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二章「月の陰と、月の裏」
その五
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書斎から唯助が去るのを見送ると、三八は懐から二つの小箱を取り出した。片方は煙草、もう片方は燐寸である。取り出した煙草を咥えると、三八は片手で器用に燐寸を擦り、その火を煙草の先にあてがう。雲ひとつないすっきりした空に向かって、紫煙が細く立ち上っていく。
「灰皿をお忘れですよ、みや様」
「んむ」
静寂に包まれたかのように見えた書斎に、突如割り込む声があった。言わずもがな、音音のものだ。
「あぁ、すまないね。そういえば洗って干していたんだった」
音音は電灯に照らされていない奥の部屋から、足音も立てずにやってくる。灰皿を持って暗がりから静かにやってくる彼女は、衣擦れの音さえなければ、それこそ唯助の言った幽霊にも見えたかもしれない。
「ここは燃え易うございます。重々お気をつけくださいまし」
「貸本屋としては考えただけでぞっとするね」
「いいえ。このお部屋があまりに散らかっていて、薪になるものが多すぎるという意味ですよ」
「おや」
陶器でできた灰皿が、机の上にことんと置かれる。煙草の先を赤く燻らせながら吸い、ゆっくりとそれを吐き出す。白くなった灰を灰皿の中へ叩き落とすと、三八は音音へ微笑みかけた。
「聞いたかい、音音。幽霊に妖怪と来たもんだ」
「ええ、隣のお部屋で聞いておりましたよ。一部の漏れもなく」
そう言う音音の顔は、珍しく笑っていなかった。笑顔の面を外したかのように、のっぺりと味気ない無表情があるのみだった。常に笑顔を浮かべている彼女が無表情でいることは、彼女が今まさしく絶不調であることと同義だ。
「虫の居所が悪そうだ」
「悪うございますよ。お顔立ちは可愛らしいのに、口はまるで可愛げのないこと」
「それ、そっくりそのまま聞かせてやれば良かったのに。あの子、今の君の顔を見たら、もう一度泡を食うよ」
「みや様は性格が悪うございます」
「違いない」
音音は三八の傍に腰を下ろす。睫毛の影がかかっている黒曜石の瞳が、橙色の電灯をぼやぼやと照り返している。紫煙が三八にまとわりつきながら揺れているその中へ、するりと体を割り込ませるように。音音は三八のほうへ身を寄せた。
「煙草の匂いが染みつくよ」
「魔除けです。あの方は煙草の匂いを嫌います。それに、今のわたくしは貴方の妻ですから」
「……毛嫌いするねぇ」
身を寄せてきた音音の肩を、三八は袖で包み込む。
「ますます気になるな。元々仲は悪くなかったんだろう? なのに、どうして今はそこまであの者を忌避するのか。そうまであの者を忌避しつつ、なぜ依頼は最初からはねのけないでいるのか。気にならんほうがおかしい」
「本当は唯助さんにさせるのではなく、貴方が読み解きたかったのではないですか」
「そういうことだ」
「なんてお人」
三八が譚を読み解こうとする動機に善意は全く無関係であること、九割九分は単なる強い好奇心からであることを、音音は勿論知っている。知ってはいても、どこまでもブレない夫にはやはり呆れる。
「今日の満ち欠けはどれくらいかな」
「新月、ですね」
「新月か。裏も表も変わりないのか」
音音は三八の肩へ頭を乗せるように、ますます彼に寄りかかった。まるで熱でも出した子供のように甘ったれで気だるげだ。
「雨冷えがします」
長身の体をできるだけ丸め、三八の影に収まろうとしている。三八はそれを袖でくるみ、腕をさすっている彼女を温める。
「……まだ『雨の匂い』が濃いね」
彼女につられて、自身も倦怠感に包まれていくようだ。煙草の煙が妙に重厚に感じる。
「すぐに煙草で紛れますよ」
「だといいのだけど」
この倦怠感は紫煙だけでは晴れそうにない、と三八は思うのだった。
――言葉も、時間も、決して彼女の『雨の匂い』を晴らしてくれないことを、知っていたから。
「……いい子、いい子、可愛い子」
下手な子守歌でも歌うかのように、かつての自分が親にされていたのを真似て、彼女をあやす。
せめて、彼女にだけ聞こえているであろう雨音が、少しでも遠のくように、祈りながら。
*****
さて、翌日のこと。
唯助はまだ日も昇りきらない時分に起き、足音を立てぬよう一階へ降りた。音音が起きて家事をしていないだろうかと炊事場や井戸をそっと覗いてみたが、彼女の姿はなかった。平時であれば彼女は朝市にいくため確実に起きているのだが、最近は起きるのにも少し時間がかかっているらしい。今回に限って、それは幸いであった。
あれだけ派手に啖呵を切ってしまったのには、唯助自身も驚いていた。日頃よくしてくれている夫妻に対してなんという口利きをしてしまったのだろうと、後悔せずにはいられなかった。謝罪したいという気持ちもある反面、あの夫婦の恐ろしい顔を見てしまった翌日に顔を合わせづらいという気持ちもある。
今日は早くから出かける用事があったので、時間が合わず夫妻と顔を合わせられなかったことにできそうだと安堵する。唯助は用意しておいた書き置きだけを残して、朝餉も食わずに店を出……ようとした。
「……ッッ!?」
唯助はその瞬間、勢いで宙返りもできそうなほどひっくり返りそうになった。ついでに悲鳴も上げそうになった。大きな声を出して夫妻を起こさないよう口を押さえるが、実際はあまりに驚きすぎて、声になってさえいなかった。
書き置きを食卓の上に置いて振り返った瞬間、今まで気配すら感じなかったのに、それは突然出現したのである。
「あっ、……あんた、」
唯助がぷるぷると指さす先には、ぼんやりと人の形をした、百七十センチほどの黒い影が立っていた。黒い影――文字通りの黒い影が、まだ薄暗くてひんやりした廊下に、糸でつられたようにまっすぐ立っているのである。目を擦りたくなるような現象ではあったが、唯助はその黒い影の形に見覚えがあった。
「みっ、ミツユキ……だよな……?」
言うが早いか、ぼんやりとした黒い影の輪郭が徐々に鮮明になっていく。音を立てることもなく、人らしい形に変わっていく。
細身でありながら引き締まった体つき、柔らかな癖毛。墨で黒々と塗りつぶされたような色合いに、人らしい肌の色が映り始める。
蛇の腹のようになまっ白い肌、口元の黒子、若草色の瞳、右目に眼帯――四方八方に広がる黒い癖毛、肩に羽織る軍服のような上着、ぴったりと肌に密着した黒衣――
最終的に黒い影は、精悍な顔つきの若い男に姿を変えたのである。
「……………………」
唯助にミツユキと呼ばれた黒い影は、唇を真一文字に結んでいた。見せつけんばかりの仏頂面である。
「……どこに行くんだい」
「え、あ、その」
やべぇ、怒られる。率直にそう思った。
ミツユキは禁書の毒でありながら、師匠である三八の右腕的存在である。この七本屋に集まった禁書たちが騒ぎを起こさないよう監視し、同時に七本屋に盗人などが入らないよう見張ったり追い払ったりという役割を担った、まさにこの店を守る番人なのである。
「ねえ、黙って一人、どこにいくの?」
「えぇっと……あー……」
有事の際のために、彼の警告はすぐ三八に届くようになっている。それを避けたい唯助としては、ここで彼をなんとか言いくるめなければならないのだが、しかし、飛び上がるほどの驚きの余韻もあって上手い返答が出てこない。
「……また置いていくなんて、酷いじゃないか」
「あ、ごめん――……ん? へっ?」
唯助は自分の耳を疑う。予想していた返答と違う内容を今、言っていなかったか? と首をひねったのだ。
「今、また置いていくなんて、って言った?」
「言った」
ミツユキが何を言いたかったのか、すぐには理解できなかった。『また』、とはどういうことだ。いつ何時、自分は彼を置いていったというのた。発言の意図を理解しかねている唯助に、ミツユキは痺れを切らした子供のように文句を垂れ始めた。
「昨日。図書館に行ったでしょ。譚の読み解きをしに」
「お、おう。それがどうかしたか?」
「どうかしたよ」
まだまだミツユキの仏頂面の理由をはかりかねている唯助。それにますます苛立ちを見せるミツユキ。鈍感な男と面倒くさい女が繰り広げる痴話喧嘩のようなやりとりである。
「なんで読み解きなのに私を連れて行ってくれなかったんだい。図書館に行ったということは調べ物をしに行ったんだろう?」
「おう……えっ、なに? お前も一緒に図書館行きたかったの?」
「そうだよっ!」
ここで子供っぽく声を荒らげるミツユキ。大声を出されてはたまらないと、唯助は慌ててミツユキの口を塞いだ。
「唯助が朝早くに出ていってなかなか帰ってこないからどうしたのか、主に聞いたんだよ。そしたら、七本音音が関わった放火事件について調べに行ったって言うじゃないか。心眼も使おうとしていたんだろう? そんな時になんで私を連れて行ってくれなかったんだ」
「……あー、要するに――お前、拗ねてる?」
「拗ねてなんかないやいっ」
「いや拗ねてんだろ」
仏頂面でそんなことを言われても、説得力など欠片もない。むしろ、拗ねてますけどなにか、と言っているようなものだ。
「別に主は独力で読み解きをしろなんて言ってないだろう。心眼が上手く使えないと分かっているのに、どうして私を頼ってくれないんだ」
「いや、今回はお前関係ねえし、連れて行っても迷惑……」
「迷惑。迷惑とまで言うかい。へえ。私は迷惑かい。そうかそうか。そうですか。それならば悪うございました。どうぞ構わずおひとりで頑張ってください」
「最後まで聞け、アホ。連れて行っても迷惑をかけちまうって言いたかったんだよ。誰がお前が迷惑っつったよ」
あぁもう、こんなところで押し問答をしている場合じゃないというのに。なんとなく顔を合わせづらいと感じているこの時に、夫妻が起きてきたらどのツラでいればいいというのか。
とにかく夫妻に遭遇したくない焦りもあって、唯助の語気も無意識に荒くなっていた。
「だとしたら水臭いね。一緒に主の譚を読み解いた仲だというのに。第一、私は君が心眼を使って読み解きするのを実際に手助けしているんだよ?」
「……まあ、そりゃ確かに」
「心眼の使い方が分からなくて困っているなら、私が指南してあげようじゃないか」
「指南って。お前、心眼について何か知ってんのか?」
「いや、別に」
「知らねぇのかよ」
「でも、君の力だって、主と同じ愛子の能力だからね。主がどんなふうに力を使っているかは何度もこの目で見てきているから、役には立てると思うよ」
ふふん、と胸を張るミツユキに、唯助は内心(こいつ人格ブレブレじゃねえか?)と思う。以前見た、知的で冷静な大人という感じの彼とは違う、童のごとき振る舞いの彼。もはや人格崩壊といっていい領域ではなかろうか。
「なんつーか……意外と情緒豊かなんだな。お前」
唯助は柔らかく、ガキみたいな性格してやがるな、と遠回しに伝えた。
「昔の主の人格が元になっているからね。人並みに感情はあるよ」
これが『触れる人の全てを害する最凶の猛毒』を持つと恐れられた第一級禁書『糜爛の処女』の本性だと言っても、本気で信じる者はいまい。
「そういうわけだから、今度は私も連れて行ってよ。行き先はちゃんと書き置きに書いてあるんだろう。なら主も咎めはしないさ」
「……最凶の禁書の毒が街中をうろついて大丈夫なのかよ。あとで禁書の管理責任がどうとか言われねえだろうな」
「その点は大丈夫。私は影だからね」
ミツユキがにこっと笑うと、黒衣の男の姿が再び不定形の黒い影に戻る。一度唯助の足元に沈んで黒い水たまりを作ったと思うと、そこから黒い影が細長く伸びてきた。薄布でできた帯のような姿のそれがにゅるっと唯助の首元に飛びつくと、まるで蛇のようにとぐろを巻く。
ほんの三秒ほどの、あっという間の出来事だったが、唯助はガラス戸に映ったその姿を見て、そういうことかと納得する。
「……便利なこった」
唯助の首元には、肌触りのいい絹織の黒い襟巻があった。
「灰皿をお忘れですよ、みや様」
「んむ」
静寂に包まれたかのように見えた書斎に、突如割り込む声があった。言わずもがな、音音のものだ。
「あぁ、すまないね。そういえば洗って干していたんだった」
音音は電灯に照らされていない奥の部屋から、足音も立てずにやってくる。灰皿を持って暗がりから静かにやってくる彼女は、衣擦れの音さえなければ、それこそ唯助の言った幽霊にも見えたかもしれない。
「ここは燃え易うございます。重々お気をつけくださいまし」
「貸本屋としては考えただけでぞっとするね」
「いいえ。このお部屋があまりに散らかっていて、薪になるものが多すぎるという意味ですよ」
「おや」
陶器でできた灰皿が、机の上にことんと置かれる。煙草の先を赤く燻らせながら吸い、ゆっくりとそれを吐き出す。白くなった灰を灰皿の中へ叩き落とすと、三八は音音へ微笑みかけた。
「聞いたかい、音音。幽霊に妖怪と来たもんだ」
「ええ、隣のお部屋で聞いておりましたよ。一部の漏れもなく」
そう言う音音の顔は、珍しく笑っていなかった。笑顔の面を外したかのように、のっぺりと味気ない無表情があるのみだった。常に笑顔を浮かべている彼女が無表情でいることは、彼女が今まさしく絶不調であることと同義だ。
「虫の居所が悪そうだ」
「悪うございますよ。お顔立ちは可愛らしいのに、口はまるで可愛げのないこと」
「それ、そっくりそのまま聞かせてやれば良かったのに。あの子、今の君の顔を見たら、もう一度泡を食うよ」
「みや様は性格が悪うございます」
「違いない」
音音は三八の傍に腰を下ろす。睫毛の影がかかっている黒曜石の瞳が、橙色の電灯をぼやぼやと照り返している。紫煙が三八にまとわりつきながら揺れているその中へ、するりと体を割り込ませるように。音音は三八のほうへ身を寄せた。
「煙草の匂いが染みつくよ」
「魔除けです。あの方は煙草の匂いを嫌います。それに、今のわたくしは貴方の妻ですから」
「……毛嫌いするねぇ」
身を寄せてきた音音の肩を、三八は袖で包み込む。
「ますます気になるな。元々仲は悪くなかったんだろう? なのに、どうして今はそこまであの者を忌避するのか。そうまであの者を忌避しつつ、なぜ依頼は最初からはねのけないでいるのか。気にならんほうがおかしい」
「本当は唯助さんにさせるのではなく、貴方が読み解きたかったのではないですか」
「そういうことだ」
「なんてお人」
三八が譚を読み解こうとする動機に善意は全く無関係であること、九割九分は単なる強い好奇心からであることを、音音は勿論知っている。知ってはいても、どこまでもブレない夫にはやはり呆れる。
「今日の満ち欠けはどれくらいかな」
「新月、ですね」
「新月か。裏も表も変わりないのか」
音音は三八の肩へ頭を乗せるように、ますます彼に寄りかかった。まるで熱でも出した子供のように甘ったれで気だるげだ。
「雨冷えがします」
長身の体をできるだけ丸め、三八の影に収まろうとしている。三八はそれを袖でくるみ、腕をさすっている彼女を温める。
「……まだ『雨の匂い』が濃いね」
彼女につられて、自身も倦怠感に包まれていくようだ。煙草の煙が妙に重厚に感じる。
「すぐに煙草で紛れますよ」
「だといいのだけど」
この倦怠感は紫煙だけでは晴れそうにない、と三八は思うのだった。
――言葉も、時間も、決して彼女の『雨の匂い』を晴らしてくれないことを、知っていたから。
「……いい子、いい子、可愛い子」
下手な子守歌でも歌うかのように、かつての自分が親にされていたのを真似て、彼女をあやす。
せめて、彼女にだけ聞こえているであろう雨音が、少しでも遠のくように、祈りながら。
*****
さて、翌日のこと。
唯助はまだ日も昇りきらない時分に起き、足音を立てぬよう一階へ降りた。音音が起きて家事をしていないだろうかと炊事場や井戸をそっと覗いてみたが、彼女の姿はなかった。平時であれば彼女は朝市にいくため確実に起きているのだが、最近は起きるのにも少し時間がかかっているらしい。今回に限って、それは幸いであった。
あれだけ派手に啖呵を切ってしまったのには、唯助自身も驚いていた。日頃よくしてくれている夫妻に対してなんという口利きをしてしまったのだろうと、後悔せずにはいられなかった。謝罪したいという気持ちもある反面、あの夫婦の恐ろしい顔を見てしまった翌日に顔を合わせづらいという気持ちもある。
今日は早くから出かける用事があったので、時間が合わず夫妻と顔を合わせられなかったことにできそうだと安堵する。唯助は用意しておいた書き置きだけを残して、朝餉も食わずに店を出……ようとした。
「……ッッ!?」
唯助はその瞬間、勢いで宙返りもできそうなほどひっくり返りそうになった。ついでに悲鳴も上げそうになった。大きな声を出して夫妻を起こさないよう口を押さえるが、実際はあまりに驚きすぎて、声になってさえいなかった。
書き置きを食卓の上に置いて振り返った瞬間、今まで気配すら感じなかったのに、それは突然出現したのである。
「あっ、……あんた、」
唯助がぷるぷると指さす先には、ぼんやりと人の形をした、百七十センチほどの黒い影が立っていた。黒い影――文字通りの黒い影が、まだ薄暗くてひんやりした廊下に、糸でつられたようにまっすぐ立っているのである。目を擦りたくなるような現象ではあったが、唯助はその黒い影の形に見覚えがあった。
「みっ、ミツユキ……だよな……?」
言うが早いか、ぼんやりとした黒い影の輪郭が徐々に鮮明になっていく。音を立てることもなく、人らしい形に変わっていく。
細身でありながら引き締まった体つき、柔らかな癖毛。墨で黒々と塗りつぶされたような色合いに、人らしい肌の色が映り始める。
蛇の腹のようになまっ白い肌、口元の黒子、若草色の瞳、右目に眼帯――四方八方に広がる黒い癖毛、肩に羽織る軍服のような上着、ぴったりと肌に密着した黒衣――
最終的に黒い影は、精悍な顔つきの若い男に姿を変えたのである。
「……………………」
唯助にミツユキと呼ばれた黒い影は、唇を真一文字に結んでいた。見せつけんばかりの仏頂面である。
「……どこに行くんだい」
「え、あ、その」
やべぇ、怒られる。率直にそう思った。
ミツユキは禁書の毒でありながら、師匠である三八の右腕的存在である。この七本屋に集まった禁書たちが騒ぎを起こさないよう監視し、同時に七本屋に盗人などが入らないよう見張ったり追い払ったりという役割を担った、まさにこの店を守る番人なのである。
「ねえ、黙って一人、どこにいくの?」
「えぇっと……あー……」
有事の際のために、彼の警告はすぐ三八に届くようになっている。それを避けたい唯助としては、ここで彼をなんとか言いくるめなければならないのだが、しかし、飛び上がるほどの驚きの余韻もあって上手い返答が出てこない。
「……また置いていくなんて、酷いじゃないか」
「あ、ごめん――……ん? へっ?」
唯助は自分の耳を疑う。予想していた返答と違う内容を今、言っていなかったか? と首をひねったのだ。
「今、また置いていくなんて、って言った?」
「言った」
ミツユキが何を言いたかったのか、すぐには理解できなかった。『また』、とはどういうことだ。いつ何時、自分は彼を置いていったというのた。発言の意図を理解しかねている唯助に、ミツユキは痺れを切らした子供のように文句を垂れ始めた。
「昨日。図書館に行ったでしょ。譚の読み解きをしに」
「お、おう。それがどうかしたか?」
「どうかしたよ」
まだまだミツユキの仏頂面の理由をはかりかねている唯助。それにますます苛立ちを見せるミツユキ。鈍感な男と面倒くさい女が繰り広げる痴話喧嘩のようなやりとりである。
「なんで読み解きなのに私を連れて行ってくれなかったんだい。図書館に行ったということは調べ物をしに行ったんだろう?」
「おう……えっ、なに? お前も一緒に図書館行きたかったの?」
「そうだよっ!」
ここで子供っぽく声を荒らげるミツユキ。大声を出されてはたまらないと、唯助は慌ててミツユキの口を塞いだ。
「唯助が朝早くに出ていってなかなか帰ってこないからどうしたのか、主に聞いたんだよ。そしたら、七本音音が関わった放火事件について調べに行ったって言うじゃないか。心眼も使おうとしていたんだろう? そんな時になんで私を連れて行ってくれなかったんだ」
「……あー、要するに――お前、拗ねてる?」
「拗ねてなんかないやいっ」
「いや拗ねてんだろ」
仏頂面でそんなことを言われても、説得力など欠片もない。むしろ、拗ねてますけどなにか、と言っているようなものだ。
「別に主は独力で読み解きをしろなんて言ってないだろう。心眼が上手く使えないと分かっているのに、どうして私を頼ってくれないんだ」
「いや、今回はお前関係ねえし、連れて行っても迷惑……」
「迷惑。迷惑とまで言うかい。へえ。私は迷惑かい。そうかそうか。そうですか。それならば悪うございました。どうぞ構わずおひとりで頑張ってください」
「最後まで聞け、アホ。連れて行っても迷惑をかけちまうって言いたかったんだよ。誰がお前が迷惑っつったよ」
あぁもう、こんなところで押し問答をしている場合じゃないというのに。なんとなく顔を合わせづらいと感じているこの時に、夫妻が起きてきたらどのツラでいればいいというのか。
とにかく夫妻に遭遇したくない焦りもあって、唯助の語気も無意識に荒くなっていた。
「だとしたら水臭いね。一緒に主の譚を読み解いた仲だというのに。第一、私は君が心眼を使って読み解きするのを実際に手助けしているんだよ?」
「……まあ、そりゃ確かに」
「心眼の使い方が分からなくて困っているなら、私が指南してあげようじゃないか」
「指南って。お前、心眼について何か知ってんのか?」
「いや、別に」
「知らねぇのかよ」
「でも、君の力だって、主と同じ愛子の能力だからね。主がどんなふうに力を使っているかは何度もこの目で見てきているから、役には立てると思うよ」
ふふん、と胸を張るミツユキに、唯助は内心(こいつ人格ブレブレじゃねえか?)と思う。以前見た、知的で冷静な大人という感じの彼とは違う、童のごとき振る舞いの彼。もはや人格崩壊といっていい領域ではなかろうか。
「なんつーか……意外と情緒豊かなんだな。お前」
唯助は柔らかく、ガキみたいな性格してやがるな、と遠回しに伝えた。
「昔の主の人格が元になっているからね。人並みに感情はあるよ」
これが『触れる人の全てを害する最凶の猛毒』を持つと恐れられた第一級禁書『糜爛の処女』の本性だと言っても、本気で信じる者はいまい。
「そういうわけだから、今度は私も連れて行ってよ。行き先はちゃんと書き置きに書いてあるんだろう。なら主も咎めはしないさ」
「……最凶の禁書の毒が街中をうろついて大丈夫なのかよ。あとで禁書の管理責任がどうとか言われねえだろうな」
「その点は大丈夫。私は影だからね」
ミツユキがにこっと笑うと、黒衣の男の姿が再び不定形の黒い影に戻る。一度唯助の足元に沈んで黒い水たまりを作ったと思うと、そこから黒い影が細長く伸びてきた。薄布でできた帯のような姿のそれがにゅるっと唯助の首元に飛びつくと、まるで蛇のようにとぐろを巻く。
ほんの三秒ほどの、あっという間の出来事だったが、唯助はガラス戸に映ったその姿を見て、そういうことかと納得する。
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