狼神様と生贄の唄巫女 虐げられた盲目の少女は、獣の神に愛される

茶柱まちこ

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1巻

1-3

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(二)


 雪明かりに包まれた鉈切山に、ごぉんと鐘の音が響き渡った。夕刻を知らせる時の鐘だ。
 すずは大神に連れられながら、彼の袖にしっかりと掴まりつつ、屋敷の廊下を歩いていた。

「お館様、お疲れ様です!」
「おう、手長てなが足長あしながか。お疲れさん」
「今日は鮭雑炊だそうですよ」
「おお、いいねえ。腹が減ってきた」
「おやかたさま~! 一緒にごはん食べようよ~」
「おい、お前ばっかずるいぞ! 今日はおれの番だろ!」
「こら、喧嘩するな。それに今日は人間の新入りがいるから、そっちで食べる予定だ」
「え~」
「ちぇ、今日は我慢かあ」

 廊下を歩いていると、実に多くの老若男女が大神に向かって声をかけてくる。足の長い老人に手の長い老人、河童かっぱの子供に一つ目の子供――誰も彼もが人間らしい姿ではない。
 ちょうどご飯時だからなのか、あやかしたちは次々に部屋から出てきて、大神の周囲にぞろぞろ集まってくる。小柄で体重も軽いすずは、大神から引き離されないよう歩くのに必死だった。

(あやかしさんがいっぺこといる……みんな、おらのことが気にならないのかな……)

 こんな奇妙な痣を持ったよそ者が突然やってきたのだ。あやかしたちに嫌がられないだろうか、とすずは心配していたが、どうやら杞憂きゆうだったようだ。

「大丈夫か、すず。あやかしたちと一緒にいても平気か?」
「は、はい。大丈夫です」
「そうか。あやかしを怖がる人間は多いが、お前は度胸があるんだな」

 盲目の彼女にとっては、見た目がおどろおどろしいだけのあやかしたちなど、怖くもなんともない。声だけ聞いていれば、人間同士がしている会話と変わらないので、むしろ和やかな雰囲気に親しみを感じるくらいだ。

「うちはあやかしたちの集会所みたいな役目もあってな、冬ごもりのために身を寄せにくる奴も多い。みんな温厚な奴らだから、襲われる心配はしなくていいぞ」
「分かりました」

 あやかしの波に揉まれながら、すずは素直に頷いた。その間にも、大神は集まってくるあやかしたちからひっきりなしに声をかけられて、その全てに返事をしていた。彼の存在の大きさも、窺い知れるというものだ。

「ここのみんなは、大神様を『お館様』って呼ぶんだね?」

 すずは忙しそうな大神の代わりに、肩にしがみついていた二体の鬼火たちに尋ねてみた。鬼火たちは振り落とされないように、すずの肩にしがみつきながら答えた。

「おおがみさま、おやしきのあるじさま」「だから、おやかたさま」「ぼく、おおがみさまよりも、こっちがすき」「ぼくもすきすき」

 鬼火たちの言葉から察するに、この大神という存在は、現世とこの場ではかなり扱いが違っているようだ。
 神様という認識が強い現世の人間たちは、彼を『大神様』と呼んで敬うことが多い。一方、ここのあやかしたちは屋敷の主という認識が強いので、親しみを込めて『お館様』と呼んでいる。

「すずちゃん、あしもと」「だんさがあるよ」「ころばないない」「おけがないない」

 あやかしたちの群れに流されながらたどり着いたのは、人間百人くらいは入れそうな大広間だ。肩の上の鬼火たちが、一歩先にある敷居の段差を警告してくれたので、すずは注意深くまたいだ。
 大広間に足を踏み入れた瞬間、ほっこりと温かい空気がすずを包み込んだ。さらに空気に乗ってやってきた食欲をそそるにおいが、彼女の鼻をくすぐった。

「ごはん、ごはん」「おきゃくさんとごはん」「すずちゃんとごはん」「ごはんはおいしい」

 歌うような鬼火たちのはしゃぎっぷりに、すずの心も少しずつ高鳴ってくる。何かがくつくつと煮える音が、耳に心地いい。

「はいはい、押さない! ちゃんと全員分あるからね!」
「もう少しおまけしとくわね、あんたたち育ち盛りだし」
「おや、お腹の調子が悪いのかい? じゃあ今日は少なめにしようかね」

 あやかしたちが列を作って並んでいる先から、はつらつとした女性たちの声が聞こえてくる。体格も年齢も様々なあやかしたちに合わせて、屋敷の女中たちが配膳しているようだ。体の大きなあやかしのどんぶりにはたっぷりと、逆に小さなあやかしにはお猪口ちょこのようなお碗にほんの少し、といったふうに、女中たちはてきぱきと雑炊を盛っていく。

「こっちは身を寄せてる奴らの列だ。屋敷に元々住んでる奴らはあっち」

 大神は配膳の列には並ばず、すずを連れて広間の奥へと向かった。


「あら、お館様! 今日は遅かったですねえ」

 奥で作業をしていた女中たちのうち一人が、大神を見つけるなり声をかけてくる。明るい声でハキハキしていて、とても親しみやすそうな印象の女性だ。

「悪いな、おぎん。他のあやかしたちと話してたら遅くなっちまった」
「相変わらず人気者ですのねえ」

 女性はほほほと笑うと、大神の傍らにいるすずのほうへ向き、腰をかがめて話しかけてきた。

「初めまして、おすずちゃん。私はお銀よ。このお屋敷で女中頭じょちゅうがしらをしているの」
「は、はい。初めまして」
「ささ、貴方の席はこっちよ。人間のお客さんは久しぶりだわ~」

 お銀と名乗った女中はさっそくとばかりにすずの手を取った。が、その手があまりに冷たかったので、すずは思わず「ひゃっ」と声を上げた。

「あはは、驚かせてごめんなさいね。私、雪女の血が入ってるから、手がちょっと冷たいの」

 屈託なく笑うお銀を前に、すずは(雪女ってこんげ陽気なんだ……)と驚いた。
 すずは用意された座布団までお銀に導かれると、促されるままそこへ腰を下ろす。

「貴方の分はちょっと少なめにしておくわね。あんまり一気に詰め込むと体に毒だって、薊先生も言ってたし」

 すずの目の前に、茶碗の半分まで盛った鮭雑炊が置かれる。間近で感じるにおいに、すずの腹の虫は控えめに空腹を主張した。

「おぎんさん~こっちも~」「ごはんくーださい」

 鬼火たちもすずの肩から飛び降りると、着地した畳の上でころんころんと転がりながら、食事をねだり始めた。

「はいはい、鬼火ちゃんたちの分もあるわよ。お盆から一つずつ取ってちょうだいね」

 お銀が持っているお盆の上で、かちゃかちゃと音を立てながら、小さい陶器の器がひしめき合っている。鬼火たちは「わーいわーい!」「おまちかね~!」とわらわら集まってきて、お盆の中身に群がった。

(急に来たおらの分まで、用意してくれてたんだ……)

 村では数に入れてもらえないのが当たり前だったすずは、丁重な扱いを受けて戸惑っていた。自分なんて残ったものを分けてくれるだけで十分なのに、と内心恐縮していると、

「どうしたのです、お嬢さん」

 と、向かいの席に座っていた人物が話しかけてくる。大神の低く太い声とはまた違った、穏やかで優しそうな声だった。

「わ、私……こんなご馳走をもらって、いいんでしょうか?」
「もちろんです。遠慮はいりません。貴方、今までまともに食べてこなかったでしょう? 診察するまでもなく分かります」
「診察、ですか?」

 すずが聞き返すと、相手は「ああ、失敬」とひとこと詫びて、改めて話し始めた。

「申し遅れました。我が名は薊。薬研やげん付喪神つくもがみです。この大神屋敷の医師として、お館様にお仕えしております」
「付喪神さんですか⁉ 私、付喪神さんに会ってみたかったんです!」

 付喪神というあやかしの話は、すずも祖母から聞いたことがあった。いわく、作られてから百年経ったモノには魂が宿り、まるで生き物のように自ら動き出すのだと。
 すずはその話を聞いて、祖母の三味線ももうすぐ付喪神になる頃だろうか、と想像してみたものだ。

「じゃあ、お銀さんの言ってた先生って……」
「はい、私のことです。ここへ運び込まれた貴方を治療させてもらいました」

 なるほど、とすずは納得した。薬研とは薬作りの道具だ。薬は医術とも深い関係にあるから、薬研の付喪神である薊は医者になるというわけか。

「しかし、骨と皮ばかりで驚きました。人間の診察自体が久しぶりとはいえ、あんな不健康な状態、数年ぶりに診ましたよ」

 薊が言うと、彼の傍らにようやく腰を落ち着けたお銀がケラケラと豪快に笑い出した。

「骨そのものみたいな顔の先生が不健康って! おかしな話よねえ?」
「だっはは! 違いねえ! 薊は野ざらしに体が生えてるようなモンだしなあ」
「⁉」

 お銀や大神が笑いながら言い放った台詞に、すずはぎょっとした。まさか、優しげな薊がそんな衝撃的な姿をしているとは思わなかったのだ。もし盲目でなかったら、うっかり悲鳴を上げていたかもしれない、とすずは思った。

(見た目のことをこんげふうにして笑えるなんて……だっけ、この痣を見ても平気なのか)

 すずが思っていた以上に、あやかしたちはあっさりと彼女を受け入れてくれたが、これまでのやり取りを聞いて腑に落ちた。
 あやかしたちは個性が豊かすぎるのだ。お互いをありのままに見て、どんな個性も自然と受け入れてしまう。
 からかわれた薊も「失敬な」と言いながら笑っていて、冗談を不快に思っている様子がない。
 あやかし冗句ジョークで周囲が盛り上がる中、すずだけがなんとなく苦笑いを浮かべていると、傍らで雑炊をちびちびと食べていた鬼火たちが、すずのほうを見上げて言った。

「すずちゃん、たべないの?」「もしや、ねこじた?」「さめたら、おいしくない」

 あやかしたちが美味い美味いと言いながら料理に舌鼓したつづみを打つ中、ずっと食事に手をつけないでいたすずを、鬼火たちは気にしていたようだ。
 薊もすずの茶碗の中身が全く減っていないのに気づいて、

「もしや、具合が悪いのですか?」

 と顔色をうかがってくる。

「大丈夫? 気分が悪いなら、外の空気でも吸ってくる?」

 お銀も心配そうに肩をさすってくれるが、すずは具合が悪いわけではなかった。もちろん腹は減っているし、鮭も雑炊もすずの好物だ。
 しかし、すずには空腹を押しても食事に手を出せない理由があった。

「ふもとで暮らしている人たちが食べ物に困っているのに、私だけこんなご馳走をもらうのは気が引けて……」

 すずの反応は、あやかしたちにとっても想定外だったらしい。賑わっていた周囲が水を打ったように静まりかえった。ああ、しまった、あやかしたちの楽しそうな空気を台無しにしてしまった……と、すずは気まずくなって俯いた。
 しかしそんな空気をすばやく打ち消すように、大神が口を開く。

「すず。お前、現世じゃもう死んだも同然なんだぞ。お前のいた村の奴らはともかく、お前を知らないふもとの人間のことまで気にかける必要はないと思うけど」
「でも……」
「どうしても気がとがめるなら、働くために食ってるんだと思えばいい」
「働くため?」

 大神の言っている意味がよく分からず、すずは首を傾げた。

「そう。俺はこれから神様として『ふもとに降り続ける雪を止める』って大仕事をしなきゃならねえ。そしてすずは、仕事で疲れた俺を労わなきゃならねえ。俺を裏側から支えるってことは、お前も間接的にふもとの人々を助けているってことにならないか?」
「あ……」

 確かに言われてみればそうかもしれない。村を助ける大神の疲れを取るのも大事なお役目だ。すずもまた、直接ではないが、飢えた人々を救おうとしているのである。

「ふもとの村を助けるためには、まずお前が食わなきゃならねえ。食って寝て元気を取り戻して、そこから話は始まるんだ」

 すずはしばらく固まっていたが、漂ってくる雑炊のにおいが再び食欲をかき立ててくる。すると不思議なことに、あれだけ動かなかった右手が自然とさじを探し始めた。
 指に当たった匙を手に取り、どんぶりの場所も手で探り当てると、すずは雑炊をひと口すくい上げた。

「……はむ」

 久しぶりに舌に触れた熱い感覚に驚いたすずは、ふう、ふうと口の中で雑炊を冷ます。
 次に感じたのは、鮭のほどよい塩味と柔らかく煮た米の甘味。ありふれた味が、舌を通してじんわりと体の奥に染み込んでくる。

「おいしい?」「さけ、おいしい?」

 俯いたまま咀嚼そしゃくしているすずに、鬼火たちがにこにこ微笑みながら尋ねる。

「……おい、しい」

 すずは頷きながら、雑炊を大事に噛み締めた。
 温かいご飯なんて、どれだけ口にしていなかったことか。まして、誰かが自分のために、心を込めて用意してくれたご飯なんて――
 ひと口目を飲み込み、喉も温まったところで、すずは先ほどより大きめなふた口目を頬張る。

「ふ、ぐぅ……」

 すずの伏せられたまぶたの隙間すきまから、じわりと涙がこぼれてくる。溜まりに溜まった大粒の雫は、すずの頬を濡らし、手の上に落ちていく。
 雑炊のものではない塩味も混じってくるが、すずは構わず雑炊を口に運び続けた。

「ふう、うううっ……うう~っ……!」

 すずは顔中を真っ赤にして、唸るように泣き始めた。泣きながらも手を動かし続ける彼女の膝を、そばにいた鬼火たちがとんとん撫でてくれる。
 周りのあやかしたちに静かに見守られながら、すずは温かい雑炊を少しずつ平らげていった。
 ――祖母が亡くなってから、忘れかけていた。誰かの心がこもったご飯は、こんなにも温かくて美味しくて、幸せだったのだ。


  (三)


「うえんしょ うえんしょ♪
 早苗さなえたずさえ うえんしょ♪
 そよ風 来たらば♪
 さらりさらさら あおのなみ♪」

 冷たい風が吹きつける川の土手。幼いすずは着物一枚という異様な出で立ちで、絶叫しながら唄っていた。
 喉が痛くても、血の味がしてきても、ただひたすら唄い続ける。遠くの空を飛ぶ渡り鳥を撃ち落とさんばかりに、何度も何度も声を出す。
 一年の実に半分が寒風にさらされるこの島では、古来より『寒声かんごえ』と呼ばれる独自の唄修行が行われていた。寒中で声を出し、喉を鍛えるのだ。彼女はそんな唄修行の真っ最中だった。

「すず。よろっと帰るすけ、戻ってこい」

 土手近くの小屋にいた祖母が呼びかけてきたところで、すずはようやく唄うことをやめた。すずは祖母の声がした先を目指し、どっさりと降り積もった雪をかき分け、祖母の元へ転がるように駆け寄る。祖母はたかのように鋭い目ですずを見た。

「のめしこかんかったがか?」
「うん。神様が見てるすけ、しっかとお稽古したがよ」
「そんだらいい。怠け者のめしこきは立派な瞽女になれんっけな。ほれ、早う着なせや」

 すずは祖母から差し出された半纏を受け取ると、それをくるくる回して、やっとこさ、すぽんと袖を通した。仕上げに半纏の紐を結び、「できたよ~」と得意げになるすず。しかし、祖母はそんなすずを見て、やれやれと呆れ顔だった。

「そいじゃあ上と下があべこべだがね」
「あっきゃ、ほんとだ」

 すずは半纏の紐をほどき、今度は上下を直してから袖を通して、紐を結び直した。しかし、それでも祖母はよしと言わない。

「ちょうちょがおねんねしてしもうてる、縦結びだが」
「あれ? おっかしいなあ。ばあば、むすんでよう」
「甘ったれんなて。そんがんことも一人でできねば、またおまんま抜きにしねばならんねえて」
「やだ、おまんまたべたい!」
「そんだら、ばあばにばっか頼ってねえで、自分で直しなせ」

 すずはそう言われたので、紐を何度も結ぼうとしたが、なかなか上手くいかない。縦結びになったり、蝶結びにならずに解けてしまったりで、四苦八苦した。助けを求めようにも祖母は見守りに徹するばかりで、一向に手を貸してくれない。十度目の挑戦で「う~っ!」と唸り、癇癪を起こしそうになっているすずに、祖母は言い聞かせた。

「おめさんは目が見えねえすけ、人一倍苦労もあるこってさ。だろも、身の回りのことは自分でしねばならん。今からばあばの手を借りて甘ったれたら、おめさんは将来なんもできんお人形さんになるがよ」

 すずはこのとき、たったの五歳。しかし、すでに両方の目が見えなかった。なので、同じ年頃の子供が明るい目で見ながら容易に紐を結べるのに対し、すずは手の感覚しか頼るものがない。上手く結べているか、失敗してしまったかは、祖母に指摘されるまで分からないのだ。

「お人形さんになったら、いつか狒々ひひが住む山にぶちゃられるんだがや」
「ひひ? ひひってなあに?」
「あっこの山ん中に住んでる、でっこい猿の物の怪だがね。時折里に降りてきては畑を荒らして悪さしたり、人をさらって食っちまう。なんでも、狒々は若い娘やおめさんみてえな幼げな子供の肉が大好物だとか……」

 祖母の低く凄みのある声もあって、すずは薄暗い寒気に襲われた。

「やだ、やだ。ばあば、すずのことおいてかないでくらっしぇ」
「やなら早う結べ。狒々が降りてきちまう」

 半泣きになるすずの心に深く刻みつけるよう、祖母はいつものように口を酸っぱくして言い続ける。
 何もしないのはただの人形と一緒。お荷物になってしまう。いらなくなったお荷物はぽいっと捨てられるのがオチだ、と。
 だから、このときもすずは気が気でなかった。今ここできちんと紐が結べなければ、祖母に首根っこを掴まれて山にいる狒々の餌にされてしまうと、本気で思ったのだ。
 すずが震える手を無理やり動かし、紐をなんとか結び直すと、

「ようし、結べたな。おうちに帰るよ」

 と、祖母はすずの手を包むように握って歩き出した。

「へへ、ばあばのおてて、あったかくていいにおいだねえ」
「おめさんは変わったことを言うね。ばばの手なんか土や藁でくっせえろうて」
「くさくないよう」

 土や藁のにおいは、農民たちにとって親しい友人のようなものだ。祖母はその手で、ときに優しく、ときに厳しく触れてくれる。だから、そのにおいはすずにとって大好きな祖母のにおいだ。

「すずねえ、ばあばのおてて、だあいすき!」

 シワシワであかぎれのある手から伝わる温もりは、いつだってすずを安心させてくれた。村では鬼婆と呼ばれていた祖母だが、すずにとっては誰よりも愛情深い人だった。


     *


 早朝の風呂場は白い湯気が立ちこめ、ひんやりとしていた。すずは湯浴み着の上からかけ湯をして、さっと風呂の中へ体を沈める。

「はあ……極楽だあ……」

 全身が温もりに包まれると、寒さで張り詰めていた全身の筋肉がひゅるんと緩んで、思わずほうっと吐息が漏れた。

「すずちゃん、おゆかげんは?」「あつくない?」「さむくない?」

 かまどの中で密集した鬼火たちが聞いてくる。鬼火たちは薪に掴まりながら、体の炎をめらめらと燃やし、風呂のお湯を温めていた。

「大丈夫、ちょうどいいよ。ありがとうね、鬼火さん」

 すずがお湯をちゃぷちゃぷ揺らしながら言うと、鬼火たちは声を揃えて「はあい」と返事をする。

(薊先生のお薬はすごいんだなあ。あっという間に体がぽかぽかだあ……)

 すずが浸かっているのは、鉈切山の清らかな湧き水に薊が調合した薬草を混ぜた薬湯だった。とろりとした肌触りの湯を肩や顔にもかけていくと、独特のにおいが鼻をかすめる。祖母が使っていた膏薬こうやくのにおいにも似ていて、なんだか懐かしい気分だ。

「すずちゃん、にこにこ」「ごきげんさん」「いいこと、あった?」

 かまどの鬼火たちに尋ねられて、すずは「分かる?」とはにかみながら返す。

「今日ね、久しぶりにばあばの夢を見たんだ」

 温かい記憶がよみがえったのは、久しぶりに誰かの優しさに触れたからだろうか。亡き祖母にもう一度再会できたようで、すずは朝から幸せだった。

「すずちゃんの、ばあば?」「どんなひと~?」「きになるねえ」

 鬼火たちが興味津々とばかりに、かまどの中から顔を覗かせる。すずは子供に昔話をするような気持ちで、祖母との思い出を語った。


 しばらくして風呂からあがり、襦袢じゅばんに袖を通していると、お銀が何かを手にして脱衣所に入ってきた。

「ごめんね。本当は私がお世話できればよかったんだけど、雪女はお湯が駄目で。不自由しなかったかしら?」
「大丈夫です。鬼火さんたちが手伝ってくれましたから」
「それならよかったわ。少しずつ体を慣らしていきましょうね」

 鉈切山は霊域であり、人間にとっては過酷な極寒の地だ。薬湯で体を清めて、寒さへの耐性を得なければ、大神様の使用人は務まらない――という薊の言葉を、すずは思い返した。

「それでね、おすずちゃん。今日から貴方も大神様の使用人だから、それらしい格好のほうがいいかと思って、緋袴ひばかまを持ってきたの」
「緋袴って、巫女さんが着ている服でしたっけ」

 しかし困ったことに、すずは袴を身につけたことがなかった。袴の形状もよく分かっていないので、どこに足を通して、どの紐をどう結べばいいのかも分からなかった。
 すずがそのことを恥をしのんで打ち明けると、

「まあ、そうなの? なら、着付けてあげましょうか」

 と、お銀は提案してくれた。しかし、すずは首を横に振って断った。

「一度、着方を教えていただけませんか。自分で着られるようになりたいんです」
「確かに、そのほうが今後のためよね。じゃあ、おすずちゃんの手を動かしながら教えるわね」

 お銀はすずの手に袴を持たせながら説明する。すずもこくこく頷きながら、指の感触を頼りに手順を覚えていく。
 驚くべきことに、すずはたった一度の説明で手順を完璧に覚え、試しに最初からもう一度やってみたら、自力で着付けてしまった。すずの見事な記憶力にお銀は感嘆する。

「すごい……一発で覚えちゃった」
「何度も説明させて、ご迷惑をおかけするわけにはいきませんので……」
「迷惑だなんて、とんでもないわ! 小さい頃から、そうやって覚えてきたの?」
「ええ、まあ」

 偉いのねえ、とお銀は褒めてくれたが、すずにしてみればなんのことはなかった。「ただでさえ忙しい相手に、二度手間を取らせてはならない。言われたことは一度で覚えなさい」と祖母に教えられてきたから、そうするようにつとめてきただけだ。

「じゃあ、次はお化粧ね。これも毎日するものだから、今から教えておきましょうか」

 すずはもちろん化粧もしたことがなかったので、その響きに胸をときめかせた。同時に、鏡も見られない自分にそんなことができるだろうか……という緊張もあって、しゅっと背筋を伸ばした。

「やっぱり、ここで働く方はみんなお化粧をするんですか?」
「しない子もいるわよ、あやかしは肌質も人間以上に様々だからね。けど、貴方に教えるお化粧は身だしなみのためというよりは、魔除まよけの意味合いが強いかしら」
「魔除け?」
「そう。呪いの痣をそのまま剥き出しにしておくのは、あまりよくないのよ。呪いのにおいに引き寄せられた物の怪が、ますます貴方に集まっちゃうから。だからお化粧で隠して誤魔化しちゃうの」

 つまり、これも身を守るすべの一つということだ。これ以上呪いを悪化させたくないすずにとっては、ぜひとも覚えておきたい技術だった。
 女中部屋に場所を移すと、お銀は部屋の葛籠つづらからある物を取り出してすずに差し出した。

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