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突然の頼み
しおりを挟むしばらく三人で手探りながらも穏やかに生活を続けていたある日。
直純くんのことを気にかけてくれていた征哉くんの母、未知子さんが直純くんの様子を見にきてくれた。
その日の夜、
「未知子さんがね、直純くんが今まで一度もやったことがないことに挑戦した方がいいってアドバイスしてくれたの」
未知子さんを送って家に帰ると、直純くんは風呂に入っていて、絢斗がその隙間を縫うように私に話を振ってきた。
「ああ、さっき車の中で未知子さんに聞いたよ。それでどういうことを始めるつもりなんだ?」
「それを卓さんにも一緒に考えてもらおうと思って……。いいかな?」
「ああ、それは構わないが、直純くん自身にやってみたいことがあるんじゃないのか?」
「うーん、多分いろいろやってみたいことはあるんだと思うんだけど、というか、今まで同じことの繰り返ししかしてなかったから、どんなことでもやってみたいと思うんだよ」
「ああ、なるほど。確かにそうだな」
直純くんの話を聞く限り、毎日家と学校の往復で、それ以外といえばピアノと学習塾などの習い事はしていたようだが全て自分の意思で始めたものではなかったようだ。
だが、自分の意思というものを取り上げられていたから、やらされるままに続けていたというのが本当のところだろう。
食事に対しても全く興味を持っていなかったのも、いつも同じ食事ばかりで食事に対する感動のようなものを見出せなかったからだろう。
「料理をやってみるのもいいかもしれないな。それで今以上に食に対する興味が増えれば食事を楽しいと思えるだろう。それに自分が作ったものを人が食べてくれるのは嬉しいものだ。そういう感情を覚えるのも直純くんにとってプラスになるんじゃないかな」
「うん、僕も料理はいいかなって思ってた。それだったら卓さんに教えてもらえるし、僕も卓さんと直純くんがキッチンで作業しているのがみられるし、楽しそう」
「一花くんは編み物を始めたと話してたよ。征哉くんが完成を楽しみにしているそうだ」
「ふふっ。あの征哉くんが? すごいなぁ」
「ああ、未知子さんも息子の変化に驚いていたみたいだけど、でも幸せそうだったよ」
「うん、未知子さんの気持ちわかるかも……」
穏やかな絢斗の表情になんだか母性が見えたような気がして、ドキッとする。
「あっ、そういえば温泉――」
思い出したように絢斗が温泉の話をし始めた途端、胸ポケットに入れていたスマホが鳴り始めた。
「絢斗、ごめん。ちょっと失礼するよ」
「うん、大丈夫」
一言詫びを入れて、スマホを取り出すと画面表示には
<昇>
とあった。
昇は私の年の離れた弟の一人息子だが、時折一緒に食事をしたり出かけたりするくらいに仲はいい。
だがこんな時間に電話をかけてくるのは珍しい。
もしかして、毅に何かあったのか?
慌てて電話をとると、
ー伯父さん、今ちょっといいかな?
といつもと変わらぬ声が聞こえた。
その声に緊急性がなさそうでホッとしながらも、わざわざ昇からかけてきたことに何かがあったことは間違いない。
ーああ、構わないよ。どうしたんだ?
ー実はさ、父さんに海外赴任の話が来て……
大手商社で働いている弟の毅は海外での仕事を任されることも多く、これまでも数回、数年単位であちこち赴任していた。
ーああ、そうなのか。今度はどこなんだ?
ーフランスだって。今度の任期は最低でも5年らしいよ。
ー毅の会社はフランス本社だったから、栄転じゃないか。すごいな。
ーうん。それはそうなんだけど……
ー何があるのか?
ー父さん、家族で一緒に行きたいって言い張ってて……俺、もうすぐ受験なのに……
ーああ……そうだったな。
昇はずっと私のような弁護士になりたいと言ってくれていて、絶対に桜城大学に行って絢斗の授業を受けるんだと子どもの時からずっと話していた。
そのために難関高校にも入って、日々勉強に励んでいたのだ。
昇は高校3年。
この時期での海外移住は厳しいものがある。
もちろん、弁護士になることが目標ならば、フランスで勉強をしてとることも可能だろう。
数年前に毅がドイツ支社に転勤していた時について行ったおかげで、昇はドイツ語もフランス語もネイティブ並みになっているし、今の学力があればフランスの大学に入学するのも難しい話ではない。
だが、昇はあくまでも桜城大学に行って絢斗の指導を受けたいのだ。
そして日本で弁護士になることが目標なのだから、今フランスに行ってしまったら彼の夢はかなり大幅な変更になる。
ーそれで、昇はどうしたいんだ?
ー俺……家事も手伝いもなんでもしますから、伯父さんの家においてくれませんか? 大学入ったらバイトも頑張って家賃と食費も入れるので、お願いします!
昇からの悲痛な訴えに、私は伯父としてなんとかしてあげたいという気になっていた。
ー本当に両親と離れてまでやる気があるのか?
ーもちろんです! 俺、桜城大学に入って弁護士になるために今まで一生懸命頑張ってきたんです。もうすぐそこまでそれが見えてるのに、今、日本を離れて後悔したくない! 伯父さんのところが迷惑なら、せめて高校の間だけ居候させてください!
電話口でも昇の必死さがわかる。
ただ単にわがままで日本に残りたいといっているわけじゃないのはわかってる。
昇がずっと必死に勉強をしていたのは見てきたから。
ー自分の言葉で毅を納得させられるか?
ー伯父さんのところに居させてもらえるなら、なんとしてでも説得します。だから……
ー昇の気持ちはよくわかった。私は昇の意思を尊重したい。
ーえっ、じゃあ――っ
ーだが、今大事な子を預かっているんだ。その子の意見も聞かないと返事はできない。期限付きとはいえ、一緒に住むとなったら、みんなの了承を取る必要がある。わかるだろ?
ーあの、じゃあ俺からその子に直接頼んでもいいですか?
ー昇から?
ーはい。間に伯父さんを挟むより、直接俺の気持ちを伝えたいし、その子に絶対に迷惑かけないって約束した方が安心してくれるだろうし、それに一緒に住むと決める前にお互いに顔合わせは必要ですよね。あっ、よかったら明日泊まりに行ってもいいですか? 一緒に過ごしてみたら判断もしやすいかもしれないし。
確かに昇の言う通りだ。
きっと直純くんは私が甥っ子を居候させたいといえば、嫌だとは言わないだろう。
だが、一緒に住み始めてからお互いに不快な思いをしないとも限らない。
せっかく心を開き始めている直純くんが萎縮してしまうようなことになれば困るからな。
試しに泊まらせるのはいい考えかもしれない。
ー明日とは言うのはかなり早急過ぎる気もするが……
ーでも、来週には会社に伝えるって言ってるし、父さんが家族で行くことを勝手に決めたら困るから。ねっ、伯父さん。お願いします!
ーわかった。じゃあ、明日泊まりにおいで。その時にじっくり考えるとしよう。
ーわぁ! 伯父さん、ありがとう!
昇は喜び勇んで電話を切ったが、まだ受け入れると決まったわけじゃない。
まぁ、いざとなれば、私たちが保証人になって昇はこの近くで一人暮らしさせてもいい。
日本にいられさえすればあいつの希望は叶うのだから。
だが直純くんを一人暮らしさせるわけには行かないのだから、この家で昇を預かるには直純くんの気持ちを確認してからだな。
「昇くん、なんだって?」
「ああ、実は……」
絢斗に今の経緯を全て話し、
「直純くんが受け入れられるかどうかだな。昇もそれを感じ取ったから、試しに泊まりに来るなんて話したんだろうが」
というと、絢斗は嬉しそうに笑って、私の腕を掴んだ。
「それ、すっごくいいと思う!」
「えっ? どういうことだ?」
「だから、昇くんがここに住むことだよ! 直純くんには、年の近い友人がいたらなって思ってたんだ。そうしたら一人で勉強することも無くなるだろうし、私たちよりもずっと話しやすい存在になれるんじゃないかな? それが昇くんなら、いうことなしだよ」
「確かに昇は相手の容量を見極めて無理なことは絶対にしないから安心だが、そううまく行くかどうか……」
「ふふっ。なんでもやってみなきゃわからないし、時には一歩踏み出すのも大事なことだよ」
私も絢斗のチャレンジ精神に私も何度も救われたな。
絢斗のそんなところに惹かれたんだ。
「とりあえず直純くんが風呂から出てきたら話をしてみよう」
「うん」
それからしばらくして、ほんのり頬を薔薇色に染めた直純くんが風呂から出てきた。
ゆっくりと湯船に浸かって、身体を温めてくることがお風呂だとしっかり教えたせいか、初めてきた日のように5分で慌てて出てくるようなことは無くなった。
それまでは風呂の時間が嫌でたまらなかったようだが、30分くらいのんびりと過ごすようになってからはすっかりお風呂が気に入ったようでよかった。
だから温泉を見ていいなぁという言葉も出てきたんだろう。
その件も考えないといけないな。
子どもがいると悩みが増えるというが、本当のようだな。
だが、それがなんとも嬉しいのは、私も親になってきたということだろうか。
「お風呂、気持ちよかった?」
「はい。今日の入浴剤もすっごくいい匂いで癒されました」
絢斗が直純くんのために可愛い入浴剤を毎日入れているが、それも気に入ってくれているようだな。
絢斗から湯上がりのレモン水を手渡され、ゴクリと飲み干す。
その時の表情も本当に可愛い。
「直純くん、ちょっと話があるんだ。こっちに来てくれるか?」
「は、はい」
一気に緊張した様子が見えて、
「もう、卓さん。そんな声でいうと直純くんが怖がるでしょう」
と絢斗に怒られてしまった。
「ああ、ごめん。そんな大した話じゃないんだ」
そういうと、ほっとした様子で絢斗と一緒にこちらにやってきた。
「実はね、明日私の弟の子ども、つまり甥っ子が泊まりにくることになったんだ」
「えっ、甥っ子さん……」
「ああ、だから直純くんにも話をしておこうと思ってね。ただそれだけなんだよ」
「あっ、じゃあ僕は邪魔にならないように部屋で……」
「違うよ。私たちはもう家族なんだ。甥っ子、昇というんだが、昇を家族で迎えたいんだ」
「僕も……いいんですか?」
「ああ、昇も直純くんに会えるのを楽しみにしていたよ。明るいやつだから少しうるさくなるかもしれないが、直純くんとは年も近いし私たちより話も合うと思うよ」
「あの、いくつなんですか?」
「昇は高校三年生。この前18になったところだよ」
「18歳……お兄さんですね」
直純くんにとって初めてのお兄さん的存在というわけか。
本当に昇がそんな存在になってくれたらいいのだが……。
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