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ルシファー事変

弱く強い者

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「おい。どうした!状況は!おい!」



 音信が不通となった。間違いなく死んだと確信出来る。
 敵が何者から知らないが、このままでは各個撃破されるのは目に見えていた。
 今のところ例の獣は現れない。広がっている意味がないと彼は判断した。
 隊長は全員に1箇所に固まる事を指示した。雑木林を駆け誰一人欠ける事なく1箇所に集まった。
 そこにはさっきの新兵が顔を青ざめ呆然としていた。
 隊長は彼の肩を揺さぶり、何があったか問い詰めた。
 彼は震える声色で恐る恐る話し始めた。
 まるで世にも恐ろしい怪物を必死に伝えるように……。



「あいつ……いきなり、目の前で消えて……残像で……気づいたら頭が……ひぃっ!」



 彼はある種のPTSDでも発症したように頭を抱え、恐怖に震えていた。
 彼の言葉を纏めても要点が絞り込めない。
 消えたとか残像と言われてもその脅威が彼等にはイマイチ分からなかった。
 新兵が恐怖のあまり敵を異形の怪物と誤認する事はよくある。
 彼等は恐らく、その類だと思い新兵に憐憫な眼差しを向ける。

 次の瞬間、仲間の1人がドサッ倒れた。
 倒れた仲間を一瞥すると真横から血が流れ、既にこの世の人ではなかった。
 隊員達の間にすぐに緊迫した空気が漂い、新兵は恐怖しその場に蹲る。
 隊員達が撃たれた方向を覗くとそこには防弾チョッキとダイレクトスーツを着込んだ女……と言うより少女というのが妥当な容姿の女がいた。
 右手にライフルを握り締め、左手にナイフを持ちゆっくりとこちらに歩み寄る。

 ゆっくり動く様と神が創り出したような美しい容姿に心が惹かれる。
 だが、その眼はまるで心を射抜かんばかりに鋭く決して臆していない。
 顔やダイレクトスーツには返り血を浴び、純白のような蒼い髪にべっとりと付いている。

 隊長はその時、感じた。



(ヤバイ)



 血の香りはそこまで強くはないが、醸し出される決意は獣以上の生存本能を彷彿とさせる。
 血の香りがしないと言う事はそこまで人を殺した事はないはずだ。
 なのに、自分の目の前には自分がイナゴに思えるほど巨大な手負いの獣がいるように思えた。
 何とも異質な怪物がそこにいると言う印象を受ける。

 更に獰猛な獣のように鍛え上げられた肉体を見るにかなり鍛錬された身体能力の高さが伺える。
 その時、初めて新兵が戦慄したのが分かる。

(確かにヤバイ)

 彼の今まで生きてきた戦場での危機管理能力がこの敵から「逃げろ」と言っている気がした。

 だが、彼の目は盲目だった。

 血の香りがないなら素人であるに違いないと見た目が容易そうな任務に見えた高額報酬に目が眩んだ故に自分の本能が誤りだと正当化してしまったのだ。
 少なくとも敵意を向けなければ戦う事はなかった。



「全員撃て!」



 その掛け声とともに引き金を引こうとした。放たれた弾丸は敵にめがけて飛んで消えた。

 敵が消えたのだ。

 その事実を誰もが直視出来ず僅かな間硬直してしまう。そして、その時目が合ってしまった。
 自分達の懐に飛び込んでいた少女が冷たい刺すような眼差しでこちらを見つめている事に……。
 少女は体をその場で回転させナイフが首元に差し迫る。



「化け物め!」




 それが隊長の呟いた最後の言葉だった。
 周囲に固まった事が原因で首のない体が一気に7人地面に落ちた。
 その返り血が少女の体にべっとりと付着し血の香りを漂わせていく。
 彼女は着実に戦士になろうとしていた。
 新兵を除いたナイフの圏外にいた残りの2人はようやく事実を直視し戦慄した。
 彼らは目の前の少女が怪物で自分達を殺す殺人マシンのように見えた。

 殺さなければ、死ぬと言う本能から彼等は泣きながらライフルを向けて放つ。
 少女はその場から動こうとせず、発射の瞬間、肩を一瞬だけ引くような奇妙な動作を見せた。
 彼等の連射した弾丸は当たるはずの距離で外れた。

 その事に更に戦慄した。弾の当たらない化け物など彼等は聞いた事がなかった。
 あの狙いは確かに命中だった。
 体に染み込ませた体感が確かにそう告げる。
 だが、化け物は何事もなく立っている。
 銃と言う優位性が消え「銃が効かない」「あんな化け物どうやって……」と彼は恐怖は頂点に達する。

 とにかく、生き残りたいがために遮二無二にライフルを撃とうと再び指を引き金にかけようとした。
 だが、その瞬間少女が左手に握られたナイフを素早く投擲、続け様に右手からも素早くナイフを投擲した。

 ナイフは2人の顔面に食い込み衝突の反動で背後の木に顔面ごと突き刺さった。
 顔面は強い衝撃で完全に潰れ、既に原型はなく誰なのかも判別出来ない。
 顔面を串刺しにされ、木にダラリと事切れた死体がぶら下がっている。

 少女は静かに歩み寄り両手で勢いよくナイフを抜いた。
 死体を糸が切れた様に地面に落ち、返り血も顔から噴出し少女の全身にかかる。
 少女はただ、無表情で冷たい面持ちで死体を見つめる。
 新兵はその一部始終を見ていた。悪い悪夢を見ているようだった。

 目の前には少女の仮面を被った鬼がいた。
 鉄仮面のように無表情で機械の様に殺人を実行する戦闘マシンがそこに立っている。
 新兵は恐怖のあまり失禁し体中から液を零しながら口を開けている。
 もう逃げる事すらできないほど恐怖していた。
 そんな彼に少女は一瞥し近寄って来た。
 新兵はガクガクと身を震わせ頭を地につけた。



「お願いします!殺さないで!」



 あまりの畏怖のあまり心の声が言葉として出た。
 彼は気が触れて狂気に駆られていた。
 まるで怒りに囚われた親に赦しを乞う子供のように彼は泣きわめく。



「戦う気がないなら殺しはしない。あなたにその気があれば初めから殺してる」



 アリシアは彼に分かるように丁寧に説明した。
 だが、彼は完全に気が触れ、興奮し上手く事実が呑み込めないのか、未だに赦しを乞い地面に平伏している。
 アリシアは表情を変えず、どう伝えれば良いか考えているとこの状況で取れる最善の手を思いついた。
 一度自分の端末を確認し吉火に連絡を入れ、「イケる」と判断した。
 彼女は言い方を変えた。



「あなた、通信機を出しなさい」

「へぇ?」



 新兵は突然の事に何を言っているか分からず、呆気に取られたように口を大きく開く。



「通信機を全部出さないなら殺す」



 アリシアは表情を変えず、淡々と機械のように宣告する。
 男は背筋の凍るような想いに駆られ、自分の通信機を慌てて出し、それをアリシアに献物のように捧げた。
 アリシアはそっと通信機を置きナイフで通信機を破壊した。
 男は訳が分からず、ただ口を開いたまま通信機を見つめる。
 捧げた献納物が気に入らなかったのか、等と可笑しな不安に駆り立てられていた。



「あなたの事を生かしておいてあげます。その代わり雇い主にこう言って下さい。軍の威信にかけてわたしが部隊を引き連れて消しくから首を洗って待っていなさい。こう伝えてくれるかな?」



 男は自分の生き残れる道が開けたと理解し「わかりました!」と何度も反芻した。
 アリシアはそのまま男を野に放ち、徒歩で帰還させ、カエストを呼び寄せ奪った輸送車で州境に向かう。
 アリシアの体力を気遣いカエストが運転をしていた。

 その間、アリシアは返り血を拭き取った。
 運転し少し経った辺りで気持ちにゆとりができ、アリシアが何を話していたのか気になり、カエストはアリシアに尋ねた。アリシアはそれに答えた。

 通信機を破壊したのは単純にすぐに連絡を入れられない為。
 あの彼が正気に戻り通信をした場合、州境を容易に超えられない可能性があったからと説明した。

 伝言を頼んだのは徒歩で帰還するとなるとかなり時間がかかる。
 最低見積もっても数日はかかる。
 雇い主に伝言が届いた時には既に数日経っているので雇い主は大部隊が攻めてくると勘違いし防衛に専念し侵攻をやめる可能性がある。
 それなら自分達の脱出がアクシデントで遅れても時間が稼げると打算したのだ。

 カエストはその説明に疑問があった。
 仮に帰還中に部隊に拾われ、想定以上速く雇い主に事が伝わればどうするのか?
 アリシアもそうなる可能性を考慮して吉火に衛星で周辺の敵部隊の位置情報を把握した上で送り出したと説明した。

 少なくとも獣への警戒も相まって分隊からの連絡があるまで迂闊な行動は出来ない。
 輸送車と分隊しか派遣できなかった辺り、彼らにさほど余裕がないのは伺い知れた。
 これ以上、戦力を失わない為に意識が狭窄すると踏んでいた。
 いずれにせよ、これである程度の時間稼ぎは出来たと言う事だ。
 あとはスピーディに脱出するだけとアリシアはカエストに説明した。

 カエストはようやく得心し首肯した。
 中々、新兵とは思えない頭の回転の速さ心胆では驚いていた。
 彼女のような新兵がたくさんいれば、それだけで戦力向上に繋がりそうだが、やはりそうはいかない。
 何せ、カエストは戦闘の一部始終を見ていた。

 あの常人離れした身体能力、戦闘技術並みの努力では到底辿り着けない域にまで達していた。
 目に残像を残すほどの速さ恐らく、時速360kmは出ていたと考えられた。
 チーターの3倍近い速度で移動するなどもはや人間の域ではない。
 それだけを見れば新兵とは言え、そこに至る過程の訓練がどれだけ過酷な想像すら出来ないほどだと分かる。




(この歳で一体、どれ程の鍛錬を積んだのだ?)




 想像だけなら血反吐を吐くような努力をしたに違いない。
 自分の周りにいる男の新兵の中には訓練がきつくて手を抜いたり、軍に変な憧れを抱き物見遊山気分で入隊する者がおり、そう言う者には厳しく接しているが彼女にはその余地すらない。

 寧ろ、これだけの努力をして体を壊さないのか心配だ。カエストからしても彼女ほど努力した兵士はいないと断言出来る。
 すると、彼女は「席を外します」と言って後ろに下がった。
 カエストは引き止める理由もなかったので了承した。
 アリシアは後ろに下がって何かぶつぶつ言っている声がした。
 その声は震えている印象を受けた。気になり耳を立てて聴いてみる。




「殺しちゃった殺しちゃったよ。胸が痛い……でも、耐えないと頑張って耐えないと……まだ、頑張らないと!」




 カエストは悟った。この少女は怪異的な強さを持っているが決して兵士には向いていない。
 寧ろ、辛い事を誰よりも耐えているからこそ、その強さがあるのだと彼は理解した。
 
 カエストはかける言葉が浮かばなかった。
 あの獣とも戦えなかった不甲斐ない男が彼女のような弱く強い者にかける相応しい言葉が思い浮かばなかったからだ。

 その後、州境近くで輸送車を乗り捨て夜になってからアリシアが通った地雷原を通る事になった。
 既に安全なルートに目印をつけていたらしくそこを匍匐前進するだけで州境を越えられた。
 超えた後、彼女が予め手配した電動バイクに跨り、隣のムプマランガ州に向かい待機していた輸送機に乗り込み何事もなく戦域から脱出した。

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