上 下
82 / 97
第九章 旗印たちの狂宴

9-6 〈第六聖女遠征〉の終わり  ……ミカエル

しおりを挟む
 斬り合いの最中、馬が潰れた。

 馬上から投げ出され、ミカエルは雪の上を転がった。辛うじて剣は掴めていたが、兜は落馬の衝撃で外れ、どこかへ消えた。
 血飛沫の中で、対峙する一騎と目が合う──燃える心臓の黒竜旗を掲げる群れを連れた、青骸布せいがいふの近衛兵ではない者──型落ちの皿型兜ケトルハットを被り、雑兵のようなバフコートを着る大男が、サーベルをこちらに向ける。馬上から見下ろすその視線は、少年のように真っ直ぐで、腹立たしいほど自信に満ち溢れていた。

 そのサーベルの切っ先が、殺意を迸らせ、迫る。

(どこの馬の骨とも知れんクソガキが図に乗るな!)

 走る虫唾の呑み込み、ミカエルは咄嗟に拳銃を抜いた。
 拳銃の引き金を引く。歯車が回り、火薬に着火し、火花が散る。立ち昇る硝煙の向こう側、最後まで残していた弾丸は、綺麗に敵の首筋を撃ち抜いた。

 だが、雑兵一人を殺したところで、何の意味もない。

 銃声が鳴り止むのと同時に、地面が揺れる。月盾騎士団ムーンシールズ極彩色の馬賊ハッカペルの人馬が、ミカエルに向かって動き出す。
 他の敵兵に襲われる前に、ミカエルは部下たちの方向へと走った。雪塗れになった体は重く、思うように動かなかった。剣を杖代わりにし踏ん張ったが、凍てつく体は動くたび軋み痛んだ。
 背後で、人馬がぶつかり合う。ミカエルも幕僚から馬を借り、再び敵中へと走る。
 蛮人どもが掲げる燃える心臓の黒竜旗が、憎たらしくはためく。しかし、いくら剣を振っても血は出ない。敵の勢いは衰えず、皇帝旗も倒れる様子はない。
 みな、懸命に戦ってはいるが、じりじりと押し込まれる。さらに、皇帝近衛兵である青骸布せいがいふの騎士たちも現れる。忌まわしく翻る皇帝旗が、さらにその数と圧を増し迫る。

 グスタフ三世……。この戦争を引き起こした元凶を弑せぬ限り、〈教会〉に勝利はない。
 この戦いは、〈教会〉に勝利と栄光をもたらすため、〈神の依り代たる十字架〉の真の信仰を守るため、大陸の平和と安寧を保つため、そして〈帝国〉と皇帝グスタフ三世による前代未聞の冒涜的殺戮、〈黒い安息日ブラック・サバス〉の報いを受けさせるための戦いである──燃える心臓の黒竜旗は、その首魁たる男は、目の前にいる。今こそが、千載一遇の好機なのである。しかし、いくら剣を振るっても、刃は白炎を揺らすだけで、そこには届かない。

「なぜだ!? これだけ戦っているのに……、正義も大義も我らにあるというのに……! 北部の蛮人どもはなぜ死なぬ!? なぜ我らは勝てぬ!?」

 ミカエルはグスタフの名を叫んだ。しかし、返ってくるのは皇帝を称える声ばかりだった。

 止まることを知らぬ白炎が、戦場の狂騒を煽り、冬に燃える。

 剣戟が激しさを増す中、自身の従士であり、隊の旗手を務めるヴィルヘルムが、ミカエルの前に馬を寄せる。
「騎士団長! 退却の鐘が鳴っています! 我らも早く撤退を……!」
「退却だと!? 私はそんな命令は下していない!」
「しかし、ヴァレンシュタイン元帥からの伝令が……」
「何がヴァレンシュタインだ! あんな恥知らずの成り上がり者! 日和見の傭兵風情が! 撤退するつもりなら、その深海の玉座を燃やしお前も殺すと伝えろ!」
 ミカエルは二つ返事で撥ねつけたが、ヴィルヘルムはなおも声を枯らし撤退を訴える。他の幕僚たちも、ヴァレンシュタインの命令に従うべきだと再三要求する。
 何もかもが、癇に障った。馬は、肝心なときに潰れた。部下たちも、ここぞという局面で踏ん張れない。父の次席である元帥ですら、皇帝の好敵手とは名ばかりの弱腰である。

「やる気のない元帥など放っておけ! 今こそが冒涜者グスタフを誅殺する絶好の好機! 燃える心臓の軍旗を恐れることはない! 私に続き前進せよ!」

 ミカエルは皇帝旗に剣を向け懸命に訴えたが、部下たちはみな俯くばかりで、返事はなかった。それどころか、ほとんど後退あとずさってさえいた。

「みな、どうしたのだ!? 我らは〈神の依り代たる十字架〉に忠誠を誓った騎士であろう!? 〈教会五大家〉の筆頭として、国の武門を担ってきた月盾の騎士であろう!? ここでグスタフを殺せば、この戦いは終わるのだ! 今ここで突撃せずして、いつ皇帝を誅殺する気か!? いつ〈帝国〉を滅ぼすつもりか!?」

 周りの不甲斐なさに、ミカエルは思わず怒鳴り散らしていた。しかし、部下たちは動かなかった。

 そのとき、唐突に天使の錦旗がはためいた。
「後退を援護します!」
 ハルバードを構えた女騎士がやってくる。第六聖女親衛隊を率いるレアが、歩兵を展開させる。断続的な射撃のあと、長槍兵が密集し、敵と月盾騎士団ムーンシールズの間に壁を作る。

 何が後退だ──思わず、ミカエルは吼えた。

 何かが、ずっと燃えている。何を言いたかったのかはわからない。ただ、感情に身を任せ、吼えていた。
 吼え、馬に拍車を入れようとしたとき、そばにいた部下たちに体を押さえ込まれた。
 両脇を抱えられ、馬の手綱を握られる。家宝である古めかしい直剣さえも、奪い取られる。
 意に反して、燃える心臓の黒竜旗が遠ざかっていく。逆巻く風に、頬を打つ粉雪に、腸は煮えくり返った。しかし、凍てつく体は抗うことすらできなかった。

 気づいたときには、敵はいなくなっていた。ただ、遠くに見える白炎が、ひたすらに冬を燃やしている。

「帰りましょう……、ミカエル様……」
 馬車から出てきた一人の少女が、ミカエルの袖を引っ張る。身の丈に合わぬ白銀の甲冑を着た、いかにもひ弱そうな、場違いな女である。

 何だこの女は──ミカエルの怒りは、ほとんど頂点に達していた。

「帰るだと!? 寝言は寝て言え!」
 ミカエルは少女を怒鳴りつけた。しかし、少女はその手を離さない。
「思い出して下さい……。貴殿のお父上は仰いました……。生きて帰還せよと……」
「女が出しゃばるな! 戦いの邪魔だ! 消えろ!」
 ミカエルは少女の顔を叩いた。手甲が、柔らかな鼻筋を裂く。しかし、鼻血を噴き出しながらも、少女はその手を離さない。
 少女は、終始無表情だった。だが、薄汚れ、落ち窪んだ目に宿る光には、確固たる意志があった。

「もう終わったのです……。私たちの負けです……」

 その目が、またミカエルを見る。いつの間にか鼻血は途切れていたし、傷口も塞がっていた。

 三度みたび、視線が交わる──そこでようやく、ミカエルはその少女が何者かを思い出し、立ち尽くし、そして膝から崩れ落ちた。


*****


 ずっと己を支えていた何かが、音を立て崩れ落ちた。

 ミカエルは今、現実を理解した。

 冬を焼く白炎を見て、思い知る──常に、胸に抱いてきた思い、『高貴なる道、高貴なる勝利者』というロートリンゲン家の格言モットーが、単なる理想に過ぎないことを。あらゆる正義と大義と信仰が、独りよがりの夢想に過ぎなかったことを。

 かつて守ると誓った乙女の目を見て、自覚する──そもそも、本気で守る気などなかったことを。己が戦いを正当化するため、ただその存在を利用し、犠牲を強要していただけに過ぎないことを。

 血と泥に塗れ落ちる騎士たちの姿を、煤塗れになった天使の錦旗を見て、理解する──クリスタルレイクの戦いが、事実上終わったことを。

 そして、悟る──〈第六聖女遠征〉の、その終わりを。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

【完結】モブ令嬢は特殊設定もち

恋愛 / 完結 24h.ポイント:454pt お気に入り:5,331

錬金魔導師、魔法少女を奴隷調教する

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:434pt お気に入り:372

TS異世界生活記

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:298pt お気に入り:757

ざまぁ対象の悪役令嬢は穏やかな日常を所望します

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:9,790pt お気に入り:9,150

快楽転

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:17

【R18】アリスエロパロシリーズ

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:92pt お気に入り:152

奴隷性活はじめます。R18

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:716

夢魔のえっちなレッスン?【R18】

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:16

処理中です...