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1巻
1-2
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「だからぁ、当麻王子ですってばぁ」
当麻王子? 当麻、とうま……トーマ!?
「静さぁん、心の声が漏れてはりますよぉ」
隣からのツッコミを気にしている場合ではない。信じられないし、嘘だと言ってほしい。
「当麻って、まさか……」
「もうっ静さん遅ぉいっ! だからずっと言うてますやんかぁ」
目を見開いて固まっている私に、森は前のめりでまくし立てる。
「当麻王子といえば、Tohmaの御曹司に決まっとるやないですかぁ! あの方は当麻聡臣様! Tohmaグループホールディングスの若きCMOにして御曹司様ですよぉ!」
当麻……アキオミ?
「うそ」
「うそなんかつきませんよぉ。間違いなく当麻CEOのご子息でぇ超サラブレッドのエリート様ですよぉ! 雰囲気からオーラから全部がまさに王子様ですぅ」
後輩の声をどこか遠くに聞きながら、私は呆然とその場に立ちすくんだ。
なんてことだ。通りすがりのドラ猫に情をかけたくらいの気持ちでいたら、どうやらそれは大きな間違いだったらしい。
ロッカーにぶちこんだ苦情の元凶は、確かにロバの耳を持つ王様ではなかった。
れっきとした王子様だったのだ。
***
遡ること四日前。一月も残り半分ほどになったその日、私は半年ぶりの三連休を翌日に控え、弾むような足取りで一軒の店へ向かった。
少し建付けの悪い、昭和の香り漂うガラス戸をぐっと引くと、ガラガラと大きな音を立てる。暖簾をかき分けながらくぐった瞬間、「らっしゃい」と威勢のいい声が飛んできた。
住んでいる賃貸マンションからほど近いこの居酒屋串富には、三年前からよく足を運んでいる。串カツ店でありながら居酒屋に負けないバラエティに富んだラインナップが人気の、知る人ぞ知る名店だ。気のいい店主が常連客の要望に応えているうちに、串カツだけでなく肴から腹が膨れる飯ものまで、幅広く出すようになったらしい。
大将とおかみさんに挨拶をし、カウンターの一番手前の席に腰を下ろすなり、お気に入りのメニューを注文する。初めて来たときからずっと、この店の料理以外に〝あるもの〟の虜になっているのだ。
「くっは~っ、おいっしい! やっぱここのビールは最高ね!」
「相変わらずええ飲みっぷりやな、静ちゃんは」
「だってほんとにおいしいんですもん、大将」
そう。それは生ビール――いや、生トーマラガーだ。
初めて飲んだときに思わず『これどこのビールですか?』と聞いてしまったくらい、そのおいしさに感動した。
何を隠そう、私はこれまで大手メーカーのものは新商品から期間限定ものまで、あまたのビールを網羅し、かつ、海外ものから昨今流行りのクラフトビールまで様々なものを飲んできた。
そんな私が『まさかこんなド定番がこんなにおいしかったなんて!』とショックを受けるほどだった。
『……もしかして工場の地下からパイプで引いてます?』
『なんやお客はん、気ぃついてしもたんか! 店の下を毎日地道に掘り続けて苦節十年。やっと去年あの工場と繋げられたんやで――て、そんなわけあるかいっ!』
興奮のあまり頓珍漢なことを口走ってしまった私に、大将は渾身のドヤ顔で盛大なノリツッコミをくれた。
手に持ったグラスをうっとりと見つめる。すっかり生トーマラガーの虜だ。
「ほんま静ちゃんはトーマラガーが好きなんやなぁ」
「もちろん! じゃなきゃ、ここにはいなかったかも」
三年前、私は自分の身に降りかかった出来事に耐えきれず、前の会社を辞めて転職することにした。
できれば今度も好きなものに関わりたい。漠然とそう思っていたところに、運よくビール工場の見学ツアーアテンダントの募集を見つけた。
場所は住み慣れた横浜から遠く離れた関西だったが、住む場所も職種も何もかも変えて、まっさらな自分でやり直すにはちょうどいい。思い切って飛び込むことにした三年前の私の選択は、決して間違いじゃなかった。
「もしもトーマの社長に会ったら絶対に言いたいぐらいですよ。こんなにおいしいビールを作ってくれてありがとうございますって!」
「そりゃ社長も喜ぶわな」
大将は声に出して笑った後、調理に専念し始めた。
店内はすでにほぼ満席。月曜の夜から席が埋まることに、小さいながらも人気店なのだと改めて感心する。
ひとしきり大将とやり取りした後は、おひとり様満喫だ。スマートフォンの画面を眺めながら、やってきた料理をつまみつつビールをあおる。二杯目も安定のおいしさ。至福のひとときだ。
あったあった、これこれ。小さな液晶の中のギャラリーから、目的のものをタップする。去年の春に撮った写真だ。
手前に写っている満開の桜、その向こう側の川にかかる長い橋。橋脚と橋桁だけで造られたその橋は、後ろに広がる山々の景観にも溶け込んでいる。
「今年も行けるかなぁ」
思わずそうつぶやいたとき、隣から声がした。
「すごくきれいだ」
はっとして顔を向けると、すぐ横に座る男性と目が合った。
「すみません、勝手に見てしまって。あまりに素敵な写真だったのでつい」
「い、いえ……」
カウンター席は隣との距離が近い。それなのに堂々とスマートフォンを見ていたせいで、目に入ったのだろう。画面を消そうと電源ボタンに指をかけたとき。
「渡月橋、ですか?」
「え?」
「京都嵐山にある橋ですよね?」
まさかたった一瞬、横から写真を見ただけで、橋の名前まで言い当てられるとは思っていなかった。「ええ、そう」と返事をしながら改めて隣を見ると、その男性は思ったより若かった。
パーカー姿でぼさっとした髪型、足元には大きめのリュックがある。男性というよりも男の子という雰囲気だ。学生のひとり旅だろうか。
女の私から見てもうらやましくなるほど白くきめ細やかな肌。けれど緩いウェーブを描くダークブラウンの前髪が目元にかかり、顔はよく見えない。分厚い黒縁眼鏡と相まって、表情もわかりにくかった。
「本当にすばらしい橋ですよね。『くまなき月の渡るに似る』と言われただけあります」
「よく知ってるわね」
くまなき月――つまり満月が橋の上を渡っているようだという意味だ。
この橋は本来別の名称だったが、鎌倉時代のある天皇が、満月の夜に舟遊びをしていてそう言ったことから、今の渡月橋という名に変わったそうだ。そんなことを知っているとは、文系の学生さんだろうか。
「聞きかじった程度です」
控えめな声が右耳をくすぐる。さっきから聞こえてくる声がやたら心地いい。高すぎず低すぎず艶がある。ありていに言えば好み。これ以上近くで聞いたらぞくっとしてしまいそうだ。
もしかしてこれ、新手のナンパとか?
この年になればナンパのひとつやふたつ――いやもう少し多いけれど、とにかくそれなりに経験はしている。いくら声が好みでも、それくらいでどうこうなるほどチョロくはない。そもそも年下の学生さんは範囲外だ。それに、こちらも色恋とは縁を切った身。完全なる地味モブスタイルを貫き通すアラサーとどうこうなろうだなんて、そんなつもりで声をかける若者もいないだろう。
「お好きなんですか?」
「えっ?」
思考に没頭していたところにそんなことを言われ、思わず目を見張る。
私、うっかり『声が好き』だなんて口に出しちゃってた!?
「京都がお好きなんですか?」
ああ、そういうことか。スマホに視線を落とす。彼は写真からそう思ったのだろう。確かに京都好きの女子は多い。でも私はそちらではないのだ。
「橋よ」
「え?」
「橋が好きなの、私」
「あっ、なるほど!」
私にとってビールと並んで大好きなもの、それが橋だ。
三年前まではよく関東近郊にある橋を見に行っていたが、関西に引っ越してきてからは、今まで行ったことのなかった西日本の橋を巡るのが楽しみのひとつになった。そのために毎日仕事をがんばっていると言っても過言ではない。
橋巡りが趣味だと話したら「他にはどんなところに?」と聞かれる。好きなことについて聞かれて、悪い気はしない。嬉々としていくつかの場所を挙げる。
タイミングよくやってきた三杯目のビールがいい潤滑剤となり、次々と途切れることなく投げられる質問に、気付いたら聞かれていないことまであれこれと答えていた。
いつの間にか相手から敬語が取れ、私の方はグラスの中身が少なくなっていた。
彼が私のスマホをのぞき込みながら言う。
「桜と橋の写真って他にも何かある?」
「えっ? あ、ああ。桜と橋なら……」
スマホの画面を指でスクロールする。
「あったあった! これ! 錦帯橋っていって――」
「おっ、すごいきれいだ」
驚きと感嘆の入り混じった声が上がり、そうでしょう! と得意になる。
錦帯橋は山口県岩国市にある五連のアーチが美しい国内屈指の木造橋だ。日本三名橋のひとつであると共に、桜の名所でもある。二年前の春に念願かなって行くことができた。
小さな画面で見えづらかったのか、彼がさらにのぞき込むように私の方に深く頭を傾ける。その拍子に、ふわっといい香りが鼻をくすぐった。爽やかで若々しいのに、それでいてセクシーな色気を感じさせる香りに心臓が跳ねる。
アルコールとは違う原因で頬が火照りかけ、慌ててグラスの残りを飲み干した。
「大将、生お代わり!」
グラスを持ち上げカウンターの中に向かってそう声を張り上げると、すぐさま「あいよっ!」と威勢のいい声が返ってきた。何気なく隣を見ると、彼もちょうどグラスを空けたところだった。
「大将、もうひとつ――」
「あ、僕は結構なので……」
声をもう一度張った瞬間、遠慮がちに袖を引かれる。
困ったような表情の彼に、出過ぎた真似をしたかな、と思いながら私は首をかしげた。
「つい私ばっかり熱く語っちゃったし、お詫びとお礼を兼ねてビールの一杯くらい奢らせてほしかったの。袖振り合うも多生の縁って言うしね」
彼の肩をぽんっと叩くと、暖簾のように前髪がかかる眼鏡の奥で、目が大きく見開かれた。
あれ、意外とはっきりした顔立ちなのかしら……
そんなことを考えながら、遠慮しないでと微笑みかける。
「いや……あの、僕はあまり……」
言いづらいことがあるような口ぶりに、はっとした。
「まさか二十歳未満!?」
そうだとしたらアルコールなんてもってのほかだと焦ったら、即座に「それはない」と返された。
そっけない態度からムッとした様子が伝わってきたが、中途半端に止められたせいで余計に気になる。「じゃあ何?」と尋ねると、渋々といった様子で彼はつぶやいた。
「苦手なんだ……ビール」
「えっ!」
思わず大きな声で驚いたら、彼はそっと顔を伏せた。
「お酒自体もそれほど好きじゃないけど、中でもビールは全然だめで……」
「ああ……なるほど」
お酒の好き嫌いなんてあって当たり前だ。飲めないから悪いということも、飲めるからいいということもない。中でもビールは苦味が強いため、苦手に感じる人も少なくはない。それなのに彼は、まるで罪の告白でもしたかのようにうつむいたままだ。
気付いたら手が勝手に動き、彼の頭をポンポンッと軽くはたいていた。
「別に気にしなくていいと思うけど。好みは人それぞれ。お酒なんて飲めなくても生きていけるんだから大丈夫」
彼の頭をよしよしと撫でる。なんだか髪の毛の感触があの子に似ているせいで、撫でるのをなかなかやめられない。
そうこうしているうちに、ビールがふたつ届いてしまった。
どうやら大将はしっかり声を聞いていたようだ。仕方ない。彼の分も飲むかと、両方のグラスに手を伸ばすと、横から伸びてきた手が先に片方をつかむ。視線を上げると、彼がわずかに耳を赤く染めてこちらを見ていた。
「全然飲めないわけじゃないから」
ふてくされたような口ぶりがなんだかかわいらしい。うっかり口元が緩みかけるが、笑ったら悪いわよねと無理やり引きしめる。
社会人になったときのために、今のうちから少しずつ慣れておいてもいいのかもしれない。そう思ってビールはそのまま彼に任せることにした。――が、数分後にはその判断を反省することとなる。
「そんなに苦手なら無理しなくていいのよ?」
さっきからずっと、顔をしかめながらちびちびとグラスに口をつけている彼に、とうとうがまんしきれず口を出した。
「いや……飲めるようにならないと困るのは自分だから……」
お、意外と真面目なのね!
好感度が上がったら、余計に申し訳なくなってきた。よかれと思ってしたことで迷惑をかけてしまった。次からお節介の押し売りは控えるとして、今はがんばる彼を応援したい。
「苦手なものから逃げ出さないなんて偉い」
隣の背中を軽く叩く。
「亀の甲より年の功よ! ビール嫌いがなんとかならないか、私も一緒に考えてみるわ」
「いいの?」
パッと明るくなった声色に、酔いの勢いに任せてうなずいた。
「そうねぇ……」
腕組みをして頭をひねる。ビールベースのカクテルはどうだろう。メジャーどころだと、トマトジュースで割ったレッドアイや、ジンジャーエールで割ったシャンディガフが人気だ。それならビールの苦味も気にならないかもしれない。
そう提案すると、すでに試してみたという答えが返ってきた。おいしいとは思えなかったが、そのまま飲むよりはましだったそうだ。
なるほど。味を薄めてごまかしても、結局ビールそのものは克服できそうにないのか。
どうしたものかと頭を悩ませていると、彼が申し訳なさそうに眉を下げる。
「甘いものならなんでも食べられるんだけどな」
瞬間ひらめいた。そうだ、アイスフロートにしてみたらどうだろう。
ちょうど自宅の冷凍庫にジンジャーエール風味のカップアイスが入っていた。あれをビールに浮かべれば、苦みよりも甘さが前に来てくれるはずだ。ビールを飲んで『苦い!』となったら、すかさずアイスを口に入れたらいいんじゃない?
名案を思いついたと一瞬で浮き立った私は、彼の腕をつかんで「行くわよ!」と立ち上がった。速攻でふたり分の会計を済ませ、訳がわからず戸惑う彼を引っ張るようにして、店から連れ出した。
しかし、勢いのまま店を出てきたのはいいものの、真冬の夜風に当たっているうちに酔いが覚め始める。
出会ったばかりの男の子を家に上げるなんて、やっぱりよくないわよね……。どうしよう、何か理由をつけて断ろうかしら。
悩んでいるうちにマンションが目の前に見えてきた。
ちらりと斜め後ろを振り返ると、彼は両手を口もとに当てて、はあっと息を吹きかけている。よく見たら耳が赤くなっていて痛そうだ。私はマフラーと手袋だけでなくイヤーマフまでつけた完全防備だが、ダウンジャケットだけの彼には、一月の寒さは厳しそうだ。
店から引っ張り出しておいて、このまま放り出すなんてあんまりだよね……
顔を前に戻して良心の呵責と戦っていると、後ろからクシュンとかわいらしいくしゃみが聞こえてきた。
ここまで来たらやるしかない。
腹をくくったところでマンションに到着した。
狭い1LDKの自宅に彼を案内し、暖房で部屋が暖まるまで寒いからとこたつを勧めると、それまで戸惑って遠慮がちだった彼がすごく興味津々な様子になった。
入っているのかどうかわからないほど端っこに、ちょこんと正座した姿は借りてきた猫のようだ。お行儀のよい姿にこっそり忍び笑いを漏らしながら、早速シャンディガフロート――と勝手に命名したカクテルの作成に取りかかった。
カクテルを注いだグラスをふたつと、そのへんにあった柿ピーを持って、こたつの角を挟んだ隣に腰を落ち着ける。
ものの五分とかからず完成したシャンディガフロートを彼の前に置くと、「おおー!」と感嘆の声が上がった。
「遠慮なく飲んでね」
「ありがとう。いただきます」
彼は律儀に手を合わせてそう言った後、グラスに手を伸ばした。
ビールにアイスを浮かべるのは私も初めてのことなので、彼がどんな反応をするか気になる。彼の喉仏が上下するのを黙ってじっと見守った。
「どうかな……」
恐る恐る尋ねると、彼が顔をこちらに向ける。
「うん、おいしい」
「本当!?」
思いがけない言葉に万歳しそうになったが――
「このアイス、どこの?」
「え?」
「ジンジャーエール味のアイスなんて珍しいな。僕も今度買ってみよう」
そう言った彼がグラスに添えていたスプーンでアイスをひとすくいし、口に運んだ。
彼が『おいしい』と言ったのはアイスのことなのだ。がっくりと脱力した私をよそに、彼はアイスをのせたスプーンを再び口に運んでいく。
「ビールの苦味でアイスがよりおいしく感じるのかな」
ビールをおいしく感じさせることには失敗したけれど、シャンディガフロート自体をまずいと言われなかっただけでも御の字かもしれない。――と自分を慰めながら、私も同じものを口に運んでいると、再びグラスに口をつけた彼が、何かに納得するようにうなずいた。
「でもこれならビールも無理なく飲めそうだよ」
「本当? それならいいんだけど……」
「ああ。僕のためにわざわざ作ってくれてありがとう」
前髪と眼鏡で隠れた瞳が、ゆるりと細まるのがわかった。
はっきりとは見えない笑顔に、胸の内側がふわっと明るくなる。無意識に自分の口元が緩むのを感じながら、「どういたしまして」と返した。
それからは、ふたりで飲みながら他愛のない話をした。会話の流れで彼が東京から来たことを知る。彼くらいの年頃なら友人や恋人と一緒に旅行することが多いだろうに、ひとり旅なんて珍しい。何気なく旅の目的を聞いてみたら、意外な答えが返ってきた。
「傷心旅行、みたいなものかな」
「そうだったんだ……」
気持ち、わかるわ。私なんて転職しちゃったもの。
うんうんと、うなずきながら彼の話に耳を傾ける。
「大事な子が他の人のものになった上に、父に結婚を急かされてさ。柄にもなく親子喧嘩までして嫌になる」
あらら。それは傷口に塩ってやつよね。親が子を心配する気持ちはわかるけど、そっとしておいてほしい時期もあるものね。でもまだ全然若いんだし、これからいくらでもいい出会いがあるわ。
ぽつりぽつりと話す彼の言葉に、私はとても共感していた。
こたつの天板に頬杖をついてうなずいているうちに、アルコールとは別のものがじわじわと胸の奥に沁み込んできて、しっかりと塞いだはずの古傷が、まるでかさぶたに爪を立てたときみたいにじくじくと痛みだした。
「……取り戻そうと思わなかったの?」
思わず尋ねていた。
「大事な子、だったんだよね? 取り返そうと思わなかった?」
分厚いフレームに囲われた彼の目が見開かれる。
無神経な質問だってわかっている。それでも聞かずにはいられなかった。だって私も――
「……思ったよ」
「そっかぁ……」
だよね。好きな人を他の人に取られて、そのまますんなり引き下がるなんてこと、やっぱりないよね。
「ごめんね、不躾なことを聞いちゃって」
「いや、いいんだ。今はこれでよかったと思っているから」
「え?」
今度は私が目を見張る番だった。
「彼女が幸せならそれでいい。たとえそばにいられなくても、僕が彼女を大事に想う気持ちは永遠に消えたりしないから」
清々しいくらいにきっぱりと言い切ったその顔には、諦めと満足感が入り混じったような静かな微笑みが浮んでいる。それを見た瞬間、目頭がじわりと熱くなった。
私はそんなふうに思えなかった。取り戻そうとみっともなく追いすがり、無理だと悟った瞬間、愛は憎しみに変わった。そんなふうにしか思えない自分が一番嫌で苦しくて、最後はどうしようもなくなって、すべてを捨てて逃げ出した。
あのときの私にも、そんなふうに思える強さがあればよかったのかな……
涙がぽろっと落ちて、とっさに手を額に当ててうつむいた。
「静さんどうしたの? 酔った?」
彼が横から顔をのぞき込んでくる。串富で感じたのと同じ香りが鼻をくすぐった。
「平気。なんでもないわ……」
言いながら顔を上げたら、至近距離に彼の顔がある。
あ、泣きぼくろ……
右目の下の小さなほくろに気が付いた。吸い寄せられるように手が伸びて、彼の眼鏡を外す。
前髪と眼鏡に隠されていたのは、ほんの少し目尻が下がるくっきりとした二重まぶたと、榛色の虹彩。甘く艶やかな瞳から目が離せない。小さな星のような泣きぼくろに触れたら、手を取られ指先をぺろりと舐められた。
「甘い」
「何それ」
ふふふっと笑ったら、唇に温もりを感じた。
柔らかい……。そう思うと同時に唇が離れ、鼻先が触れ合うほどの距離からじっと見つめられる。色素の薄い瞳に吸い込まれてしまいそうで、まぶたを下ろすと、今度はしっかりと押し付けるように重ねられた。
触れ合う場所に意識が集まる。柔らかさだけでなく、さらりとした質感や体温が思いのほか心地いい。ただ重ねているだけでは物足りなくなって、思いつくまま彼の下唇を軽く挟んでみたら、お返しとばかりに上唇を柔らかく食まれた。
互いの反応を探るように、角度を変えて幾度も唇を重ねていく。
出会ったばかりの相手とのキスなのに、まったく嫌な感じがしない。むしろずっとこうしていたいくらいで、表面を合わせるだけのソフトなキスにもどかしさすら覚えてしまう。
もっとしたい。心の声に導かれるように唇の合わせを舌先でなぞってみた。
「っ……」
息をのんだ彼が体を硬くする。
もしかして、こういうことに慣れていない?
なんとなくだけど、女遊びをするタイプには見えなかった。積極的すぎると引かれてしまうだろうか。試しに少しだけ舌を差し込んでみたら、予想外に出迎えられた。
舌を吸われてからめられる。ざらざらとした表面同士を擦り合わされた。
「ぁ……っ」
小さく喘ぐと、私の舌をたどって口腔へ侵入してきた。
歯列ひとつひとつを、執拗なほどじっくりと舌で撫でられる。繊細な動きと絶妙な力加減に、下腹部がジンと熱くなり、体からみるみる力が抜けた。
当麻王子? 当麻、とうま……トーマ!?
「静さぁん、心の声が漏れてはりますよぉ」
隣からのツッコミを気にしている場合ではない。信じられないし、嘘だと言ってほしい。
「当麻って、まさか……」
「もうっ静さん遅ぉいっ! だからずっと言うてますやんかぁ」
目を見開いて固まっている私に、森は前のめりでまくし立てる。
「当麻王子といえば、Tohmaの御曹司に決まっとるやないですかぁ! あの方は当麻聡臣様! Tohmaグループホールディングスの若きCMOにして御曹司様ですよぉ!」
当麻……アキオミ?
「うそ」
「うそなんかつきませんよぉ。間違いなく当麻CEOのご子息でぇ超サラブレッドのエリート様ですよぉ! 雰囲気からオーラから全部がまさに王子様ですぅ」
後輩の声をどこか遠くに聞きながら、私は呆然とその場に立ちすくんだ。
なんてことだ。通りすがりのドラ猫に情をかけたくらいの気持ちでいたら、どうやらそれは大きな間違いだったらしい。
ロッカーにぶちこんだ苦情の元凶は、確かにロバの耳を持つ王様ではなかった。
れっきとした王子様だったのだ。
***
遡ること四日前。一月も残り半分ほどになったその日、私は半年ぶりの三連休を翌日に控え、弾むような足取りで一軒の店へ向かった。
少し建付けの悪い、昭和の香り漂うガラス戸をぐっと引くと、ガラガラと大きな音を立てる。暖簾をかき分けながらくぐった瞬間、「らっしゃい」と威勢のいい声が飛んできた。
住んでいる賃貸マンションからほど近いこの居酒屋串富には、三年前からよく足を運んでいる。串カツ店でありながら居酒屋に負けないバラエティに富んだラインナップが人気の、知る人ぞ知る名店だ。気のいい店主が常連客の要望に応えているうちに、串カツだけでなく肴から腹が膨れる飯ものまで、幅広く出すようになったらしい。
大将とおかみさんに挨拶をし、カウンターの一番手前の席に腰を下ろすなり、お気に入りのメニューを注文する。初めて来たときからずっと、この店の料理以外に〝あるもの〟の虜になっているのだ。
「くっは~っ、おいっしい! やっぱここのビールは最高ね!」
「相変わらずええ飲みっぷりやな、静ちゃんは」
「だってほんとにおいしいんですもん、大将」
そう。それは生ビール――いや、生トーマラガーだ。
初めて飲んだときに思わず『これどこのビールですか?』と聞いてしまったくらい、そのおいしさに感動した。
何を隠そう、私はこれまで大手メーカーのものは新商品から期間限定ものまで、あまたのビールを網羅し、かつ、海外ものから昨今流行りのクラフトビールまで様々なものを飲んできた。
そんな私が『まさかこんなド定番がこんなにおいしかったなんて!』とショックを受けるほどだった。
『……もしかして工場の地下からパイプで引いてます?』
『なんやお客はん、気ぃついてしもたんか! 店の下を毎日地道に掘り続けて苦節十年。やっと去年あの工場と繋げられたんやで――て、そんなわけあるかいっ!』
興奮のあまり頓珍漢なことを口走ってしまった私に、大将は渾身のドヤ顔で盛大なノリツッコミをくれた。
手に持ったグラスをうっとりと見つめる。すっかり生トーマラガーの虜だ。
「ほんま静ちゃんはトーマラガーが好きなんやなぁ」
「もちろん! じゃなきゃ、ここにはいなかったかも」
三年前、私は自分の身に降りかかった出来事に耐えきれず、前の会社を辞めて転職することにした。
できれば今度も好きなものに関わりたい。漠然とそう思っていたところに、運よくビール工場の見学ツアーアテンダントの募集を見つけた。
場所は住み慣れた横浜から遠く離れた関西だったが、住む場所も職種も何もかも変えて、まっさらな自分でやり直すにはちょうどいい。思い切って飛び込むことにした三年前の私の選択は、決して間違いじゃなかった。
「もしもトーマの社長に会ったら絶対に言いたいぐらいですよ。こんなにおいしいビールを作ってくれてありがとうございますって!」
「そりゃ社長も喜ぶわな」
大将は声に出して笑った後、調理に専念し始めた。
店内はすでにほぼ満席。月曜の夜から席が埋まることに、小さいながらも人気店なのだと改めて感心する。
ひとしきり大将とやり取りした後は、おひとり様満喫だ。スマートフォンの画面を眺めながら、やってきた料理をつまみつつビールをあおる。二杯目も安定のおいしさ。至福のひとときだ。
あったあった、これこれ。小さな液晶の中のギャラリーから、目的のものをタップする。去年の春に撮った写真だ。
手前に写っている満開の桜、その向こう側の川にかかる長い橋。橋脚と橋桁だけで造られたその橋は、後ろに広がる山々の景観にも溶け込んでいる。
「今年も行けるかなぁ」
思わずそうつぶやいたとき、隣から声がした。
「すごくきれいだ」
はっとして顔を向けると、すぐ横に座る男性と目が合った。
「すみません、勝手に見てしまって。あまりに素敵な写真だったのでつい」
「い、いえ……」
カウンター席は隣との距離が近い。それなのに堂々とスマートフォンを見ていたせいで、目に入ったのだろう。画面を消そうと電源ボタンに指をかけたとき。
「渡月橋、ですか?」
「え?」
「京都嵐山にある橋ですよね?」
まさかたった一瞬、横から写真を見ただけで、橋の名前まで言い当てられるとは思っていなかった。「ええ、そう」と返事をしながら改めて隣を見ると、その男性は思ったより若かった。
パーカー姿でぼさっとした髪型、足元には大きめのリュックがある。男性というよりも男の子という雰囲気だ。学生のひとり旅だろうか。
女の私から見てもうらやましくなるほど白くきめ細やかな肌。けれど緩いウェーブを描くダークブラウンの前髪が目元にかかり、顔はよく見えない。分厚い黒縁眼鏡と相まって、表情もわかりにくかった。
「本当にすばらしい橋ですよね。『くまなき月の渡るに似る』と言われただけあります」
「よく知ってるわね」
くまなき月――つまり満月が橋の上を渡っているようだという意味だ。
この橋は本来別の名称だったが、鎌倉時代のある天皇が、満月の夜に舟遊びをしていてそう言ったことから、今の渡月橋という名に変わったそうだ。そんなことを知っているとは、文系の学生さんだろうか。
「聞きかじった程度です」
控えめな声が右耳をくすぐる。さっきから聞こえてくる声がやたら心地いい。高すぎず低すぎず艶がある。ありていに言えば好み。これ以上近くで聞いたらぞくっとしてしまいそうだ。
もしかしてこれ、新手のナンパとか?
この年になればナンパのひとつやふたつ――いやもう少し多いけれど、とにかくそれなりに経験はしている。いくら声が好みでも、それくらいでどうこうなるほどチョロくはない。そもそも年下の学生さんは範囲外だ。それに、こちらも色恋とは縁を切った身。完全なる地味モブスタイルを貫き通すアラサーとどうこうなろうだなんて、そんなつもりで声をかける若者もいないだろう。
「お好きなんですか?」
「えっ?」
思考に没頭していたところにそんなことを言われ、思わず目を見張る。
私、うっかり『声が好き』だなんて口に出しちゃってた!?
「京都がお好きなんですか?」
ああ、そういうことか。スマホに視線を落とす。彼は写真からそう思ったのだろう。確かに京都好きの女子は多い。でも私はそちらではないのだ。
「橋よ」
「え?」
「橋が好きなの、私」
「あっ、なるほど!」
私にとってビールと並んで大好きなもの、それが橋だ。
三年前まではよく関東近郊にある橋を見に行っていたが、関西に引っ越してきてからは、今まで行ったことのなかった西日本の橋を巡るのが楽しみのひとつになった。そのために毎日仕事をがんばっていると言っても過言ではない。
橋巡りが趣味だと話したら「他にはどんなところに?」と聞かれる。好きなことについて聞かれて、悪い気はしない。嬉々としていくつかの場所を挙げる。
タイミングよくやってきた三杯目のビールがいい潤滑剤となり、次々と途切れることなく投げられる質問に、気付いたら聞かれていないことまであれこれと答えていた。
いつの間にか相手から敬語が取れ、私の方はグラスの中身が少なくなっていた。
彼が私のスマホをのぞき込みながら言う。
「桜と橋の写真って他にも何かある?」
「えっ? あ、ああ。桜と橋なら……」
スマホの画面を指でスクロールする。
「あったあった! これ! 錦帯橋っていって――」
「おっ、すごいきれいだ」
驚きと感嘆の入り混じった声が上がり、そうでしょう! と得意になる。
錦帯橋は山口県岩国市にある五連のアーチが美しい国内屈指の木造橋だ。日本三名橋のひとつであると共に、桜の名所でもある。二年前の春に念願かなって行くことができた。
小さな画面で見えづらかったのか、彼がさらにのぞき込むように私の方に深く頭を傾ける。その拍子に、ふわっといい香りが鼻をくすぐった。爽やかで若々しいのに、それでいてセクシーな色気を感じさせる香りに心臓が跳ねる。
アルコールとは違う原因で頬が火照りかけ、慌ててグラスの残りを飲み干した。
「大将、生お代わり!」
グラスを持ち上げカウンターの中に向かってそう声を張り上げると、すぐさま「あいよっ!」と威勢のいい声が返ってきた。何気なく隣を見ると、彼もちょうどグラスを空けたところだった。
「大将、もうひとつ――」
「あ、僕は結構なので……」
声をもう一度張った瞬間、遠慮がちに袖を引かれる。
困ったような表情の彼に、出過ぎた真似をしたかな、と思いながら私は首をかしげた。
「つい私ばっかり熱く語っちゃったし、お詫びとお礼を兼ねてビールの一杯くらい奢らせてほしかったの。袖振り合うも多生の縁って言うしね」
彼の肩をぽんっと叩くと、暖簾のように前髪がかかる眼鏡の奥で、目が大きく見開かれた。
あれ、意外とはっきりした顔立ちなのかしら……
そんなことを考えながら、遠慮しないでと微笑みかける。
「いや……あの、僕はあまり……」
言いづらいことがあるような口ぶりに、はっとした。
「まさか二十歳未満!?」
そうだとしたらアルコールなんてもってのほかだと焦ったら、即座に「それはない」と返された。
そっけない態度からムッとした様子が伝わってきたが、中途半端に止められたせいで余計に気になる。「じゃあ何?」と尋ねると、渋々といった様子で彼はつぶやいた。
「苦手なんだ……ビール」
「えっ!」
思わず大きな声で驚いたら、彼はそっと顔を伏せた。
「お酒自体もそれほど好きじゃないけど、中でもビールは全然だめで……」
「ああ……なるほど」
お酒の好き嫌いなんてあって当たり前だ。飲めないから悪いということも、飲めるからいいということもない。中でもビールは苦味が強いため、苦手に感じる人も少なくはない。それなのに彼は、まるで罪の告白でもしたかのようにうつむいたままだ。
気付いたら手が勝手に動き、彼の頭をポンポンッと軽くはたいていた。
「別に気にしなくていいと思うけど。好みは人それぞれ。お酒なんて飲めなくても生きていけるんだから大丈夫」
彼の頭をよしよしと撫でる。なんだか髪の毛の感触があの子に似ているせいで、撫でるのをなかなかやめられない。
そうこうしているうちに、ビールがふたつ届いてしまった。
どうやら大将はしっかり声を聞いていたようだ。仕方ない。彼の分も飲むかと、両方のグラスに手を伸ばすと、横から伸びてきた手が先に片方をつかむ。視線を上げると、彼がわずかに耳を赤く染めてこちらを見ていた。
「全然飲めないわけじゃないから」
ふてくされたような口ぶりがなんだかかわいらしい。うっかり口元が緩みかけるが、笑ったら悪いわよねと無理やり引きしめる。
社会人になったときのために、今のうちから少しずつ慣れておいてもいいのかもしれない。そう思ってビールはそのまま彼に任せることにした。――が、数分後にはその判断を反省することとなる。
「そんなに苦手なら無理しなくていいのよ?」
さっきからずっと、顔をしかめながらちびちびとグラスに口をつけている彼に、とうとうがまんしきれず口を出した。
「いや……飲めるようにならないと困るのは自分だから……」
お、意外と真面目なのね!
好感度が上がったら、余計に申し訳なくなってきた。よかれと思ってしたことで迷惑をかけてしまった。次からお節介の押し売りは控えるとして、今はがんばる彼を応援したい。
「苦手なものから逃げ出さないなんて偉い」
隣の背中を軽く叩く。
「亀の甲より年の功よ! ビール嫌いがなんとかならないか、私も一緒に考えてみるわ」
「いいの?」
パッと明るくなった声色に、酔いの勢いに任せてうなずいた。
「そうねぇ……」
腕組みをして頭をひねる。ビールベースのカクテルはどうだろう。メジャーどころだと、トマトジュースで割ったレッドアイや、ジンジャーエールで割ったシャンディガフが人気だ。それならビールの苦味も気にならないかもしれない。
そう提案すると、すでに試してみたという答えが返ってきた。おいしいとは思えなかったが、そのまま飲むよりはましだったそうだ。
なるほど。味を薄めてごまかしても、結局ビールそのものは克服できそうにないのか。
どうしたものかと頭を悩ませていると、彼が申し訳なさそうに眉を下げる。
「甘いものならなんでも食べられるんだけどな」
瞬間ひらめいた。そうだ、アイスフロートにしてみたらどうだろう。
ちょうど自宅の冷凍庫にジンジャーエール風味のカップアイスが入っていた。あれをビールに浮かべれば、苦みよりも甘さが前に来てくれるはずだ。ビールを飲んで『苦い!』となったら、すかさずアイスを口に入れたらいいんじゃない?
名案を思いついたと一瞬で浮き立った私は、彼の腕をつかんで「行くわよ!」と立ち上がった。速攻でふたり分の会計を済ませ、訳がわからず戸惑う彼を引っ張るようにして、店から連れ出した。
しかし、勢いのまま店を出てきたのはいいものの、真冬の夜風に当たっているうちに酔いが覚め始める。
出会ったばかりの男の子を家に上げるなんて、やっぱりよくないわよね……。どうしよう、何か理由をつけて断ろうかしら。
悩んでいるうちにマンションが目の前に見えてきた。
ちらりと斜め後ろを振り返ると、彼は両手を口もとに当てて、はあっと息を吹きかけている。よく見たら耳が赤くなっていて痛そうだ。私はマフラーと手袋だけでなくイヤーマフまでつけた完全防備だが、ダウンジャケットだけの彼には、一月の寒さは厳しそうだ。
店から引っ張り出しておいて、このまま放り出すなんてあんまりだよね……
顔を前に戻して良心の呵責と戦っていると、後ろからクシュンとかわいらしいくしゃみが聞こえてきた。
ここまで来たらやるしかない。
腹をくくったところでマンションに到着した。
狭い1LDKの自宅に彼を案内し、暖房で部屋が暖まるまで寒いからとこたつを勧めると、それまで戸惑って遠慮がちだった彼がすごく興味津々な様子になった。
入っているのかどうかわからないほど端っこに、ちょこんと正座した姿は借りてきた猫のようだ。お行儀のよい姿にこっそり忍び笑いを漏らしながら、早速シャンディガフロート――と勝手に命名したカクテルの作成に取りかかった。
カクテルを注いだグラスをふたつと、そのへんにあった柿ピーを持って、こたつの角を挟んだ隣に腰を落ち着ける。
ものの五分とかからず完成したシャンディガフロートを彼の前に置くと、「おおー!」と感嘆の声が上がった。
「遠慮なく飲んでね」
「ありがとう。いただきます」
彼は律儀に手を合わせてそう言った後、グラスに手を伸ばした。
ビールにアイスを浮かべるのは私も初めてのことなので、彼がどんな反応をするか気になる。彼の喉仏が上下するのを黙ってじっと見守った。
「どうかな……」
恐る恐る尋ねると、彼が顔をこちらに向ける。
「うん、おいしい」
「本当!?」
思いがけない言葉に万歳しそうになったが――
「このアイス、どこの?」
「え?」
「ジンジャーエール味のアイスなんて珍しいな。僕も今度買ってみよう」
そう言った彼がグラスに添えていたスプーンでアイスをひとすくいし、口に運んだ。
彼が『おいしい』と言ったのはアイスのことなのだ。がっくりと脱力した私をよそに、彼はアイスをのせたスプーンを再び口に運んでいく。
「ビールの苦味でアイスがよりおいしく感じるのかな」
ビールをおいしく感じさせることには失敗したけれど、シャンディガフロート自体をまずいと言われなかっただけでも御の字かもしれない。――と自分を慰めながら、私も同じものを口に運んでいると、再びグラスに口をつけた彼が、何かに納得するようにうなずいた。
「でもこれならビールも無理なく飲めそうだよ」
「本当? それならいいんだけど……」
「ああ。僕のためにわざわざ作ってくれてありがとう」
前髪と眼鏡で隠れた瞳が、ゆるりと細まるのがわかった。
はっきりとは見えない笑顔に、胸の内側がふわっと明るくなる。無意識に自分の口元が緩むのを感じながら、「どういたしまして」と返した。
それからは、ふたりで飲みながら他愛のない話をした。会話の流れで彼が東京から来たことを知る。彼くらいの年頃なら友人や恋人と一緒に旅行することが多いだろうに、ひとり旅なんて珍しい。何気なく旅の目的を聞いてみたら、意外な答えが返ってきた。
「傷心旅行、みたいなものかな」
「そうだったんだ……」
気持ち、わかるわ。私なんて転職しちゃったもの。
うんうんと、うなずきながら彼の話に耳を傾ける。
「大事な子が他の人のものになった上に、父に結婚を急かされてさ。柄にもなく親子喧嘩までして嫌になる」
あらら。それは傷口に塩ってやつよね。親が子を心配する気持ちはわかるけど、そっとしておいてほしい時期もあるものね。でもまだ全然若いんだし、これからいくらでもいい出会いがあるわ。
ぽつりぽつりと話す彼の言葉に、私はとても共感していた。
こたつの天板に頬杖をついてうなずいているうちに、アルコールとは別のものがじわじわと胸の奥に沁み込んできて、しっかりと塞いだはずの古傷が、まるでかさぶたに爪を立てたときみたいにじくじくと痛みだした。
「……取り戻そうと思わなかったの?」
思わず尋ねていた。
「大事な子、だったんだよね? 取り返そうと思わなかった?」
分厚いフレームに囲われた彼の目が見開かれる。
無神経な質問だってわかっている。それでも聞かずにはいられなかった。だって私も――
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「そっかぁ……」
だよね。好きな人を他の人に取られて、そのまますんなり引き下がるなんてこと、やっぱりないよね。
「ごめんね、不躾なことを聞いちゃって」
「いや、いいんだ。今はこれでよかったと思っているから」
「え?」
今度は私が目を見張る番だった。
「彼女が幸せならそれでいい。たとえそばにいられなくても、僕が彼女を大事に想う気持ちは永遠に消えたりしないから」
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涙がぽろっと落ちて、とっさに手を額に当ててうつむいた。
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「平気。なんでもないわ……」
言いながら顔を上げたら、至近距離に彼の顔がある。
あ、泣きぼくろ……
右目の下の小さなほくろに気が付いた。吸い寄せられるように手が伸びて、彼の眼鏡を外す。
前髪と眼鏡に隠されていたのは、ほんの少し目尻が下がるくっきりとした二重まぶたと、榛色の虹彩。甘く艶やかな瞳から目が離せない。小さな星のような泣きぼくろに触れたら、手を取られ指先をぺろりと舐められた。
「甘い」
「何それ」
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柔らかい……。そう思うと同時に唇が離れ、鼻先が触れ合うほどの距離からじっと見つめられる。色素の薄い瞳に吸い込まれてしまいそうで、まぶたを下ろすと、今度はしっかりと押し付けるように重ねられた。
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