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九月『子猫の嫁さがし』
その五
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空の色が茜から藍に変わった時。三八の結界の効力は切れた。限界である。
店の番が三八から柄田と双子に入れ替わろうというその一瞬を狙っていたかのように、彼は現れた。
――泥の匂い。
そして、くるる、という小さな唸り声。
「いかん!」
気配を感じとった三八が周囲に警告した時には、既に遅かった。
柄田が腰に括りつけていた禁書を取り出すのも間に合わない。
柔術使いとしての本能で反射的に構えた双子でも、その速さにはかなわなかった。
ぱきん
――という、ごくごく薄い硝子がいとも容易くへし折られるような音を皮切りにして、
「にゃぁお、にゃぁぁお」
と、ひときわ大きな鳴き声がしきりに建物中に響く。
巨体の三毛猫が玄関の扉を頭突きで突き破り、ようやっと構えに入った前の三人を吹き飛ばさん勢いで飛び込んできた。
「にゃぁお、にゃぁお!」
サカリのついた獰猛な三毛猫の鳴き声に、なんと寝室にいる音音が返事をした。
「にゃぁお、にゃぁあお」
「にゃぁお、にゃぁお!」
一匹の猫と一人の娘が呼応しあう。
音音は三毛猫を絶えず呼んでいた。
ここよ、ここにいるの! と叫ぶように、三毛猫を呼び求めていた。
三毛猫は尻をぐんっと突き上げた。
「退け、七本!」
巨体に突き飛ばされた柄田が呻きながら三八に叫ぶが、しかし三八は退かない。退けない。この先には、音音がいるのだ。
「『糜爛の処女』!!」
だから、この狭い空間に【毒】を最大限に伸ばし、猫を漁網のように引っ掛けて捕らえようとした。ここまで来たらなりふり構っていられない。猫に必要以上に怪我をさせるかもしれないが、死にはしまいと三八はその技をやむなく発動した。
――のだが。
「なっ――!?」
巨体の猫は、あろうことか小さな網目をすり抜けたのである。
巨体の猫から、小柄な猫に姿を変えて、多少のかすり傷は覚悟して、網目をギリギリのところでくぐって突破したのだ。
弾丸のような速さで三八の関門を突破し、再び巨体に戻った猫は、誰も守る者がいなくなった寝室の襖をまっすぐに突き破った。
「音音、逃げろ!!」
猫は三八がそう言い切る前に、あっという間に中にいた音音の首根っこを咥えて、またしても頭突きで寝室の障子をぶち破って逃げる。
「待て!!」
三八はそれでも、黒い蛇たちに命じて猫を捕えようとする。三八の影に寄生することのできる黒い蛇は、闇の濃くなったこの夜では有利だ。三八は呼べる限り黒い蛇を呼んで、宙へ舞った猫に向かって黒い蛇を自由自在な触手のように伸ばした。
しかし、また――猫は姿を変えた。
満月の浮かぶ宙にいたのは、唯助や世助より少し年上で、柄田よりは年下に見える青年であった。
頭の上にはちぎれた三角の柔らかそうな物体。着物は白地に金の刺繍。ちぎれて短くなった尻尾と、右の金眼に左の隻眼。
「貴様……っ!」
三八は足の下から蛇を呼び出す。蛇は三八の体を青年のもとへ押し上げた。
「へえ、人間のくせにやるじゃん」
青年は蔑むように一瞥すると、音音を抱えたまま、前にいる三八に向かって蹴りを突き出す。
人一人を腕に抱えているとは思えない威力の蹴りを、三八は『糜爛の処女』の本体で受け止める。
元々武術の心得のない三八はいとも容易くよろめくが、黒い蛇を呼んで無理やりに体を起こして立て直す。
「我が妻を返せ」
日中結界を張り続けていた彼はすでに激しく消耗している。息つく暇もないのに禁書を使い続けることができているのは、否、息つく暇さえ許さず禁書を使っているのは、彼の執念が無理やり彼をそうさせていたのだ。
青年はその執念を蔑む。
「妻? この子はお前の妻じゃない、お前が無理やりこの子を侍らせていたんだ」
言いがかりである。
三八は彼女を無理やり侍らせた覚えはない。音音に望まれたから、妻にしたのである。突然現れて妻を奪おうとする泥棒猫から謗りを受けるいわれはない。
「ふざけるな! その子は小生の――」
――妻だ。
確かに、そうだ。そのはずなのだ。
しかし、三八は主張することをやめた。
止めてしまった。
「………」
青年の腕に抱えられた音音が、三八を睨んでいた。憎しみを込めて、睨んでいた。
心の底から愛して慈しんでいた妻は、怒りを通り越した――憎悪に満ち満ちた目を三八に向けていた。
「おと、ね?」
「……」
音音は返事すらしない。ふいっと目を背けて、青年の腕の中に収まった。青年の首に腕を回したりなどして、三八を視界に入れまいと拒んでいた。
見慣れた音音の笑顔は、そこになかった。
「ほら見ろ、ずっと酷いことをし続けてきた報いだ。性根の腐った穢らわしい人間風情が」
青年の謗りはもう三八には届いていなかった。音音の無言の拒絶が与えた衝撃が、あまりにも大きすぎたのだ。
落ち込み方さえ冗談ばかりの三八であるが、大袈裟すぎて冗談のようにしか見えない泣き方でも、三八はその時既に精神的に深手だったのである。
たった今、そこへトドメを刺されたのだ。
「この子は僕のお嫁さんになるんだ。お前みたいな悪党に、おとねを渡すもんか」
「……よ、め」
三八の声は、既に覇気もなくなっていた。
執念が消えてしまった今、満身創痍の彼を支えるものは、何一つない。柱の折れた建物はただ物理的な法則に従うまま崩れていくだけだ。
青年は最後に、三八をもう一度蹴り落とした。三八は蹴り落とされるままに墜落した。足掻きも藻掻きもせず、絶望の叫びをあげることもなく、ただ物理的な法則に従って、上空数メートル地点から――墜落した。
「旦那ぁッ!」
破壊された七本屋の建物から、唯助は飛び出した。音音を連れ去るもう一つの影より、唯助は満月を上から下へまっすぐ垂直に横切っていく人影を見ながら、駆け出した。なんの抵抗も見せずただ墜落する三八が、そのまま落下死するのではないかと肝を冷やしたのである。
唯助は間一髪で三八の落下地点へ滑り込み、その体を受け止めた。細身とはいえ、重力と引力が加わった人間の体は重い。受け止めた瞬間に、唯助は一緒に地面に潰れた。
「っ、旦那! 旦那、大丈夫ですか!?」
体に走る痛みよりも、唯助は三八を優先した。唯助の奮闘の甲斐あって、三八は無傷であった。
「旦那? どうしたんですか?」
しかし、三八は唯助の呼びかけに反応しない。無傷だから、痛がるという生理的な反応さえしない。
ただ、固まっていた。前髪のせいで目の色も伺えないから、呼吸すら止まったのではないかと錯覚しそうになるほど、見事に固まっていた。
「七本、早く追うぞ! このままでは音音殿が――」
柄田も三八の異変に気づく。嫁を連れ去られているのに、立ち上がろうとすらしない三八を、それだけで異常と判断した。
「その様子じゃ、駄目だったみたいねぇ」
停止した三八に緊迫する中、空気を読まない間の抜けた女の声がした。戦況をただ見守るばかりであった、紫蔓である。
「貴様、こいつに従っているなら緊急事態くらい加勢せんか!」
「無茶言わないでよ。私は本来、荒事に向かない禁書なのよ」
紫蔓は柄田にそう返すと、停止した三八を見て呼びかけた。
「追わないの? このままじゃ、あんたの嫁が他人の嫁になるわよ」
「……」
「おーい、聞こえてるー?」
「……」
「駄目ね。これ重傷だわ」
「おい、嘘だろ!?」
禁書の【毒】を前にして、主戦力の片翼である三八が折れるという異常事態を言い渡される。それは敗北宣言にも等しいものであった。
「おい、おっさん! 姉御はあんたの嫁だろ! 嫁を目の前で攫われてんのになにぼーっとしてんだよ!?」
世助が半分怒り気味に肩を掴んで揺さぶるが、三八の体は揺さぶられるままだった。まっすぐ正面を向こうという気力さえないようで、首がぐらぐらと揺れて固定されない。
それはさながら人の形をしただけの物体、命のない人形とも言える虚しい姿。
――三八は、完全に心を砕かれていた。
*****
棚葉町のどこかにある、人間には通れないほど細く曲がりくねった路地のその先。
――人間の姿をした猫の青年は、音音を抱えたまま屋根をひょいひょいと飛び越え、その入り組んだ路地の先に繋がる『猫たちの広場』に、屋根の上から飛び込んだ。
「ここならあいつらは追って来れない、もう大丈夫だよ」
青年は音音に優しく声をかける。
飛び降りたその先には、まるで浮世絵にでも出てきそうな、異様な光景が広がっていた。
「猫若さまだ!」
「猫若さまだぞ!」
「可愛い雌猫を連れてきてる!」
「なんだ、なんだ! もしかしてか!」
野良猫たちが、喋っている。
少年少女に、野郎に娘に、爺に婆に、野良猫たちがみな各々人の姿に化け、猫の耳を生やしている。
青年はその中で格上なのか、野良猫たちが猫若様などと呼んでちやほや持て囃していた。
「みんな、聞いてくれ! 僕のお嫁さんが見つかったぞ!」
青年が誇らしげに叫ぶと、周りの野良猫たちがわらわらと寄ってきて音音を覗き込んだ。
「おお、見ろよ! おとねさんじゃないか!」
「あ、いっつも撫でてくれるお姉さんだ!」
「すごいじゃないか、おとねさんを嫁にするなんて!」
「ああ、うらやましい! うらやましい!」
「祝言じゃ! 祝言じゃ!」
野良猫たちは音音の登場に湧きながら、塗炭や木箱を並べたり、欠けた茶碗にじょうろで水を注いだり、ガラクタを集めて何かを作り始めていた。
「あ、あの……皆さんは何を?」
音音が青年に尋ねると、青年はにっこりと笑って答えた。
「みんなが僕たちのために式場を作ってくれてるんだよ。ほら」
青年が音音の目を手でそっと隠し、そして退ける。音音は再び見たその光景に驚愕し、感嘆した。
「わあ……!」
薄暗い路地であったはずのそこには、豪華絢爛な『式場』が広がっていた。
立てられた塗炭は黄金の豪奢な屏風になり、木箱や茶碗やじょうろは漆塗りの立派な屠蘇器になり、野良猫たちはみな紋付に着替え、面をつけて舞を舞っていた。
「猫若さま、おめでとう! おとねさま、おめでとう!」
「ばんざーい! ばんざーい!」
野良猫たちがみな、青年と音音を祝福していた。
戸惑いも落ち着いてきた音音は、ようやく状況を飲み込み始める。
なんだかとても展開が早いような気はするが、今から自分とこの青年の祝言が始まろうとしているらしい。
――そう、あの酷い男のもとから自分を連れ出してくれた、この麗しい青年と、結ばれるのだ。
「その姿、とっても似合ってる」
「え? あ、あれ? いつの間に」
式場が現れたのと同時に、音音もまた姿を変えていた。
着物はいつの間にか、純白の絹糸で織られた花嫁衣裳に変わっていた。飾られていた鏡に映り込むその姿を見れば、音音は真っ白なその肌に玉虫色の紅を引き、目尻にもほんのりと頬紅を指し、豊かな黒髪を流して綿帽子を被っていた。
――そういえば、あの男は自身を娶っておきながら、祝言さえ挙げてくれなかったと音音はふと思い出す。
初めて見る花嫁姿に、音音は自惚れていた。
「綺麗だよ、おとね。本当に綺麗だ」
青年の方を見れば、青年も白い着流しから黒の紋付袴に着替えていた。
「へへ、ちょっと似合わないかな。僕は喧嘩ばっかりしてた荒くれ者だったから、こういうのはなんだか慣れないや」
照れくさそうに、柔らかく微笑むその目尻が愛おしい。
音音はすかさず言った。
「そんなことありませんわ。貴方も似合っておりますよ。……ええと」
「あ、ごめん……僕は名前がなくて。生まれた時から野良猫だから、特に名前はつけられてないんだ。みんなからは猫若さまって呼ばれてる」
「まあ、そうなのね。じゃあ、猫若さま」
音音は青年に向き直ると、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。わたくしを、助けてくれて。皆さんもありがとうございます。わたくしのために、こんなに素敵な式を用意してくださって」
喜びと感謝を伝える音音に、青年は
「礼を言うのは僕たちのほうだよ、おとね」
と返す。
「君は僕たちを撫でてくれたり、たまにご飯を分けてくれたり、喧嘩して怪我をした僕を手当してくれたり……嬉しかったんだ。こんなに優しい人に出会えたんだもの。だから、みんなで話し合って決めたんだ。君をあの意地悪な男のもとから助けようって」
青年は音音の頬に手を添えて、指ですりすりと撫でる。音音はそのこそばゆさに目を細めるが、しかしそれは決して不快ではなかった。
「おとね。僕は君が大好きだよ。……君はどう?」
ふわりと微笑む青年に心を奪われながら、音音は迷わずそれを口にしようとした。
――その時だった。
ガシャン!!
と、幸せな空気を一瞬にして地獄に塗り変えるかのように、硝子を乱暴に殴り割るような音が周囲に響き渡った。
「なんだ!?」
野良猫たちがにゃあにゃあと鳴きながら慌てふためく。青年も油断していた。
まさか、こんな閉じた空間に――【夢】の空間に、人間が入ってくるなど、そんな出鱈目な展開など、想定していなかったのである。
そして、禁書の【夢】の空間に穴を開けて入ってくる来るなどという出鱈目をやらかした人物の声が、狭い路地に響いた。
「人様の嫁を攫って祝言を挙げようなんざ、いい根性してやがるな。ええ? この泥棒猫」
ざりっ、ざりっ、と踏みしめるような草履の足音と共に現れたのは、背丈も形もまったく同じな、二つの人影。
「道場破りならぬ祝言破りってな。――姐さんを返してもらうぞ!」
瓜二つの茶髪をした、猫の耳も生えていない――人間の少年たちであった。
店の番が三八から柄田と双子に入れ替わろうというその一瞬を狙っていたかのように、彼は現れた。
――泥の匂い。
そして、くるる、という小さな唸り声。
「いかん!」
気配を感じとった三八が周囲に警告した時には、既に遅かった。
柄田が腰に括りつけていた禁書を取り出すのも間に合わない。
柔術使いとしての本能で反射的に構えた双子でも、その速さにはかなわなかった。
ぱきん
――という、ごくごく薄い硝子がいとも容易くへし折られるような音を皮切りにして、
「にゃぁお、にゃぁぁお」
と、ひときわ大きな鳴き声がしきりに建物中に響く。
巨体の三毛猫が玄関の扉を頭突きで突き破り、ようやっと構えに入った前の三人を吹き飛ばさん勢いで飛び込んできた。
「にゃぁお、にゃぁお!」
サカリのついた獰猛な三毛猫の鳴き声に、なんと寝室にいる音音が返事をした。
「にゃぁお、にゃぁあお」
「にゃぁお、にゃぁお!」
一匹の猫と一人の娘が呼応しあう。
音音は三毛猫を絶えず呼んでいた。
ここよ、ここにいるの! と叫ぶように、三毛猫を呼び求めていた。
三毛猫は尻をぐんっと突き上げた。
「退け、七本!」
巨体に突き飛ばされた柄田が呻きながら三八に叫ぶが、しかし三八は退かない。退けない。この先には、音音がいるのだ。
「『糜爛の処女』!!」
だから、この狭い空間に【毒】を最大限に伸ばし、猫を漁網のように引っ掛けて捕らえようとした。ここまで来たらなりふり構っていられない。猫に必要以上に怪我をさせるかもしれないが、死にはしまいと三八はその技をやむなく発動した。
――のだが。
「なっ――!?」
巨体の猫は、あろうことか小さな網目をすり抜けたのである。
巨体の猫から、小柄な猫に姿を変えて、多少のかすり傷は覚悟して、網目をギリギリのところでくぐって突破したのだ。
弾丸のような速さで三八の関門を突破し、再び巨体に戻った猫は、誰も守る者がいなくなった寝室の襖をまっすぐに突き破った。
「音音、逃げろ!!」
猫は三八がそう言い切る前に、あっという間に中にいた音音の首根っこを咥えて、またしても頭突きで寝室の障子をぶち破って逃げる。
「待て!!」
三八はそれでも、黒い蛇たちに命じて猫を捕えようとする。三八の影に寄生することのできる黒い蛇は、闇の濃くなったこの夜では有利だ。三八は呼べる限り黒い蛇を呼んで、宙へ舞った猫に向かって黒い蛇を自由自在な触手のように伸ばした。
しかし、また――猫は姿を変えた。
満月の浮かぶ宙にいたのは、唯助や世助より少し年上で、柄田よりは年下に見える青年であった。
頭の上にはちぎれた三角の柔らかそうな物体。着物は白地に金の刺繍。ちぎれて短くなった尻尾と、右の金眼に左の隻眼。
「貴様……っ!」
三八は足の下から蛇を呼び出す。蛇は三八の体を青年のもとへ押し上げた。
「へえ、人間のくせにやるじゃん」
青年は蔑むように一瞥すると、音音を抱えたまま、前にいる三八に向かって蹴りを突き出す。
人一人を腕に抱えているとは思えない威力の蹴りを、三八は『糜爛の処女』の本体で受け止める。
元々武術の心得のない三八はいとも容易くよろめくが、黒い蛇を呼んで無理やりに体を起こして立て直す。
「我が妻を返せ」
日中結界を張り続けていた彼はすでに激しく消耗している。息つく暇もないのに禁書を使い続けることができているのは、否、息つく暇さえ許さず禁書を使っているのは、彼の執念が無理やり彼をそうさせていたのだ。
青年はその執念を蔑む。
「妻? この子はお前の妻じゃない、お前が無理やりこの子を侍らせていたんだ」
言いがかりである。
三八は彼女を無理やり侍らせた覚えはない。音音に望まれたから、妻にしたのである。突然現れて妻を奪おうとする泥棒猫から謗りを受けるいわれはない。
「ふざけるな! その子は小生の――」
――妻だ。
確かに、そうだ。そのはずなのだ。
しかし、三八は主張することをやめた。
止めてしまった。
「………」
青年の腕に抱えられた音音が、三八を睨んでいた。憎しみを込めて、睨んでいた。
心の底から愛して慈しんでいた妻は、怒りを通り越した――憎悪に満ち満ちた目を三八に向けていた。
「おと、ね?」
「……」
音音は返事すらしない。ふいっと目を背けて、青年の腕の中に収まった。青年の首に腕を回したりなどして、三八を視界に入れまいと拒んでいた。
見慣れた音音の笑顔は、そこになかった。
「ほら見ろ、ずっと酷いことをし続けてきた報いだ。性根の腐った穢らわしい人間風情が」
青年の謗りはもう三八には届いていなかった。音音の無言の拒絶が与えた衝撃が、あまりにも大きすぎたのだ。
落ち込み方さえ冗談ばかりの三八であるが、大袈裟すぎて冗談のようにしか見えない泣き方でも、三八はその時既に精神的に深手だったのである。
たった今、そこへトドメを刺されたのだ。
「この子は僕のお嫁さんになるんだ。お前みたいな悪党に、おとねを渡すもんか」
「……よ、め」
三八の声は、既に覇気もなくなっていた。
執念が消えてしまった今、満身創痍の彼を支えるものは、何一つない。柱の折れた建物はただ物理的な法則に従うまま崩れていくだけだ。
青年は最後に、三八をもう一度蹴り落とした。三八は蹴り落とされるままに墜落した。足掻きも藻掻きもせず、絶望の叫びをあげることもなく、ただ物理的な法則に従って、上空数メートル地点から――墜落した。
「旦那ぁッ!」
破壊された七本屋の建物から、唯助は飛び出した。音音を連れ去るもう一つの影より、唯助は満月を上から下へまっすぐ垂直に横切っていく人影を見ながら、駆け出した。なんの抵抗も見せずただ墜落する三八が、そのまま落下死するのではないかと肝を冷やしたのである。
唯助は間一髪で三八の落下地点へ滑り込み、その体を受け止めた。細身とはいえ、重力と引力が加わった人間の体は重い。受け止めた瞬間に、唯助は一緒に地面に潰れた。
「っ、旦那! 旦那、大丈夫ですか!?」
体に走る痛みよりも、唯助は三八を優先した。唯助の奮闘の甲斐あって、三八は無傷であった。
「旦那? どうしたんですか?」
しかし、三八は唯助の呼びかけに反応しない。無傷だから、痛がるという生理的な反応さえしない。
ただ、固まっていた。前髪のせいで目の色も伺えないから、呼吸すら止まったのではないかと錯覚しそうになるほど、見事に固まっていた。
「七本、早く追うぞ! このままでは音音殿が――」
柄田も三八の異変に気づく。嫁を連れ去られているのに、立ち上がろうとすらしない三八を、それだけで異常と判断した。
「その様子じゃ、駄目だったみたいねぇ」
停止した三八に緊迫する中、空気を読まない間の抜けた女の声がした。戦況をただ見守るばかりであった、紫蔓である。
「貴様、こいつに従っているなら緊急事態くらい加勢せんか!」
「無茶言わないでよ。私は本来、荒事に向かない禁書なのよ」
紫蔓は柄田にそう返すと、停止した三八を見て呼びかけた。
「追わないの? このままじゃ、あんたの嫁が他人の嫁になるわよ」
「……」
「おーい、聞こえてるー?」
「……」
「駄目ね。これ重傷だわ」
「おい、嘘だろ!?」
禁書の【毒】を前にして、主戦力の片翼である三八が折れるという異常事態を言い渡される。それは敗北宣言にも等しいものであった。
「おい、おっさん! 姉御はあんたの嫁だろ! 嫁を目の前で攫われてんのになにぼーっとしてんだよ!?」
世助が半分怒り気味に肩を掴んで揺さぶるが、三八の体は揺さぶられるままだった。まっすぐ正面を向こうという気力さえないようで、首がぐらぐらと揺れて固定されない。
それはさながら人の形をしただけの物体、命のない人形とも言える虚しい姿。
――三八は、完全に心を砕かれていた。
*****
棚葉町のどこかにある、人間には通れないほど細く曲がりくねった路地のその先。
――人間の姿をした猫の青年は、音音を抱えたまま屋根をひょいひょいと飛び越え、その入り組んだ路地の先に繋がる『猫たちの広場』に、屋根の上から飛び込んだ。
「ここならあいつらは追って来れない、もう大丈夫だよ」
青年は音音に優しく声をかける。
飛び降りたその先には、まるで浮世絵にでも出てきそうな、異様な光景が広がっていた。
「猫若さまだ!」
「猫若さまだぞ!」
「可愛い雌猫を連れてきてる!」
「なんだ、なんだ! もしかしてか!」
野良猫たちが、喋っている。
少年少女に、野郎に娘に、爺に婆に、野良猫たちがみな各々人の姿に化け、猫の耳を生やしている。
青年はその中で格上なのか、野良猫たちが猫若様などと呼んでちやほや持て囃していた。
「みんな、聞いてくれ! 僕のお嫁さんが見つかったぞ!」
青年が誇らしげに叫ぶと、周りの野良猫たちがわらわらと寄ってきて音音を覗き込んだ。
「おお、見ろよ! おとねさんじゃないか!」
「あ、いっつも撫でてくれるお姉さんだ!」
「すごいじゃないか、おとねさんを嫁にするなんて!」
「ああ、うらやましい! うらやましい!」
「祝言じゃ! 祝言じゃ!」
野良猫たちは音音の登場に湧きながら、塗炭や木箱を並べたり、欠けた茶碗にじょうろで水を注いだり、ガラクタを集めて何かを作り始めていた。
「あ、あの……皆さんは何を?」
音音が青年に尋ねると、青年はにっこりと笑って答えた。
「みんなが僕たちのために式場を作ってくれてるんだよ。ほら」
青年が音音の目を手でそっと隠し、そして退ける。音音は再び見たその光景に驚愕し、感嘆した。
「わあ……!」
薄暗い路地であったはずのそこには、豪華絢爛な『式場』が広がっていた。
立てられた塗炭は黄金の豪奢な屏風になり、木箱や茶碗やじょうろは漆塗りの立派な屠蘇器になり、野良猫たちはみな紋付に着替え、面をつけて舞を舞っていた。
「猫若さま、おめでとう! おとねさま、おめでとう!」
「ばんざーい! ばんざーい!」
野良猫たちがみな、青年と音音を祝福していた。
戸惑いも落ち着いてきた音音は、ようやく状況を飲み込み始める。
なんだかとても展開が早いような気はするが、今から自分とこの青年の祝言が始まろうとしているらしい。
――そう、あの酷い男のもとから自分を連れ出してくれた、この麗しい青年と、結ばれるのだ。
「その姿、とっても似合ってる」
「え? あ、あれ? いつの間に」
式場が現れたのと同時に、音音もまた姿を変えていた。
着物はいつの間にか、純白の絹糸で織られた花嫁衣裳に変わっていた。飾られていた鏡に映り込むその姿を見れば、音音は真っ白なその肌に玉虫色の紅を引き、目尻にもほんのりと頬紅を指し、豊かな黒髪を流して綿帽子を被っていた。
――そういえば、あの男は自身を娶っておきながら、祝言さえ挙げてくれなかったと音音はふと思い出す。
初めて見る花嫁姿に、音音は自惚れていた。
「綺麗だよ、おとね。本当に綺麗だ」
青年の方を見れば、青年も白い着流しから黒の紋付袴に着替えていた。
「へへ、ちょっと似合わないかな。僕は喧嘩ばっかりしてた荒くれ者だったから、こういうのはなんだか慣れないや」
照れくさそうに、柔らかく微笑むその目尻が愛おしい。
音音はすかさず言った。
「そんなことありませんわ。貴方も似合っておりますよ。……ええと」
「あ、ごめん……僕は名前がなくて。生まれた時から野良猫だから、特に名前はつけられてないんだ。みんなからは猫若さまって呼ばれてる」
「まあ、そうなのね。じゃあ、猫若さま」
音音は青年に向き直ると、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。わたくしを、助けてくれて。皆さんもありがとうございます。わたくしのために、こんなに素敵な式を用意してくださって」
喜びと感謝を伝える音音に、青年は
「礼を言うのは僕たちのほうだよ、おとね」
と返す。
「君は僕たちを撫でてくれたり、たまにご飯を分けてくれたり、喧嘩して怪我をした僕を手当してくれたり……嬉しかったんだ。こんなに優しい人に出会えたんだもの。だから、みんなで話し合って決めたんだ。君をあの意地悪な男のもとから助けようって」
青年は音音の頬に手を添えて、指ですりすりと撫でる。音音はそのこそばゆさに目を細めるが、しかしそれは決して不快ではなかった。
「おとね。僕は君が大好きだよ。……君はどう?」
ふわりと微笑む青年に心を奪われながら、音音は迷わずそれを口にしようとした。
――その時だった。
ガシャン!!
と、幸せな空気を一瞬にして地獄に塗り変えるかのように、硝子を乱暴に殴り割るような音が周囲に響き渡った。
「なんだ!?」
野良猫たちがにゃあにゃあと鳴きながら慌てふためく。青年も油断していた。
まさか、こんな閉じた空間に――【夢】の空間に、人間が入ってくるなど、そんな出鱈目な展開など、想定していなかったのである。
そして、禁書の【夢】の空間に穴を開けて入ってくる来るなどという出鱈目をやらかした人物の声が、狭い路地に響いた。
「人様の嫁を攫って祝言を挙げようなんざ、いい根性してやがるな。ええ? この泥棒猫」
ざりっ、ざりっ、と踏みしめるような草履の足音と共に現れたのは、背丈も形もまったく同じな、二つの人影。
「道場破りならぬ祝言破りってな。――姐さんを返してもらうぞ!」
瓜二つの茶髪をした、猫の耳も生えていない――人間の少年たちであった。
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