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第六十七話 同士討ち再び
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1450年の年が明けた。
正直当初はワラキアが生き延びることしか考えていなかったが、今の俺にはヘレナの故郷ローマ帝国を見捨てることはできそうにない。
ならば、1453年の4月までにはオスマンと正面きって争う戦力を保有するしかないだろう。
しかしそれはあまりにも難しい命題に思われた。
ほとんどルーマニア人で占められ生活習俗なども共通点の多いトランシルヴァニアはともかく、ハンガリーやクロアチアをどのようにして早期に戦力化するか、
そのためにブダに常駐しているような有様だが、いまだその成果は見えてこない。
しかし上部ハンガリーやオスマンへの出兵がなくなり、経済が目に見えて好転したこともあって国民の間では俺の評判は上々のようであった。
いつの世も庶民とは現金な生き物だ。
ところが好事魔多しというが、俺をハンガリー王位につけ、ハンガリーにとりこんでしまおうという勢力も存在するので対応が難しい。
少なくとも俺の治世を歓迎し、協力の姿勢を見せている連中だから余計問題であった。
それに加えてハンガリーへ亡命してきたセルビアやボスニア貴族が、同じ正教会の同胞として奪還のための軍を発しろと運動を開始していた。
名目上、俺は正教会の大司教でもあるので、主張自体は正しいのだ。
現実問題としてそんなことができるわけがないのだが、できないなら背教だ! とかぬかしやがるので始末に終えない。
いずれろくでもないことを企むだろうから、そのときにまとめて粛清してしまおう。
今やワラキア大公の称号は実体に即したものではなくなっているが、仮に王号を名乗りとするなら、それにはオスマンのスルタンの許可が必要なことは間違いない。
さしずめルーマニア国王とでも名づけることになるだろうが。
「………かといってスルタンの威光で戴冠なんかしたら……誰もついてこないな、きっと」
今のところはオスマン帝国の属国の座に甘んじておくしか手はない。
いつか敵になるそのときまで。
「シエナ」
「御前に」
「…………カリル・パシャと繋ぎはついたか」
「御意。もっとも向こうの信を得たわけではありませぬが」
「パイプを繋げたなら今はそれでいい」
史実通りコンスタンティノポリスが陥落されれば、メフメト2世と対立して一族族滅の憂き目を見る宰相だ。
ムラト二世が元気でいるうちはいいが、メフメト二世が即位すれば今の立場はないことぐらいは承知しているだろう。
そもそもメフメト二世を一旦退位させた黒幕はこの爺さんなのだから。
油断のならない狸とはいえ、メフメト2世に比べれば遥かにマシな相手だった。
「ムラト二世の健康状態を探れ。オレの教師をしていた学者兼医者でメムノンという男がいる。奴に近付けばある程度の情報はとれるだろう」
「御意」
無表情のシエナを相手に無意識に俺は口ごもる。
「それと…………ラドゥは元気にしているか?」
キリリ、と胸を針が刺すような痛みを幻知する。
ほとんど無条件に慕ってくれたたったひとりの弟、俺をこの世界で必要としてくれた初めての人間、遠く距離を隔てても、ラドゥとの家族の誓いは今もこの胸にある。
「ワラキアの串刺し公の弟として、スルタンにも目をかけられております。お健やかなるものと」
イェニチェリ軍団のなかで、将来の幹部として教育されているという報告は受けている。
変に期待をかけられすぎなければいいが。
ラドゥはこの戦乱を生きるには優しすぎる少年だから。
もしかしたらそれは自分の記憶の中だけにいるラドゥなのかもしれないけれど。
史実においてラドゥは貴重なヴラドへの対抗馬であった。
あるいはオスマンの庇護下とはいえ、ヴラド以上にワラキアをうまく統治したとも言える。
仮に自分がオスマンと敵対しても、ラドゥの身分は保障されるだろう。
そんな身勝手な理屈を並べる自分に自己嫌悪を覚えて、俺は頭を掻いて嗤った。
無性にヘレナに会いたかった。
いつからだろう、自分小夢が終わったことを知ったのは。
それは偉大なる遠征の途上であったのかもしれず、またあるいは崇敬するヤン・ジシュカが死んだ瞬間であったかもしれない。
もしかしたらあの夕暮れの丘で、兄弟たちの鉄と血で染め上げられた地獄を見るまで、本当の意味ではわかっていなかったのかも。
――――いずれにしろ夢は終わった。
いや、終わらせなければならないのだ。
夢と夢のはざまにたゆたっていたあの陶酔を、今さら現実として認めるわけにはいかない。
何故ならオレは真実を知ってしまったのだから。
不愉快そうにヤンはエールを呷って長い息を吐いた。
ヤン・フスが唱えたウィクリフ主義の思想は、逼塞した旧時代に別れを告げ、新しい時代を告げるものに思えた。
そう思えるほどに聖職者たちは堕落しきっていたし、悪名高い免罪符はそのよい証左にほかならなかった。
ミサで司教だけが飲むことができたワインを、あらゆる人民が飲むことができる、いわゆる二重聖餐もつきつめていけば絶対的であった教会権力の否定であり、人間は生まれながらに神の前には平等であることの表象であったのである。
人民の人民による人民のための統治、後の世リンカーンによって引用されるジョン・ウィクリフ訳聖書の冒頭に綴られたあまりにも有名な一節は、まずプラハ大学の知識階級に熱狂的に迎えられ、教会の搾取に苦しむ大衆へと広まり始めた。
神への信仰を聖職者の手から自らの手に取り戻すという使命感は、いつしか燎原の火の如くボヘミア中に燃え広がっていった。
だが、そんな理想とは裏腹に、現実の策謀は堕落した聖職者たちとさほど変わらぬ距離にいた。
ボヘミアは国土の三分の一が教会領となっている稀に見る宗教国家である。
教会の威勢は政治経済司法のあらゆる方面に及び、貴族や商人は長く忍従の時を強いられてきたのである。
その彼らにとってフスの教義はひどく都合のよいものに思えた。
貴族たちは教会の領土を、商人たちは自由な商売を求める方便として、フス教徒の支援に乗り出したのはあくまでも目先の利益のためだったのである。
最初からヤンの理想は捻じ曲げられ、穢されていた。
――ボヘミアに神の国を造ろう。
ジェリフスキーの爺さんもジシュカの親父も、誰もがそう信じて疑わなかった。
しかしそれも結局は、上の奴らにいいようにこきつかわれただけだった。
教会の威信が地に堕ちた後、用済みになった俺たちは貴族や商人に見放され、リパニで生きながら業火の火に焼かれた。
そう、神の国なんざほんのひとにぎりの連中以外、誰も望んじゃいなかったんだ。
もっとも俺も人のことは言えねえか。
なにせ俺は親友のプロコプやフロマドカを見捨てて逃げ出した男だからな。
…………あの時オレはほとんど無我夢中で、重囲した敵の大軍を突破するのに必死だった。
わずかに東の包囲が浅いのに気づいて、損害を省みずにひたすら前に進んで、ようやく包囲を抜けたと思ったとき、俺は気づいた。
プロコプが、……俺の親友が、逃げる俺の背後を支えていてくれたってことに。
前を向いて戦いながら、背後からの追撃が薄かったのは、プロコプが身を挺してかばっていてくれたからだった。
………早く行け、そしてお前は生きろ。
プロコプの空のように青い目がそう言っていた。
今さら引き返そうにも、俺とプロコプの間にはチャペック率いる裏切り者が再び重囲を形成しようとしていた。
どうして決断したのか覚えてもいないし、言い訳をする気もない。
俺は友を見捨てて一人戦場を生き延びた卑怯者だ。
――――だから俺に命令していいのは、死んだプロコプやジシュカの親父だけだ。
あの夢を、神の理想を語っていいのは、リパニで死んだ俺の兄弟たちだけだ。
死んでしまった夢を語れるのは、死者以外にいないのだから。
大きな蛮声とともに戦場音楽が鳴り響く。
一人の男がヤンの天幕に転がるように走りこんできた。
「ヤン様! 味方は押されています、このままでは………」
あの日の血のような夕暮れと同じ光景が、今目の前で繰り広げられていた。
上部ハンガリーを実効支配していたヤン・イスクラ軍団は、ヤン率いる傭兵軍とフス派残党軍に分かれて戦闘状態に陥っていたのだ。
ヤーノシュや神聖ローマ帝国が離間工作を計っていたのもあるが、もっとも大きな原因はヤンがフス派の教義を尊重しないことにあった。
フス派の残党軍でありながら、実質はヤン率いる傭兵軍団でしかないことに不満が溜まっていたのである。
いつになったら祖国ボヘミアを奪還するのか。
この地上に神の国を打ち立てるのはいつなのか。
ヤンは彼らの不満を一顧だにしなかった。
そんなことは無理だとわかっていることだからだ。
そして両者はついに決裂した。
もともとフス派の戦いは堡塁車両で形成した戦線を挟んでの火力戦だ。
リパニの戦い同様、お互いにこの戦術を使えば、延々と続く火力の消耗戦になる。
そうなると先に根気を無くした方が負ける、すなわち士気の低いほうが負けるのが自明の理であった。
ヤンの傭兵軍も士気が低いとはいえないが、相手は狂信をもってなるフス派教徒の群れである。
ヤンの劣勢は誰の目にも明らかだった。
「背教者、ヤン・イスクラを討て!」
時間の経過とともに、ヤンの軍から放たれる銃声がまばらになり始めていた。
押され始めた形勢を感じ取った傭兵たちの逃亡が広がっていたのだ。
勝利を確信したフス派教徒が、堡塁車両から続々と姿を現し追撃の体勢に入ろうとしていた。
ふん、意地汚く生きてきたが、どうやら俺もここまでか
不思議と逃げる気にはならなかった。
それどころかどこかほっとしている自分がいた。
親友プロコプたちを見捨ててまで逃げ延びた命なのに、今思えば苦い思いしかない生だった。
ああ、なんのことはない。
これからは神のためではなく、自分の好きなように生きるなどとは言いつつも、心のどこかで贖罪を求めていたのだ。
いや、叶うことならもう一度あのときに戻って、親友を助けに行きたかった。
プロコプを助けたかった。
もう一度親友(あいつ)とともに戦いたかったのだ。
……………まったく度し難い未練だな………
あのとき俺には友を助けるだけの力がなかった。
もし、今の自分があのときの丘にいたら兄弟たちを助けられるのだろうか?
仲間を助けたかった
親友を助けたかった
あの場で逃げてしまったことへの悔恨が、俺を永久にあの丘の夕暮れに縛り付けてしまっていた。
もう一度親友に会うことがあれば俺は――。
「死ね! ヤン・イスクラ! この背教者め!」
勝利を確信して突進するフス教徒たちの鼻面に、突如爆発の華が咲いた。
全く予想もしない攻撃に、狂信的な教徒といえども戸惑いを隠せない。
誰だ? 誰の指揮か知らんが、いいタイミングだ。
「擲弾兵! 再度投擲後一斉射撃! 銃兵は突撃せよ!」
おいおい、いったい誰が?
親友を見捨てて、今神にも見捨てられようとしている俺なんかを助けにくるっていうんだ?
「ヤン様、あれは………ワラキア公国軍! ワラキア大公ヴラド殿下です!」
「大公自らってか? 冗談だろ?」
正直当初はワラキアが生き延びることしか考えていなかったが、今の俺にはヘレナの故郷ローマ帝国を見捨てることはできそうにない。
ならば、1453年の4月までにはオスマンと正面きって争う戦力を保有するしかないだろう。
しかしそれはあまりにも難しい命題に思われた。
ほとんどルーマニア人で占められ生活習俗なども共通点の多いトランシルヴァニアはともかく、ハンガリーやクロアチアをどのようにして早期に戦力化するか、
そのためにブダに常駐しているような有様だが、いまだその成果は見えてこない。
しかし上部ハンガリーやオスマンへの出兵がなくなり、経済が目に見えて好転したこともあって国民の間では俺の評判は上々のようであった。
いつの世も庶民とは現金な生き物だ。
ところが好事魔多しというが、俺をハンガリー王位につけ、ハンガリーにとりこんでしまおうという勢力も存在するので対応が難しい。
少なくとも俺の治世を歓迎し、協力の姿勢を見せている連中だから余計問題であった。
それに加えてハンガリーへ亡命してきたセルビアやボスニア貴族が、同じ正教会の同胞として奪還のための軍を発しろと運動を開始していた。
名目上、俺は正教会の大司教でもあるので、主張自体は正しいのだ。
現実問題としてそんなことができるわけがないのだが、できないなら背教だ! とかぬかしやがるので始末に終えない。
いずれろくでもないことを企むだろうから、そのときにまとめて粛清してしまおう。
今やワラキア大公の称号は実体に即したものではなくなっているが、仮に王号を名乗りとするなら、それにはオスマンのスルタンの許可が必要なことは間違いない。
さしずめルーマニア国王とでも名づけることになるだろうが。
「………かといってスルタンの威光で戴冠なんかしたら……誰もついてこないな、きっと」
今のところはオスマン帝国の属国の座に甘んじておくしか手はない。
いつか敵になるそのときまで。
「シエナ」
「御前に」
「…………カリル・パシャと繋ぎはついたか」
「御意。もっとも向こうの信を得たわけではありませぬが」
「パイプを繋げたなら今はそれでいい」
史実通りコンスタンティノポリスが陥落されれば、メフメト2世と対立して一族族滅の憂き目を見る宰相だ。
ムラト二世が元気でいるうちはいいが、メフメト二世が即位すれば今の立場はないことぐらいは承知しているだろう。
そもそもメフメト二世を一旦退位させた黒幕はこの爺さんなのだから。
油断のならない狸とはいえ、メフメト2世に比べれば遥かにマシな相手だった。
「ムラト二世の健康状態を探れ。オレの教師をしていた学者兼医者でメムノンという男がいる。奴に近付けばある程度の情報はとれるだろう」
「御意」
無表情のシエナを相手に無意識に俺は口ごもる。
「それと…………ラドゥは元気にしているか?」
キリリ、と胸を針が刺すような痛みを幻知する。
ほとんど無条件に慕ってくれたたったひとりの弟、俺をこの世界で必要としてくれた初めての人間、遠く距離を隔てても、ラドゥとの家族の誓いは今もこの胸にある。
「ワラキアの串刺し公の弟として、スルタンにも目をかけられております。お健やかなるものと」
イェニチェリ軍団のなかで、将来の幹部として教育されているという報告は受けている。
変に期待をかけられすぎなければいいが。
ラドゥはこの戦乱を生きるには優しすぎる少年だから。
もしかしたらそれは自分の記憶の中だけにいるラドゥなのかもしれないけれど。
史実においてラドゥは貴重なヴラドへの対抗馬であった。
あるいはオスマンの庇護下とはいえ、ヴラド以上にワラキアをうまく統治したとも言える。
仮に自分がオスマンと敵対しても、ラドゥの身分は保障されるだろう。
そんな身勝手な理屈を並べる自分に自己嫌悪を覚えて、俺は頭を掻いて嗤った。
無性にヘレナに会いたかった。
いつからだろう、自分小夢が終わったことを知ったのは。
それは偉大なる遠征の途上であったのかもしれず、またあるいは崇敬するヤン・ジシュカが死んだ瞬間であったかもしれない。
もしかしたらあの夕暮れの丘で、兄弟たちの鉄と血で染め上げられた地獄を見るまで、本当の意味ではわかっていなかったのかも。
――――いずれにしろ夢は終わった。
いや、終わらせなければならないのだ。
夢と夢のはざまにたゆたっていたあの陶酔を、今さら現実として認めるわけにはいかない。
何故ならオレは真実を知ってしまったのだから。
不愉快そうにヤンはエールを呷って長い息を吐いた。
ヤン・フスが唱えたウィクリフ主義の思想は、逼塞した旧時代に別れを告げ、新しい時代を告げるものに思えた。
そう思えるほどに聖職者たちは堕落しきっていたし、悪名高い免罪符はそのよい証左にほかならなかった。
ミサで司教だけが飲むことができたワインを、あらゆる人民が飲むことができる、いわゆる二重聖餐もつきつめていけば絶対的であった教会権力の否定であり、人間は生まれながらに神の前には平等であることの表象であったのである。
人民の人民による人民のための統治、後の世リンカーンによって引用されるジョン・ウィクリフ訳聖書の冒頭に綴られたあまりにも有名な一節は、まずプラハ大学の知識階級に熱狂的に迎えられ、教会の搾取に苦しむ大衆へと広まり始めた。
神への信仰を聖職者の手から自らの手に取り戻すという使命感は、いつしか燎原の火の如くボヘミア中に燃え広がっていった。
だが、そんな理想とは裏腹に、現実の策謀は堕落した聖職者たちとさほど変わらぬ距離にいた。
ボヘミアは国土の三分の一が教会領となっている稀に見る宗教国家である。
教会の威勢は政治経済司法のあらゆる方面に及び、貴族や商人は長く忍従の時を強いられてきたのである。
その彼らにとってフスの教義はひどく都合のよいものに思えた。
貴族たちは教会の領土を、商人たちは自由な商売を求める方便として、フス教徒の支援に乗り出したのはあくまでも目先の利益のためだったのである。
最初からヤンの理想は捻じ曲げられ、穢されていた。
――ボヘミアに神の国を造ろう。
ジェリフスキーの爺さんもジシュカの親父も、誰もがそう信じて疑わなかった。
しかしそれも結局は、上の奴らにいいようにこきつかわれただけだった。
教会の威信が地に堕ちた後、用済みになった俺たちは貴族や商人に見放され、リパニで生きながら業火の火に焼かれた。
そう、神の国なんざほんのひとにぎりの連中以外、誰も望んじゃいなかったんだ。
もっとも俺も人のことは言えねえか。
なにせ俺は親友のプロコプやフロマドカを見捨てて逃げ出した男だからな。
…………あの時オレはほとんど無我夢中で、重囲した敵の大軍を突破するのに必死だった。
わずかに東の包囲が浅いのに気づいて、損害を省みずにひたすら前に進んで、ようやく包囲を抜けたと思ったとき、俺は気づいた。
プロコプが、……俺の親友が、逃げる俺の背後を支えていてくれたってことに。
前を向いて戦いながら、背後からの追撃が薄かったのは、プロコプが身を挺してかばっていてくれたからだった。
………早く行け、そしてお前は生きろ。
プロコプの空のように青い目がそう言っていた。
今さら引き返そうにも、俺とプロコプの間にはチャペック率いる裏切り者が再び重囲を形成しようとしていた。
どうして決断したのか覚えてもいないし、言い訳をする気もない。
俺は友を見捨てて一人戦場を生き延びた卑怯者だ。
――――だから俺に命令していいのは、死んだプロコプやジシュカの親父だけだ。
あの夢を、神の理想を語っていいのは、リパニで死んだ俺の兄弟たちだけだ。
死んでしまった夢を語れるのは、死者以外にいないのだから。
大きな蛮声とともに戦場音楽が鳴り響く。
一人の男がヤンの天幕に転がるように走りこんできた。
「ヤン様! 味方は押されています、このままでは………」
あの日の血のような夕暮れと同じ光景が、今目の前で繰り広げられていた。
上部ハンガリーを実効支配していたヤン・イスクラ軍団は、ヤン率いる傭兵軍とフス派残党軍に分かれて戦闘状態に陥っていたのだ。
ヤーノシュや神聖ローマ帝国が離間工作を計っていたのもあるが、もっとも大きな原因はヤンがフス派の教義を尊重しないことにあった。
フス派の残党軍でありながら、実質はヤン率いる傭兵軍団でしかないことに不満が溜まっていたのである。
いつになったら祖国ボヘミアを奪還するのか。
この地上に神の国を打ち立てるのはいつなのか。
ヤンは彼らの不満を一顧だにしなかった。
そんなことは無理だとわかっていることだからだ。
そして両者はついに決裂した。
もともとフス派の戦いは堡塁車両で形成した戦線を挟んでの火力戦だ。
リパニの戦い同様、お互いにこの戦術を使えば、延々と続く火力の消耗戦になる。
そうなると先に根気を無くした方が負ける、すなわち士気の低いほうが負けるのが自明の理であった。
ヤンの傭兵軍も士気が低いとはいえないが、相手は狂信をもってなるフス派教徒の群れである。
ヤンの劣勢は誰の目にも明らかだった。
「背教者、ヤン・イスクラを討て!」
時間の経過とともに、ヤンの軍から放たれる銃声がまばらになり始めていた。
押され始めた形勢を感じ取った傭兵たちの逃亡が広がっていたのだ。
勝利を確信したフス派教徒が、堡塁車両から続々と姿を現し追撃の体勢に入ろうとしていた。
ふん、意地汚く生きてきたが、どうやら俺もここまでか
不思議と逃げる気にはならなかった。
それどころかどこかほっとしている自分がいた。
親友プロコプたちを見捨ててまで逃げ延びた命なのに、今思えば苦い思いしかない生だった。
ああ、なんのことはない。
これからは神のためではなく、自分の好きなように生きるなどとは言いつつも、心のどこかで贖罪を求めていたのだ。
いや、叶うことならもう一度あのときに戻って、親友を助けに行きたかった。
プロコプを助けたかった。
もう一度親友(あいつ)とともに戦いたかったのだ。
……………まったく度し難い未練だな………
あのとき俺には友を助けるだけの力がなかった。
もし、今の自分があのときの丘にいたら兄弟たちを助けられるのだろうか?
仲間を助けたかった
親友を助けたかった
あの場で逃げてしまったことへの悔恨が、俺を永久にあの丘の夕暮れに縛り付けてしまっていた。
もう一度親友に会うことがあれば俺は――。
「死ね! ヤン・イスクラ! この背教者め!」
勝利を確信して突進するフス教徒たちの鼻面に、突如爆発の華が咲いた。
全く予想もしない攻撃に、狂信的な教徒といえども戸惑いを隠せない。
誰だ? 誰の指揮か知らんが、いいタイミングだ。
「擲弾兵! 再度投擲後一斉射撃! 銃兵は突撃せよ!」
おいおい、いったい誰が?
親友を見捨てて、今神にも見捨てられようとしている俺なんかを助けにくるっていうんだ?
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