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九月

修学旅行8:夜の路上にて(2)

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「はい、氷川です」
『今どこにいる?』
 電話口から、文月の恐ろしく冷めた声が聞こえてきた。背中がすうと冷たくなる。そういえば、氷川は彼らにこう告げて宴会場を出てきた。
 ――十分くらいで戻るつもりだけど、もしかしたら先に部屋に行ってるかも。
 十分どころか一時間近くが経過し、氷川は現在駅の側にいる。焦りながら説明の言葉を探した。
「ごめん、ちょっと橘くんと会って、話し込んじゃって」
『そう。それで、どこ。橘たちの部屋?』
「いや、えっと、ホテルの中の……」
『……車の音が聞こえるけど?』
 文月の指摘に、氷川は息を呑んだ。そしてその反応が最もしてはいけないことだったと気付く。文月は鎌をかけただけだったかもしれない。だとしたら、沈黙は確信を与えてしまう。
 電話の向こうで、文月が大きく溜息を吐いた。横では向井が可笑しそうに肩を揺らしている。
『外にいるんだな?』
「いや。橘くんと一緒にいるよ」
『じゃあ橘に替われ』
「今立て込んでるから無理かな……?」
『おまえな、皆心配してるんだ。分かってるか? 夏木先生も、白沢も、横峰もだ。どこで何してるか知らないが、さっさと帰ってこい』
 文月の声には怒りと不安の二色が混じり合っていた。心配をかけていると思うと胸が痛むが、だからといってはい帰りますとも言えない。
「ごめん、文月くん。帰ったら皆に謝るから、今は見逃して。点呼までには……帰れるか分かんないけど。橘くんと一緒にいるのは本当だから」
『それならどうして橘に電話を替われない? だいだい、あいつは生徒会役員の自覚があるのか? 自ら風紀を乱すような真似をする上、他の生徒を連れ出すなんて』
「ここにいるのは俺の意思だよ。拉致されたわけじゃない。橘くんを責めないで。心配しないでって言いたかっただけだよ」
 そう言うと、電話の向こうに沈黙が落ちた。気のせいか、人の声が聞こえる。
「文月くん、他にも誰かいるの?」
『ああ、夏木先生と白沢がいる』
 文月の返答に、氷川は額を押さえた。まずい。夏木に先程のやり取りを聞かれていたなら、致命傷だ。氷川は俯いたまま、呻くように言う。
「夏木先生に替わってくれる……?」
『どう話すつもりだ?』
「説明する。後から先生に聞いてくれていいから、とりあえず話させて」
『……分かった』
 電話を受け渡すやり取りが遠く聞こえる。不安に縮こまる氷川の肩を、向井が励ますように叩いた。
「頑張れ。やんちゃはガキの特権だからな」
『氷川か』
 電話口から、夏木の声が聞こえた。氷川はすうと息を吸って、目を瞑った。
「ご迷惑をお掛けしてすみません」
『迷惑をかけていると、分かっているんだな?』
「はい。その……できれば他の先生方には……内密にお願いしたいのですが」
『そりゃ俺だって責任問題は避けたいよ。だけど、夜間外出禁止は決められたルールだ。破った生徒がいたら情報を共有しなきゃいけない。分かるか?』
「それはそうですが……」
『問題が起きても、内々で済ませて傷が浅く済めば確かに楽だよな。でもそれが本当に当人のためになるかは考えなきゃいけない。外聞のためだけに、全てを押さえつけるようなことがあっちゃいけない』
「はい」
 夏木の言うことはもっともだ。横峰の一件を、氷川は学校側と一緒になって揉み消すために働いた。老人福祉施設での一件も、実害がなかったのをいいことに、何もなかったこととして処理した。今回はそれは通用しない、という宣言だろうか。
『戻ってきたら俺の部屋に来い。説教と反省文な』
「はい?」
 予想外の言葉に、氷川は間抜けな声を出す。夏木が電話の向こうでくすりと笑った。
『点呼まで戻ってきたら不問に付す。俺だって始末書は避けたいんだよ』
「それでいいんですか?」
『橘と一緒にいるんだろう?』
「はい」
『それならいい。橘のほうも誤魔化しとく。いっつもガンガン来る奴が神妙にしてると調子が狂って困るな』
 夏木の台詞に氷川は首を捻る。ガンガン行っているつもりはない。しかし今はそんな問答をしている場合ではなかった。頭を下げる代わりに、声を高くした。
「ありがとうございます!」
『何してるか、説明はして貰うからな』
 そう告げて、通話が途切れた。文月の説得は請け負ってくれると思っていいのだろうか。何にしろ、目こぼししてもらえそうでほっとする。安堵の溜息を吐くと、向井にぽんぽんと頭を撫でられた。電話の流れで懐柔できたと察したらしい。
「よかったな」
「はい。お付き合いありがとうございました」
「祐也のほうもカバーして貰えて助かった。でも大丈夫か?」
「点呼が十時四十五分なので、それまでには帰れと言われました」
 言って、時刻表示のされたスマートフォンの画面を示す。それに視線を落として、向井は唇に笑みを掃いた。
「三時間はないな。まあ、間に合うだろ」
「よろしくお願いします」
 彼に送って貰わなければ、タクシーで帰る羽目になる。氷川は頭を下げた。向井は祐也にとっては身内だろうが、氷川は他人だ。世話になっている相手には、多少過剰なくらいで丁度いい。
「真面目だな。ちゃんと送り届けるから安心しろよ。ほら、早く戻ろう。祐也が歌うの見に来たんだろ」
 はいと答えて、先に歩き出した彼の背を追った。
 広場に戻ると、聴衆が増えていた。オリジナルの楽曲は集客率が低そうなので意外に感じる。
「人が増えてません?」
「祐也が来たから増えたんだよ。あれで百人近く動員してたからな、十人くらいは楽に集まる」
「それって大きな数字ですか?」
 門外漢には見当がつかず、向井を見上げる。彼は首を傾げた。
「地元出身のアドバンテージがあっても、地方でそれだけ呼べれば大したもんだよ。ま、身内が半分くらいいたから、純粋なファンはそう多くないけど……ほら、これ」
 向井がスマートフォンを操作して、差し出す。受け取った氷川は目を丸くした。氷川自身もよく知っているSNSが表示されているが、問題はその内容だ。
 ――これから仙台駅の近くでストリートやります。場所は今タカユキさんが演ってる所。
 おそらく橘が投稿したのだろう。車内かホテルの中でか、時刻はつい先程だが、お気に入りとリツイートの数が一般人のそれにしては随分多い。ずらりと並んだリプライはどれもテンションが高く、すぐ行く、絶対行く、行けない悲しい動画上げて、一時間後でもやってますかなどと多彩だが好意的だ。
「これ皆、橘くんのファンの方なんですか?」
「そう。このタカユキってのがあいつの従兄な。紹介するわ」
 思い出したように言って、向井が橘たちの方へ歩き出す。氷川も慌ててついて歩いた。橘は柔らかな声で歌を歌っている。断片的に聞き取れる単語から、ラブソングだろうと推察した。向井は橘の後ろに回り込んだ。男性が二人、女性が一人いる。三人とも、向井とは異なりごく普通の服装だ。
「辰彦、その子は?」
 そう訊ねた男性が、おそらくタカユキという人物だ。向井は気軽な仕草で、橘を前に押し出した。
「祐也のツレ。氷川くん、こいつがさっき話した奴。あと後ろのふたりは俺らの手伝いしてくれてる人たちな」
「初めまして、氷川泰弘といいます。橘くんにはいつもお世話になっています」
「こちらこそ、祐也の従兄の早坂貴幸。よろしくね」
 名字が違うんだなと、なんとなく思う。差し出された手を握り返すと、ぎゅっと両手で握り返された。彼も指の皮膚が硬い。
 後ろの二人も順々に名乗り、にこにこと氷川を取り囲んだ。千葉と名乗った女性が目を細める。
「可愛いねー。いくつ?」
「十六です」
「うわ、若い! というか礼儀正しいのに凄いカッコだね。向井くんみたい」
「ええ、向井さんに貸していただきました」
「やっぱり……」
 大友と名乗った男性が、同情的な視線をくれた。向井が不服そうに顔をしかめる。
「格好いいだろ?」
「向井さんはセンスが中学生の時点で止まってますからね。衣装ならいいですけど」
「まあまあ、三人とも落ち着いて。氷川くんは祐也の友達なんだっけ?」
 早坂が氷川に水を向ける。彼も向井と同じくらい背が高く、自然と見上げる形になった。
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