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九月

修学旅行 7:夜の路上にて(1)

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 氷川がシートベルトを締めると、車は静かに動き出した。後部座席を伺うと、橘は積んであるものを物色していた。ギターかベースに見える。作業をしながら、彼は口を開いた。
「向井さんは地元の人だって話したよね。俺も仙台出身なんだよ。都市部とは離れた、山のほうなんだけど。で、都市部に親戚の家があってね、従兄を通して知り合ったんだ。従兄の兄ちゃんが音楽好きで、そのバンド仲間で、俺のギターの先生」
 言われて思い出す。そういえば橘は、左手の指の腹が硬い、弦楽器を弾く人間の手をしていた。しかし関係性は分かったが、宿を抜け出した理由が分からない。
「もしかして、これからライブがあるとか……?」
「まさか。もしそうなら、向井さんが迎えになんて来てくれないよ」
 橘がジャン、とギターを鳴らす。向井は高校生二人の会話に笑いを漏らした。赤信号で停車して、煙草を出す。一言断って、向井は煙草に火を付けた。細く開かれた窓から、煙が夜の空気に溶け出していく。
「ライブと言えばライブだろ。ただし、主役は祐也だけど」
「どういう意味ですか?」
「弾き語りだよ」
「そ。こいつのファンの要望だ。俺も流石に宿を抜け出してまでやるとは思わなかったけどな」
「だって、昼間はいくら自由行動だからってそんなことしたら班の皆の迷惑になっちゃうし、夕方も抜け出せないしで、夜しかないでしょ」
「普通なら諦める所なのにな」
 ギアがドライブに切り替わる。ブレーキの踏み込みが甘く、車体が滑るように動いた。急いでブレーキが踏み込まれ、つんのめるように車体が揺れる。
「ファン? 弾き語り?」
「祐也のバンドのファンだな。弾き語りは半分遊びで半分資金集め」
「橘くん、バンドなんてやってたんだ」
「もう解散しちゃったけどね。だから今は準備中っていうか、メンバー募集中」
 氷川に答える橘の声は、どことなく寂しげだ。煙草をくわえたまま、向井が面白くなさそうに眉をひそめた。信号が青に変わり、車が交差点にゆっくりと侵入する。速度を上げながら、話題を切り替えた。
「それで祐也、この子を連れてきたのはなんでだ? 最初は仲間かと思ったけど、違うんだろ。何にも知らない子を夜遊びに付き合わせるのは感心しないよ」
「天使が迷子になってたら、思わず拾っちゃうものでしょ」
「天使?」
「橘くん、何言ってるの?」
 向井と氷川から怪訝そうに問われても、橘は上機嫌を崩さない。短音でアルペジオを奏でたあと、耳慣れたフレーズを辿った。
「まるで天使の声だと思ったんだよ。澄み切ったソプラノじゃなかったけど、透明なテノールだった」
「聞いてたの」
「トイレ行こうと思ったら聞こえてね、気付いたら引き寄せられちゃってたんだ。まさかそのあと、本人が死にそうな顔して出てくるとは思わなかったけど」
 アコースティックギターが、ミュート音で神への感謝と愛を歌う。神聖さのない音色だが、氷川にはまるで死刑宣告だった。聞かれていたとは思わなかった。橘が何も訊ねなかったのは、知っていたからだ。氷川はTシャツの胸元を掴んだ。向井がへえと呟く。
「ボーカル候補か」
「そこまでじゃないです。今日は見て貰うだけのつもりですし」
「いいじゃん。あとで一曲歌ってくれよ」
「そういうつもりで連れて来たんじゃないんですってば。いいからね、氷川くん。向井さんの言うことなんて無視して平気だからね」
 向井の氷川に対する要請を、橘がはね除ける。予想外の展開に、氷川は言葉を見つけられずに二人を交互に見遣った。指慣らしの演奏を止めた橘が、真剣な眼差しを氷川に向けた。
「歌わなくていいから。ただ、見てて」
「何を……」
「顔」
 一言で返して、橘が和音を鳴らす。クリアな音色が車内の空気を揺らす。甘くて硬くてそれでいて滑らかで、とても色気のある音だった。
「ド素人の歌に耳を傾ける人たちの顔を見てて」
 向井がウィンカーを出して、くすりと笑う。かち、かち、という機械的な音が、ライトの点滅と共に進行方向を主張する。
「若いね」
「茶化さないでください」
「本当なら祐也が入れ込む子の声、聞いときたかったんだけど。まあ仕方ないかね。そろそろ着くよ」
 向井は車を仙台駅の近くのパーキングに停めた。橘がギターのケースを担ぐ。
 向井に先導され、三人でぞろぞろと夜の街を歩く。縄張りでもあるのか、足取りには迷いがない。やがて、ちょっとした広場に出た。人が集まり、誰かが何かを歌っている。先客がいるならば場所を変えるべきではと思ったが、向井は迷わずそちらに歩いて行く。顔が見える距離になったところで、向井が手を上げた。あ、と声を上げて、橘が走り寄っていく。
「橘くん?」
「あれ、祐也の従兄」
 慌てた氷川に、向井が苦笑混じりに教えてくれる。橘は扇形に広がる聴衆の背後を回り、演者の後ろ側に立った。そこに立つ人物と何事か話し始める。打ち合わせだろうか。
「さっきのお話の方ですね。良かったんですか?」
「いいんだよ、今日はあいつ前座だから」
「前座?」
「場所取りとも言う。祐也が着くまでの繋ぎ」
 曲が終わり、歌っていた人物が立ち上がった。橘を隣に呼んで、聴衆に紹介する。お待たせいたしましたから始まる短い口上の後、橘をコールする。控えめな歓声が上がった。橘が礼をして、低めの椅子に腰を下ろす。先程まで、彼の従兄だという人物が使っていたものだ。
「人気あるんですね」
 何を演奏するか聴衆に問いかけると、いくつも声が上がった。知らない曲名だ。二人は聴衆から少し離れた位置で、ブロックに腰掛けた。
「あいつが組んでたバンド、仙台出身のやつらでさ、ガキの集まりにしては割とレベル高くて人気もあったからな。凱旋公演とかってこっちで何回かライブもしてたから、ちょっとしたスター扱いだよ」
「でも、解散しちゃったんですよね」
「バンドはそんなもんだよ。最初の頃は組んでは潰れ入ってはバラけだ。腰据えてやれるようになんのは、大人になってから」
「そういうものなんですか? 向井さんも?」
「ガキでも腹括ってりゃ別だけどな。受験や就活があるから音楽出来ないって言われたら、誰も引き止められない。そいつの人生の責任は負えないからな」
 それは向井と橘、どちらの経験なのだろう。
 話しがまとまったのか、橘がギターを持ち直した。じゃらん、と指弾きで鳴らすと、聴衆が静まり返った。聞いたことのないイントロのフレーズに耳を傾けていると、胸元で無粋な電子音が鳴り始めた。ワンコールで途切れなかったスマートフォンを取り出し、画面を確かめる。氷川は口元を手で押さえた。
「すいません、ちょっと失礼します」
 ここで話すのは問題があるだろうと離れようとした氷川の肩を、向井ががしりと掴む。振り返ると、彼は真剣な表情をしていた。
「待った。俺も着いてっていい? 駅前とは言えもう夜だし」
 そんなに治安が悪いのか、驚いたが、問い返す時間も惜しく頷いた。
「はい、お願いします」
 ストリートライブの邪魔にならない位置まで離れて、通話を繋いだ。
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