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終章 柔らかな未来へ
2 愛の巣
しおりを挟む「では、明日からどうぞよろしくお願い致します」
「いえいえ! そんな勿体ない。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
帰りぎわ、瑠璃が丁寧に腰を折って挨拶すると、園長は非常に恐縮して、もっと頭を下げてきた。瑠璃は困って小さくなった。
「園長先生、どうかもうそれは。私はもう、こちらの一職員に過ぎぬ者です。皆にも変に見られてしまいますから」
「あ、ああ……そうですね。申し訳ありません」
これからは上司になる人なのだから、あまり腰を低くされても困る。瑠璃の事情をよく知らない職員たちや子どもたちがきっと不審に思うだろう。
あちらもこちらもまだ慣れないが、少しずつ馴染んでくるだろう。
瑠璃と藍鉄は、この施設で子どもたちの世話をする仕事に就くことになった。瑠璃の強い希望である。
無資格でボランティアとして入っている者もいるようだが、仕事として入るにはそれ相応の資格や推薦状が必要だ。そのために、瑠璃は数年かけて子どもの保育や教育に必要な資格をとった。そのほか、児童心理学や心理カウンセリングに関する勉強もしてきている。
推薦状については、少なくともこの国ならどこに持っていっても二つ返事で受け入れてもらえるものだ。
推薦人の名は「海皇・群青」。これに否やを言える国民はまずいない。
なんといっても、「かもめ園」は国営の施設である。国民の税金から賄われる施設ではあるが、給金は飽くまでも一般の国民と同額。国から定められたとおりに支払われる予定だ。
初日は挨拶だけのことで、ふたりは昼過ぎには「かもめ園」を辞した。そのまま住居のある町の方まで車で向かう。
エア・カーでほんの十分かそこいらで、島の中でもっともにぎわっている町に着く。
ふたりが住居に定めたのは、町の中では端のほうに位置するごく普通の戸建ての家のひとつだった。飛行艇の発着場を中心にして、周囲にはさまざまな集合住宅もあるのだが、「最初のうちは戸建てのほうが良うございましょう」という藍鉄の提案を容れ、瑠璃がこちらに決めたのである。
町の中心部からは少し外れた住宅街。
島の建物はゆったりとした外観のものが多く、ふたりの住居も白い壁が美しい平屋の建物だった。周囲を植え込みのある庭に囲まれている。
エア・カーを降りて玄関ポーチから中へ入ると、ふたりの荷物が入り口に届けられていた。
「本日は、寝床と身の回りのものだけの荷ほどきといたしましょう」
相変わらず板につきすぎた敬語を使ってそう言いながら、藍鉄が手早く梱包された荷物をほどいていく。瑠璃も言葉遣いにつっこむことに疲れて、もう放置している。
「いずれは自炊になりますが、今日の夕食は外でとることにしましょう。町の食事処にも、結構美味い店がございまする」
「そうなんだ。そういう店、私は行ったことないなあ。ふふ、楽しみ」
「左様ですか」
「うん。前に食べた『かもめ園』のご飯も美味しかったものな。ねえ、町の店では何が食べられる?」
言いながら、荷物の中から寝具を引っ張り出している藍鉄の肩に後ろからしなだれかかった。びくっと藍鉄が動きを止める。
「……殿下」
「だぁから。『殿下はダメ』って言っただろう」
指先で、ぐいと男の頬をつっついた。
やや困った顔でこちらを向きかかった男の首に両腕を回し、そのままちゅっと音を立てて頬に吸いついてやる。
「ベッドはどこにある? 今夜はどこで休むの。もちろんお前と一緒だよな?」
「……少々お待ちを」
瑠璃の腕をそっとつかんで引き離し、藍鉄が毛布を持ったまま立ち上がった。瑠璃の手を引き、奥の部屋へ歩いていく。
台所とリビングにあたる広い部屋を抜けてさらに奥へいくと、やや小ぶりの部屋についた。落ち着いた色調の部屋だ。造り付けのクローゼットと、中央に大きなベッド。
男が二人で寝たとしても十分な広さだ。
「こちらは最初からこの家についておりました。寝具だけは取り替えます」
「ふうん」
瑠璃は無造作にベッドに近づき、その上にぽんと座った。
ぺんぺんと自分の隣を叩いて藍鉄を呼ぶ。男は半眼になった。
「……寝具を取り替える、と申しております」
「いいじゃないか。座るだけだよ、座るだけ」
「で──」
「こらっ!」
ビシッと指さしたら、男がぴたりと口を閉ざした。
瑠璃はそのまま、ころんとベッドに横になった。
「何度も言わせるなよ。『殿下』は禁止。ちょうどいいや、今から練習しよう」
「は?」
ちょいちょいと手で誘うと、男は渋々といった様子で瑠璃の足元の方へやってきて、遠慮がちにベッドの縁に座った。
「はい、言ってみて。『瑠璃』って呼んで」
「…………」
藍鉄がますます困り果てた顔になる。瑠璃はため息をついた。
「あのさあ。いい加減にしないか? ある程度年をとると頭にも柔軟性がなくなるって言うけど、本当だな。お前のは特に国宝級だけどさ──」
「…………」
「なにをそんなに意地になる必要があるんだよ。私はもう、どこの『皇子殿下』でもないんだぞ? ただの『瑠璃』という名の男だ」
藍鉄は黙ってややうつむいた。眉間にはいつもの皺が刻まれている。
瑠璃はむくりと起き上がると、その顔に顔を寄せた。
「お前の隣にいる、ただの『瑠璃』だぞ」
藍鉄は動かない。
瑠璃はもう一度息を吐くと、男の肩にこてんと頭を乗せた。
「……あんまり遠慮されたら、さびしい」
ふ、と男の視線が動いてこちらを見た。
瑠璃はじっと、光を受けて少し緑がかって見える男の黒い瞳を見つめた。
「あんまり大事にしすぎたら、籠の鳥は逃げ出すもんだ。バカだからな。世間知らずのバカだから、ふらふら出て行って外でえらい目に遭う。……私が逃げ出して、そうなっちゃってもいいのか? お前」
つむ、と男らしい彼の鼻の頭をつつく。
男の目が、厳しい色に変化していくのをじっと観察する。
「……決して。左様なことは、決して」
「だったら、さっさとお前のものにしろ」
横から男の首に腕を回してだきつく。
「ちゃんとつかまえておいてくれ。……それでもう、二度と離すな」
と。
突然、両腕で骨が軋むほどに抱きしめ返された。
息ができないほどだった。
そうして、瑠璃は初めて聞いた。
男が耳元で彼の名を、小さく小さく囁くのを。
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