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MINO 1930s 海を見た山狸

淀川商業

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 海四(みよん)は行李の真上に展開したビジョンを見ながら、心のなかで「みっちゃん、いよいよ決勝戦やな」と呼びかけた。


 後藤監督は、昨秋から板東に任せてきたマスクを、この決勝で梅吉に託した。海四はふと、蜂須賀商業のあの女子マネージャーと梅沢喜一のことを連想していた。

 そびえ立つアルプススタンドと大鉄傘にこだまする歓声。決勝戦の雰囲気はこれまでとガラリと変わった緊張感を美馬農林ナインにもたらした。

 相手は甲子園夏の大会三連覇を狙う地元大阪の強豪・淀川商業。エースの能勢正浩は一回戦をノーヒットノーラン、その後も完封勝利を重ねてきた。新聞はこぞって鉄腕能勢と機動力野球の美馬農林の対決を紙面一杯に書き立てた。

 球場には淀川商業三連覇の瞬間を期待する地元ファンに判官贔屓の野球通が、朝早くから次々にやってきた。一塁側アルプススタンドは淀川商業大応援団が陣取っている。

 三塁側美馬農林スタンドには、徳島から大阪や神戸の町工場や縫製工場に出稼ぎに来ている若者や奉公人の少年少女たちがこぼれんばかりに詰めかけた。

 座席の最前列には、長駆重清から西宮に駆けつけた美馬農林学生会執行部の学生たちが掛けた岡田校長直筆の横断幕「MINO YOU CAN DO IT!」がひらめいている。

「あれ、何て意味やろか?」

 七兵衛が横断幕を指さす。平助は

「あほ、お前英語の時間寝よったんか?あれはな、おまはんらは絶対やれるんやけん、しまいまで精出してしなはれ!いう意味や」

「そっか。ほなけんどすごいなあ」

 スタンドを見上げてため息をつく狸たち。

「わいらは化けてナンボの商売や。ほなけん、勝ってあの人らが元気で工場に戻れるようせなならんのや」

「そや梅吉、阿波狸の底力の見せどころやな」

 平助はようやくなじんできたスパイク靴を履いた足でトントンと足踏みした。

 試合開始の時間が近づき、両校ナインはベンチ前で円陣を組んだ。

 後藤監督が「お前たち、今日はお前たちで好きにやれ。わしはここで見とるけんな」と言うと、梅吉は「わしらで好きにやります。そして勝ちます」と答えた。

 平助が円陣の中心で「MINO YOU CAN DO IT!」と叫ぶと、淀川商業の掛け声に負けじと「MINO YOU CAN DO IT!」の合唱がグラウンドに響いた。


 ー英語の横断幕なんて、またずいぶんハイカラやなあ。

 ーほんまや。もし「郷土の誇り」なんて書かれてしもてたら、うちどないしてええかわからんようなるなぁ。

 ーほんまやなぁ。

 ビジョンを見つめながら、海四とおミヨは言葉を交わした。

 ーそやけど甲子園ほんまにすごい、うちまで緊張するわぁ。タチノーが甲子園行けるの、いつになるんやろなぁ…

 おミヨはそう言いながら再び過去世に入っていった。


 淀川商業エース能勢の球は想像以上だった。決め球の懸河のドロップもさることながら、針の穴を通す制球力で、バッターの嫌がるコースをビシビシと突いてくる。

「ドロップの曲がりっぱなを叩け」
 梅吉は上位打線のメンバーに言った。

「能勢が一番自信を持っとる球を叩くしかない。思い切り振っていけ」

 一回に荒岡の立ち上がりを打ち込まれ2点を失った美馬農林だったが、その後は両チームとも無得点が続き、七回裏の美馬農林の攻撃に入った。

「うち、走るけんね」

 ベンチの仲間にそういい残して、カノは三度目の打席に向かった。

「加納、YOU CAN DO IT!」 

 ベンチの仲間が声援を送る。

 ここまで美馬農林は無安打に押さえられていた。

 あっという間にツーストライクに追い込まれたカノは、能勢の決め球を待ってましたとばかりに三塁ファールラインぎりぎりに転がした。
 セーフティバントで出塁したカノは、一塁ベースから能勢の様子をうかがった。想定外、という表情が一瞬よぎったのを、カノもベンチの梅吉も見逃さなかった。
 それでも淀川商業二連覇の立役者である能勢の球威は健在だった。カノを一塁ベースに釘付けにしたまま後続のふたりを三振に打ち取り、無死一塁は二死一塁に変わった。

「行くで」

 カノは打席に立った梅吉に目配せした。梅吉はドロップの曲がりはなにバットを合わせて引っ張った。

 カン!

 快音とともに球は一、二塁間を抜けた。三塁コーチャーの板東が三塁まで来いと手招きしている。

 三塁に頭から滑り込むカノ。

 審判の両腕が横に広がった。

 ー立ち上がったカノの右手から赤い滴が垂れている。さっきのプレーで三塁手のスパイクに右手がもろに当たったのだ。

 板東は青くなった。

 次の打者は七兵衛。能勢の決め球を下からすくいあげてしまい、ピッチャーフライに打ち取られた。美馬農林は二者残塁のままチェンジとなった。

「ドンマイ! タイミング合うてきてるで河野」

 梅吉がうなだれる七兵衛に声をかけた。三塁側ダッグアウトに戻るカノの右手からは、ボタボタと赤い滴が流れ落ちている。

 後藤監督は主審に、球場の医師を呼ぶよう要請した。

 カノの右手のひらには狸の肉球が浮かび上がり、それがぱっくりと割れていた。
 医師は傷を見て驚いた表情を浮かべた。

「うちの生徒です。お願いします」

 後藤監督の真剣なまなざしに、赤く裂けた肉球にとまどいの色を浮かべていた医師は腹をくくったように往診鞄から器具を取り出し、消毒した。

「…今から縫います。麻酔をするとボールを握れなくなります」

「麻酔なしでお願いします」
 カノは医師をまじまじと見つめた。

「…動くとあかんから、押さえて下さい」

 カノは口にタオルを咥えると、チームメートに身体を押さえられながら治療を受けた。

 カノは肉球に針が刺さる度に渾身の力でタオルを噛み締め、悲鳴を噛み殺した。激痛で身悶えする度にチームメートは口々に「辛抱せえよ!」と声をかけ、カノの身体を押さえ込んだ。
 肉球を縫い終えた医師は、消毒薬で傷を洗う。カノは全身を震わせながら耐えた。

 治療が終わり、右手に包帯を巻いたカノは、半分気を失っているのか、焦点の合わない視線をぼんやりと泳がせている。

「加納…カノ!」

 梅吉はいきなり飲み水の入ったヤカンを持ち上げると、カノの頭に思い切り中の水をぶっかけた。

「何するん!」

 カノの視線がまっすぐ梅吉を捉えた。

「カノ!」

 ――そうや。梅吉、うちはカノや。

「ほれ。カノ、早う外野へ行け」

 監督はグラブをカノの方に突き出すと、その背中を叩いた。

 カノはグラブを持ってグラウンドに出た。

 主審が胡乱な顔つきで頭から水をしたたらせているカノの全身をひとわたり見わたすと、その顔を凝視した。

 目のまわりから両の頬にかけて、真っ黒な隈が浮かび上がっている。

 カノはその視線を真正面からじっと見返した。

 ――うちはカノじゃ。

 カノは両の頬にぴんぴんと生えた狸のひげを左手で一捻りすると、「WE CAN DO IT!」と叫んでセンターの位置までまっしぐらに走っていった。
 レフトとライトが寄ってきて、内野への送球は任せろと言った。カノはこくこくとうなずいた。

 その間に右手の包帯の色が少しずつ赤くなっていく。


 …みっちゃん…

 海四の目に涙が浮かぶ。

 …うち、大丈夫やけん、海四さん、続けて、な?

 ーうん。

 海四はタオルで目頭を拭うと、行李の上のビジョンに目を移した。

 八回の表裏は共に得点なし、試合は最終回の淀川商業の攻撃に入った。
 包帯から絶えず血がじくじくと滲み出てくるのを、カノはグラウンドの土をかけては抑えていた。

「荒岡、遠慮なく打たせろ」

 梅吉は肩から背中にかけてじっとり汗を滲ませながらマウンドに向かう荒岡に言葉をかけた。甲子園では連投に次ぐ連投で、もう気力だけではどうにもならないことは明白だった。

「打たせてくけんな! しまっていこう!」

 梅吉はダイヤモンドの要から両腕を大きく広げて気合いを入れた。

「おう!」

 ナインは梅吉に応えるように両腕を上げ、カノはグラブをはめた左腕を高々と突き上げた。

 荒岡は、行き先は球に聞いてくれ! とばかりに渾身の力で投げ込んだ。
 淀川商業は四球で出たランナーをバントとヒットで三塁に進めた。

「ワンアウト!」

 梅吉が指を一本立ててナインに声をかける。
 次打者は八番。美馬農林はスクイズを警戒して前進守備だ。追加点は絶対にやれない。

 荒岡の球がわずかに上ずったところを、打者ははっしと捉えた。球はセカンド後方まで前進していたカノのところに勢いよく転がってきた。まっすぐボールに駆け寄りながら素早くグラブですくい取ると、カノは血のにじんだ右手で梅吉に返球した。
 球はワンバウンドで梅吉のミットに吸い込まれた。クロスプレーだ。

 ー土ぼこりの向こうで主審の両腕が横に広がるのが見えた。


 3対0で迎えた九回裏、打順は追加点を許したカノからだった。
 ユニフォームの右側には点々と血の跡がついている。打席の手前で、カノは右手の血止めにグラウンドの土を何度も擦り込んだ。
 右手はバットをまともに握れない。
 それを見越してか、淀川商業は前進守備を敷いている。

 カノは能勢のドロップの曲がりはなを叩いた。当たりは詰まったが、球は前進守備のすぐ後ろに落ちた。

 内野安打だ。

「加納! 加納!」

 ノーアウトのランナーに、美馬農林ベンチもスタンドも俄然勢いづいた。次打者は三振だったが、風車のようなスイングでカノの二盗を援護した。
 三塁コーチャーの板東は七回のアクシデントを思い出し、身体が震えた。

「うち、走るけんな!」

 二塁に頭から突っ込んだカノは、すっくと立ち上がると三塁側ベンチに向かって声をかけた。
 狸のひげを左手でくいと捻ると、カノはじりじりとリードを広げた。


 …みっちゃん。

 海四はクライアントの過去世を見ることが、これ程辛いと思ったことはなかった。目を逸らしたい衝動とたたかいながら、海四はビジョンを凝視した。


 次の打者はサードライナーで二死二塁、梅吉が打席に向かった。

「走るけんな!」

 カノは打者の梅吉、三塁側ベンチとコーチャーの板東に向かって左手を大きく振った。
 板東はごくりと生唾を飲んだ。

 ーカン!

 梅吉の当たりはセンター前ヒット。センターが捕らえた球をハンブルする。板東が大きく腕を回す。カノは三塁ベースを蹴ってホームに向かう。

 ーそれを見透かしたようにセンターは腕を鞭のようにしならせると、ダイレクトでバックホームした。

 カノは右側から回り込むと左腕をホームベースに伸ばした。捕手はミットでその手を払うようにタッチした。

 ー主審の右拳が捕手と走者の交錯する上に突き出された。

「アウト!」

 一瞬静けさの広がった球場に、ゲームセットのサイレンが鳴った。

 淀商は強い。投手の能勢もあのセンターも、みんなほんまに憎らしい。

 ービジョンには、準優勝の盾を囲んで記念写真におさまる美馬農林ナインの姿が映った。県立図書館の「徳島県学生野球史」に載っていた、あの写真だ。

 おミヨは精魂尽き果てたように、過去世から眠りの世界にゆっくり沈んでいった。海四は立ち上がれぬまま、両手で行李の縁を握った。
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