芙蓉の宴

蒲公英

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戻り霜の降りる枝 7

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 待ち合わせた駅の改札口に立つ彼女の姿は、清々しかった。白っぽいコートや足に張り付いたデニムパンツが、彼女はまだ若いと証明しているようだ。梅林に向かうバス停への彼女の足取りは、記憶よりもずいぶん力強い。あのころの彼女は本当に疲れていたのだと、改めて思う。若い女がまだ体力を残した年齢の人間を介護するのは、どれほど大変だったことか。そして自分を振り返れば、妻に寄りかかって好き勝手していたことが悔やまれる。もっと早くに、妻を開放すべきだった。
 梅林の入り口で入園料を払えば、中は白と紅のグラデーションだった。
「もしかしたら、ちょうど満開に当たったのかしら。良い香りがしますね」
「蝋梅は終わりかけだね。順路通りに回ってみよう」
 ゴツゴツした幹から延びるすべらかな枝の先々に、可憐な花が咲く。風が冷たいが、一重も八重も白も薄紅も、青い空の下で凛と花を開いている。
「寒くありませんか」
 手を揉む彼女の仕草が気になって、質問した。
「こう見えて、とても厚着しているんです。先生は寒いですか」
「寒くはありませんけど、普段の運動不足が出ますね。もう足がだるい」
 彼女は笑って、ベンチを指差した。
「座っていてください。売店でお茶を買ってきます」
 売店に向かって歩く彼女の後ろ姿を眺め、コートに隠れた尻の動きを想像した。きびきびと動く足に従って、逞しく存在を主張しているだろう。いや、こんなことを考えてはいけない。彼女はきっと、これから幸福を掴みに行く人だ。私のような人間が邪魔をしてはいけない。
 彼女に会うことで、私は何がしたいのだろう。両手にお茶の缶を持って歩いてくる笑顔を、ぼんやりと見ていた。あんなに疲れていた人が、健康そうに笑っている。それを確認できただけでも良いではないかと、自分を無理矢理納得させる。
 では、彼女は何故私に会いに来てくれたのだろうか。一度肌を合わせると、気心が知れた気になる。だから彼女も、私を気の置けない相手だと認識してくれているだけなのかも知れない。

「先生、私ね」
 隣に座ってお茶を一口飲み、彼女は言った。
「私、夫に捨てられたと思っていたんです。でも夫を捨てたのは、私だったのかも知れません。義母を看なきゃって必死になって、夫が何を考えてるのかなんて気にも留めなかった。私ばかりが大変な思いをして、それを顧みない夫に絶望して。弁護士さんに言われました、家に居場所がなかったんでしょうねって。自分を忘れた母親と、それを自分より大切にしているような嫁と。それでも彼が責任を放棄して、いろいろと酷いことをしたことに変わりはないし、実際思いやりなんて欠片もなかったと思いますけど、少しずつ自分の感情がクリアになってきたみたいなんです」
「僕は事情をよく知らないけれど、あのとき必死になっていたあなたは知っている。ほかのことなんて考えられなくて、当然ですよ」
「夫、今は元がつきますけど、最後に会った日からずっと、彼の顔が思い出せなかったんです。それが先日顔を見たら、急に怒りの感情が押し寄せてきたんです。今まではどういうことだったのかと考えるたびに、頭が逃げてしまっていたみたい。怒ることも忘れてた。そしてやっと冷めてきたら、今度はいろいろ考えることが多くて」
 そのときになってはじめて、私は彼女の離婚の経緯を聞いた。姉の噂話は本当に彼女のことで、憶測は大体正解だった。
「僕は、その話を知っていました。姉が持ってきた噂でしかありませんけど、結構広範囲に広がってますね。口さがない人はたくさんいるし、都会ほど人間関係は希薄じゃないから」
「私も家に入るまでは、近所の人の生活になんて興味はありませんでした。だから夫が自分の家に自分で住むって選択をしたことは、気持ち的には理解できるんです。けれど同じように、近所の人たちが感じる気味悪さも理解できる。夫にはそれがわからないし、バタバタと子供を産んだ今の奥さんだって、しばらくは気がつかなかったでしょうね」
 彼女は梅を見上げた。
「理解なんてしなくていいんですよ。やさしい気持ちなんて、抱かなくていい。許せることでないから弁護士を頼んだのだし、それで解決したからって治まらない感情だって、人間なら当然持っているでしょう」
「そうでしょうか」
 なんだか知ったかぶった、年長者くさい言葉になってしまった。本当なら彼女と一緒に怒りたいのだが、私は私の身体の中に、自分の感情を縮小してしまいそうな不安を持っている。

 梅林を一周すると、まだ明るいのに気温が下がってきた。上空で吹いていた風が地上に降りてきたみたいに、強い風が彼女の髪をたなびかせた。そのたびに震える梅の小枝が、まだ新緑の時期は遠いぞと言っている気がする。
「ずいぶん冷えてきた。駅まで戻って、何か食べませんか」
「私、少し調べたのですが、この周辺にはあまり」
「僕もそう思って、駅に車を置いてきてます。移動しながら考えましょう」
 観光場所の駐車場に車を入れるのは難しい、と判断しての選択だった。実際梅林のある場所は、とても静かな地域だ。

 駅へ向かうバスに乗り込み、隣り合わせに座った。
「あら、この奥の地域に温泉があるのですね。いいなあ」
 バスの中に下がっている広告を見て、彼女は言った。それは誘うような口ぶりではなく、ただの話のタネだと思った。
「温泉か、いいですね。休みの日もパソコンの画面を見っぱなしだから、肩こりがとれなくて」
「お休みの日にパソコンを使っているのですか」
「やっぱり何か書きたくてね。結局僕は、文章が好きらしいよ。商業になるならないの問題じゃないみたいだ」
 彼女が何か言いかけて口を開いたとき、唐突に彼女のバッグの中のスマートフォンが鳴った。
「母からです。失礼します」
 そう言ってスマートフォンを耳に当て、一言二言話したあとに出先だからと電話を切った。そして取り繕ったような笑顔を見せる。
「先生、温泉に行きませんか」
 口許だけ笑顔の彼女の顔を、見返した。
「いつか……」
「いえ、今から」
 指した先に、吊るし広告があった。

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