃の部分は鞘に収まっていたが、柄の部分に煌めく赤い宝石が埋め込まれていた。黄金色のロザリオは明らかに高価な輝きを見せている。短刀同様、燃えるような真紅の石がクロスした中央部分に埋め込まれていた。
「相当高価な代物みたいだね」
絵美子からロザリオを手渡され、裏返した銀平は英語のスペルが彫ってある事に気付いた。
「何か彫ってある。イニシャル?」
「そうかな。短刀とロザリオはお母さんの形見。お母さんが日本に帰って来る交換船の中で出会った人から預かったものなんだって」
「N・SUOUか……。スオウさん。どんな人だったんだろうね」
「うん。男か女かも分からないの。お母さん、詳しくは話してくれなかったから。でもね、どんなに苦しくても決して売らずに大事に持っていた。だから、私も大事に持って行く」
「そうだね、それはきっとエミーの守り神になってくれる。これに包んであげる」
銀平は紫色のちりめんの風呂敷を広げた。
「この扇子は?」
「ああ、これはね」
絵美子は日本舞踊を舞うようなしなを作って扇子を広げ、顔の前に翳して見せた。真っ白な地に控え目に描かれ描かれた揚羽蝶、端に〝胡蝶〟と書かれていた。
「憧れの、芸者のお姉さんから貰った」
絵美子のポージングはハッとするほどサマになっていた。銀平は「ああ」と目を細めた。
「僕たちは、夢がある」
「うん」
「叶えよう」
「必ず」
二人は互いの小指を絡め合った。
「私と銀ちゃんは、体の中に〝二つ〟を持つ仲間」
「うん」
「私達はこれから確固たる〝自分〟を見つける」
銀平は絵美子の言葉には心の奥底に響いた。
「僕たちは、同士」
絡めた小指に力を込めて、ゆっくり上下させる。
「僕も高校を卒業したら東京に行くよ。それまで待っていて」
「うん。約束」
指切りしたこの指は、今は離れても未来永劫繋がっている。私達の間にあるのは、誰にも侵される事のない永遠の友情の絆だから。
「お母さん!」
呼びかけに反応しない母の顔は、裸電球の薄暗い明かりの下でも、もう二度と目は開けない事を恵美子に語り掛けていた。眠るような、死顔だった。
そっと母の手を取った恵美子の目から涙が溢れる。痩せて、骨と皮だけのようになってしまった母の手を頬に添えた。
お母さん、あなたは、幸せだった?
漏れる嗚咽を奥歯を噛み締めて堪えた恵美子の耳を、階下から女の悲鳴が劈いた。バタバタという足音に男の怒声が混じる。
「恵美子! 恵美子は何処に行った!」
「屋根裏に逃げたか!」
足音の向かう先が変わった。
アイツらが来る!
キッと顔を上げた恵美子は母の手を、優しく布団の中に戻した。
「お母さん。ごめんね。私は、お母さんとの約束通り、生きる為にここから逃げるね」
立ち上がった恵美子は止め処なく溢れる涙をグイッと手で拭った。
着崩れていた着物を勢いよく脱ぎ、壁に掛けてあったセーラー服を着た。この屋根裏に駆け込んだ時床に放った短刀を拾う。べったりと付いた血を、脱ぎ捨てた着物で拭き取った。
この短刀は捨てていけない。それからそれから。
足音が近づく。恵美子の鼓動が加速する。階段を上り始めたら直ぐだ。焦る心が鼓動を加速させ、手を震えさせた。
荷物はまとめている時間はない。でもこれだけは!
母の大切な小物入れに入っていたロザリオを手にすると首に掛けてセーラー服の中に隠した。血を拭き取った短刀を鞘に収め、机の引き出しから大事な扇子を取り出す。
短刀と扇子の二つを一緒に握り締めた。
これさえあれば、何もいらない。
「お母さん。ごめんね」
屋根裏の小さな小窓に手を掛けて自らの体を引っ張り上げた恵美子は脱出間際に部屋を振り返った。
眠るように息を引き取った母の顔は、穏やかだった。
「お母さん、私は行くね」
生きる為にーー!
「絵美子! てめえ!」
男達が薄暗い屋根裏に雪崩れ込んだ時には既に、絵美子の姿はなかった。天井に近い、開け放たれた小さな窓から、小雪混じりの冷たい風が吹き込んでいた。
「探せ!」
口髭に羽織姿の大柄な男が下男達に指示をした。男達が一斉に階下へと下りて行き、屋根裏が静かになる。
「馬鹿な娘だ。隠れられる場所なんてこの辺りにはないのにな。なあ、そうだろ千賀子」
呟くように言った男は、布団に横たわりもう動く事のない女に話し掛け、ククと笑った。
「アンタも、不憫な女だよなあ」
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足が冷たい。息が苦しい。死にそう。でも今止まる訳には行かない。とにかく、あそこに行けば!
追手に追いつかれる前に、絵美子は街一番の大尽と言われる大地主の松平家の前に辿り着いた。
高い塀に囲まれた蔵屋敷だが絵美子は勝手知ったる様子で、ある場所に立ち、石を投げた。
石は一発で狙いの窓に命中したようだった。一階の窓は塀に妨げられ見えないが、気配で分かる。
「銀ちゃん!」
声を押さえながら、叫ぶと。
「いつもの場所!」
返答があった。絵美子は屋敷の裏手に回った。
屋敷をぐるりと囲んでいるかに見える高い塀は、裏手回れば柊の垣根に変わる。塗壁と垣根の間に、秘密の出入り口があった。
「エミー!」
隙間から白い手が出て手招きしていた。絵美子はその手に促されて中へと入った。
静まり返る屋敷の中は、雪が全てを白く染め、事物を呑み込み、眠らせていた。
「ありがと、銀ちゃん!」
安堵もあり、思いのほか声が大きくなってしまった絵美子に、銀平はシーッと口の前に人差し指を立てた。
雪が月明かりを反射する幻想的な明るさの中、銀平の姿は息を呑む程美しかった。
「ああ、こんなに冷えて。裸足なのね、可哀想に。とりあえず入ろう。話はそれから聞くから」
銀平の優しい声に絵美子は泣きそうになるのを堪え、頷いた。
冬でも枯れる事がなく節分でも馴染みの鬼避けの葉は、すり抜ける絵美子の身体を幾分か傷付けていた。血が滲む足を見て銀平が心配そうに言った。
「やっぱり柊の葉っぱ、刺さったのね。大丈夫?」
絵美子は気遣ってくれる銀平に笑みを向けた。
「大丈夫。わたしは、これ以上の罰を受けなきゃ行けない罪を犯してきたから」
ハッと息を呑んだ銀平だったが直ぐに表情を引き締めた。
「エミー、僕は君を助けてみせるからね」
銀平の言葉に絵美子は深く頷いていた。
絵美子の話を聞いた銀平は、自分の学生服と、大きなハサミを用意した。
「東京に行くの。直ぐに」
黒い詰襟の学生服とハサミを握る銀平に恵美子は首を傾げた。銀平は強い口調で言う。
「僕の学生服をあげるから今直ぐこれに着替えて。あ、でも着替える前にその長い髪の毛、ばっさり切ろう」
「え、銀ちゃん」
狼狽える絵美子の手を、銀平は握り締めた。
「男になりなさい。ここを、弘前を出るまで。ああ、学帽もあげる。これを目深に被ればきっと大丈夫」
銀平は、壁に掛けてあった学帽を絵美子に渡した。固唾を呑み頷いた絵美子だったが、でも、と問う。
「いくら変装しても、駅で見つかったり」
「大丈夫」
銀平はニッコリと微笑んだ。
「エミーはついてる。今夜、弘前駅から就職列車が出る。それに乗って。大勢の学生でホームはごった返してるから紛れて乗り込むの。いい?」
大胆な作戦に、絵美子は舌を巻く。
さすがは代議士の息子だ。世間をよく知っている。
一つ纏めに縛った長い髪の毛にハサミを当てた銀平が「いい?」と聞き、絵美子は目を閉じて頷いた。
長い髪の毛には母との思い出が溢れていた。幼い頃から母に櫛で梳いてもらい、結ってもらった。
ザクリという鈍い音と共に髪が一気に切り落とされた。
母の思い出との別れの時だった。
「私は、生きる為に故郷を捨てるんだ」
銀平は黙ったままハサミを滑らせ、短くなった毛を器用に切りそえろえていく。
「銀ちゃん、すごい、髪を切れるの」
「エミーは、芸者さんになりたいって話してたよね。僕が髪結いになれば、エミーとずっと一緒に働けると思って」
恵美子の胸が温かくなる。目を閉じ、小さく「ありがと」と呟いていた。
絵美子が銀平の部屋に入った時からずっとラジオが点いていた。落ち着いたトーンの男の声が紹介する歌が静かに流れる音楽番組のようだった。
髪を切って貰っている間、何気なく聴いていた絵美子がったが、ある歌手の歌声に心を打たれた。
低くもなく、高くもなく、独特な響きを持つ、ハスキーな声。男の声の筈なのに、どことなく女性のような色気を滲ませる。
外国語の歌で、歌詞など分からない筈なのに、うったえてくる情感が切ないラブソングである事を伺わせた。
「素敵な歌手でしょう」
絵美子が耳を澄ませている事に気付いていた銀平は静かに言った。
「うん、素敵。何だか、胸に沁みて来て、涙が出て来そう」
「エミーは、いいものが分かる子ね」
絵美子の短くなった髪に櫛を通しながら銀平はフフと笑った。
「この歌手は、僕の憧れの人なんだ」
「銀ちゃんの憧れの人?」
銀平は、絵美子の肩に掛けていたケープをそっと外し、切った髪の毛を新聞紙に包んだ。
「丸山明宏といって、銀座の銀巴里というシャンソン喫茶で歌う歌手だったんだ」
「だった?」
「今は、歌ってない」
「どうして」
「ある事実を公表したから、追放されちゃったんだ」
「ある、事実?」
銀平は、絵美子の正面に回ると短くなった髪を両手で撫でた。
「うん、良い。どこぞの美少年みたい」
「からかわないで」
照れ臭そうに肩を竦めた絵美子の手を銀平は両手でそっと包んだ。
銀平の手は、冷たくてしなやかな手は心地良く、心をゆっくりと落ち着かせてくれる魔法の手だった。
「エミーは、僕の真の姿を言い当てて、僕自身を尊重してくれた。誰にも話せなかった僕の秘密をエミーは何の偏見も無く受け入れて、本当の僕を友達として愛してくれた。エミーのような友達はもうきっとこの先現われない」
「銀ちゃん」
銀平の深い想いの篭った絵美子への言葉で、丸山明宏という歌手の生き方を知った。
「その歌手はもしかして、」
「さ、時間無いよ! エミー、着替えて! ああ、その前にこれは」
絵美子がここに来る時に大事に持って来た物を銀平は見た。
「扇子と、短刀、それからロザリオ」
扇子と短刀を見せ、最後に首に掛けていたロザリオを見せた。
短刀は、刃の部分は鞘に収まっていたが、柄の部分に煌めく赤い宝石が埋め込まれていた。黄金色のロザリオは明らかに高価な輝きを見せている。短刀同様、燃えるような真紅の石がクロスした中央部分に埋め込まれていた。
「相当高価な代物みたいだね」
絵美子からロザリオを手渡され、裏返した銀平は英語のスペルが彫ってある事に気付いた。
「何か彫ってある。イニシャル?」
「そうかな。短刀とロザリオはお母さんの形見。お母さんが日本に帰って来る交換船の中で出会った人から預かったものなんだって」
「N・SUOUか……。スオウさん。どんな人だったんだろうね」
「うん。男か女かも分からないの。お母さん、詳しくは話してくれなかったから。でもね、どんなに苦しくても決して売らずに大事に持っていた。だから、私も大事に持って行く」
「そうだね、それはきっとエミーの守り神になってくれる。これに包んであげる」
銀平は紫色のちりめんの風呂敷を広げた。
「この扇子は?」
「ああ、これはね」
絵美子は日本舞踊を舞うようなしなを作って扇子を広げ、顔の前に翳して見せた。真っ白な地に控え目に描かれ描かれた揚羽蝶、端に〝胡蝶〟と書かれていた。
「憧れの、芸者のお姉さんから貰った」
絵美子のポージングはハッとするほどサマになっていた。銀平は「ああ」と目を細めた。
「僕たちは、夢がある」
「うん」
「叶えよう」
「必ず」
二人は互いの小指を絡め合った。
「私と銀ちゃんは、体の中に〝二つ〟を持つ仲間」
「うん」
「私達はこれから確固たる〝自分〟を見つける」
銀平は絵美子の言葉には心の奥底に響いた。
「僕たちは、同士」
絡めた小指に力を込めて、ゆっくり上下させる。
「僕も高校を卒業したら東京に行くよ。それまで待っていて」
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