28 / 57
招かれざる者
しおりを挟む
谷中のマンション前で車から降りたみちるは、執事の近衛と運転手に深々と頭を下げた。
彼等のにこやかな笑顔にフワリと切なさが胸に去来し、走り出した車を見えなくなるまで見送った。
深呼吸して、高いマンションを見上げる。
傾きかけた日差しが柔らかな色彩を演出していた。
「ただいま戻りました」
目を細めたみちるは小さく呟いた。
星児さん、保さん。もう、ずっと長い時会わなかったような気がします。
みちるは姿勢を正し、ゆっくりとエントランスに向かって歩き出した。
お家帰ったらまず、保さんに連絡しよう。
†††
事務所に、夕暮れ時である事を教えるオレンジ色の光が窓から射し込んでいた。ブラインド越しに窓の外を見ていた保は再びデスクのパソコンに目を移す。
事務所の引越し計画が持ち上がっていた。星児が新宿駅側にテナントビルを買うつもりなのだ。
また雑務が増えるぜ、と保は肩を竦めた。
今夜は宮西興業の社長と銀座で会う、と星児は出掛けて行った。
宮西か。ソープとヘルスの件で俺かなりごねたからな。星児、文句の一つや二つ言われんだろ。まあいいけど。
そんな事よりも、保の頭をもたげたのはみちるの事だった。
なんと、〝御幸がみちるの件を了承した〟。聞かされたその瞬間から保の不満は爆発寸前まで膨れ上がっていた。
直接は知らなくとも、保も〝御幸右京〟という男は噂では聞いている。津田恵三の右腕と評され、真性の紳士と言わる男と言われている。
紳士だろうが何だろうが、みちるには誰も触れては欲しくない。
星児のヤツ、何で平気でいられんだよ!
保が苛立たし気に傍にあったタバコを手に取った。
雑務山積、悩みも山ほど。方々に聞き込みして調べる暇もーー、と考えた時、保は思い出す。
そういや、亀岡さんからの連絡が無い。
あの旅先からの電話からもう二週間以上が経つ。昨日、ポケベルに連絡も入れたのだが電話も鳴らない。
『俺に何かあったらーー』なんて言ってなかったか?
保の脳裏を不穏な影が過ぎって行った。
まさか、な。
亀岡さんのポケベル鳴らなかったのかもしれない、と保は再度連絡を入れようとした時だった。
デスクの上の直通電話が鳴り出した。
†††
「オヤッサン、もうすっかり出来上がってんじゃねぇかよ」
星児の言葉に、両脇にホステスを侍らせガハハと笑う宮西は、スキンヘッドのてっぺんまで紅潮させている。
ここは高級クラブだ。キャバクラじゃねーぞ。
半ば呆れ気味に星児はテーブルに着いた。
何時もと変わらず艶やかな着物姿で出迎え、星児を宮西が座るテーブルに案内したクラブ・胡蝶のエミ子ママはホホホホと上品に笑いながらテーブルに着く。
「宮西さんはもう随分前にお見えになってましたもの。ボトルも随分と開けて頂きましたわ」
ママはしなやかな手付きでサッとお酒を作り星児に渡した。
受け取る時には、星児はすでにタバコをくわえていた。エミ子ママはすかさず取り出したライターで火を点ける。
流れるような、鮮やかな一連の仕草は長年積み重ねて来たものだ。いつ来てもここはすげぇ、と星児は吐き出した煙に目を細めた。
エミ子ママの横顔を見、思う。
和装が板に付いていて違和感ないが、顔は純日本人じゃない。
肌の白さが決定的に違う。目の色も青みがかっているが彫りの深さと欧米人ほどではない。
多分、ハーフだな。
星児はタバコをくわえなおしひと吸いした。
このママ、かなりの大物の愛人だったって話、どっかから聞いたな。
そんな事を思い出しながら星児は宮西に目をやり、フンと笑った。
「酔っ払いの相手をしに来たんじゃねーぞ、タコオヤジ」
冗談半分で言い放った暴言とも言える星児の言葉にその場にいたホステス達は凍りついたが、宮西は豪快に笑い出した。
彼女達は「いやだ……もう」と胸を撫で下ろした。そんな中で全く動じる様子を見せなかったエミ子ママがフフフと笑う。
「宮西さんを目の前にしてこんなに堂々としていられるのは、剣崎さんくらいですわね」
宮西が身を乗り出し「それがな、ママ」と話しを始めた。
「コイツの相棒がまたスゲーんだ。人を喰ったような態度でな」
タバコをくわえる星児は、ああその話か、と苦笑し黙って話を聞いていた。
「まあ、剣崎さんの相棒?」
「ああ。幼なじみなんだってな」
宮西に問いかけられた星児はタバコをくわえたまま頷く。ヒヒヒと笑い宮西は続けた。
「コイツのソープをうちが買い受けてやる、って話だった筈なのによ、いつの間にか売ってもらう、みてーな話にすり替わってやがったんだ。
あの兵藤ってヤツ、優男ヅラしてとんでもねーヤローだな。
こっちが出した条件にはテコでも首を縦に振らねぇ。
うちの若いのに凄まれても涼しいツラしてやがった」
話しながらも宮西は何処か愉しげだ。エミ子ママは優美な笑みを浮かべ相槌を打っていた。
「ぜひお会いしてみたいですわ。剣崎さん、今度はそのお友達もお連れしてくださいな」
星児はハハ……と感情の無い乾いた声で笑った。
保のヤツ、コッチの首尾は上々だ、とか言ってアイツとんでもねぇや。
見込んだ通りだ、とタバコをくわえなおし肩を竦めた。
宮西の空になったグラスを取ろうと、着物の袂を押さえながらエミ子ママが手を伸ばした時だった。
黒服の1人がスッと背後から近寄り彼女にそっと耳打ちした。一瞬、ママの顔色が変わる。
直ぐに変わらぬ笑顔に戻った彼女は、酒のグラスを若いホステスに預けた。
「わたくしはちょっと失礼しますわね、ごゆっくりなさってくださいませ」
ママはそう言い席を立った。
客じゃねぇな。
瞬時に察した星児はさりげなくエミ子ママを視線で追う。その先のフロアへの入り口付近で黒服と話をする1人の男がいた。
星児は、息を呑んだ。
まさか、あれは。
「お久しぶりでございますわね、津田様」
入り口からさほど遠くないこのテーブルは、耳を澄ませばその会話が聞こえる。エミ子ママの声は、聞いた事のない冷たい声音だった。
津田。
グラスを握る星児の手に、それを握り潰しそうなくらいの力が加わる。
背の高い、迸るような野心に溢れギスギスした瞳が印象的な男。
アイツだ! まさかこんな所で?
星児は立ち上がり掴みかかりたい衝動を必死に堪えていた。
今ここで早まっちまったら、これまで積み上げて来たものが全てパァになっちまう。
耐えろ!
「あいにく、この店には津田様にお出しするようなお酒は置いておりませんのよ」
エミ子ママの冷えた静かな声が聞こえた。言われた男は、口角を上げてフンと笑う。
二人がいる一角は異様な空気が覆う。静かな火花に店内にいる客もホステスも気付かない。
星児はトイレに立つ振りをしてさり気なくママと男のそばに行き、会話に耳をそばだてていた。
男はクククと笑っていた。
「心配ご無用。私は、接待すべき客をうちの部下がこんな所にお連れしたので迎えに来ただけですよ。楽しい筈の酒の席が疎まれながら呑むのでは台無しだからね」
星児から見えるのは不気味な笑顔を浮かべるその男。
間違いない、郡司、武だ!
星児はギリ、と奥歯を噛み締めていた。
そのうちに、男の連れ合いと思われる客が慌てて駆け寄り、申し訳なさそうにママに頭を下げていた。そんな彼には「お気になさらないで」とママは優しく気遣う。
そして、後から悠然と歩いて来た恰幅の良い男には「また改めていらしてくださいませ」と頭を下げていた。
ホステス達に付き添われる彼等がドアの向こうに消えた後、ママは男に向き直りきっぱりと言い放った。
「津田様は、わたくしどもの界隈を随分と見下げてらっしゃるようですけれど、
世の中、確かなものなど何一つ無い事を一番ご存知なのは、津田武様ご自身じゃございません事?」
何の事か分からないという顔をしてみせた男にママは続ける。
「わたくしは貴方のなさった事を一生忘れません、と言いたかったのです」
「前にも言ったが、証拠の無い事を騒ぐのはあまり賢くはないね」
津田武が不敵に笑い、ママも美しい冷笑を浮かべた。
「確たる証拠など何一つ無くとも、相手を追い詰める事は幾らでもできますでしょう」
†
「塩を蒔いておいて!」
夜会巻きの髪のセットを気にするように手を当てるエミ子ママは黒服に言い付けた。既にその美しい顔に笑顔はない。
ママは近くにいたホステスに「ちょっとフロアをお願いね」と裏に消えた。
一部始終を見ていた星児の激しい脈動はなかなか治まらなかったがタバコをくわえたまま瞬時に思案する。
郡司といたあの男。警視庁第一方面本部長だ。
星児はタバコを口から外し、煙を吐き出した。
保の人脈は、警察官僚にも及ぶ。警視庁上層部の人事も調べはついている。
警視庁第一方面本部長は警察官僚の若手に与えられるポストだ。それは、警視総監への道に繋がるのだ。
接待と言ってはいたが恐らく郡司の東大同期か後輩なのだろう。
立場は郡司の方が上だな。有力天下り先の社長。
あの男の狙いは、〝国家権力〟の掌握か。
チッと小さく舌打ちしながら星児は近くにあった灰皿にタバコを押し付けた。
それにしても、と壁に寄りかかり腕を組み、星児は考える。
あのママと郡司の関係はなんだ?
席に戻って来た星児に宮西が話しかけた。
「あれは、大会社社長とその義父の愛人のいがみ合いって訳でも無さそうだな」
なんだって?
目を見開く星児の顔を見、宮西がクックと喉の奥で笑い言う。
「立ち聞きしに行くくらい気になったんだろ」
宮西が嬉しそうに笑っていた。
星児と宮西の間にいたホステスに指名が入り、今彼等の間には誰もいなかった。
「なんだよ、オヤジ。呑んでる振りしてしっかり見てたんじゃねーか。つーか、今、とんでもねー事言ったぞ。〝義父の愛人〟だ?」
まさか。嘘だろ。
宮西が赤い顔で口角を上げて笑う。
「剣崎お前、大物とのパイプ作りを画策してるらしいな。
いい事教えてやろうと思ってここに呼んだんだよ。
クラブ・胡蝶のエミ子ママは津田恵三の愛人だ」
そうか。
星児はフッと笑い返し、グラスに口を付けながら言う。
「いくら俺でもここのママは懐柔出来ねーよ」
宮西はガハハと笑った。
待てよ、と星児は思う。
エミ子ママってーのはかなり若く見えるが、あの貫禄は確実に還暦は過ぎてる。
郡司に相当な恨みがある。年から行けばちょっと若すぎるが、無くはないな。
推測が疾風の如く彼の頭を駆け巡る。
全く取り付くシマもない、ってー訳ではなさそうだ。
星児が内心でほくそ笑んだ時、胸元のポケットで携帯の着信を知らせるバイブの感覚があった。
取り出し、確認すると保だった。
通話ボタンを押し耳に当てた星児の顔が和らいだ。
「オヤジ、悪ぃ。ちょっと呼び出しだ」
「女か」
「まあ、そんなとこだな」
宮西の言葉に星児はニッと笑った。
「いい収穫があった。オヤジ、ありがとな」
宮西は立ち上がった星児に手をヒラヒラと振っていた。
保は言った。
『みちるが、帰って来たぞ』
†††
彼等のにこやかな笑顔にフワリと切なさが胸に去来し、走り出した車を見えなくなるまで見送った。
深呼吸して、高いマンションを見上げる。
傾きかけた日差しが柔らかな色彩を演出していた。
「ただいま戻りました」
目を細めたみちるは小さく呟いた。
星児さん、保さん。もう、ずっと長い時会わなかったような気がします。
みちるは姿勢を正し、ゆっくりとエントランスに向かって歩き出した。
お家帰ったらまず、保さんに連絡しよう。
†††
事務所に、夕暮れ時である事を教えるオレンジ色の光が窓から射し込んでいた。ブラインド越しに窓の外を見ていた保は再びデスクのパソコンに目を移す。
事務所の引越し計画が持ち上がっていた。星児が新宿駅側にテナントビルを買うつもりなのだ。
また雑務が増えるぜ、と保は肩を竦めた。
今夜は宮西興業の社長と銀座で会う、と星児は出掛けて行った。
宮西か。ソープとヘルスの件で俺かなりごねたからな。星児、文句の一つや二つ言われんだろ。まあいいけど。
そんな事よりも、保の頭をもたげたのはみちるの事だった。
なんと、〝御幸がみちるの件を了承した〟。聞かされたその瞬間から保の不満は爆発寸前まで膨れ上がっていた。
直接は知らなくとも、保も〝御幸右京〟という男は噂では聞いている。津田恵三の右腕と評され、真性の紳士と言わる男と言われている。
紳士だろうが何だろうが、みちるには誰も触れては欲しくない。
星児のヤツ、何で平気でいられんだよ!
保が苛立たし気に傍にあったタバコを手に取った。
雑務山積、悩みも山ほど。方々に聞き込みして調べる暇もーー、と考えた時、保は思い出す。
そういや、亀岡さんからの連絡が無い。
あの旅先からの電話からもう二週間以上が経つ。昨日、ポケベルに連絡も入れたのだが電話も鳴らない。
『俺に何かあったらーー』なんて言ってなかったか?
保の脳裏を不穏な影が過ぎって行った。
まさか、な。
亀岡さんのポケベル鳴らなかったのかもしれない、と保は再度連絡を入れようとした時だった。
デスクの上の直通電話が鳴り出した。
†††
「オヤッサン、もうすっかり出来上がってんじゃねぇかよ」
星児の言葉に、両脇にホステスを侍らせガハハと笑う宮西は、スキンヘッドのてっぺんまで紅潮させている。
ここは高級クラブだ。キャバクラじゃねーぞ。
半ば呆れ気味に星児はテーブルに着いた。
何時もと変わらず艶やかな着物姿で出迎え、星児を宮西が座るテーブルに案内したクラブ・胡蝶のエミ子ママはホホホホと上品に笑いながらテーブルに着く。
「宮西さんはもう随分前にお見えになってましたもの。ボトルも随分と開けて頂きましたわ」
ママはしなやかな手付きでサッとお酒を作り星児に渡した。
受け取る時には、星児はすでにタバコをくわえていた。エミ子ママはすかさず取り出したライターで火を点ける。
流れるような、鮮やかな一連の仕草は長年積み重ねて来たものだ。いつ来てもここはすげぇ、と星児は吐き出した煙に目を細めた。
エミ子ママの横顔を見、思う。
和装が板に付いていて違和感ないが、顔は純日本人じゃない。
肌の白さが決定的に違う。目の色も青みがかっているが彫りの深さと欧米人ほどではない。
多分、ハーフだな。
星児はタバコをくわえなおしひと吸いした。
このママ、かなりの大物の愛人だったって話、どっかから聞いたな。
そんな事を思い出しながら星児は宮西に目をやり、フンと笑った。
「酔っ払いの相手をしに来たんじゃねーぞ、タコオヤジ」
冗談半分で言い放った暴言とも言える星児の言葉にその場にいたホステス達は凍りついたが、宮西は豪快に笑い出した。
彼女達は「いやだ……もう」と胸を撫で下ろした。そんな中で全く動じる様子を見せなかったエミ子ママがフフフと笑う。
「宮西さんを目の前にしてこんなに堂々としていられるのは、剣崎さんくらいですわね」
宮西が身を乗り出し「それがな、ママ」と話しを始めた。
「コイツの相棒がまたスゲーんだ。人を喰ったような態度でな」
タバコをくわえる星児は、ああその話か、と苦笑し黙って話を聞いていた。
「まあ、剣崎さんの相棒?」
「ああ。幼なじみなんだってな」
宮西に問いかけられた星児はタバコをくわえたまま頷く。ヒヒヒと笑い宮西は続けた。
「コイツのソープをうちが買い受けてやる、って話だった筈なのによ、いつの間にか売ってもらう、みてーな話にすり替わってやがったんだ。
あの兵藤ってヤツ、優男ヅラしてとんでもねーヤローだな。
こっちが出した条件にはテコでも首を縦に振らねぇ。
うちの若いのに凄まれても涼しいツラしてやがった」
話しながらも宮西は何処か愉しげだ。エミ子ママは優美な笑みを浮かべ相槌を打っていた。
「ぜひお会いしてみたいですわ。剣崎さん、今度はそのお友達もお連れしてくださいな」
星児はハハ……と感情の無い乾いた声で笑った。
保のヤツ、コッチの首尾は上々だ、とか言ってアイツとんでもねぇや。
見込んだ通りだ、とタバコをくわえなおし肩を竦めた。
宮西の空になったグラスを取ろうと、着物の袂を押さえながらエミ子ママが手を伸ばした時だった。
黒服の1人がスッと背後から近寄り彼女にそっと耳打ちした。一瞬、ママの顔色が変わる。
直ぐに変わらぬ笑顔に戻った彼女は、酒のグラスを若いホステスに預けた。
「わたくしはちょっと失礼しますわね、ごゆっくりなさってくださいませ」
ママはそう言い席を立った。
客じゃねぇな。
瞬時に察した星児はさりげなくエミ子ママを視線で追う。その先のフロアへの入り口付近で黒服と話をする1人の男がいた。
星児は、息を呑んだ。
まさか、あれは。
「お久しぶりでございますわね、津田様」
入り口からさほど遠くないこのテーブルは、耳を澄ませばその会話が聞こえる。エミ子ママの声は、聞いた事のない冷たい声音だった。
津田。
グラスを握る星児の手に、それを握り潰しそうなくらいの力が加わる。
背の高い、迸るような野心に溢れギスギスした瞳が印象的な男。
アイツだ! まさかこんな所で?
星児は立ち上がり掴みかかりたい衝動を必死に堪えていた。
今ここで早まっちまったら、これまで積み上げて来たものが全てパァになっちまう。
耐えろ!
「あいにく、この店には津田様にお出しするようなお酒は置いておりませんのよ」
エミ子ママの冷えた静かな声が聞こえた。言われた男は、口角を上げてフンと笑う。
二人がいる一角は異様な空気が覆う。静かな火花に店内にいる客もホステスも気付かない。
星児はトイレに立つ振りをしてさり気なくママと男のそばに行き、会話に耳をそばだてていた。
男はクククと笑っていた。
「心配ご無用。私は、接待すべき客をうちの部下がこんな所にお連れしたので迎えに来ただけですよ。楽しい筈の酒の席が疎まれながら呑むのでは台無しだからね」
星児から見えるのは不気味な笑顔を浮かべるその男。
間違いない、郡司、武だ!
星児はギリ、と奥歯を噛み締めていた。
そのうちに、男の連れ合いと思われる客が慌てて駆け寄り、申し訳なさそうにママに頭を下げていた。そんな彼には「お気になさらないで」とママは優しく気遣う。
そして、後から悠然と歩いて来た恰幅の良い男には「また改めていらしてくださいませ」と頭を下げていた。
ホステス達に付き添われる彼等がドアの向こうに消えた後、ママは男に向き直りきっぱりと言い放った。
「津田様は、わたくしどもの界隈を随分と見下げてらっしゃるようですけれど、
世の中、確かなものなど何一つ無い事を一番ご存知なのは、津田武様ご自身じゃございません事?」
何の事か分からないという顔をしてみせた男にママは続ける。
「わたくしは貴方のなさった事を一生忘れません、と言いたかったのです」
「前にも言ったが、証拠の無い事を騒ぐのはあまり賢くはないね」
津田武が不敵に笑い、ママも美しい冷笑を浮かべた。
「確たる証拠など何一つ無くとも、相手を追い詰める事は幾らでもできますでしょう」
†
「塩を蒔いておいて!」
夜会巻きの髪のセットを気にするように手を当てるエミ子ママは黒服に言い付けた。既にその美しい顔に笑顔はない。
ママは近くにいたホステスに「ちょっとフロアをお願いね」と裏に消えた。
一部始終を見ていた星児の激しい脈動はなかなか治まらなかったがタバコをくわえたまま瞬時に思案する。
郡司といたあの男。警視庁第一方面本部長だ。
星児はタバコを口から外し、煙を吐き出した。
保の人脈は、警察官僚にも及ぶ。警視庁上層部の人事も調べはついている。
警視庁第一方面本部長は警察官僚の若手に与えられるポストだ。それは、警視総監への道に繋がるのだ。
接待と言ってはいたが恐らく郡司の東大同期か後輩なのだろう。
立場は郡司の方が上だな。有力天下り先の社長。
あの男の狙いは、〝国家権力〟の掌握か。
チッと小さく舌打ちしながら星児は近くにあった灰皿にタバコを押し付けた。
それにしても、と壁に寄りかかり腕を組み、星児は考える。
あのママと郡司の関係はなんだ?
席に戻って来た星児に宮西が話しかけた。
「あれは、大会社社長とその義父の愛人のいがみ合いって訳でも無さそうだな」
なんだって?
目を見開く星児の顔を見、宮西がクックと喉の奥で笑い言う。
「立ち聞きしに行くくらい気になったんだろ」
宮西が嬉しそうに笑っていた。
星児と宮西の間にいたホステスに指名が入り、今彼等の間には誰もいなかった。
「なんだよ、オヤジ。呑んでる振りしてしっかり見てたんじゃねーか。つーか、今、とんでもねー事言ったぞ。〝義父の愛人〟だ?」
まさか。嘘だろ。
宮西が赤い顔で口角を上げて笑う。
「剣崎お前、大物とのパイプ作りを画策してるらしいな。
いい事教えてやろうと思ってここに呼んだんだよ。
クラブ・胡蝶のエミ子ママは津田恵三の愛人だ」
そうか。
星児はフッと笑い返し、グラスに口を付けながら言う。
「いくら俺でもここのママは懐柔出来ねーよ」
宮西はガハハと笑った。
待てよ、と星児は思う。
エミ子ママってーのはかなり若く見えるが、あの貫禄は確実に還暦は過ぎてる。
郡司に相当な恨みがある。年から行けばちょっと若すぎるが、無くはないな。
推測が疾風の如く彼の頭を駆け巡る。
全く取り付くシマもない、ってー訳ではなさそうだ。
星児が内心でほくそ笑んだ時、胸元のポケットで携帯の着信を知らせるバイブの感覚があった。
取り出し、確認すると保だった。
通話ボタンを押し耳に当てた星児の顔が和らいだ。
「オヤジ、悪ぃ。ちょっと呼び出しだ」
「女か」
「まあ、そんなとこだな」
宮西の言葉に星児はニッと笑った。
「いい収穫があった。オヤジ、ありがとな」
宮西は立ち上がった星児に手をヒラヒラと振っていた。
保は言った。
『みちるが、帰って来たぞ』
†††
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写はすべて架空です。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる