悪魔は天使の面して嗤う

汐月 詩

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本命

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 あの後どうやって帰ってきたのか、実の所全く覚えていない。気づいたら二人してこのアパートの前に来ていた。蓮見のことだから、きっとタクシーでも呼んでおいてくれたんだと思う。

「──よ、寄ってく?」

 まさかこんなセリフを言う日が来るとは。自分の身に起こっていることのはずなのに、どこか夢の中のような、そんな不思議な気持ちだった。けれども、夢だとしたら、一体どこから夢なんだろう。

「や、いいよ」

──なぁんだ。帰るのか。
 蓮見の言葉を聞き、思わず肩を落とす。
──って、それじゃあ『なにか』期待していたみたいじゃない!
 カッと頬が熱くなる。そんな私を見て蓮見は困ったように笑うと、その細くゴツゴツした手で私の頭を撫でた。

「俺の家、割と近いから。それに──こういうの・・・・・はちゃんと返事をもらってからがいい」

 こういう所も蓮見らしい。真面目なんだ。いくら昔関係があったからって、なし崩し的に迫らない。
 蓮見はゆっくりと名残惜しそうに手を離すと、「また連絡する」と言い残し、そのまま闇の中に消えていった。
 さっきまで触れられていた箇所が、じんわりと熱を帯びていた。
 302号室のドアを開けると、当たり前だが真っ暗だった。人差し指で、ほんのり光って存在を示してくれているスイッチを押す。毎日やっていたことなのに、今日はなぜだかその動作がぎこちない。
 何がいつもと違うのか。そんなの、火を見るより明らかだった。
 『たろちゃん』だ。彼がいないのだ。
 思えば、彼がここに来て一週間ほど。彼は必ず私より先にこの部屋に帰ってきて、『おかえりなさい』と私を出迎えてくれた。だから自分で電気をつけること自体、とても久しぶりなことだった。
 明かりを取り戻したこの部屋は、怖いくらいに静かで、冷蔵庫の運転音だけがいやに耳に残った。
 テーブルの上も、ゴミ箱の中も、シンクの中も、ベッドの上も、これでもかというくらいに片付けられていた。たろちゃん用のマグカップだとか、彼が夜ご飯に食べていた麻婆丼の容器だとか、彼がパジャマ代わりに使っている私のスウェットだとか、そういう『たろちゃんの物』全てが、この部屋からなくなっていた。
 『夢』は、さっきの蓮見とのやり取りではなく、それこそ、たろちゃんとの生活の方だったのではないか。たろちゃんなんて存在しなくて、全ては寂しさからくる幻だったのかもしれない。
 そう思わせるほどに、この部屋は輝きを失っていた。

「変なの」

 ぽつりと呟く。
 ただたろちゃんがいないだけ・・・・・・・・・・・・・なのに。彼の『おかえりなさい』がないだけで、こんなにも心許なくなるなんて。
 彼は今、どこにいるんだろう。
 お風呂にお湯をためながら、ふと思う。
 きっと今夜は帰らないつもりだ。たろちゃんは、私と蓮見がそうなる・・・・と見越してこの家を空けたのだ。じゃあたろちゃんは、どこで夜を明かすつもりだろう。
 浴槽が徐々に湯で満たされていく。蛇口から勢いよく流れ出るそれの音に混じって、女の声が聞こえた気がした。

『知らないでしょ? 彼には『本命』がいるのよ』

──本命
 その本命の『マリコさん』のところにでもいるのだろうか。あの女が悔しそうに、けれどもどこか勝ち誇ったように言った『マリコさん』。きっと誰にも敵わない、絶対的存在なんだろう。
 そもそも、本命がいるならその人のところで住めばいいのに、なんでそうしないのだろう。『マリコさん』と一緒に住めない理由がある?
 『マリコさん』は既婚者だ、という説が浮かんだ。夫がいない時にだけ会っているのかもしれない。
 いや待てよ。あの懐の潤い具合からして、『マリコさん』からお金を貰っているのかもしれない。そうなると、既婚者は既婚者でも、普通の主婦ではないだろう。そうだ、きっと社長夫人なんだ──

「──つめたっ! わっ!」

 『たろちゃんは社長夫人の愛人』そんな結論が出たところで、溢れ出たお湯が私の足元を濡らした。いや、お湯だと思って溜めていたものは、水だったのだ。想像していた温度とのギャップで過敏に反応した足は、そのまま大袈裟に空を切り、私は尻もちをついてしまった。
──最悪だ
 お尻は痛いし、濡れたところは冷たいし、服はびしょ濡れだし。……せっかくたろちゃんが見立ててくれたのに。
 私がこんな最悪な思いをしている中、たろちゃんは『マリコさん』とイイコトしているんだろうなと思うと、何故だろう、泣きたくなった。

「……たろちゃんのばーか」

 きっと、久しぶりに一人ぼっちになって、おかしくなってしまったんだ。そうだ、そうに決まっている。
 流れる水を止めるのも忘れ、私はそのまま浴室に座り込んだ。

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