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第2章 深海の檻が軋む時

第8変 ネガティブヤンデレの取り扱い(中編)

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「ど、どうぞ……」

 オズオズと研究室のドアを押し開けたシアンに促され、私は彼の研究室へと足を踏み入れる。

 暗幕で締め切られて夕日の光が一切入ってこない暗い部屋……だが、シアンが軽く魔力をのせた言葉を発すると、部屋全体がほんのりと優しい光に包まれた。ようやく見えた内装に心躍る。だって、ゲーム中で見てきた背景がそこに広がっているのだ。興奮しない方が難しい。

 背景でもすごいとは思っていたが、こじんまりとした研究室の右にある6段もの仕切りがついた棚の存在感が圧倒的だ。左右の端から端まで、果ては天井に至るまでギチギチにはめ込まれたその棚にズラッと並んだゲテモノの数々にはゲーム中よりも驚かされる。

 ……たぶんその棚に並んでいるゲテモノのすべてが研究に必要な物なのだろう。

 透明なガラス戸越しに陳列されている干からびたトカゲのような物体、毒々しい赤色に黒い斑点が付いた花、液体に漬けられたギュウギュウに詰まった紫色の芋虫のような虫……

(うん……正直、夜に一人で見たくはないな)

 部屋に入り少し時間が経ったことで頭が冷静になってきたせいか、今はゲーム中の背景への興奮よりも、虫が背中を這いずり回っているようなえも言われぬゾワゾワ感の方が上になる……私はもともとホラーが苦手だ。

(だって、幽霊とか物理攻撃効かないじゃん!!)

 ふと、何かの目玉と目が合ってしまい、顔が引きつるのが分かる。

(ああ、どうも、こんにちは……って、この懐かしい雰囲気――完全に理科室だわ。人体模型とかある感じでしょ、これ!?)

 まあ、実際は人体模型等はなく、代わりに左横にも右横にあるのと同じような棚が備え付けられていた。右の棚と違い、こちらは分厚い学術書や過去の論文、用語集、実験データなどが陳列している。本のタイトルはすべて毒とその治療について関係があるものばかりだ。一部、解毒ではない単なる治癒魔法についての論文も見受けられる。

(ここも、原作通りだ……)

 ふいに彼の生い立ちについて思い出し、胸が苦しくなる。そんな時、その分厚い本と本の間に作られたスペースに鎮座している小さな白い花瓶の中で元気に咲き誇る水色の花を見つけた。暗い部屋に不釣り合いな可憐な花ではあったが、なんとなく既視感を覚える。

(……もしかして、ゲームで見た?)

 シアンから花をもらうイベントは実際あった。

(でも、花の色は主人公の瞳の色と同じマゼンタ色だったような――)

「その……ふ、普段、僕以外入らないから、ちょ、ちょっと散らかってて……ごめん」

 私の思考はこの部屋の主、シアンの慌てた声によって遮断された。彼は研究室の真ん中にある大きな黒い机の上で散乱している殴り書きされたレポート用紙と【魔薬学開発促進会】の論文資料をワタワタとまとめている。【魔薬まやく】という読み方で正直嫌な思いになるだろうが、これはいわゆる魔法薬のことだ。

 魔薬学開発促進会は、毎年春先と秋頃に論文の審査をし、それぞれで選考に残った論文を次の年の夏と冬に学術誌として刊行する超大規模学術論文誌発行元として有名な団体だ。私にはチンプンカンプンの内容だろうけど、ゲームで出てきた知識なので名前を知ってはいる。

「全然散らかってないよ! むしろ、きちんと整頓されててスゴイって思う」

(そうそう、散らかってるっていうのは、前世の私の部屋――)

 一瞬よぎった前世のアパート……もとい、汚部屋を頭を横に振ることで振り払う。

 正直なところ、シアンの研究室で散らかっているのは先程まで実験していたであろう黒い机の上だけで、他は随分ときれいだ。

 黒い机の横に設置された白い流し台にある大きなタライに水を溜め、実験器具をその中に入れた彼は、そそくさと下にローラーが付いた黒い丸椅子を差し出してきた。

「ま、待たせてごめん。これ、座って良いから」

「あ、こっちこそ、気遣わせちゃってごめん。てか、そんなに固くならないで、自然体でいいから」

 シアンのあまりのカチコチぶりに、ほんわかと和む。

「自己紹介が後回しになっちゃったけど、私はルチアーノ。皆からはルチアって愛称で呼ばれることが多いから、どっちか好きな方で呼んで! 改めてよろしくね」

「あ、ぼ、僕はシアン。じゃ、じゃあ、ルチアーノさ――」

「さんはいらないよ?」

 思わず苦笑してしまう私に、彼は心底申し訳なさそうに身を縮こまらせた。

(いやあ、やっぱりまだ固いなあ……)

「……る、ルチアーノ。その、せっかく来てもらって悪いんだけど、さっき作った薬品をもう一度作るっていうのは、ほ、本当に無理そうなんだ」

「理由を聞いてもいい?」

 さっき廊下で会ったときはつい頭ごなしに強引にいっちゃったけど、冷静になった今、私もようやく彼の言葉に耳を傾けられる。

(熱くなりやすいのってダメだね。反省反省)

「ひ、必要な材料が足りないんだ……その……【昼寝草ひるねそう】っていう植物なんだけど、し、知ってるかな? すごく高価な物で、じゅ、受注すると半年は届かなくって、入手がちょっと、め、面倒な物なんだけど――」

「なんか面白い名前の植物だね。あと、ごめん、その草について知らないから説明プリーズ」

「そ、その、ひ、昼寝草っていうのは、言葉の通り昼に地面の中で寝る草なんだ」

「寝る? 地中に潜るってこと?」

「うん……地中に潜ってる間は、土と同化して草の形を、た、保てないから、草として採取するには夜にするしかないんだ。でも、昼寝草は魔力嵐が吹き荒れる土地の、や、柔らかい崖に生息していることが多くて――だ、だから、その、簡単に言うと、よ、夜にならないと生息地の特定ができないっていうのと、単純に場所が悪くて、き、希少な種類っていうので――」

「入手しずらい……と。でもさ、入手が面倒ってだけで、学校の東にある【惑いの森】は魔力嵐が吹き荒れてるし、崖が多いから生息してるんじゃないの?」

「あ、それは……まあ、もしかしたら、せ、生息してるのかもしれないけど――別にきょ、教授を通してまた外に注文を取り付ければいいし、む、無理に今入手しなくても――」

 諦めたような自嘲気味な笑顔……いや、ようなではない。

(シアンは諦めてる…………研究することを?)

 その答えは、なんとなく違う気がした。研究は完成しているんだし、シアンが言うようにまた材料を入手すればすぐにできるだろう。

(じゃあ、シアンは何を諦めてる――?)

 シアンの苦しい表情に私の胸まで苦しくなる。
 さっきから、頭の隅で何かが引っ掛かっている。

(今、材料が必要な理由――)

 見落としがなかったか、頭をフル回転する。

(何か重要な……)

 ふと、シアンと廊下でぶつかった時に彼が言っていた言葉を思い出す。

『ああ、ど、どうしよう……これじゃあ、ま、間に合わない……』

 そこまで考えた瞬間、ハッと気が付いた。
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