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一月『幽岳事件』

その三

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 静かになった空間には男が一人、女が一人いた。
 女は綿の詰まった着物の裾をビリビリと破くと、それを洗って清めてから、男の体へあてがった。
 男はそれを見て、少しだけ笑う。

「……あの時と、同じだ。あの時も君は、そうやって躊躇いもなく服を破いて、手当てしてくれた」
「躊躇う理由などあるものですか。傷ついた貴方を癒すのは、わたくしの役目です」

 男の全身は傷だらけで、どの部分をどう見ても傷のない箇所は見当たらない。切り裂かれ、抉られ、削がれた肌は、目を覆いたくなるほど痛々しいものだった。
 果たして、これが人間のすることなのか――と女は嘆く。

「音音。――ひとつ、わがままを聞いてくれないか」

 手当をする女の手首をそっと掴みながら、男は言う。

「この傷跡は、できる限り残させて欲しい。知り合いの医者の腕前なら傷跡も残さず綺麗に処置できるだろうが、私はあえてそれをしないつもりだ。……見苦しいかもしれないけれど、どうか許してほしい」

 許すも何も、自分にはどうこう言う権利などない、と女は思う。彼が受けた傷は、事情がどうであれ彼のものだ。その如何を決定する権利は、彼のほうにこそある。
 けれど、女は聞いた。

「……どうしてですか?」

 なぜ、こんな痛々しい傷を――殺意すら抱いた相手から受けた傷跡をわざわざ残したいと言うのか。
 男は、目を閉じて答える。

バチが当たったんだよ。それを、忘れない為に」

 再び開かれた目には、固い決意と――悲しそうな光が見えた気がした。

「みや様。ひとつ、聞いてもよろしいでしょうか」
そして、女は問うのだった――


 *


「それにしても君、どうやってあそこが分かったんだい」

 そこは藤京某所に建つ病院の一室であった。丘の中腹に建つ小屋――ではなく。市街地の真ん中に位置する病院の中であった。
 寝台の上に横たわっている七本三八、そしてその妻・音音はあの後、帝国司書隊の現・禁書回収部隊隊長こと奥村おくむら蒼兵衛そうべえによって救出された。
 そう――驚いたことに、救援が来たのである。
 三八としては救援など望み薄なことには期待せず、最初から自力で脱出する算段を立てていたくらいだ。奥村の登場自体が、彼の予想外だったのだ。
 三八に問われた奥村は答える。

「ここをはっきりと言い当てた禁書がおりまして」
「禁書?」
「ええ。珱仙ようせんと名乗っておりました。記憶が正しければ、恐らくは『慧眼』を持つ禁書『先生の箱庭』の毒でしょう」

 まさか、その名前をここで聞くことになろうとは――これには三八だけでなく、音音も驚いた。
 彼は今、棚葉町にいるものだと思っていたのに。

「早朝、帝国中央図書館へ通報してきたのです。『ナツメイスケ』という少年と共に」
「唯助が?」

 その名前を聞いて、さらに三八は驚愕する。その少年も、棚葉町にいるはずだったからだ。しかも、世助からの伝言で彼は体調不良だと、そう聞いていたのである。

「第四班を名乗る隊員が無理やり貴方の奥様を連行し、しかも貴方にはあらぬ疑いをかけられているという報せでした。幽岳様の事件後の緊急会議が行われている間、綾城が突然任務だと言って一部隊員を連れて姿を消していたこと――その間、全くの音信不通であったこともあって、早急に動いたのですが」

 救援は遅きに失した。
 綾城は三八、つまり八田光雪という帝国司書隊総統の息子に対して三日にわたる拷問をし――さらには、一般市民である妻の音音を恐喝するというとんでもない行為をしでかしていた。
 負傷した綾城と隊員たちの有様にも同情しなくはないが、今までの行いを全て鑑みれば、奥村としても自業自得と言わざるを得まい。

「唯助さんと珱仙先生が……」

 音音が咄嗟に唯助の存在を隠したのは、単純に彼を庇っただけのことであったが、結果的には功を奏する形になったのだ。
 唯助も連行されてしまっていた場合、事態がさらに悪化していた可能性も考えられる。そう思うと、音音は思わず身震いしてしまうような思いであった。
 それにしても、と三八は嘆息を漏らす。

「君の話を聞く限り、証言はしっかりと揃っていたのだな。私が幽岳様の屋敷から帰った時点では、幽岳様はまだ生きており。その二時間後、幽岳様のいた部屋から銃声がして。銃声を聞いた女中が幽岳様の遺体を発見し。その右手に拳銃が握られ。遺書と見られるものも机に置いてあり。その他、誰かが忍び入った形跡はなかった等々……。綾城の奴、本当に『私が幽岳様に会って口論していた』という証言しか頭になかったんだな」
「彼女はその情報を聞いた直後から、忽然と姿を消していましたから。そこだけを聞いて早合点はやがてんしたのでしょう。
警察としては、当日に幽岳様と面会し、口論となっていたらしい貴方に話を聞くだけだったそうですが」
「ああ、その前に私が綾城たちに捕まってしまったのか」
「ええ」

 受ける必要のない拷問を受け、妻を目の前で犯されかけ、全くとんだ災難である。
 しかし、ともあれ、幽岳が亡くなった事件を担当していた警察隊からの聴取も無事に終えた。三八への疑いは完全に晴れたと言ってもいい。
 三八は、ようやくひと息つくことができたのである。

「奥村様。助けて下さり、ありがとうございました。貴方の助けがなければ、主人の怪我もどうなっていたことか……」

 傍に控えていた音音が恭しく頭を下げるのに対し、奥村はそれ以上に深々と頭を下げた。

「いいえ、奥様。むしろ申し訳ございませんでした。部下の暴走を食い止められず、貴方がたご夫婦に被害を与えてしまったのは私の責任。責められることはあっても、感謝されるようなことはありません」
「ご自身を責めるのはどうかおやめくださいまし。もう十分でございましょう」
「音音の言うとおりだ。被害に遭った私たち夫婦が良いと言っているのだから、いい加減頭を下げるのはよしなさい」

 夫婦にそう言われた奥村はやっと頭を上げた。

「その代わり、あの痴れ者の余罪を徹底的に調べ尽くしてくれ。同僚への職務妨害、私への自白強要と拷問、一般人である妻の誘拐と恫喝――これだけでも十分すぎると思うが、幹部会に万一阿呆がいて、降格などという中途半端な制裁で終わらされたのでは困る。精査したのち、幹部会で然るべき処分を下せ」
「委細承知しました」

 三八が言霊の呪いをかけた以上、綾城は二度と帝国司書を名乗らないし、世間に顔を出すということもないのだが、彼女が上層部に対して上手く媚びを売っていた可能性もある――それによって正しい判断を妨げられないようにするための措置である。
 柄田以上の勤勉さを持つ奥村であれば、それ相応の処罰が下されるよう取り計らってくれるだろう。

「では、私は引き続き隊務がありますので、これにて失礼致します」

 奥村はそう言うと、夫婦にもう一度頭を下げて病室を後にした。
 奥村が去ってから数秒置いて、音音が言う。

「奥村様は、真摯なお方ですね」
「昔気質な男でね、優秀で人望もある。まったく、綾城と奥村で、どうしてこうも明暗が分かれてしまったかな」
「奥村様もみや様の部下の方なのですか?」
「まあね。綾城も奥村も、私が登用した直属の部下だよ」
「左様でございましたか」

 音音はそれを聞くと、夫の昔の仕事にこれ以上深入りはすまいと、遠慮した。
 しばらく黙り込んでいると、三八がおもむろに口を開く。

「……すまなかった、音音」
「なにがですか?」
「私と綾城の確執に、なんの関係もない君を巻き込んでしまった」

 綾城が暴走した原因はほとんどが言いがかりであったにしろ、三八が原因の一端であることには違いない。本来は三八のみが受けるべき彼女の怨恨だ、なればこそ、三八は拷問に抵抗できたにもかかわらず、抵抗しなかったのである。
 ――ただ、無関係な音音を人質という形で巻き込んだから、彼女を制裁しただけであって。

「恨みなどございません。みや様のおかげで、わたくしは無事でしたから」
「だが、あんなことをされて怖かっただろう?」
「それは……さすがにそうですけども」

 別に、音音に三八を非難する理由はない。確かにとばっちりであったかもしれないが、彼は何も悪くないのだ。綾城が口にしていた『結婚を拒まれた』だの『弟子に手柄を取られた』だの、それらは三八が非難されるべき事柄ではない。
 音音は固く信じているからこそ、三八に対する怒りは微塵もわかなかった。
 ――しかし。

「ひとつ、聞いてもよろしいでしょうか」
「なんだい?」
「どうしてみや様は、綾城様とのご結婚を拒まれたのですか? 昔は真面目で優秀なお方だったのでしょう?」

 結婚を拒むとはどういうことだろうか、ということにおいては、音音も気にならないではなかった。
 帝国司書隊の中枢を支える八田家の子息の結婚事情である――家同士の縁結びという機能も庶民間の形式的なものではなく、その意味合いだってことさらに強い。
 家長たちが決めた結婚を拒む権利など、子にはほとんど認められていないようなものなのに、なぜ三八は部下に登用するほど認めていた綾城を拒んだのだろうか?
 問われた三八は「ああ、それ」と言って答える。

「彼女だけじゃないよ。私は幾人もの女性と婚約を結ばされて、その全てを拒んだ。結婚なんてできるわけないのにさ」

 三八は自嘲気味に言う。

「君も知っているだろう。私が、少なからず女性に抵抗感を持っていること。……本気で愛した君さえ抱けないこと」
「あ……」

 音音は、その言葉で察した。
 そしてその察しの通りに、三八はぽつぽつと語り出した。

「子はまだかだの、早く跡継ぎを産ませろだの、男を産ませろだのと、周りから散々言われてね。私と婚約を結んだ女性たちも、私の家との縁を繋ぐために必死だった。綾城もきっと、他の女性以上に苦労していたんだ。彼女は生まれた家の期待を背負っていたからね」

 三八は語るうちに思い出してしまったのか、口を手で覆った。深呼吸して息を整えて、またゆっくりと語り出す。

「彼女から子を産ませてくれとせがまれて、私は恐ろしくなったんだ。怖くてたまらなくて、それで吐いた」

 音音は、数分前の自身の浅慮を恥じた。名家の婚姻事情、跡継ぎ、三八の心の痛手――少し考えれば、察しがついたことではないか。

「……申し訳ありません。嫌なことを思い出させてしまいました」
「君が謝ることじゃない。それに、もう終わったことだ。……もう、終わったのだから」

 三八は自分にも言い聞かせるように目を伏せると、綾城に刻まれた傷跡を撫でた。深く傷ついたその肌に、音音もまた手を添える。

「……先に言っておくけれど」

 音音が思考しようとするよりほんの一瞬だけ、三八のほうが先に口を開いた。

「君を娶ると決めたのは、子を産めないからではないよ。音音」

 音音は驚く。その寸分たがわぬ精度の洞察力に驚く。
 三八が先制して言った言葉は、少しの狂いもない――音音がまさに思い浮かべた言葉への返答だったからだ。『産めない体で良かった。そうでなければ、彼と夫婦になれなかったかもしれない』――という心の中で吐いた台詞への。

「確かに、君が子を成せないからこそ、私も余計な気負いをしなくてよかったという事実はある。でも、だから君を娶れたというわけじゃない。君なら、大丈夫だと思ったんだ」

 三八は柔らかく微笑んだ。作らないような、自然な動作で微笑んだ。

「私は君に出会うまで、恋も愛も信じていなかった。どれだけ多くの恋愛譚に触れても、誰かの恋を見届けても、信じることができなかった。自分には一生縁のない感情なのだろうと、おとぎ話を見る気分で憧れるだけ憧れて」

 恋愛の果ての結婚なんて都合のいい話は、現実にありえない。結婚することも、子をもうけることも、所詮は家同士の縁を繋ぎ、血統を残すための手段──そう思っていた。

「でも、君は今まで見てきた女性と違って、安心できたんだ。私に好きだと伝えてくれる度に、必ず返答を待ってくれた。強引に関係を迫るなんてことは、一度もしなかった。自分の気持ちだけでなく、私のことも尊重してくれただろう」

 恋愛は一方的な感情の爆発で、人を傷をつけうる凶器である。
 ……などと悟った気になっていた彼は、音音に教えられたのだ。穏やかに愛され、尊重されることが、どれほど幸せなのかを。

「君といることが、とても心地いいことだと分かったんだよ。だから、君を受け入れようと決めたんだ」

 なんの混じり気もない愛が、一個人を尊ぶ愛が、どれだけ救いになったことか。
 世間から彼女を匿うための偽装として築いた七本夫妻はいつしか、愛に満ちた真のおしどり夫婦となった。
 三八は自身の傷に添えられた音音の手を取って、それを優しく包んだ。

「すまない、音音。こんな不出来な夫ですまない。巻き込んでしまって、本当にすまない」

 目をきつく瞑り、三八が詫びる。すると、音音は微笑んだ。

「貴方をすべて受け入れて、貴方と同じ道を歩くと決めたのは、このわたくしです。ですから、謝らないでくださいまし」

 三八の手にそっと頬を寄せながら──悲しそうに微笑んだ。

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