最後の騎士 ~第六聖女遠征の冬~

寸陳ハウスのオカア・ハン

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第十章 遥かなる地平線

10-1 凍てつく息①  ……ミカエル

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 物言わぬ雪が、深々と時を刻む。

 クリスタルレイク以南、王の回廊の支道にある町が、降り積もる雪に沈む。他の北部諸都市の例に漏れず、この町もすでに徹底的な略奪にあっている。町は外観こそ綺麗に留めているものの、街路には死体すら残っておらず、何もかもがない。

 廃墟に、小さな息が立ち昇る。
 足下から這い上がる寒気が、体を震わす。呼吸をするたび、歯の根から息が漏れる。
 それらを堪え、雪帷ゆきとばりの向こう側に耳を澄ませる。まどろみ、凍てつき、消えていく雪の中、街路の物陰に身を潜め、ミカエルは待った。

 気配が、静寂に漂う。どこからか、雪を踏み締める音が聞こえてくる。人馬の呼吸が、衣擦れが、ゆっくりと近づいてくる。
 フードの被りを直し、物陰から様子を窺う。右手は古めかしい直剣に、左手は歯輪式拳銃ホイールロック・ピストルに添えている。
 騎馬が一騎、現れる。毛皮の服を着、弓矢を携えた、小柄で貧相な身なりの男。一見すれば、ただの狩人に見えないこともない。しかし、猟犬のようなその眼光と流麗なる手綱捌きは、間違いなく〈東の王プレスター・ジョン〉の末裔、騎馬民族のそれだとわかるものである。極彩色の馬賊ハッカペルがやたらと悪目立ちするが、〈帝国〉に従属した騎馬民族はそれなりに多い。

 凍てつく体が、小さく震える──拭いきれぬ恐怖、隠しようもない小心──しかし、歯を食い縛り、それを耐える。

 クリスタルレイクの戦いは、教会遠征軍の敗北で終わった。ミカエルら月盾騎士団ムーンシールズはもちろん、ヴァレンシュタイン率いる教会遠征軍第二軍も、相当の深手を被った。しかし一方で、帝国軍へできる限りの損害を与え、その士気を削ぐという戦略目的も、一定の成果を上げた。ゆえにその後は大規模な戦闘もなく、睨み合いの状態が続いている。
 現在、両軍主力は一定の距離を保ちつつ、王の回廊を南下している。しかし、戦争はまだ終わってはいない。互いの使節が交渉を行う傍らで、斥候や哨戒部隊は絶えず動き回っている。そしてその数は、帝国軍の方が遥かに多い。

 また、どこからか蛮族の騎兵がやってくる。嗅ぎ回るような視線が、また一つ増える。聞き慣れぬ言葉の合間に、笑い声も聞こえてくる。

 雪の重みに、冷たさに、また体が震える。
 心を蝕むあらゆる感情を、今は抑え込み、堪える──心は、一度折れている。しかし、それでも立つ。騎士として、いや、戦いに生きる者として、立ち上がらねばならぬ。

 凍てつく息を噛み殺し、ミカエルは一歩を踏み出した。
 
 相手に気取られぬよう、物陰を這う。静かに、確実に歩を刻み、距離を縮める。そして、背後から短剣ダガーを投げつける。
 刃が、蛮族の背に突き刺さる。一騎が、もんどり打って落馬する。
 古めかしい直剣を抜く。残る一騎に向かい走り、勢いのままに斬りかかる。
 しかし、雪に足を取られる。外套にまとわりつく雪も重く、勢いも失われる。それでも剣を振り下ろすが、相手のサーベルに弾かれる。
 馬上からの眼光と目が合う。人馬の圧がこちらを押し潰そうと迫る来る。
 振り下ろされる刃を薙ぎ、打ち合う。しかし、馬上からの攻撃は重く、こちらの剣先は届かない。
 それでも、隙を見て拳銃を抜き、そして引き金を引く。

 火薬が撃発し、銃声が響く。しかし、弾は敵の頬を掠めただけで、硝煙は目眩ましにもならなかった。

 銃声を聞きつけたのか、敵の増援がやってくる。追加の騎馬民に混じり、少数の帝国人騎兵も姿を現す。いずれもマスケット騎銃カービンを手に、煤けた軍用コートを着、板金の騎兵用兜ロブスター・テイルを被っている。
「何者だ? 斥候……、いや脱走兵か? まぁ何でもいい」
 指揮官と思しき帝国人が、聞き慣れぬ言葉で蛮族たちをけしかける。
 蛮族が三騎、動き出す。獲物を狙う眼光が、鋭く光る。
 放たれる矢を、間髪入れずに続く斬り込みを、力任せの馬の突進を、弾き、躱す。打ち合うたび、右手の剣と左手の拳銃が震える。周囲を駆け回る敵影は素早く、攻撃を受けるだけで精一杯である。次弾を装填するのはおろか、反撃に転じる隙すら見出せない。
 敵ながら、見事だった。雪中にも関わらず、その手綱捌きに乱れはなく、それぞれの呼吸も完璧に連動している。

 降り続く雪が、舞い上がる雪煙が、視界を曇らせる。何度目か、矢が体を掠める。次いで、背後から馬蹄が迫る。
 感覚では追えていた。しかし、振り返る前に雪に足を取られ、体勢を崩してしまう。

 間に合わない──それを悟った瞬間、背中に衝撃が走る。

 雪の中を転がる。背中を斬られ、駆け抜ける風圧に押され、転倒する。
 しばらくの間、脳は震え、感覚は覚束なかった。ただ、痛烈な一撃だったものの、手足は動いた。衝撃こそ受けたが、刃は甲冑で防げたのか、出血の感覚もない。
 引き裂かれた外套を脱ぎ捨てる。体にまとわりつく雪が少し軽くなるが、相変わらず、足はもつれている。それでも、片膝をつきながら剣を構える。
「ほぉ。月盾の騎士か」
 ミカエルを見る帝国人が、また聞き慣れぬ言葉で蛮族たちの動きを制する。
「高貴なる御方とお見受けする。こんなところで何をしているかは知らんが、多勢に無勢、独りでは勝ち目もありますまい。戦の大勢も決している中、意味もなく足掻いては晩節を汚します。敵とはいえ、騎士であるならば悪いようにはなさらぬ。潔く降伏されよ」
 帝国人の指揮官が、長々と講釈を垂れる。ミカエルを取り囲む無数の刃も、じりじりと間合いを計っている。ただ、馬上からの視線は、どれも完全に油断していた。

「笑止!」
 その油断をはっきりと確認し、ミカエルは叫んだ──それとほぼ同時に、風を切る矢が、蛮族の一人を射抜いた。
 一瞬の硬直──瞬きの間に、流れが変わる。
「降伏するのはお前らだ! 死にたくなければ大人しくしてろ!」
 威勢のいい言葉とともに、アンダースが指揮官の帝国人を馬から引きずり倒す。間隙を突き、街路や廃屋に潜んでいた部下たちが、敵騎兵を包囲する。雑兵のような身なりをしたアンダースの部下ルクレールも、廃屋の屋根から身を乗り出し、弓矢を構えている。

 戦闘はすぐに終わった。待ち伏せは成功し、敵はその場で全員降伏した。

「大丈夫ですか?」
 弟が差し出した手を、ミカエルは掴んだ。
「首尾よくいったな。ありがとうアンダース」
「指揮官である兄上がこんな危険を冒すことはなかったのに……。まぁ、とにかく無事で何よりです」
 ミカエルは立ち上がると、改めて礼を言ったが、アンダースは騎兵帽を目深に被り直し、目を逸らした。やたらに寒そうな素振りをする弟は、その後もミカエルと目を合わせようとはせず、ずっと街路の先を見ていた。

 兄弟の間に、雪が舞い落ちる。

 ミカエルは部下たちに捕虜の扱いを指示すると、体についた雪を掃い、弟と同じように視線を遠くに移した。

 果てのなき白が、どこまでも続く。吹き荒れる北風こそ止んでいるが、北の〈帝国〉の冬はその濃さをさらに増している。
 クリスタルレイクの戦いから二週間ほどが経過した。激戦を繰り広げた北の山河はすでに遠いが、思い出したくもない血みどろの記憶は、未だ鮮明に焼きついている。のっぺりと広がる南の地平線も、故郷への遥かなる道のりと、その艱難辛苦を容易に想像させる。

 吐く息が、白く立ち昇っては凍てつき沈む。

 物言わぬ雪が、まどろみ、凍てつき、消えていく。何もかもが、誰も彼もが、冬の色に染まっていく。
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