人類サンプルと虐殺学園

田原摩耶

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第二章【祟り蛇と錆びた断頭台】

一人と一羽の逃走劇

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 獄長から逃げていたときはアドレナリン放出していたせいで大分全身の感覚が麻痺していたのだが、時間が経てば経つほど左腕が焼けるような熱を持ち始める。
 鍵の使えそうな場所を探索していた俺だったが、我慢できずに思わず脚を止め、腕を掴んだ。

「伊波様、すごい汗が……」
「さっきまでまだましだったんだけど、ちょっと、キツイな……」

 肘下が焼け落ちそうなほど痛み、滲む汗の玉を掌で拭う。
「見せてください」と神妙な顔をした黒羽が俺の側に飛んできた。
 見るのは怖いが、仕方ない。俺は再生した制服、その上着を脱ぎ、シャツの前を緩めた。左肩部分をそっと下ろし、袖の部分から腕を抜こうとした瞬間痛みが走る。
 案の定、骨が折れているらしいそこは真っ赤に腫れ上がっていた。

「こんなになるまで放っておくとは……何故早く言ってくださらなかったのか」
「う……ごめん、先に逃げなきゃって思って……それに、あんま痛くなかったから……」
「なんて無茶を……」

 黒羽は怒ったような顔をしていたが、心配してくれてるのはよく分かった。「先日私が渡した薬、持ってますか」と尋ねられ、俺は慌てて上着の内ポケットを漁る。
 すると、薬包紙に包まれたいくつかの薬が出てきた。黒羽はその内の一つを嘴で掴み、「これを飲んでください」と俺に差し出した。

「ここまで綺麗に折れている骨を接合させるのには時間を要するだろうが、放置しておくよりましだ。……それと、添え木があれば……」
「……真っ直ぐなやつ、ない、みたいです……」
「いっそのこと、骨を引き摺り出してくるか……」

 渡された粉薬を飲んでいたとき、とんでもないことをさらりと口にする黒羽に思わず噎せ返りそうになる。黒羽ならし兼ねない。

「あー、黒羽さん、俺はもう大丈夫だから! 骨くっつくまで動かないし! ほら、薬飲んだら元気出てきた!」
「伊波様、ですが……」
「俺のことはいいからさ、ほら、そろそろ移動しないと獄吏たちがまた来ちゃうだろ」

 ここに来るまでなんとか獄吏たちと会うことは避けられていたが、それも時間の問題だろう。
 黒羽はまだ納得いかない様子だったが「わかった」と頷いた。

「その腕が完治するまでは無茶な動きはしないように頼むぞ」
「わかった、わかったってば」
「…………」

 この目は疑ってる。
 過保護なんだか、心配性なんだか、嬉しい気持ちは確かだが、黒羽は他のものよりも俺を優先するところがあるから逆に心配になってくる。贅沢な悩みだろうが。
 刺激を与えないため左の袖は通さず、制服の学ランを羽織り直す。
 そして、探索を再開させたときだった。
 奥の通路の方から声が聞こえてくる。
「あっちだ」とか、「たたっ斬れ」とか、そんな物騒な野次に、複数の足音。獄吏たちだろうかと思ったが、そうではない。野蛮な罵声に、重量のある複数の足音、そして、喧騒。

「何かあったのか?」

 そっと覗き込もうとしたところをテミッドに「伊波様」と止められる。そして、テミッド同様黒羽は「道を変えるぞ」と提案した。
 騒ぎに近づくなと言うことだろう。
 獄吏たちではないとしたら、囚人たちしかいない。
 俺は二人に頷き返し、来た道を引き返そうとしたその時だった。
 床が、軋む。地響きにも似たそれに、振り返った俺はそのまま硬直した。
 剥き出しの牙、見開いた獰猛な眼。体毛に覆われた、それでも分かる盛り上がった強靭な肉体。手足に伸びる刃物のように鋭く尖った爪。濃厚な獣の臭いに混じるそれは、血だ。
 俺は、この生き物を知っている。
 ――狼。
 動物図鑑で見たことがある。けれど、俺の知っている狼と決定的に違うところがあった。
 まるで人間のように二足歩行で立った狼は、俺たちを見つけるなり真っ赤な舌を覗かせた。開いたそこからは唾液が垂れる。何も発さない、ただ、唸るそれは間髪入れずに飛びかかってきた。
 あまりの出来事に、俺は反応に遅れる。テミッドに首根っこを捕まれ、慌てて後退させられた。瞬間、壁に突進するその狼男は怯むことなくすぐに体制を立て直し、今度はテミッド目掛けて鉤爪を振り翳す。

「……ッ!!」

 俺よりも小柄なテミッドと狼男の体格差は大きい。
 リーチの長さと巨大な一撃だが、テミッドの身軽さなら避けられただろう。
 けれど、テミッドはそれを避けることよりも俺を背に庇うことを優先させた。

「テミッド!!」

 まともに鉤爪を食らったテミッドの背中が微かに反応する。ぼたぼたと、テミッドの足元に赤黒い血が溢れ出すのを見て、血の気が引いた。
 慌ててテミッドの元へ駆け寄ろうとしたところを、黒羽に引っ張られ「伊波様!」と引っ張られる。

「けど黒羽さん、テミッドが……!!」
「……大丈夫、です、伊波様……」

 え、とその言葉に思わずテミッドを見たとき。確かに目があった。
 乱れた前髪のその下、普段伏し目がちなその緑色の瞳は見開かれ、そして、その薄い唇は釣り上がり、歪な弧を描いた。そこに覗くのは鋭く尖った白い牙。見たことのない表情にゾットするのも束の間、テミッドは狼男の太い腕の上にとんと乗り上げる。
 瞬きをする暇もなかった。狼の顔面、その右目部分に躊躇いもなく膝で蹴りを入れるテミッドに、狼男は悲鳴のように短く吠える。
 赤く充血する目。怯む獣相手にテミッドは躊躇なく開いた顎に手を捩じ込み、そして、思いっきり抉じ開けた。
 本来ならば開かないくらい顎を開かされた狼は悲痛な声をあげる。
 その口内、大きく垂れる舌に尖ったナイフを思いっきり突き立てたテミッドはトドメを刺すかのように下顎を蹴り上げ、無理矢理口を閉じさせた。
 狼男の閉じた口から真っ赤な鮮血が溢れ出す。
 怯む男を思いっきり蹴り飛ばし、その巨体は壁へとのめり込んだ。

「っ、……すげ……」

 見事だった。あまりにも流れるような動作に、俺は目を離すことができなかった。
 完全に気を失っているらしい狼男を見て、テミッドは俺たちに気づいたらしい。そこには先程までとは違う、いつものテミッドがいた。

「……伊波様、大丈夫……?」
「俺は大丈夫だけど、テミッド、さっきの傷は……」
「ぼくは、大丈夫……です、これくらいなら……全然……」

 そうはいうものの、大きく裂けた制服、その腹部は赤黒く変色していた。
 ただでさえ死体のような顔色のその顔が余計青く見え、本当に大丈夫かと聞こうとしたときだ。
 後方で、複数の足音が響いた。
 テミッドと黒羽は、俺を庇うように立つ。

「なんだあ? すげえ音したと思ったら、なんで人間様がここにいるんだよ」

 ぞろぞろと現れた連中は獄吏とは違う。
 到底人間には見えないような様々な種族の者が、そこにはいた。
 そして連中に共通しているのは、明確な『敵意』だろう。
 今の咆哮で近くにいた囚人たちが集まってきたらしい、向けられる無数の目に、俺は、全身から嫌な汗が滲んだ。
 ――逃げなければ。流石のテミッドも、この人数は無理があるだろう。それに、怪我のこともある。
 そう、テミッドに目配せをしようとしたときだった。
 後方から「なんだ?」「何事だ?」と、同様騒ぎを聞きつけたらしい野次馬がやってきた。

「通りでさっきから旨そうな臭いがプンプンするかと思ったら」
「今日はツイてるなぁ、牢は壊れるし、おまけに極上の餌だ」
「肉付きは悪そうなガキだが、太らせるのも悪くないかもしれないな」

 こんなことなら、言葉など理解できない方が良かったのかもしれない。
 自分に向けられるその殺意に似たそれに、震えた。
「貴様ら、言わせておけば」と前に出ようとした黒羽を掴んだテミッドは、黒羽さんを俺に押し付けるように手渡してくる。

「テミッド、お前、もがっ!」
「……あの、黒羽様、今からぼく、あっちに突っ込むんで、隙を狙って逃げてください」
「突っ込むって……」

 まさか、と慌てて止めようとするが、それよりもテミッドの動きの方が早かった。
 テミッドは文字通り突っ込んだ。狼男の亡骸を武器代わりに振り回し、人垣を散らすように薙ぎ倒していく。
 それはほんの一瞬の隙だ、狼狽える暇もなかった。

「伊波様! 走ってください!」

 俺の背中を押すように、黒羽は俺に声を上げる。
 それにハッとして、俺は囚人たちの間を縫って駆けていく。
 テミッドのことも勿論気になるが、今は、逃げるしかなかった。黒羽を抱え、俺は走り抜ける。
 途中振り下ろされる太い腕に捕まれそうになったが、腕から抜け出した黒羽が思いっきり腕に噛み付き、難を逃れた。
 呼吸の仕方がわからなくなるほど、アホみたいに走った。
 腕の痛みすら感じる暇もない、とにかく、ここで、こんな場所で捕まったら本当に食われてしまう。その恐怖だけが俺を突き動かすのだ。


 それから、どれくらい走っただろうか。滝のように流れる汗。既に左肘から下の感覚はなくなっていた。

「……ここまで来れば大丈夫なはずだろう」

 黒羽の声に力が抜け、俺はそのまま床に座り込む。疲労どころではない、息をするのも苦しくて、ぜえぜえと肩で息をする俺に「伊波様」と慌てて黒羽は顔の側まで飛んでくる。

「大丈夫ですか、伊波様……」
「俺は、大丈夫……っけど、テミッドが……」
「あいつのことなら心配いらない。きっと、あいつも上手く切り抜けてるはずだ」

 黒羽はそう言うが、きっと黒羽も思うところがあるのかもしれない。なんとなく、そんな気がした。

「それよりも……厄介なことになったな。せめて、元の姿に戻ることが出来れば……」

 そう、歯がゆそうに口にする黒羽。黒羽が居てくれるだけでも心強いが、確かに今ここに先ほどと同じ数の囚人たちが現れたらと思うと気が気でない。それに、俺はテミッドや黒羽みたいに戦うこともできない。
 急いで黒羽を元に戻す方法を考えなければ。そう思うと、やはり思い浮かぶのはあの黒衣の男だ。
 ――獄長。あの男に直接聞くのが早いと思うが、素直に教えてくれるはずもない。
 押し黙り、考え込んでいると、不意にふわふわとしたものが右手に触れる。
 その柔らかな感触に顔をあげると、黒羽の羽毛が触れていた。

「……黒羽さん」
「……この体は少々不便だが、伊波様はこの命に代えてでも守り抜くと約束します」

 だから、そんな顔をしないで下さい。そう言いたげな黒羽に、俺は抱き抱えた。柔らかくて、温かい。本来の黒羽と比べると確かにかけ離れた今の姿だが、隣に黒羽がいてくれるだけでも俺は十分だった。
 せめて、黒羽に変な心配はさせないようにしなければ。

「……ありがとう、黒羽さん」

 そう、ふわふわの羽毛を撫でたとき、いつもなら少し嫌そうにジタバタしていた黒羽が抵抗しないことに気付いた。
 不思議に思い、「黒羽さん?」と声を掛ければ、黒羽は渋い顔のまま口にする。

「伊波様が不安になるのも分かる。……元はといえば自分の自己責任です。だから、不安が和らぐのであれば好きなだけ、その……触れて下さい」

 そう、羽をぴたっと閉じ、俺の腕の中ぴしっと固まる黒羽に俺は驚き、そして思わず笑いそうになった。

「……ありがとうございます」

 そして俺は黒羽さんの頭を撫で回した。本当は揉みくちゃにしてしまいそうだったけど、そこは我慢した。黒羽がプライドもかなぐり捨てて俺を気遣ってくれるその心遣いだけでも十分、癒やされた。
 黒羽のお陰でなんとか心身ともに回復した俺は、黒羽さんと今後のことを話し合うことにした。
 テミッドは五感が優れているから臭いで追ってくるだろうと黒羽は言った。だから下手にこっちが会いに行くのは避け、一先ず安全な場所を探すのが優先的だと。
 戦力が足りない現状、追手もある中こちらから進むのはそれこそ命を捨てるようなものだ。
 あくまでも保守を優先させるべきだと黒羽は言う。

「……けど、このあたりで身を隠せそうな安全な場所、あるかな……」
「この階層は囚人どもが多くて厄介だ。なんとか盲ましできればいいのだが……」
「うーん……」
「ここにいるとまたやつらが来るかも知れん。一度下の階層に移動しよう」

 そう提案する黒羽に俺は頷いた。
 正直、どこにいても危険には違いないだろう。この地下そのものが牢獄のように思えてしまうのだ。
 俺は黒羽さんとともに下の階層に繋がる道を探した。
 石造りの建物内部はあちらこちらが決壊してる。
 本来ならば厳重に閉じられていたはずの牢屋へ続く扉も壊され、側には獄吏だったものの残骸が落ちていた。
 その側、明らかに他の扉とは違う厳重な扉を見つけた。
 鉄のその扉は他の場所に比べ、傷一つついていない。
 大きな鍵穴が扉の中央に開いており、ドアノブは見当たらない。

「黒羽さん、これって」
「他の扉とは違うようだな」
「あっ、そうだ、さっきの鍵……」

 そう言い掛けたとき、思い出す。
 そういえば、鍵の束はテミッドが持っていたままだ。青褪める俺に、黒羽さんは羽を大きく広げ、どこからか取り出したその鍵の束を脚で掴む。

「これ……!」
「先程、別れ際にテミッドに渡された」
「……テミッド……」
「これを使ってみれば、もしかしたら開くかもしれない」
「じゃあ俺開けるよ」
「しかし、この鍵には呪いがかかっているものも……」
「大丈夫だって、この手袋、本当思ったよりも分厚いみたいだし」

 そう言って、黒羽から鍵の束を預かる。
 黒羽の体では鍵を使うのは大変だろうと思った末の行動だったが、それを言うと黒羽も気を悪くするだろう。俺は敢えて強引に鍵を借りることにした。
 一先ず、他の鍵とは違う大きな鍵を掴む。先程同様刺すような痛みが走るが堪えられないほどでもない、俺はそれを堪え、鍵穴に差し込んだ。
 一本、二本、と鍵を試したときだ。呆気なくその扉は開いた。

「っ、開いた……!」

 スライド式になっている扉は、鍵を認識すると同時に自動的に開いた。そして、目の前に広がる景色に俺は息を飲む。
 そこにあったのは、先程俺たちが通ってきた道よりもまあ小綺麗な通路だった。けれど、決定的に違う部分がある。その通路の一部の壁が、全てガラス張りになっていた。
 そして、その向こうに広がる景色に俺は言葉を失ったのだ。
 ――透明な壁の向こうに広がるのは暗闇だ。
 星に見えたそれは、よく見ると向かい側に位置する各牢の灯りだろう。この窓からは牢の様子を一望することができるのだ。
 この地下牢は、囲いのような構造をしていた。囲われた部分のその中央にあるものは流石に暗くて見えないが、それでも、地下に行くに連れて闇は深まっていくのが分かる。
 実際に面会していたときには壁一面透明なことに気づかなかったし、今までだってこうして逃げてきたときもガラス張りの場所なんてなかった。
 恐らく、この通路から見る景色だけが特別なのだろう。実際、かなり離れて入るものの向かい側で影が動いてることは認識することができる、ここを使って獄吏たちは看守の役目を果たしていたのかもしれない。

「ここは、囚人たちの被害は遭ってないみたいだな……」
「それも時間の問題だろうな」
「黒羽さん、このガラスって突き破って地下に一気に行くことってできないのかな」
「……伊波様は本当に危険なことを思いつくな。難しいだろうな、それに、この窓の向こうは巨大な水槽になっている」
「水槽?」

 黒羽に指摘され、俺は再び窓の向こうを覗き込む。
 魚が泳いでるわけもないが、確かに、向こう側から見える光が揺らいで見える。

「……水槽……」
「ゴーレムを飼う変態だ。今度は巨大な蛇でも飼うつもりなのかも知れんな」

 揶揄する黒羽に、俺は何も返せなかった。
 どちらにせよ、この地下の構造が少しでもわかったのは大きい。一部の壁に穴が空いてるのを見つけ、俺は、あ、と思った。
 巳亦が通ったあの水の中、もしかしてこの水槽部分だったのかもしれない。
 それにしても水は減っているように見えない、どういう仕組みになってるのか気になるが、魔界の常識を未だ理解できていない俺には難題だろう。

「この最奥に、巳亦が……」

 ガラスに触れ、下を見下ろす。下層になるにつれ光源は減り、闇は深くなっていた。
 額がガラスにくっつきそうになったとき、「伊波様」と黒羽に呼ばれる。

「……ごめん、先に行かなきゃだよな」
「この先、獄吏たちがいないとは限らない。巳亦のことも考える必要があるが、まずは身の安全を確保しなければ」
「そうだな。それに、もしかしたら黒羽さんを元に戻す方法が分かるかもしれない」

 ああ、と黒羽さんは重々しく頷く。巳亦のこともテミッドのことも、心配は尽きないが立ち止まってる暇もない。俺と黒羽は辺りに気配がないのを確認しながら、通路の奥へと足を進めた。


 結論からいえば、殆どの獄吏たちは出払っているようだ。その通路に人の気配はない。
 無人の通路を歩いていく。本当に監視するためだけの通路のようで、途中に扉らしきものも見当たらない。一本道をただ黒羽と歩きながら俺は、ここで獄吏たちと鉢合わせになったらどうしようと考えた。一本道しかない分、挟み撃ちをされたらおしまいだ。考えるだけでゾッとする。

 どれくらい歩いたのだろうか。恐らく十分くらいは経ってるのではないかと思うくらい、俺達はその通路を歩いていた。奥を見るが終わりが見えない。そろそろ突き当りが見えてもおかしくはないはずなのに、と考えたときだ、黒羽も同じことを思ったのだろう。「おかしいな」と口にする。

「建物の構造からしてそろそろ突き当りが見える頃のはずだが……」
「だよな……これじゃあ、まるで……」

「まるで、《術にでも掛かった》ようだな」

 どこからともなくその声が聞こえてきた瞬間だった、何もなかった壁に穴が開く。そして、そこから現れたのは最も会いたくなかった男だった。

「っ、獄長……!!」

 黒い上着を翻し、軍帽を目深に被った獄長はパチンと指を鳴らした。瞬間、天井から檻が落ちてくる。
 手品ではない、術だ。咄嗟に檻を掴むが、びくともしない。幸か不幸か、黒羽は落ちてきた檻から逃れられたようだ。

「伊波様!」
「先程は随分な真似をしてくれたな。お陰で、レーガンが傷物になってしまった。……さぁ、どうしてくれようか」

 乱暴に黒羽に手を伸ばす獄長。間一髪のところでその手から逃れる黒羽だが、次の瞬間宙に現れた鳥かごに一瞬にして捕獲される。
 まるで手品のような手際の良さ、これも術の一部なのかと思ったが、鉄柵の冷たさは本物だ。

「黒羽さん!」
「き、さま……ここから出せッ!」
「出せと言われて出す馬鹿がどこにいる? ……貴様の行動は目に余る。鳥は鳥らしく籠の中で鳴いていろ」
「っ、何を……」

 そう、黒羽が言い掛けた瞬間だった、先程まで聞こえていた黒羽の声が途切れる。その代わり、ピィ、と鳥の声が聞こえてきて、血の気が引いた。
 それは黒羽も同じだ。まるで鳥みたいな声を発する自身に狼狽えているようだ、鳥かごの中暴れる黒羽だが、その声は、何を言っているか俺にはわからなかった。

「っ、黒羽さんに、何をした……?」
「なに、より本物に近づけてやっただけだ。こちらの方が可愛げがあるだろう」
「巫山戯るな……っ! 今すぐ黒羽さんを元に戻せ!」

 くくく、と喉で笑う獄長に、怒りのあまり俺は鉄格子の隙間から手を伸ばし、獄長に掴みかかろうとする。しかし、逆にその手を握られ、思いっきり体を引っ張り上げられた。

「どうやらこちらの手も使い物にならなくされたいようだな」

 鉄格子越し、指を絡め取られ、血の気が引く。
 少しでも力を入れられれば折れてしまうのがわかったからこそ、その痛みが想像できたからこそ、一瞬怯んでしまった。それが、いけなかった。
 真っ赤な二つの目が俺の目を捕らえた。あ、と思ったときには既に手遅れだった。全身から力が抜ける。肉体と精神を繋げていた糸を断ち切られたかのように体は地面に落ちた。獄長の革靴が視界に映る。遠くから黒羽さんの鳴き声が聞こえたが、俺はとうとう動くことは叶わなかった。
 そして、辛うじて残っていた思考回路すらも黒く塗り潰され――意識は奪われる。
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