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一月『幽岳事件』

閑話:逃亡

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「逃げよう、秋久。帝国司書隊を抜けるならなら今しかない。このままここにいたら、君が殺されるかもしれないんだ!」

 閑話、場面回想。
 時間は飛んで遡り、三十年前――帝国司書隊の内部抗争による被害が最も激しかった時代。
 帝国司書隊を創り上げた八田一族と尾前一族の争いにより、ついに死者が出始めた時期であった。
 かつて手を取り合い、共に帝国司書隊を盛り立てていた二家――憎しみあい、争いあい、殺し合うまでに迫られた二家――その関係は、決して上層部だけに限ったことではなかった。
 中間から下々まで――ありとあらゆる地位と部署に至るまで、帝国司書隊は綺麗に分断されていたのだ。
 当時の禁書回収部隊隊長・八田光雪と禁書衛生部隊隊長・尾前秋久など、尚のこと。
 渦中の八田幽岳と尾前冬嗣――その両名の血縁同士であった彼らは、真っ先にその対立関係を強いられることになった。
 しかし、少年時代から築き上げた互いへの信頼関係を、そう簡単に害意へと変貌させることはしなかった。
 対立関係に抗い続け、取り合った手を離さなかった二人の男――しかし、容赦のない権力争いは、彼らにとって残酷極まりない展開を招く。
 半年も続いた内部抗争は、やがて八田一族の優勢に傾き始める。
 八田光雪、尾前秋久はその情勢を見るや、すぐに悟ったのだ。
 ――近いうち、間違いなく虐殺が起こる、と。
 実際その通りであった。
 勢力を増した八田一族は勝利宣言をし、反逆者・尾前一族を粛清しにかかった。
 尾前一族本家の血筋、尾前一族に加担した者はおしなべて処刑、もしくは投獄――辛うじてそれを逃れた者も、帝国司書隊から追放される運びとなった。
 彼らはそれを先見して、混乱に乗じて逃げ出した。

 帝国司書隊の隊服を脱ぎ捨てた彼らは、誰にも見つからないように逃げた。
 帝都の灯りを避けるように、暗闇の路地をひたすら駆けた。
 息を切らして走った。
 逃げて逃げて――ついに帝都を抜けて、街の灯りがひとつも届かない道まで抜け出した。

「君と殺し合いなんてごめんだよ、私が君に、秋久に勝てるはずがない」
「同感です。貴方を敵に回して、この僕が勝てるはずがない」

 八田光雪と尾前秋久は、こうして帝国司書隊を脱退した。
 権力争いから逃れるために――自身と、互いの身を守るために。

 しかして、それは単なるきっかけでもある。
 内部抗争がなかったとしても、少なからず八田光雪は帝国司書隊を脱する腹づもりであった。
 たまたま抗争の混乱が好機に繋がった――それだけだ。

 光雪は、忘れていなかった。
 実の父・八田幽岳から受けた屈辱を。
 抑圧を。
 強制を。
 数々の怨恨を。

 稀代の天才と称された禁書士――八田光雪は、天才すぎたがゆえに、その自我を否定されたと言ってもいい。
 彼がこうまで天才でなければ、八田幽岳も彼のみにこうまで固執しなかったであろう。
 八田幽岳は血筋を重んじる男であった。
 名家の血筋、天才の血筋、逆賊の血筋――とにもかくにも、彼の思想には血筋が絡んでくる。
 逆賊の血筋を根絶やしにしようとするのなら、その逆――天才の血筋を後世まで遺そうとするのもまた然り。
 八田幽岳は、天才の息子・光雪に何度も女をあてがった。
 より多くの血を、より多くの子を、より多くの天才を生ませ、遺すことを息子に強要した。
 ――そのせいで、光雪はどれだけ苦労する羽目になったか。
 女を抱けない光雪は、何度も吐いた。
 精神的な負荷を強いられ、光雪は何度も何度も何度も何度も何度も苦しみ、苦しんで苦しみ抜いた。
 帝国司書隊の下々からはもはや異常とさえ言われるほど、幽岳の要求は一方的で――それを受け続けた光雪はついに、一切の縁談を受け入れなくなった。

「もうお許しください。もう限界です。私には子を作ることなどできません。地獄のように苦しいのです。どうかお許しください」

 ――そんな息子の苦悶の訴えを「我儘」のひと言で片付けた幽岳は、帝国司書隊の中でも極めて異常な父親という烙印を、密かに押されている。


 *


 八田幽岳が光雪に与えた精神的苦痛は他にも多々ある。
 ここに書き連ねてはいられないほどにあるし、ここに書き綴ってはいけないものもある。
 さらに、光雪が帝国司書隊を抜けてからも――幽岳は己が息子を追いかけ続けた。
、何度も彼を帝国司書隊に連れ戻そうとした。
 ここに書いたことも、書かれなかったことも、全てを含めた行為を総じて評するのであれば、



 と下々から囁かれるまでのことを、幽岳はしていたのである。
 滑稽なことに、幽岳はそれを『親心、子を想う親の愛』と信じて正当化していたのだから、それもまた、八田光雪が真の愛を信じられなくなった理由の一つになったのだった。


閑話休題、場面回想終了――
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