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鷲の門

蜂商野球部女子マネ2

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「みっちゃん、今日は店ぇ休みやけん、どこでも好きなとこ行きない」

雨上がりの朝、海四(みよん)は朝食のパンをかじりながらおミヨに言った。

おミヨは海四から受け取った給与を居間の座り机の引き出しに大切にしまっていた。机は前の住人が置いていったもので、ずっしり重く頑丈なものだった。
海四はおミヨが来る前の日に、部屋の小さな床の間を片付けて机と書棚を置き、違い棚にはデスクスタンドを据え付け、書斎代わりに使えるよう整えたのだった。

おミヨの普段着は、海四のお下がりや隣のレンタカー屋の大奥さんのくれたものを着回していたが、高校出たての若い子にはどれもかなり微妙なものばかりだと海四は常々思っていた。

もっとも、おミヨの方こそ高校3年間、県高野連お墨付きの純正高校球児と林業実習時の作業員、そして狸本体以外の姿になったのは本当に数えるほどだった。

徳島市の狸祭りに行く時、ティーンエイジャー向けのファッション雑誌を見ては「ええなこれ」と思ったモデルそっくりに化けたりもしたが、一日その姿でいるのはなにぶん肩が凝った。

卒業単元では「社会人一年生に相応しい化け方の工夫」なんて授業があったが、黒のリクルートスーツは窮屈この上なく、パンプスに至っては足が痛くてまっすぐ歩けないありさまだった。

今だって坊主頭の球児に化けて、野球の練習着を着てスパイク履いているのが一番落ち着くんや、としれっと言う、もう目も当てられぬ悲惨さだ。

先月の定休日、海四はおミヨに小遣いまで握らせて、そごうで可愛い服でも買うといで、と送り出した。

ー戻って来たおミヨの背中にはバットケースが引っ掛かっていた。

あの時はそれを見て、海四はああこの子ホンマに何とかせんと!と気を揉みもしたが、あの前世ではしゃーないわー、とひとりクスクスと思い出し笑いした。

おミヨは結局、大奥さんからもらった「昭和」の魔法瓶のような花柄の婦人用Tシャツに海四のアラビアンパンツ風のボトム、背中にバットケースを担いで「行ってきます」と徳島城公園の方に向かった。

こっそり狸の姿に戻って城山の木立ちに入り込んで走り回ったり、木の実や虫やトカゲを探してはもぐもぐしたり…今度は人の姿に戻るとバットを杖にして山のてっぺんの神社の跡地まで登り、徳島市内を一望した。そしておもむろにバットを構えると、心ゆくまでブンブン素振りをした。

城山を降り、売店で冷やしあめを飲んで、そろそろ店に戻ろうとおミヨは鷲の門をくぐった。

「すみません」

門の外から、聞いたことのある声。

「はい?」

「ヒプノサロンの方ですよね」

声の主は、この間二度ほどセラピーを受けに来た蜂須賀商業高校野球部の女子マネージャーだった。

「あれ?学校は?」

「試験中なんです」

「部活は?」

「明日からです」

「そうなんや」 

「…明日、夏の大会のレギュラーの発表があるんです」

…毎年のあれか。緊張するなあれホンマ。

「うわ、明日なんやね」

「…うち…」

「ん?」

「…うちにしかできんことって、先生言うてましたね…」

「うん」

「何なんやろ?ってずっと考えてるんです」

「…」

「ほんで、考えた通りやろうって思たんです」

「そっか」

おミヨは初めてマネージャーの顔と向き合った。 

「うち、何て言うたらええかわからんけど、考えた通りしっかりやり、な」

「…あの、ソフトボールやってらっしゃるんですか?」 

マネージャーはおミヨの背中のバットケースを見つけて言った。

「ううん、ソフトちゃう、うち、野球しとったんじゃ」

「え?女子野球?カッコええなあ」

…細かいことは、ま、ええか。

「…すみません。お引き留めしてしもて。…ありがとうございました!」

「HCS」の三文字をあしらった校章入りの大きなバッグを持って、マネージャーは駅に続く公園の中の道をとんとんと歩いていった。
低めに結んだポニーテールが軽やかに踊る。

店に戻っておミヨは開口一番、鷲の門で出会った蜂商マネージャーの話をした。海四は「明日、予約は午前だけやな。午後は入れんようにせな」と言うと昼食の準備を始めた。

過去世退行を行ったあとひと眠りして翌朝を迎えると、セラピー室ではあれだけ鮮明だったはずの過去の映像も音声も肌触りも、いつもおミヨの記憶から砂の城のように崩れて消えていた。海四は過去世のビジョンで見たものをみな覚えているが、海四の方からそれを口にすることはなく、おミヨもまた、それを問いただそうとはしなかった。

海四は二階の窓を、通りの側と反対の中庭の側と両方開け放ち、空気の入れ換えをした。
水晶玉の前に座ると、海四の脳裏に今まで見てきたおミヨの過去世が押し寄せてきた。
淀川商業との決勝戦を前に、美馬農林の後藤監督はナインに「好きにやれ」と言った。キャプテン梅吉を中心に、人も狸も一丸となってエース能勢を擁する淀川商業に立ち向かっていった。グラウンドを駆け巡る球児たちには、誰が人で誰が狸かなど、見る者にあれこれ言わせぬ力が漲っていた。

ーいや、こう言ってしまっていいのだろうか?

海四は心の中にわだかまるものを感じていた。
この地を支えてきた産業が近代史の荒波の中で次々と傾いていき、滅びゆく家業を捨て故郷を離れざるを得なかった無数の人々。甲子園の美馬農林ナインに注がれた、かれらのひとつひとつの瞳が胸をえぐる。
カノは写真の中で、身体の中から今にも弾けそうになるものを堪えているような顔をしていた。

おミヨがつけたラジオから、地元のフォークグループのうまくもない歌が流れてきた。

…いつになっても、ああ変わりばえせん世の中や
ホンマはごっつはがいたらしい思てるくせに、
うちら、なんしにアホみたいに
何もせんとぐずぐずしよんのやろ?
まだ若すぎるや言わんといてーだ
まだ早すぎるや言わんといてーだ
まだアカン言わんといてーだ
おまはんはせいでええ、や言わんといてーだ
いっちょまえの大人になってからもの言えって、ホンマ何なん?
そんなん死んどるんとおんなじやん!
おんなじやん!

蜂商野球部マネージャーは翌日、赤い夕焼けが夜空に吸い込まれていく頃になって現れた。
セラピーを受けるのではなくて、話だけ聞いてほしいということだった。

「うち、好きにやろう思たんです」

マネージャーはついさっきまで野球部の部室であったレギュラー発表のミーティングの話を語り始めた。

「監督が、ピッチャーから名前いい始めたんです。…キャッチャー近藤、と言われた時、部室がざわっとしたんです。

…うち、その時「何でですか?」言うたんです。監督に「何で梅沢先輩じゃないんですか」って言うたんです」

「ほんまに?」

おミヨがすっとんきょうな声を出す。海四が肘でおミヨをつん、とつついた。

「監督は「甲子園に行けるメンバーを選んだ」言うてました。
うちは「なんしに梅沢先輩じゃ甲子園行けんのですか?」言うたんです。
監督は「わしは二人をずっと見てきた」言うたけん、うちは「私かて見てきました」言うたんです。梅沢先輩には「いい加減にせんか」と言われました。
監督には「君が私情を挟むことではない」と言われました。
「うちが必死で考えてきたことを私情やなんて言われるのは、おかしい思います」言うたら、梅沢先輩が「ほんま、いい加減にせんか!」ってうちのこと、部室から引きずり出したんです」

「…それで、ここに来たの?」

海四の言葉に、マネージャーは少し涙ぐみながらうなずいた。
おミヨは大きな目を見開き、口をぐっと結んで固まっている。

「うち、好きにしたんです。先輩のためとかちゃう、自分のためいうか、うちがそうせんとおれんかったから、言うたんです」

「もう一人のマネージャーの子は?」

「何も言うてませんでした」

「これからどないするの?」

「…まだよう考えてへんのやけど、うちが決めます」

「そっかー」

海四はマネージャーの手をとった。

「また何かあったら、いつでもおいで、な」

「ありがとうございます」

マネージャーは校章の入った大きなバッグを両手で持ち上げると、鷲の門の方に向かって歩いていった。

その後ろ姿を見つめながら、ふいにおミヨのどんぐり眼からぼろぼろと涙が流れ落ちてきた。
声を上げて泣くおミヨの肩を抱きかかえるようにしながら、海四は店の引き戸を開けた。
    
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